2012年1月27日 (金)

無料体験

友人が、エ○○○トロンの無料体験招待券というのを
くれたので、行ってみることにする。
「全身が電界に包まれて、ポカポカと暖かく体調がよくなる」らしい。
前日のレッスンで多少の筋肉痛はあるが、
特に体調が悪いわけではない。
でも面白そうなので純粋に好奇心から行ってみることにする。

場所は以前リサイクルウエアを売っていた店があったところ。
それが無料体験ショップに変わっている。
2列に椅子が並んでおり、お年寄りがちらほら。
前の方にはホワイトボードがあって、若い男性が何か講義している。
催眠販売か何かみたいな、ちょっと怪しい感じがして
ドアの所で躊躇していたら、饒舌に招き入れられた。

椅子の上には薄い湯たんぽのようなものが
置いてあるみたいで、座ると柔らかく暖かい。
若い男性営業マンは、親し気によくしゃべり
こちらの緊張をほぐそうとしている。
電位差を利用して細胞を活性化するとかで
小さな器具を使って電気が通っていることを体験させたりする。
血液ドロドロをサラサラにしてくれるという、ウソっぽい話も
電気と絡ませるといかにも信憑性がありそうに聞こえるのだろう。
厚労省の認可を取った、純然たる医療用治療器具だそうである。

すぐに効く人から効果が出るまで時間がかかる人まで
いろいろあるらしいところは、よくある誇大広告販売と似ていなくもない。
ホワイトボードを裏返すと、体験者が述べたと言う
効果効能がボード一杯に羅列されている。
曰く
便秘、飛蚊症、肩こり、花粉症・・・エトセトラ、エトセトラ

何にでも効きそうな雰囲気である。

お尻の下が暖かいのは確かに気持ちがよく
なんとなく筋肉のコリもほぐれてきたような気もしないでもない。
科学的説明はともかく、お年寄りたちが
具合がよくなった、という気になるのも無理もないかもしれない。
私の後から入ってくる人もいて、営業マンを中核に
部屋はサロン化し、体験者はお友達化している。
病院がお年寄りのサロン化するのとほぼ同じ構造だろう。
営業マンは饒舌なだけでなく、顔もいかにも
怪しい感じなのだが、なれなれしいトークは
お年寄りには案外心地よいのかもしれない。

別に器具を売りたいわけではなく
無料で体験してもらって、効果を知ってもらいたい
ということのようだが、そのあとがどうもよく見えない。
帰って調べてみたら、ド○○ートロンというのもあり
ほとんどこれと同じだった。

年を取ると誰でもさまざまな身体と心の変化に見舞われる。
それにどう対処するかは、いくつかのタイプに分かれる気がする。
変化があっても感じない鈍感タイプ
これは周りは苦労するが、本人は結構タフである。
変化を元に戻そうと、さまざまな対策を取ろうとするタイプ
こういう人が病院通いをするのかもしれない。
変化を受け入れて適応しようとするタイプ 
適応の中には誤魔化しの要素もあるが、これはこれでたくましい。 

トロンの無料体験などに来る人たちは、
3番目の適応型といえるだろう。
変化が元に戻らなくても、同年代とのお喋りとか
若い男性とか、別の次元で成果が得られれば
よしとしているようにも見える。

高齢化社会のビジネスチャンスは
案外こういうところに潜んでいるのかもしれない。

帰宅しようとバスに乗ったら若い女性がバスから降りられないほど
動けなくなっているのに遭遇した。
立っているのもおぼつかないほどふらついて、
財布からお金を出すことさえできずにいる。
運転手が心配そうに「これからどこかへ行く予定なの?」と聞いている。
救急車を呼んだ方がよさそうだし、内心、
今日の外出は取りやめた方がいいんじゃ?という感じだが
ようやくなんとか時間をかけてバスを降り、
ふらつく足取りで駅へ向かって行った。
さしずめ、こういうのは変化を感じない鈍感タイプだろう。
傍から見ると、とても遠出はできそうにないが
本人は出かけると決めた以上、初志貫徹するつもりのようである。
鈍感タイプはつまり、若いということなのかもしれない。

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2012年1月16日 (月)

不確実性の座標

年が明けてもう半月経ってしまった。

年末には何本か映画を見た。
『フィフティ・フィフティ』はがんで生存率50%と告知された青年の物語。
ハッピーエンドでホッとする。
『永遠の僕たち』は両親の死を受け入れられなかった青年が
死んでしまうガールフレンドを見送れるようになる話。
加瀬亮の自然な英語がとてもよかった。
日本人の俳優がハリウッド映画で英語を喋ると、
妙に演技っぽくなるのが気に入らないが、
加瀬クンは、洋画でも邦画でも同じ味のところがいい。
こういうのをコスモポリタンというのではないだろうか。

