2017年1月 4日 (水)

酉年の幕開け

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昨年12月の定期検診の翌日から
背中がバリバリになって起き上がれなくなり
年内のバレエもかっぽれもレッスンに行けず、
おまけに夫が作ったしめサバに当たるという
前代未聞の事件にも巻き込まれて散々な年末だった。

ちなみにこのしめサバは近来になくめちゃ旨かった。
我が家のしめサバは吉兆風で酢〆時間は5分。
今まではこれでまったく問題がなかったが
今回は夫の判断に問題があったのだ。
「危ないものほど旨い」のである。

検診でのMRIの結果はまったく問題なく、
担当医には
「広野さんは若く見えるけど、経過観察は年齢相応の長さでいいよね」
と言われてウキウキしたのもつかの間、
外見と内実はあまり関係がないことも自覚した。

背中バリバリをなんとかなだめながら
年内最後の小児救急の社会的サポート委員会に出席。
昨年企画立案し、ようやく実施にこぎつけた
#8000の47都道府県調査については
何とか大まかな結果を示すことができた。
あとは今年度内に論文化できればいい。
たぶん私の最後の仕事になるだろうが
結構面白いものになる予感がする。

そんなわけで大晦日はおとなしく
DVDの『フォロー・ミー』を再見し
ミア・ファローの魅力を再認識。
正月にはディペックスの宿題もなんとかこなした。

会員になっている某美術館から
頼んだはずのカレンダーが年内に届かなかったので、
年明けの仕事始めを待って再度連絡する。
先方の
「申し込みがされていない」という言葉に、
「でも申し込みの控えがある」と堂々と反論し
結局送ってもらうことになった。

ところがこれが全く自分の勘違いだったのだ。
私が持っていた控えはよく見たら一昨年のもので
未開封の郵便物を確かめたら、
たしかに申し込みをしていなかった。
毎年欠かさず申し込みをしていたから
今年の分も当然申し込んだものと思い込んでいたらしい。
夏ごろは体調も芳しくなく郵便物を開封していなかったことも
すっかり忘れていたのだろう。

うーむ。

申し込みをしていなかったのに、申し込んだとばかり
思い込んでいたのもショックだが、一昨年の控えを
昨年のものと勘違いしたのもショックだ。
背中バリバリよりこっちの方がよほどショックだ。

ウソをつかないのが自分の長所のはずだったのに
この一件のおかげであっさり裏切られてしまった。
年をとるとは未知の自分に出会うことだとつくづく思う。
騙す気がなくても相手を騙してしまうのは
自分が自分に騙されているからだろう。
これをボケと言うのだろうが
まったくオレオレ詐欺がよく理解できる。

世の中はウソがまかり通っているなんて嘆きたくなる
昨今だけれど、自分だって似たようなものだと思えば、
そんなに悲観することもないかもしれない。

ミア・ファローが出ている『僕らのミライへ逆回転』を
観ながら、人間の習性に感じ入る2017年。

今年もよろしくお願いいたします。


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2016年3月29日 (火)

退屈な患者の話から学ぶことがあるとしたら

備忘録としてブログを書こうにも
時間の流れが早すぎるのかなかなかできないでいる。
ツイッターではつぶやいているのだから
手が動かないわけじゃない。
頭が働いていない(考える力が落ちている)、
としたらつらいものがあるけど・・・。

日曜日の午前中はディペックスの教育ミーティングだった。
バレエのレッスンを休んで出席する。

ディペックスでは患者のインタビュー映像を
医師や看護師などの医療関係者の教育に
役立たせたいと考えて
新たなプロジェクトを発足させている。
そのミーティングだ。

医療にとって患者の全体像を捉えることの重要性は
以前から言われてきた。
ディペックスでアップしているインタビュー映像は、
その目的で使われることも期待されているが
トピック別の映像だけでは、全体像の把握は
難しいのではという議論から
もう少し違ったものを作成しようということになった。
今は20分くらいの少し長いサンプル映像を編集作成し
各所で使ってもらって感想をフィードバックしてもらっている。

ほとんどの患者のインタビューは全体で2時間以上、
A4文字起こし原稿にして40枚以上はあるから
そこからどこを切り取り、編集するかを考えるのは大仕事である。

ミーティングは
学生には20分見続けるのは長すぎる、とか
できあいのドキュメンタリー映像と比べた時に
リアリティに欠ける感じがする、などという
現場サイドの意見から議論が始まった。
要するに授業に使うのに使い勝手が悪い、ということだ。

どんな仕事も時間が経つにしたがって目的やその本筋が忘れられ
枝葉ばかりが問題にされるようになるのはよく経験するところだ。
なぜ患者の全体像を捉えることが必要なのか
という当初の問題意識が薄まりつつあるのか、
それとも実はそこの合意自体が不十分だったのか。