今年最初の買い物は、お正月早々購入した鉄瓶だった。

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今まで使っていた古道具屋で買った骨董品まがいは
錆を取ろうとした夫が穴をあけてしまったので
買い替えることにしたのである。
私はステンレスのケトルでもいいかも、と思ったのだが
夫はどうしても鉄瓶がいいと言い張る。
さんざんオークションを検索した挙句、結局新品の
頭が黒い羊みたいなのをデパートで買うことにしたのである。
鉄瓶は骨董品として結構な人気があるらしくて、
オークションは面白かったが、最初はリーズナブルなのに
終了間際にどんどん値がつり上がるので涙を呑んだ。

鉄瓶は買い替えられるが、身体はひたすらメンテナンスだ。
新年初のマッサージに行ったら
「先週来るのかと思ってました」と言われてしまった。
バレエのレッスンは先週から始まっていたのだが
年末を挟んで2週間も間が空くと、久しぶりのレッスンは
結構疲れて、家で寝ている方を選んだりしてしまったのである。
身体にも骨董的価値というのが出るということは、ないのだろうか。

新年早々の#8000の最終報告会では
小児科医のF先生と連名で演題を出し
発表はF先生にお願いすることにした。内容は、
「これからの#8000の電話相談とはどのようなものであるべきか」
というもので、これまでの3年間、私たちがめげずに
口を酸っぱくして主張してきたことが元になっている。

小児救急医療で、現場を疲弊させないためには、
電話診療まがいのものでトリアージをするのではなく、
ちゃんとした電話相談によって家庭の看護力を上げていくことが大事、
ということを、そもそも電話相談とはどのようなものか、
というところから説き起こした。
これは論文にも書いたし、研究班の中でも主張してきたことだが、
相談をしてくる人は基本的に受診をしようとは考えていない。
「受診したほうがいいかどうか教えて」という一般人の社交辞令を、
しばしば医療者は「受診すべきかどうか判断できない」
という風に捉えるが、これは虫が良すぎる解釈というものである。
そういう対象に向かって、電話相談で「受診の要不要」を
判別したので、受診者を減らすことに貢献できた
と言い募るのは喜劇に近い。
このことは、今回#8000の費用対効果について報告をした
M先生にも拙稿を送り、効果の算出については
注意が必要であると注意を促しておいた。
だからというわけでもないだろうが、今年の報告は、
昨年に比べると随分目配りの利いたものになっていたように思う。
さすがにお医者様というのは優秀である。

発表をお願いしたF先生は電話相談の経験がないこともあり
電話相談のノウハウの部分になると、
ときどき電話診療の感覚が混じってしまうが
その部分は私の方で修正をかけることで、
ずいぶん分かりやすい内容になっていた(と思う)。
「こういう風に比較してもらえると分かりやすい」
という感想をあちこちから聞くことができた。
一般人との対話で医療者が陥りやすい誤解や
医療制度の中における電話相談の位置づけなどは、
さすがに当事者であるF先生のまとめはよくできていた。

F先生とは今年の夏の外来小児科学会年次集会で、
#8000についてのワークショップをおこなうことになり
小児保健学会と合わせて、この成果をなんとか
出版につなげられればと思う。

夏には『小児診療多職種研究会』での講演もある。
電話相談は難しそうということなのか、電話対応についてである。
そのためのデータ分析ができそうなデータを集め始める。
質的データの分析は面倒くさいので、なかなか取り掛かる気に
なれないが、手をつけ始めると面白くなってくる。
私の仕事の場合、クライアント(業務委託者)によって
相談者の主訴が異なる傾向があるのは、
電話のシステムに関連していると思うが、
相談者が「受診が必要」と判断しても
「(相談できれば)受診は不要」と判断しても、
最終的な結論には大きな違いがない。
厳密にはかけ手を尊重するので、若干の違いが出るが
電話のかけ手が見ているこどもの状態には
大きな差はないことは結論を見ると分かる。
違うのは状態をどう判断するかという判断の違いだけなのである。
この判断の違いが何によるのか、というのが実は
私にとってもっとも興味深い部分である。
知識の差や情報へのアクセスなども考えられるが
主には「習慣」だろうというのが私の仮説である。
でもこれは医療の不確実性そのものによると考えるべきかもしれない。
実際喘息ひとつとっても、小児科医のMLでは治療法を巡って
侃侃諤諤の議論が続いている。
医療者にしてからがこれなんだから、
被医療者の判断がまちまちなのは当たり前だし、
これがヒトが関わる仕事の特徴といえるのかもしれない。
日々電話を取っていると、こういうことが体感できるのは
電話自体が不確実性の塊みたいなものだからだ。