ただ同様のことは、#8000の電話相談員研修でも見られる。

医師や看護師などの医療者は、電話相談を、
自分たちが患者を操作するための感じのよい会話法
という程度にしか考えていないところがあり、

何のために電話相談が生まれ、必要とされてきたか
とか
患者(一般人)は電話相談をどのように使いたいと思っているか

という視点は無視されがちで、うまく対応できないとしたら
技術や医学知識が不十分だから、と考えたがる。
(たしかにどちらもお粗末なレベルではあるのだが)


医療者は医学知識の獲得にはことのほか熱心だが、
患者(生活者)が何を望んでいるか、
について考える習慣がないまま、これまでやってきた。
医療の主役が患者ではなく医療者という意識が強かったからだろう。
だから「治療がすべて」とばかりに
自分の仕事だけに注意が向いてしまう。
ひょっとしたら患者は自分とは違うことを考えているかも、とは想像もしない。

そこが医療における問題は何か、という問いへの答えが
見出しにくい原因かもしれない。

昨日検討した事例は、あちこちの医療機関を受診したために
実際の診断がつくまで数年という時間がかかり
診断がついたときには末期の癌だった、という内容で
出てくる医療機関(医師)は患者の症状を
自分の専門に合致するかどうかという
視点からしか見ないという、ひどい医療のお手本のようなレベルだった。
私などはそのあまりのひどさに腹が立ち、
これは患者が賢くなるしか手はないと考えて、
そういう方向で映像を作成したらどうかと口走ったほどだ。

専門分化の弊害からやっと総合診療医が出現するまでになったが
ともすれば医療者は医学的な知識さえ身につければ完全になれると考える。
だから完全を目指すための勉強には熱心だ。
でもそこで目指されている「完全」とは何か、
ということははたしてどのくらい真剣に考えられているだろう。

別府先生が指摘するまでもなく、
医療者に必要なのは自分が「不完全」という自覚なのだが、
現実世界で完全を目指してきた人が
「不完全」な自分を受け入れるのは難しい。

患者を知れば知るほど、医療者は自分の不完全さに
直視せざるを得ないから、そうした側面から目を背けるために
知識の習得に専念してしまう、ということもあるだろう。

一方の患者は、病気になればいやでも、
自分の不完全さに直面せざるを得ない。
病識がない場合はともかく、たいていの場合は具合が悪くても
それがなぜなのか、自分の身体がどうなっているから
調子が悪いのか原因は特定できない。
そもそもある症状があったら、何科に行けばいいのかさえ
分からないのが我が国の医療制度なのだ。
だからなんとか納得いく答えが得られるまで
ドクターショッピングを重ねることになる。

でも、医学知識がないハンディをいやというほど感じながら、
知識だけでは自分という固有の問題は解決できないと
経験的に理解しているという意味では、
患者は医療者より一歩先んじているといえる。

人間はひとりひとりみんな違うし、
病気(患者)になればその様相は
健康な時とはさらに異なる多様性が増す。
医療者の仕事は本来多様で複雑なものだが
それを単純化してきたツケが今の医療の問題なのかもしれない。

そこのところをどうやって医療者と共有したらいいだろうか。


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2015年12月 5日 (土)

欲望、このはかないもの

ウェブ上の宣伝は普段ほとんど見ないのだけど
たまたま目に入ってきた某老舗デパートの
「送料無料」という宣伝が目について
同社のネットショッピングのページを覗いてみた。
このデパートは交通の便がいいので時々立ち寄っている。

美味しそうな食品がたくさんある。
販売店の名前も知らないところばかりだ。
送料無料ではないが、ちょっと美味しそうな
チョコレートがあったので試しに買ってみることにした。
関西のチョコレートメーカーみたいだ。

会員登録をしないと買えないとのことで、まず登録。
最近は会員登録しなくても買い物できるところが
ほとんどだが、さすが老舗、
顧客の囲い込み意識が少々古めかしい。
携帯電話番号の入力で少し滞ったが、
イエ電は入力したのだからと携帯番号の入力は拒否し
これはなんとか受け入れられて無事登録できた。

ところが決済の段になって、このデパートの
クレジットカードじゃないと注文できないと分かる。
もう、お財布に入りきらないほどカードがあるのに
これ以上カードを増やすなんてゴメンだと
コンビニ決済があるみたいなので、そちらを選ぶ。
コンビニは近いから、払い込みは楽だし。
しかし、どうやら先払いらしい。
お客は信用できないが、自分のことは信用しろと?
そういうのは気に入らないので、注文はキャンセルすることにした。
期日までに払わなければ自動的にキャンセルになるらしいから
それで結構である。

美味しいものには目がないが
システムの面倒さを乗り越えてまで手に入れたいわけではない。
送料を若干安くするから自社のクレジットカードを
使えなんて、みみっちいと思わないのだろうか。
別のネットショッピングで同じものがもっと楽に注文できるのに。

顧客が何を得だと思うかはまちまちだから
売り手としてはどこに焦点を合わせるか難しいのは分かる。
でも中高年相手の場合、面倒なのはまずダメだ。
ブランドが通用するという意識も捨てた方がよい。
ブランド威力なんて、時と場合と相手によって使い分けるもので
ただの共同幻想だってことはみんな承知している。
そして共同幻想が崩れつつあるのが現代なのだ。
そういう事実をこの老舗は理解できていないのね、きっと。

もうすぐ90歳になろうとする叔母たちの世代は
デパートへ行くことが楽しみでありステイタスでもあったらしい。
でも環境の変化に伴って人の意識も変わる。
デパートは自分のプライドを満足させる場所ではなく
自分のセンスを刺激し満足させてくれる場所だろう。
もちろん必要なものを提供してくれる場所でもあるが
その必要性の強さは時と場合に左右される。
欲望は、今やそんなはかないものになりつつあるのだ。

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2015年11月10日 (火)

『メディアとしての医療』

10月24日に東京工科大学でディペックス・ジャパンによる
第3回患者の語りの教育的活用ワークショップが開かれ、
問題提起をさせてもらう機会があった。

このワークショップは、ディペックス(http://www.dipex-j.org/)の
語りのデータベースを、どう医療に役立ててもらうか、
医療者と患者(一般人を含む)とで考えようというもので、
今回は医療者と患者のコミュニケーションがテーマになったため、
患者経験もある私にお鉢が回ってきたのだ。

一昨年、確かに人生初の大手術と長期入院という経験はあるけれど
長年電話相談というコミュニケーションの根幹を経験してきた者としては、
個人的な経験より、もう少し俯瞰的な話をしておくべきだと考えて、
『メディアとしての医療』と題して20分ほど話をした。

ここでいうメディアとは、一般的に理解されているような
テレビとか新聞・雑誌といった情報媒体のことではなく、
文字通りミディアム、つまり「中間体」のことである。

概要のパワーポイントはグーグルドライブにアップしたので
そちらで見ていただくことにして(うまくアップできているか不安)

https://drive.google.com/file/d/0BwH-kjjIMgqgNWUySEg0QlR6M1U/view?usp=sharing

以下にパワポに沿った概要を。

ミニメディアとしての電話相談

電話相談がマスメディアに対してミニメディアと言われるのは
マスメディアが多数を相手にした片方向の発信媒体であるのに対して、
電話を介した個人対個人の双方向コミュニケーションという
規模の小ささによるものだけれど、メディア(中間体)というからには
何かと何かを結びつけるものでもあるはずである。
それは何だろう、と考えてみると
相談事業を経済的に援助しているクライアント企業と仮定することができる。

生活者の声をどうクライアント企業に届けて企業活動に役立てるか
というところで電話相談はメディアとしての役割を果たしてきた。
ここで重要なのは電話のかけ手と受け手が対等であるように、
クライアント企業との企業同士の関係も対等であり、
経済的に援助をしてもらっているから、自分たちの意に反したこともやる、
という関係ではないということである。
生活者は自分の問題を発信し、電話相談はそれを受け止め、
企業はそういう生活者の声を聴いて、自分たちの活動方向を定める。
そうやって社会は形成されていく。
誰もが社会を形成する一員なのだ。

一方マスメディアもスポンサー企業に経済的に支えられている
という意味では同じ構造を持っているが、ともすれば経済的な優位性に
屈服しがちな例は、昨今よく見かけるところである。
不思議なのは、電話相談が利用者からお金を取らない(取れなかった)分
クライアント企業に対する経済的な依存度はより高く、だからこそ
対等な関係性を保つことが必至だったのに対し、
マスメディアの場合は購読者や視聴者からも料金を徴収しているにもかかわらず、
ともすればスポンサー企業(国も含む)に屈服して、
ともすれば彼らの意向に沿おうとする。
それは結局のところ、経済というより権力と一体化しやすい傾向が
彼らにあるからではないのか。

電話相談の相談傾向を社会の変化と対比させながら
俯瞰的に眺め、分析すると、情報化の進展に伴って
かけ手も変化していることが分かる。共通するのは
どの時代もどのテーマの相談も「自分にとって」という
個別性の追求がかけ手のテーマだったということ。