小児救急医療に限らず、医療を考えるときには、
そこを押さえてかからないと、対策でも何でも
誤まってしまうのではないかという気がする。
そういえば昨日のディペックスの会議でも
がんの告知がひとしきり話題になった。
不確実性を確実性に読み替える癖は
案外医療者自身に強いのでは、という気もする。

私自身は、小児医療に欠けているのは
こどもはどのくらい死なないか(丈夫か)という
アナウンスなんじゃないかと考えている。
つまりマイナスの方向に振れている不確実性の座標を
もう少しプラスの方向に振ってあげればいいのではと思うのだ。
どっちに振れても不確実性自体は変わらないが
不確実性の内容をどうとらえるかで
ずいぶん事態は変わってくるのではないか。
医療は不確実性を確実性に変えることができる、
という誤解だけは解いておいた方がいいように思うのだ。

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2012年1月 1日 (日)

以心伝心

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今年の玄関飾りは安房のお飾り。
房総の村で年末に教えてもらいながら作った。
海辺の地方らしく、海老を型どっているようである。

大晦日の夜はアマゾンで3枚3000円で買ったDVDの1枚
『存在の耐えられない軽さ』を見ようとしたのだけど途中で挫折。
気分と内容が合わないのかも、と機会を改めることにする。

で、偶然チャンネルを合わせたBS朝日
「宮崎哲弥の大論争5時間スペシャル」が結構面白く
バイトから帰ってきた息子と最後まで見入ってしまった。
「朝まで生テレビ」は煽られている感じが
どうも好きになれないが、こちらは非常に冷静に
問題を論じていて好感が持てた。
民主党には大塚さんとか原口さんとか
頭脳明晰な人が多そうなのに、
なんでごたごたとまとまらないのか不思議だ。
トーク番組のよさは、断片的な情報をどうつなげばよいかが
見えてくるところにあるのだと思うが、そのためには
コーディネーターの力量もモノを言うということかもしれない。

まだ年が明けないのに宛先不明で戻ってくる年賀状がちらほら。
自分じゃきちんと管理しているつもりだったが、
住所録が訂正できていないみたいだ。
元旦まで待って返事を書けばよさそうなものだが、
それではちゃんと元旦に届くように出したことが伝わらないので
メールで住所を訊くことにする。
手元にあるのは職場のアドレスだけど、
当然自宅に転送されているはずである。
そうしたら即刻返信が。
「掃除が済んで机の前に座ったらメールが届いた。
大学が年末の停電になる寸前に届いたようだ」
とのことで、滑り込みで住所を入手する。
大学も休み中は停電なのか。
「いやあ、絆って運とタイミングですね(笑)」と書いて投函する。

去年は原発事故などもあって、SNSでもさまざまな議論や
情報交換ができ、人とのつながりを強く感じた年だった。
ネットとはいえ、双方向のやりとりができたのは
自分にとって随分勇気づけられることだった。
マスメディアの記事は、所詮マスメディアは何を発信したいか
ということしか分からないが、ネットでのやりとりは
顔見知りではなくても、個人個人が何をどう考えているか、
ということが分かるという意味で井戸端会議に似ている。
人間にとっては案外「みんな、どう考えているんだろう」
ということが大事なのかもしれず、
それは情報が得られるだけでなく、
つながっているという実感を求めているからなのかもしれない。
顔見知りとの濃密なつながりは、
時に鬱陶しかったり傷ついたりもするが、
顔も知らない人との適度な距離があるつながりは快適である。
現代人は昔の人よりはるかに傷つきやすいのかもしれず
こうしたさまざまな距離のつながりが精神的な健康
を保つうえで大事なのかもしれない。

学生時代の同窓会のようなノスタルジックな集まりは、
集団で時間を遡っているようで、どうも性に合わないが
昔の仲間でも、仲のいい誰か会ってゆっくりお喋りをするとか
新しく知り合った気の合う仲間とワイワイ騒ぐというのは
何か先に進んでいく時間を感じることができるような気がする。
今年は、そんな風に埋もれた遺跡を発掘するように
気の合う相手を発掘しては旧交を温める年にしてみようか。
何か自分はそうしたものを求めているような気もする。
誰かが言っていたようにそれが「疑似家族を作る」ということかもしれない。

「バルサ最高!メッシ絶好調!」と
書き送った大阪の友人から届いた年賀状には
「レアルがんばれ」と書いてあった。

疑似家族は以心伝心である。

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2011年12月29日 (木)