96年に発表した論文で興味深かったことは、医療者とマスメディアの
コミュニケーションの特徴が驚くほど似ていたことだった。
多数を相手にした片方向のマスメディアのコミュニケーションパターンが
ともすれば一方的になりがちなのは理解できなくもないが、
一対一の医療現場におけるコミュニケーションパターンが
同じ傾向を示すのはどういうことだろう。

医療にとっては実は個別性の追求が最大の難関で、
だから電話相談がその受け皿になってきたのだけれど、
そのせいで当初、電話相談は医療者から目の敵にされた。
それは、そうした個別性の追求が、自分たちの正当性
(科学的、普遍的な答こそが正当と考える傾向)を
否定しているように感じられたからだろう。
本当は科学的、普遍的な答えに対して懐疑を抱くことこそが
患者の声に耳を傾けるということであり
彼らの責務でもあったはずだが、そこには気づこうとしなかった。
それが今も変わらないことは#8000の研修をしていても分かる。

つまりマスメディア同様、医療者も権力と一体化しやすい傾向があるのだ。
医療者はそうやって自分の存在意義を確認してきたのかもしれないが
まずはそういう自分たちの傾向を自覚し、メディア(中間体)として
権力とは別物として独立し、自立することから始める必要があるのではないか。

概要ここまで。


先日のBPOの見解はこのことの別の角度からの指摘だろうし
http://www.bpo.gr.jp/wordpress/wp-content/themes/codex/pdf/kensyo/determination/2015/23/dec/0.pdf
是枝さんのブログもそれを補足していると思ったので
http://www.kore-eda.com/message/20151107.html
ここに載せてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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2015年9月 4日 (金)

オリジナリティ?

佐野研二郎さん制作の五輪エンブレムが白紙撤回された。

ツイッター上では、似ているかどうかで判断されたら
自分ではとても検索しきれないから明日は我が身
というような心配をしているようなアーティスト
(歌手、画家、文筆家etc)も多い。


今朝は茂木健一郎さんも「オリジナリティ」について
http://togetter.com/li/869249
ツイートしていた。

オリジナリティというのは「驚き」を
もたらす前代未聞に満ちたものだという意見に異論はない。

でも私はもう少し違った風にも考えている。
まとまっていないかもしれないけれど書いてみよう。
ブログはこういうときに役立つね。

私の好きな映画で『ファム・ファタール』というのがある。
監督はブライアン・デ・パルマ
音楽は坂本龍一

デ・パルマの映画に出てくる女優は官能的で怪しく
女から見ても惚れ惚れするが、ここでもそう。
アントニオ・バンデラスの柄の悪いセクシーさと
妙な一途さと絡まって、より展開を複雑にしている。

坂本龍一の音楽は明らかにラベルのボレロを
下敷きにしており、おそらく監督からそのような
指示があったのだろうと推測させる。

佐野さん風にいえば「パクリ」の指示である。

ではこの音楽にオリジナリティがないか
といえば、私は充分にオリジナリティがあると思う。
デ・パルマと坂本龍一が自分にとっての
好み(ひいき目)であることを差し引いてもだ。
ボレロの単調なリズムが展開の複雑さを
下支えしてこの映画を味わい深くしている。

映画は総合芸術だから音楽は一要素にすぎない
という意見もあるかもしれない。
しかしそれでいえば、エンブレムだって
オリンピックの一要素でしかない。
エンブレムという要素は2020年のオリンピックの
何かを表現する一要素だろう。

佐野さんが白紙撤回せざるを得なかったのは
パクリ疑惑(似ている)からというより
オリンピックの何を表現しているのか
伝える力に乏しい作品だからではないだろうか。
そのことが不明朗な選考過程もあって露呈してしまったのだ。
もちろんこれはどういうオリンピックにしたいか
という主催者の問題意識と意図が明確ではなかった
ことに原因があるけれど、アーティストなら
そこをとことん詰めるべきだっただろう。
その結果パクリであっても納得ができるものを生み出せれば
誰も異論はなかったと思われる。
パクリは敬意の一種でもあるからだ。

表現というのはどんな時代、どんな場に自分が
いるかということの発信行為であり
芸術というのはそれを見せてくれるものだ。

問題はパクリ疑惑なのではなく
アートディレクターとしての力量が
問われたということだろう。

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2015年8月25日 (火)

2つの『日本のいちばん長い日』

1967年版(岡本喜八監督作品)については
制作発表についてのうっすらとした記憶がある。
三船敏郎をはじめとして映画俳優総動員という雰囲気だったが、
昭和天皇については誰が演じるのかも明らかではなく、
映画の中でもその姿はほとんど画面に映らない。
それだけ天皇に対するタブーが大きかったのだろう。

終戦に当たって昭和天皇がどのような役割を果たしたのか
本木クンが演じている2015年版(原田眞人監督作品)では
その辺はどう解釈されているのだろうかと
興味がわいたので観に行くことにした。
友人の中には岡本版を絶賛する人もいて
賛否は分かれているようだけど、私はリメイク版も充分楽しんだ。
現代作品らしく場面転換がスピーディで何よりカラーで画質も良い。
岡本版の白黒によるあっと驚くような凄惨な場面は
その分抑えられて表現されている。
ある意味昔の方が過激だったのだな、と思わないでもない。

両方に共通しているのは陸軍の暴走ぶりだが
岡本版は玉音放送に至る1日だけを描いているせいか
彼らの直情的な悲壮感が濃厚に漂っているのに対し
(もちろん観る側からすれば滑稽ではあるのだが)
原田版では描いている期間が長い分、
より客観的で滑稽さが前面に出ている印象がある。
あのニワトリみたいなお辞儀は実際の所作だったのだろうか、
それとも監督の演出なのだろうか。
形だけを守ろうとするとああいうことになるのだよね、と
日本のサッカーが勝てないのも、これだよ、などと関係ないことを考える。

開戦も終戦も天皇の責任によって
おこなわれたはずなのに、
終戦となるとその天皇の意思など簡単に無視されそうになる。
まあ自分たちの組織の存亡がかかっているから
仕方がないのかもしれないが、
組織の命令指示系統がこんなに簡単に無視されるとしたら
日本にはとうてい軍隊などという組織は根づかないのではないか。
命令だから何にも考えずに虐殺にまい進する、というのも困るが
指示系統などいざというときにはあってなきがごとし、
というのも考えものだなあと思う。
人間は舞い上がった後の着地が難しいが、
どういうときにそうなるか、私たちは自分のことも含めて
よーく考えておいた方がよさそうだ。
あれは陸軍だけの問題じゃない。

「国体の護持」が保証されなければポツダム宣言は受け入れ難い
と陸軍は息巻くが、そこでは国民の生活などすっ飛ばされている。
当時は帝国憲法の元でのことだから
国体を「国民の生活を成立させている構造」
と考えた人は誰もいなくて、天皇を頂点とした国のかたち
と考えたとしてもやむを得ないとは思うが、
原田版から伝わってくるのは、
それも表向きの言い訳にすぎないんじゃないかという雰囲気である。
むしろ陸軍は軍部という自分たちの権力構造を
支えるなにがしかを「国体」という都合のいい言葉で
カモフラージュしようとしたのではないだろうか。
こういう「理屈と膏薬はどこにでも貼りつく」事例は
おそらく今も社会の各所で健在のはずだ。

おそらく原田版はそのことを見抜いており
だから滑稽さが前面に出てきたのだろうし
岡本版はそのことを正面から主張するには
まだ躊躇があったので、それが悲壮感となって漂ったのかもしれない。
「日本帝国の葬式」と言いながらも
帝国への郷愁があったといったら厳しすぎるだろうか。

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2015年5月19日 (火)

私たちは、どのくらいバカなのか

アメリカンミソジニーという言葉は内田樹さんの
「映画の構造分析」で知った。
アメリカ人は一見女性を大事にしているように
見えるのに、アメリカ映画はどうして女を「バカ」
としか描かないのだろうというのが
長年の疑問だったがこの本で納得した。

もっとも女性の数が圧倒的に少なかったことが根底にあるとはいえ
直感的には、もともと男には群れたがる習性があり
アメリカンミソジニーは、それを説明するために
考え出された後づけの理屈なんじゃないかとは思う。
なんで男は成人しても群れたがるのか、とか
男と女の群れ方はどこが違うのか、とか
今や興味はそっちへ移りつつある。

アメリカ映画の女嫌いについては
「ハリウッド映画の女性観」小林 憲夫著
─アメリカン・ミソジニーは克服されたか─
などという論考もありネットで読むことができる。
そこでは内田氏の論考は追認されているようだ。

日本の古い世代の男が女の力を認めたくないあまり、
自らを砂上の楼閣に祀り上げて相手を直視しないのと
アメリカのように、女性を固定観念の中に閉じ込めて
見ないようにするのとでは一見違うように見えるけど、
相手を見ないという点では共通している。
つまり対象を見るのが苦手なんだな、男って。
対象を見なくて済むから群れたがるってことなのか。