暮れの行事

昨年に続いて、今年も義兄(夫の姉の夫)の家で餅つきを敢行する。

義兄は数年前に佐原の農家を買って移り住み、
定年後もIT企業勤務と日曜農家の兼業をこなしていたが
手術を機に退職し、農業一本になった。
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久しぶりに訪ねてみたら温室が建っている。
冬にこの中で過ごすのは、至極快適そうである。


農業といっても、身内が恩恵にあずかるだけだが
ジャガイモ、玉ねぎ、かぼちゃ、にんにく、ニンジンなど
収穫物は多彩である。
ビワや柿、キウイなんかもおこぼれにあずかれる。
来年あたりはベリー類も期待できるかもしれない。
義兄は昨年餅つきを企画しながら、
仕事で参加できなかったので今年は人一倍力が入っている。

どういうわけか昨年はもち米の蒸けが悪かった(芯が残った)ので
今年は、まずその改善に手をつけることから始まった。
義兄が振り水の回数や量を変える実験をして
これならOKという方法を確定。
今まで自分流にやってきた義姉は、そんなことで改善するだろうか
とやや不満気である。

義兄には
「昔の人がやってダメだと分かったことだからさあ、それは除外だよ」
と言われたが、蒸すのではなく、炊く方法を試したいと主張、
やってみた結果、この方法では米が柔らかくなりすぎることが分かった。
焚く方法だと水分の調節が難しいのである。
蒸す方法は、蒸け具合を時間で調節することができる。
餅を搗くには、米を蒸すのがよいということに落ち着いたのは
これが理由だと分かる。
昔の人は、ちゃんと不確実性に対応するための方法を
編み出していたのである。
何でも追試験は大事である。

当日は夫の兄弟姉妹が全員集合し、賑やかなことこの上ない。
前日から水浸しておいたもち米と蒸かし鍋も各地から集合し
義姉の台所のガスコンロを2台使って、1度に約4kgを蒸かす。
こういう伝統行事は、一番上の義姉が主導権を握っているが
昔やった行事とあって、みんな楽しそうである。

用意しておいた臼に蒸した米を移し、搗くのは男の役目である。
蒸す時間に比べれば、搗くのはあっという間。
こうして4時前には約15kgを無事搗き終わり、10数枚ののしもちができる。
結局振り水をしてもしなくても米は無事に蒸しあがることが分かり、
結構歯ごたえがある蒸け具合が搗くのに最適であることも分かった。
昨年のあれは何だったのだろうという疑問だけが残る。

コメを蒸している合間に男たちは義兄に促されて
キウイの棚の支柱を組み立てる。

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「このタイミングを合わせるのが大変だったのよ」と義兄。
夫は「事前に言ってくれれば道具を持ってきたのにー」
成果をいただく都合上、協力は必須である。

一番上の義兄は糖尿病で悪化した足の傷がまだ完全に治らず
歩行もままならないが、強力に参加表明し
彼の息子が病院から送迎を担当する。
お正月に夫の実家へ行くと、いつもなんとなく身内じゃないという
疎外感があったものだが、今や舅も姑も他界し、
集まっているのは義姉の家ということもあって、和気藹々である。
一番上の義姉は両親に継いで、最近配偶者も亡くしているが
娘たちと家を建て直し、近所のグループホームに介護士として
勤め始めて、生き生きしている。
1月1日の朝9時に「日本で一番早いニューイヤー・コンサート」
を聞きに行くのだそうである。
70歳をとうに過ぎているが、片道50kmを今回も車で往復した。
親と夫という枷が外れて、今が一番いい時期なんだろう。

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2011年12月23日 (金)

宴のあと

今年のクリスマスは家族全員の都合が合うのが23日昼しかなく
結局全員で家でランチということに。

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ほんとは金)に宅配で届く材料を使って
(といっても鴨のローストとか豚タンのスモークとか
切ればいいだけのものだけど)メニューを構成
するはずだったのだけど、何を頼んだか忘れてしまったのと
宅配の時間がちょうど昼にかかって、
料理が間に合いそうもないので、
急遽以前に買っておいたローストビーフと
夫が食べたいと言い出して買い出しに行った蟹に、
シーフードスパゲティというごくふつうのランチになってしまった。

しかし番狂わせというのはあるもので、
今日食べるために注文したわけじゃなかった
殻つきのマカデミアナッツで、宴は思わぬ盛り上がりを見せた。

殻つきのアーモンドというのもなかなか美味だけど
殻つきのマカデミアナッツというのはハワイでも食べたことはない。
外見は、まさにハワイ土産のマカデミアチョコレートである。