1996年制作の『ファーゴ』のマージは、
難なくコトの本質を見抜くほど賢いが、これは
賢いというより「見えてしまう」という女の特性かもしれない。
ここではマージは淡々と賢い女として描かれ、
バカなのは男の特権とばかりに
徹底的に男は嗤いのめされる。
でも
これは社会の表面にいるのが圧倒的に男だから
そうなるので、むしろ社会の大多数はバカ
という意味だと考えた方がいいのだろう。
(もちろん私自身も含めて)
マージはここでは妊婦でかつ警察署長という
2つの味わい深い特性を持った存在であり
そこはかとない女性性への賛歌も感じられる。
コーエン兄弟は、なかなかの策士だ。

最近では『ゴーン・ガール』の女性の描き方が面白かった。
エイミーは並みの女にはとても考えつかないような緻密さで、
不誠実な夫に復讐を試みる。
離婚しようという自分の内面は相手には気づかれていない、と
思い込んでいるのは、ノーテンキな当の夫(ベン・アフレックが好演)だけだ。
「結婚とはこういうものなのよ」というセリフが出てくるので
この映画は現代の結婚を描いていると見る向きもあるけど、
ここでは結婚は現代人間社会の力関係を表す隠喩だろう。
「自立は女性にとって不幸せ」(小林憲夫)という観念はいまや古臭くなり
女性は次第に男のだましの手口をも自分のものにして
相手をコントロールし始めているのだ。
相手を感じ取る能力が優れている分、裏をかくのもうまい。
こうした強い女の出現の背景に、
人工授精などの科学技術の発達があることは言うまでもない。
結婚と自立は矛盾する概念ではなくなりつつある。
ただ完璧なエイミーという幻想が重荷になったとすれば
女性にとっての重荷は、実は親なのかもしれないとも思わされる。
相手が視野に入りやすい分、それを消す(親からの自立)のは
実は女性にとって一番の難題なのかもしれない。

『真夜中のゆりかご』という北欧の映画でも、
そのことはほのめかされる。
死んだこどもに固執し、我を失うアナの重荷はどうも親らしい。
現実生活でのだましに男たちが奔走するのは
見えていることへの対処でしかない分底が浅いが
目に見えないものをどう克服するか、は
当人には敵の正体がつかめないだけに難しく深刻でもある。

そもそも自分のこどもが突然死したからといって、
ジャンキーのこどもと取り換えてうまくいくはずなどない
ことは普通に考えればわかる。
こどもは車輪の交換とは違うのだ。
こどもを死なせたことがばれるとやばいとばかりに
誘拐を偽装するジャンキーの男の浅知恵も同じだ。
誰でもショッキングなできごとに直面すると我を失う。
でもそれは日常では当たり前で特段珍しいわけではない。
だからコトの実像が見えてきたとき、
自分の間違いが突然理解でき自分を取り戻すことができる。

ここでは目の前の事実から目を逸らせて、それをやり過ごすことだけに
腐心する男の愚かさと、目を逸らせていても自分にだけは
忠実な女の愚かさが対比的に描かれている。
人間はなぜ自分が愚かなのか、
どう愚かなのか自分ではわからない。
それは男も女も同じだ。
警官だったアンドレアスは子に続いて妻も亡くし、
偽装によって自分のキャリアをも失うが、
その結末を引き受けることで
前に進んで行く力を手に入れる。

最近の北欧発のドラマからは
私たちとはなんなのだろう、私たちはどこへ向かっているのだろう、
という問いかけを受け取ることが多い。
私たちが、どのくらいバカなのかを自覚させられている。

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2015年5月10日 (日)

#8000に欠けていること

小児救急電話相談(#8000)は2002年、
私が小児科開業医の時間外電話相談事業を立ち上げたのと、
ほぼ同時期にスタートし、瞬く間に47都道府県に導入された。
電話での「相談」ならいつも受けているから難しいことはない、
という誤解だけでなく、日本人特有の横並び意識も促進要因になった。

そこに欠けていたのは、医療者がおこなっている「相談」と
電話でおこなわれている「相談」は
ひょっとして違うかもしれない、という発想だった。

医療者(医師や看護師)が考える「相談」の多くは「質疑応答」を指し
内容は病気やけが、事故など医師の守備範囲に限定されている。
彼らにとっては通常の診療現場に持ち込まれる懸案事項に
答えを出すことが「相談を受ける」ことにほかならない。
だから専門知識さえあれば外来をこなしながらの片手間でも
電話相談は十分可能と考えたのが最初の誤算。

で、実際にやってみたら診療現場よりはるかに広範囲な内容が
入ってきてしまい、お手上げ状態になった。
さらに予想したほど重大な(医師でなければダメな)案件は入らない。
これが2番目の誤算。