どうやって殻を割るか、みんなで知恵をしぼる。
以前はくるみ割りがあったのだが、クルミの殻を割る機会はそうないまま、
そのうちに紛失してしまったので、まずペンチを探すが
こういうときに限って見つからない。

料理用のハサミには、何かを割るのに向いていそうな部分があるが歯が立たず。
ドライバーでつつく人もいるが、これも全くダメ。
修理好きの夫はウォータープライヤーを持ち出してきたが、
これだと粉々になりすぎる。
殻が大きく割れて、大きな実が取り出せないと味わえない。

「こんなに固いのに、ちゃんと芽が出てくるんだから不思議だよね」とは
理屈が先行しがちな息子。
見ると、ちゃんと小さな穴が開いている。
芽はたぶんここから出てくるのだろう。
トンビの才能がある娘は、もっぱら成果が上がるのを待つのみである。

サルはこういうときどうするだろうか、と考えてひらめいたのは金槌。
ベランダに転がっていた石を台にして、その上にマカデミアナッツを置き
金槌でたたくと、これがバッチリだった。
上手に力加減をすると、指で割れるくらいのひび割れで実が取れる。
苦労して割った中身の味は格別である。
結局大盛り上がりの中、この方法で全部食べつくしてしまった。

写真は
「2011年のクリスマスは殻つきマカデミアナッツで盛り上がりました」
という記録です。

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2011年12月22日 (木)

ネットワークとは言うけれど

薄型液晶テレビはずいぶん前に購入したものの、
我が家のDVD再生機には録画機能がついていなかった。
多彩な録画機能のある機器が安くなるまで待っていたからである。
でも、地上波デジタルに加えてBS、CSとテレビ電波の種類が
増えてきて、やはり録画機能が必要よ、ということになり
ようやく価格ドットコムで評価がよく、かつ安いP社の機器を購入。
ふだんP社の家電は敬遠している夫にはめずらしいことである。
これで好きな番組を見逃さずに録画できると喜んだのだが
そう簡単にはいかなかった。

配線はいつものように夫がおこなったのだけど
テレビから録画予約をしようとしてもできない。
で録画機から予約をしようとしたが、これもできない。
配線の仕方が悪いんじゃ?とここでまずひと悶着である。
たまたま録画をしようとしたのがWOWOWだったので、
WOWOWのHPの中をいろいろ調べまわってみて
ようやく、録画機のB-CASカードも契約しておかないと
録画ができないと分かった。
へえ、録画機にもB-CASカードがついているんだと
ぼんやりと思っていたのだが、こういうことだったのである。
でも追加契約がいくら1000円弱/月とはいえ、
録画のためだけに払うのはいやである。
録画の度にテレビのB-CASカードを差し替えるという人も
いるらしいが、それは面倒でしょ。

で、結局テレビのB-CASカードを録画機に差し替え、
地上波はテレビで、BSとCSは録画機を通して見ることにした。
録画機で見るときはテレビ画面を切り替えなければならない
という手間が面倒だが、しかたがない。
で、無事に録画できることも確認できた。

でもテレビからは録画予約ができないのである。
BS、CSに関しては、録画機からしか見られないから
これはまあ仕方がないことにしよう。
でも地上波についてもテレビから録画できないのは不便じゃないか?
我が家のテレビはS社製で、
息子に言わせると、これは両社のアルゴリズムが違うからだそうだ。
「なんでテレビはS社なのに、録画機はP社にしたんだ」と
息子は不満そうである。
今の時代は、そこまで考えなければダメなんだそうである。
ちなみに彼のパソコンは、BS、CSどちらのチャンネル設定も
できるようになっているが、今のところ必要性を感じていないらしい。

うむ。若いやつらはほんとにテレビを見ないのね。
その割には、映画やテレビの番組について
よく知っているみたいだが、いったいどこから情報収集しているんだろう。

インターネット接続ができてパソコン機能もついた
携帯電話があればいいのにと思っていたら、スマートフォンが出てきた。
今やテレビでもインターネットに接続できる。
それはそれで何かと便利だろう。
でも、メーカーが同じじゃないと、
テレビと録画機がつながらないなんて、
お母さんもお父さんも仕事を持って働いているのに
家へ帰ると言葉が違うので話がかみ合わない家族みたいだ。
そりゃ、家族同士で話がかみ合わないというのは
よくあることだけど、これは同じ言語を使っているから
かみ合わないと分かるのである。
国際結婚をしている者同士だって、何とか意思疎通を図ろうと
歩み寄っているご時世だと言うのに・・。

家電メーカーが時代の波に乗り遅れてどうするの。

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2011年12月16日 (金)