多くの自治体が相談員を医師から看護師にスイッチしたのは
医師でなければダメというわけじゃない、という理由に加えて
医師には生活支援ができないことも分かったからだ。
もちろん、できる医師もいないわけではないが、
医師にできるのは何の病気か、治療法は何かという診断で、
(もちろんこれが極めて高度で重要なことであることは言うまでもない)
病気でもなく、じゃあ個々の生活に合わせてどう対処するのがいいか
というアドバイスとなると、おおむね不得手なのだ。
小児科医だからって実際に子育て経験があるわけじゃないし。

医療者は通常医療現場で「相談」を受けているから
相談案件は医療に関係あることにほぼ限定されている。
病院に、「どこへ行ったら金が借りられるか」なんて問い合わせは入らない。
かかった医療に払うお金をどう算段するか、という相談ならあるだろうが
そういう相談は医師ではなくソーシャルワーカーが受けることになっている。
つまり相談する側のニーズは医療関係にほぼ限定されている。

だから相手のニーズは何か、を探り、考える習慣がない。
これが3番目の誤算。
多くの#8000相談員が「子育て相談が多い」とがっかりするのは
相手のニーズに応えるのが相談員ではなく
相談員のニーズ(意気込み)を満足させてくれるのが
「相談」だと思っているからだ。

私も所属している「小児救急の社会的サポートを考える委員会」では
毎年#8000相談員の研修を行っているし、それとは別に
私自身が個別に大阪、北海道、福岡の#8000で研修をおこなって見えてきたのは
「#8000の目的は何か」と「なぜ#8000の相談員研修が必要か」が
実は医療者自身に正確に理解されていないという実態だった。

その原因は上記に述べたとおりだが、もうひとつ付け加えるなら
医療制度に囲われている集団(医療者)は、
制度の側からの要求に、何の疑問も持たずに
従ってしまう習性があるからだろう。

だから今回委員会で研修テキストを増刷するというので
上記の項目を付け加えてもらうよう要望し
原案を作成して委員会に提出したのでここにも掲載しておく。

私が「#8000の目的」を考えると以下のようになる。
厚労省のHPの内容を、もう少し厳密に分かりやすく、
現実に即した内容に書き換えると、こうなるはずである。

「#8000の目的は、相談者である保護者の求めに対し、
相談員である医療者が、電話における言語理解の限界を踏まえた上で、
聴き方や応答の技術を駆使して相談者の生活に合った結論を
見出していくことにあります」

「なぜ#8000の研修が必要なのか」もあるのだけど長くなるので省略。
機会があったらどこかに載せられるといいな。

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2015年4月25日 (土)

男と女のファンタジー

同世代の人たちとの交流は話が通じやすく楽しいが
時々あまりの感性の違いに戸惑うこともある。
世代が違う人との感性の違いは当たり前と思えるが
同世代は何となく似ているはずという思い込みが
こちらにあるからだろう。

ギンレイで観た『滝を見に行く』の感想もそうだった。

A氏はこの素人集団がハイキングで見せるおばさんっぽさが
現実の女性を思い出させてとても新鮮でリアルに思えたと言う。
山の中で彼女たちが枯葉の布団にくるまって
奥村チヨの「あなた好みの女になりた~い」と
歌いながら夜を明かすところは、「この歌しかないよな」と
ことのほか気に入ったみたいだった。

私はと言えば、この映画はリアリティ狙いで
作為的に素人を使ったところが見えて感心しなかった。
昼間吐く息が白く見えるような山の中で、
歌を歌いながら夜を明かすというのは、
エピソードとしては面白いかもしれない。

でも

バスハイクに出かけて添乗員とはぐれ、
道に迷ってしまったという軽装で
寒さに震えることもなく楽しく夜を越す、
という設定はどう考えてもウソっぽい。
監督はおそらく山歩きをしたこともあるはずだが、
昼間暖かくても夜は結構冷え込むのが山の天気だ。
女はこれほどまでにたくましく逆境に強い、
と言いたいのかもしれないが、
それならもうちょっと真実味のある設定にしてほしかった
というのが率直な感想だった。

まあ、映画なんだししょせんは作り話なんだから
目くじら立てるほどのこともないのだが、
男のファンタジーから相変わらず抜けられないのだな、
とちょっとがっかりだ。
お互いツアー客という見ず知らずの出会いでも、
助け合い励ましあって事態を乗り切ってしまうのが
女性だと言いたいのは分かる。
でもそれはあまりに日常的な事実なのだ。
同性にとっては当たり前すぎて面白くもなんともない。

だからやせっぽちのりえちゃんが
自分に近づいた若者に何の見通しもなくのめり込み、
プリンターまで購入して公文書を偽造し横領に走る
『紙の月』の方が、なんだかリアルに感じてしまう。
これが女のファンタジーというものなのかもしれない。