医療にとっての聞き耳ずきん

毎週送られてくる新潟のクライアントからのFAXに
1月末からポリオの不活化ワクチン接種を始めると書いてあった。
個人輸入で入手するようである。

数ヶ月前に何回か「ポリオの不活化ワクチンは打ってもらえないか」
という相談が入っていたから、こういう患者の声が
引き金になっていることは間違いないだろう。
電話相談をやっていて、もっとも充実感を感じるのは
こんな風に、かけ手の切実な声に、ちゃんと応える側がいると分かるときだ。

時間外電話相談をどう活用するかは、
クライアントである開業医によってさまざまである。
時間外電話相談はどこか時間外電話診療と勘違いされている節があり
だから、医者でもないのに時間外の電話を受けるということに
多くの医師はいささかの不安を感じつつも、
でも何かノウハウがあるみたいだから
なんとかうまくやってくれるのかもしれないと
恐る恐る始めてみる、といった感じである。

そうやって導入した後はしばらく様子見が続くが、
だんだんどういうものかが理解できてくると、
やっとどう使いこなすかを考えられるようになり
こちらにもさまざまなことを要求をしてくるようになる。
しかし中には地域医療貢献加算が取れれば、
あとはコストダウンが優先というクライアントもおり、
連休などはさっさと留守電にしてしまうということも起きる。
相談自体に価値を認めていない、ということかもしれない。
これはこちらも負担感が少なく、相手の懐具合にもメリットがある、
という意味では一石二鳥だが、仕事のモチベーションは下がる。
他方、全面的に信頼して大型連休をとるというクライアントもいる。
面白いことに、そういうクライアントの患者教育ほど行き届いており、
長期にわたる休診でも、ややこしい苦労はほとんどない

ただ、一般的には時間外かどうかに関わらず、医療者は
電話相談の目的を即時的な問題解決と考える傾向があり、
かけ手の声を聴くのは解決のためのスキルであって
聴くことそのものが問題解決であるという風には理解していないことが多い。
聴くということは、聴きとめた問題を受ける側が引き受ける
ということでもあるのだが、どちらかというと聴きっぱなしが多い感じがする。
日々報告している相談内容が、どのくらい日々の診療や医院の業務に
活かされているのか、こちらとしてはホントはそこが
一番知りたいところだが、そこはなかなかつかめない。
しかたがないので同じような相談が入るか入らないか
といったところで、相談の効果を判定することになる。

始めた当初は、時間外の電話相談がサービスなのか
そうでないのかといった議論もあった。
医師の多くはサービスという言葉を
患者の言いなりになる、患者に奉仕する、というニュアンスで
理解しており、プライドを傷つけられたように感じる人もいたようである。
「医療はそんなもんじゃない」という反発も耳にすることがあった。
部外者からすれば、患者の言いなりになるなんてことは
ありえない話だと思うが、当事者としてはなかなかそうはいかないらしい。

サービスという言葉で私に一番しっくりくるイメージは、ワインソムリエである。
料理に一番合うおいしいワインを勧めてくれる人。(私は下戸だけど)
基本はお客の好みを尊重してくれるが、
よりおいしいワインがあれば、客の懐具合も勘案した上で
そちらをを勧めてくれる人。
要するに、お客にとって一番良いことを考えてくれる人だ。
ワインソムリエは、客の言いなりになることが
必ずしもいいサービスとは言えない、
ということをもっとも心得ている人でもある(たぶん)。
だから時間外電話相談をサービスと表現することに抵抗はない。
しかし医療の分野でこれをを理解してもらうのは、なかなか難儀なのである。

ワインソムリエにとっては、
お客はどこまでも他者(コントロールが効かない相手)だが、
医療者は、なかなか患者を他者とは捉えられない。
コントロールするか、されるか、どっちかになってしまうようである。
特にたくさんの患者をこなして収入を得ようとしている場合には、
患者のご機嫌を損ねないことが目的化してしまう。
「サービス」という言葉に対して抵抗感があるのは
そういうことも関係しているのだろう。

不活化ワクチン接種の希望に応じるということは
患者の言いなりになっているように見えるが、
実は患者を他者と捉えたときに見えてくる問題に対処することである。
それまでのワクチン行政や、患者の置かれた立場を
ほんのちょっとでも考えたことがある医療者なら
誰だってチャンスがあれば、この要望には応じたいと思うはずである。
厚労省に働きかける、とか医師会とは反対の主張を公にする
などというのは、結構な勇気が要るだろうが
個人でワクチンを輸入し、患者と合意の上で新しいことを始めるというのは、
ほんのちょっとの勇気と、いささかの手間を惜しまなければ
そんなに難しくはないんじゃないだろうか。
なによりも心強いのは、後押ししてくれるのが患者だということだろう。

医療の使命は患者の声に応えることだ。
そのためには、聞き耳頭巾をかぶって患者の声を聴くことだろう。
声を聴きとる感受性を最大に磨いておくことである。

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2011年12月11日 (日)

生きているうちに

新聞に『野見山暁治』展が12月3日までと書いてあったので
慌ててブリジストン美術館へ観に行く。
たしか12月の後半までだったはずなのに、と
行ってから確かめたら、別の画廊での小品展のことだと分かった。
最近は、こういう勘違いが多い。
早合点をするタイプということもあるが
メガネをかけないと字がよく見えないせいもある。
目が悪くなると、細かい字をちゃんと読むのは面倒になってしまうのだ。

寒い日だったが美術館には小学生の集団が来ており、ちょっと驚く。
この学校の美術の先生は、なかなかすごい。
小学生くらいの感受性豊かな時期に
野見山さんは最適の教材だろう。

野見山さんは1920年生まれと年譜にあるから
今年90歳を超えているはずである。
写実からキュビズムを経て、自分の好きなように描く時代に
入っていく様子がよく分かるが、気に入った言葉を書き留めておいて
描いた絵のイメージに合わせてタイトルに使っていくそうである。
どうりで、ときどき「うむ、この絵のどこがそういう内容?」
というのに出会うわけだ。

画家の描いた絵を見ていると、つくづく
絵も日記、ではなく月記、でもなく年記なのだなと思わされる。
時間経過が一覧できるところは空間芸術ならではである。

毎年カレンダーを送っている伯母は今年97歳だそうである。
久しぶりに電話で話したが、結構しっかりしていてびっくりした。
大学で音楽を教えていたこともあり、さすがに通して曲を弾くことは
難しいみたいだが、楽譜を出してきて曲の新しい解釈を
考えたりするそうである。
「年をとったから見えてくるというものもあるのよね」と言っていた。
でも身体の方はなかなか大変で骨粗鬆症もあり
歩行がままならないらしい。
外出はサポートがないと難しいが、家の中でも座っているところから
立ち上がるのに難儀するというようなことを言っていた。
高齢者向けのパワースーツみたいなのがあると
いいんじゃないだろうか、と思ったりする

バレエの先生は84歳だし、元気な先達がいると思うと
こっちもうかうかしていられない。

一方で先日届いた欠礼のハガキには友人のご主人が
64歳で亡くなったと言う知らせが書いてあった。
恰幅のよい人で、築地の店では何回か
おいしいとんかつを食べさせてもらった。
若すぎる感じもしないでもないが、
これは個人差なのだろうか、世代差だろうか。
久しぶりに友人と旧交を温めるのが楽しみではある。

ふだん年賀状でしかやりとりしていなくても、
どこかで会う機会がやってくるものである。
でも死んじゃったら会えないわけだから
生きているうちに会っておかなきゃいけない。
と、そんな気がしている。

97歳の伯母にも会っておかなきゃ。
自分だっていつ死ぬか分からないんだし。

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2011年11月30日 (水)

電話相談における2つの視点

#8000の記録用紙サンプルを作成し、解説をつけ、
ついでに10月に大阪でおこなったスキルアップ研修
についての報告書も書き上げて送信する。

大阪でのスキルアップ研修では、
昨年行った相談録音の聴取による評価結果を
裏づける結果が得られて、なかなか面白かった。
決められたことを行うのは得意だが、
そのときの相手の要求を自分なりに感じ取って応じるというのは
どうも看護職が苦手とすることみたいなのだ。
「感性」と「問題意識」という2つのワークをやってみて、
そのことがはっきり見えた。
これはひょっとすると、今の看護教育の問題なのかもしれない。
まずは自分についての振り返りを、どのようにおこなわせるか
つまりどう感性を発露させるか、が課題だろう。

記録用紙のサンプル作成は、至極簡単にできたのだが
これの必要性を解説するのに、ちょっと呻吟してしまった。
医療者(医師と看護師の多く)は、どうも電話相談を
「丁寧な対応」といったレベルでしか捉えていないような
感じがしてしかたがない。
それが患者ニーズから始まっているということに
まったく思いが至っていない印象があるのだ。
その部分を、どう伝えたらいいだろうかと
いろいろな方向へ考えをめぐらせていた。