もっともこういう女性心理が育った背景については
もう少し丁寧に掘り下げてほしかった。
ウソでも慈善ならOKってところからどうして
抜け出せなかったのか、はこの映画のキモのような気もする。
『ゴーン・ガール』のような女性心理の必然性が描けないのは、
単に日本人の監督に力量がないのか
それとも日本人観客の限界なのか。
芸術を育てるのは観客なのだから。

とはいえ、名門高校から名門私立大学を経て
一流企業の高い地位まで上り詰めて定年退職した
A氏の感性は、案外日本人男性の普通なのだろう。

性差と教育環境が感性を育てる、
という事実はもちろん自分にも当てはまる。
世の中へ出てみて、初めて自分の異質がよく見えた。

そして秋篠宮家の長男がなぜ我が校を選んだのかも
わかった気がした。

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2015年3月24日 (火)

『アメリカン・スナイパー』のサイコパス・インサイド

「サイコパス・インサイド」は2つの点で
衝撃的、かつ興奮を掻き立てられる面白さ満載の本だ。

ひとつは「サイコパス」とは何かが理解できるという意味で。

もうひとつは、そのことが量的、統計的な分析からではなく
個別の、いわば質的な深層分析によって明らかになる点で。

著者のジェームズ・ファロンは成功した神経科学者で
幸せな家族にも恵まれている。
その彼が、「サイコパス」という反社会的なヒトの脳を分析していく中で
彼自身の脳画像が「サイコパス」そのものであることを知っていく。
その過程はまるで推理小説のようにミステリアスである。

「サイコパス」は精神医学的には診断名として確立しているわけではなく、
「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DMS)の中の
反社会性パーソナリティ障害、すなわち

「15歳以降に起こる他人の諸権利の無視ないし侵害の広範なパターンで
以下の7つの基準

①社会的規範への不適合
②無責任さ
③人をだます
④他人の幸福への無関心
⑤無鉄砲・無頓着
⑥計画がたてられない
⑦易怒性、攻撃性

のうち3基準(以上)を満たしている」

の一種とされ、医師や研究者はそれぞれ異なった定義を持っていて
いまだ決着がついていないのが問題なのだと著者は言う。

私たちは「サイコパス」という呼び名に、何か自分たちにはない異質で
極悪なものを感じて自分には関係ないと敬遠しがちだが、
彼らの脳が脳画像的にはいくらか特徴的だったとしても、
それらの持ち主が反社会的になるかどうかは、
彼らがどんな環境を生きてきたかによる、という、
ある意味当たり前の事実が、著者の分析、自己省察を通じて明らかにされていく。
「サイコパス」的要素は、人類が生き延びるために役立ってさえきたのだ!

イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』は
好戦、厭戦両方の評価を受けて大評判でとか。
たしかにどちらにも取られそうな作りではある。
私は自分が厭戦的だと自覚しているから、この映画もその観点から解釈したが
それにしては主人公のクリスの壊れ方はいかにも中途半端だと感じた。
確かに戦場から戻った彼は何か制御できない力と闘ってはいるのだが
戦闘自体をある意味プラスに評価しているようでもあり、
戦闘が原因で彼が壊れた(ほとんどの若者がそうだったにも関わらず)
と結論づけるには、やや無理があるように思われた。
イーストウッド監督にしては矛先が鈍くない?というのが
鑑賞後の率直な感想だったが、84歳の彼が失敗した、とは思えなかった。
彼が伝えたかったことを、こちらはまだちゃんと受け取れていないのだと思った。

巷の映画評はどうだろうかと、あるブログを覗いてみたら、
主人公のクリスが自著(原作)の中で

「イラク人は野蛮であり、標的になった者は悪であり、
罪悪感や自責の念を感じず、反乱分子を殺すのは面白くて射殺を楽しんだ。
唯一残念に思うのは、もっと殺せなかったことだ」(要約)
というようなことを書いていると分かった。

イーストウッド監督は戦争という人殺し行動によって、
ヒトが壊れること(実際クリスはそうした人物に殺される)と同時に
ちゃんとは壊れないヒトもいること、
そしてそういうヒトも我々の一員であることを
描きたかったのではないか、と考えたときに、
あの中途半端な居心地の悪さは一挙に氷解した。
クリスは壊れたのではなく、自分を支えてきたものとの葛藤
に決着をつけようとして、果たせなかったということだろう。

クリスは父親の教えを忠実に守って優秀な狙撃手になった。
しかし教えを守るには、それなりの素質も必要だ。
アメリカという国はきっとこれまで、サイコパス的要素を
プラスに評価してきたのだろう。
だからこそクリスのような人物も出現したのだ。

イーストウッド監督は、そのことを淡々と描いたのだ。

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