たまたま医療崩壊と情報の非対称は関係があるのか
とネットで検索していて出会ったのが
三重大学大学院医学系研究科の木田博隆氏の論考だった。

木田氏は、『共済総合研究第57号』平成19年度助成研究
「今後の地域医療制度のあり方と地域住民との関連に関する分析
―医療供給体制の維持向上のために地域住民・マスコミに
求められる要件に関する考察―」
(http://www.nkri.or.jp/PDF/2010/sogo_57_kida.pdf)の中で、
医療を社会的共有資本と位置づけ、望ましい医療を考える条件のひとつとして
「情報の非対称性と医療における不確実性」に着目し、
3つの次元での情報の非対称性があると述べている。
これが、私の問題意識とどんぴしゃりだったのだ。
彼は情報の非対称について、次のように述べている

「医師と患者の間には医学・医療に対する情報量の圧倒的な差が存在する。
しかし、一方では医師の側には患者、家族からの情報は圧倒的に不足している。
加えて医師は患者に対して経験則(医学は経験科学であり、要素還元主義である)
からの情報提供はできても、現代医学では患者個人の個別性に関しては
十分といえるほどの情報も得ることはできないために多くを語れない。
つまり、3つの次元での情報の非対称が存在する。」

電話相談ではごく当たり前の、「自分の場合」について知りたい
という欲求は、医療の分野の電話相談でも、ごくふつうに入る。
ところが、ここに応えるということがどういうことなのか
どうも医療者にはまったく分かっていないらしいのだ。
個別の要求に対して一般論で応えて平然としているのである。
(このことはすでに20年前に論文で指摘しているのだが)
だから、相手の生活状況への聞き込みも不十分なら
「ちゃんと応えられるようにマニュアルが必要」
などということを平気で言い、作成してしまう。

医療者の多くは、
不要不急な受診は医療者と一般人の情報の非対称にある
と考えているのだろうが、むしろ非対称は、
現代医学における患者個人の個別性にあり、
ご多分に漏れず、ここでも生活者(患者)、
つまり医療の受け手の方が、そのことを敏感に感じ取っていて、
その結果が電話相談に入ってくるということなのである。
問題は自分たちの領域にあるのに、いかにも
「君たちが無知だから」と言わんばかりなのは
なんともおめでたいかぎりだが、
そういう部分に問題意識を持つことの必要性を
いくらか指摘できれば、20年の歳月も無駄ではないのかもしれない。

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2011年11月21日 (月)

『見知らぬ国の踊り』

今年の千葉県民芸術祭「現代バレエ合同公演」が終わった。
リハーサルから本番まで5時間余りの空き時間を
コントロールするのは、なかなか大変だったが
本番で足が攣りませんように、と祈ったおかげか
なんとか無事終了。

今回の舞台は、ひとつの作品に
おとなとこどもの両方が登場するというもので、
タイトルは『見知らぬ国の踊り』
大地に感謝して幸せを謳歌するどこかの国、の踊りである。
ある種の桃源郷を描いたものといってもいいかもしれない。

曲は坂本龍一の『ダンスリー』というアルバムから
2曲を先生が選び、編集。
このアルバムは、先生が手首の骨折で入院していたときに
私がお見舞いに持参したもので、入院中の退屈な時間に
先生の創作意欲をかきたてるのにいいかも、
と自分のお気に入りから選んだのである。
84歳の先生の創作意欲を喚起したと思うと、気分がいい。

先生が
「みんな年を取って、激しい踊りがだんだんできなくなってきたから
今回は楽なのにしたわよ」と言うように、
振り付け自体は覚えるのにさほど苦労しなかったが、
ところどころ筋力の衰えを痛感する部分もあり、課題が見える。

出演するこどもは4歳から中学生までと幅広い。
坂本龍一のアルバムらしく、拍子とメロディーが複雑に絡む
結構難しい曲にも関わらず、特訓のおかげか
みんな実に達者である。
おとなはどうしても数で振り付けを理解しようとするが
こどもはメロディーに自分を溶け込ませて
自然に体が動いている。

それでも先生の指導は容赦ない。
腕の伸ばし方、目線といった技術的なことだけでなく
「大地に感謝する踊りなのよ」と4歳の子にも言って聞かせる。
言われた本人は分かっても分からなくても、とにかく
「はい!」といいお返事である。

一緒に出ているだけで、雰囲気が和やかになってしまう
ところは、こどもの力に負うところが大きく
その意味では、大地だけでなくこどもにも感謝である。
しかし、年を取って難しいことがこなせなくなっても、
そうやって観客を楽しませる舞台を作り上げてしまうところは
振り付け師であり演出家でもある先生の腕によるところが大きい。
こういう分野には後継者というのはいないのかもしれない。

踊り終わって楽屋に戻ったら、小さい子たちがやってきて
「楽しかったあ !」
ほんとに楽しかったのである。
先生の「よくできました」も嬉しいけれど、
一緒に踊ったこどもからこう言われるのは、それ以上かもしれない。

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