2009年6月29日 (月)

リタイヤしたら学会へ行こう

ディペックスのさくまさんが発表するというので
今年度のディペックスでの研究の下調べも兼ねて
初めて「日本女性学会大会」というのに参加してみる。
今年は母校での開催ということで、茗荷谷下車も久しぶり。
卒業以来数十年経つが、数年前に幼稚園のホームカミングデイで
クラス会をやっているから、まあ懐かしいというほどではない。
この間は気づかなかったが、校門の前にあった
「スウィートコーナー」という小さな喫茶店とも
ミルクスタンドともいえないひなびた店は
小さなこじゃれたカフェになっている。
昔、この店は白髪の顔の長いおじいちゃんがやっていて
背の高い双子みたいな兄弟がいた。
だからというわけではないが、高校生だった頃は、
よく入り浸っていたものだ。
校門から講堂へまっすぐのびている並木道のイチョウは
一段と大木になったような感じがして年月を感じさせる。

講堂で受付を済ませるが、事前のインフォメーションが違っていたのか
目指す部屋がなかなか見つからず、散々ウロウロして、
やっと講堂の奥にある部屋がそうだと分かる。
生活科学部の教室みたいで、こじんまりとしているが
それでも60人ぐらいは入るだろう。
受付でわたされた「入会のお誘い」というのには
「日本女性学会は、あらゆる形の性差別をなくし、男性視点で構築された
既成の学問体系をこえた女性学の確立をめざし、そのための研究と
情報交換をすることを目的とした学会」と書いてあって、
女性学というのがあるなら男性学もあればいいのになんて考える。
現実を端から当たり前と考えていると、
そういう発想はなかなか出てこないのかもしれない。

ひとつの分科会の持ち時間は1時間40分で、発表者は3人。
ひとり20分に質疑応答が10分あり、このゆったりさはなかなかよい。
提出されるいろいろな演題は、ざっくりとした共通項でくくってあって
極めてアバウトだが、ここから何を得るかは聞く側の感性ということだろう。
さくまさんの演題が出ている第2分科会は、彼女の
「がん治療における性ホルモン抑制とジェンダーの揺らぎ」のほかに
「科学技術とリプロダクティブ・ライツ」
「日本を再び男性化する:国家的理念の表象としての太陽の塔」
といった具合で、司会者曰く「身体でくくってみました」
座長なんて偉そうな言葉を使わないのもよい。

「がん・・」も「科学技術・・」の発表も面白かったが
この分科会でもっとも衝撃的だったのは最後の「日本を男性化する:・・」だった。
大阪万博のために岡本太郎が制作した太陽の塔が
八紘一宇のイデオロギーを再生させるものだったというのである。
八紘一宇とは八方の方位をひとつに統一するという意味で
「世界をひとつの家にする」と唱えられて大日本帝国の国是として使われた。
大阪万博では、男の頭と女性の身体で構成させた太陽の塔を
巧みに配置させることで、八紘一宇のイデオロギーを再生し
家父長制イデオロギーを補強した、というのがこの発表の要旨である。
太陽の塔の表象は、敗戦、占領体験で、日本と彼らのマスキュリニティ(男性性)を
去勢されたと感じていたナショナリスト達が、
その屈辱感を象徴的にくつがえし、日本を男性化する方途だった、というのである。

大阪万博は遠いし特別に興味もなかったから見に行くことはなかったが、
国家的イベントというのは、多かれ少なかれ国家の何らかの意図がある。
それをどのような視点で読み解くかによって、見えてくるものは異なる。
どれが正しいとかいうことではなく、どのような解釈の可能性があるか
ということが分かることが大事なのだろうと思う。
岡本太郎は一般的にはアヴァンギャルドな芸術家として知られている。
質疑応答でもこの点からの疑問が出されたが、当時の制作グループには
小松左京や黛敏郎などさまざまな人間が関わっており
それが、さまざまに作用していたのだろう、と発表者は解釈していた。

せっかく参加したので、引き続いておこなわれた第4分科会の
「第1次から第6次『主婦論争』にみるジェンダー規範の変容」というのも
聞いて帰ることにする。面白い発表だったが、規範が変わったということを
実例を提示して説明するだけでなく、なぜ変わったのかという点まで
踏み込んでもらえると、もっと面白かったなあと思いつつ、学会を後にする。

専門用語のような仲間内の言葉を頻発させて仲間だけで楽しむのも悪くはないが、
それだけだと共同体はひたすら自閉していく。
今回のような実生活から発想していく学会は、もともとはさまざまな人に
開かれていて、それこそ「衆知を集める」のが目的だろう。
新たな知識というより、新たな視点を得るだけで、随分情報化は進む。
下手なシンポジウムより、よほど有益かもしれない。
これで2日間の参加費はたったの500円だしー。
これからの時代は、「リタイヤしたら学会へ行こう」を合言葉にしたらどうだろう。

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2009年6月26日 (金)

ひと足早い誕生日

コンフィチュールのジンジャーシロップをお中元にしようと
日本橋の高島屋へ行ってみたら、先月で撤退したとかで、ない。
東京駅の構内に移ったそうだが、入場料を払うのは嫌なので銀座店に行くことに。
八重洲ブックセンターの前を通り過ぎ、日本橋通りより1本手前の細い通りを
だいたいこの辺だろうと見当つけて歩いて行くと、
突き当りをちょっと左に曲がった最初の通りに運良く見つかる。
84歳のバレエの先生は、ここのレモンジンジャーがすっかりお気に入りだ。

7月になったら届くように頼んで、店を出る。
横の通りに出ると目の前に「天龍」の行列。結構人気があるのねー。
どこで昼食にしようか考えるが、あちこち探すのは面倒なので
伊東屋の9階のカフェへ。ここのオリジナルサンドが銀座での定番だ。
コンフィチュールでピーチの試飲をして、口の中が甘いので
今日は紅茶がいいなあと思い、デザールブレンドというのを頼んでみる。
甘い香りのちょっと変わった味の紅茶で、ポットで出されるのも嬉しい。
何となく今日は正解だな、という感じがする。
この紅茶は、帰宅して調べてみたら、アールグレイの一種だった。
食べながら明日が返却期限の本を読むが、なかなか終わらない。

伊東屋でラミーの万年筆を、しばしためし書き。安いが書き味はなかなか。
もうすぐ息子の誕生日だから、もっぱらボールペン派の彼へ
1度くらい万年筆を使ってみたら?と贈ってみようか。
伊東屋の後は久しぶりに松屋へ。
一階でどんな催し物をやっているか覗いてみたらレイングッズで賑わっている。
知らない間に、上りと下りのエスカレーターの方向が反対になっていたので
いつもとは異なり3階の靴の売り場を抜けて靴下の売り場に。
松屋の靴売り場は、なかなかとんがったデザインのも多いのだが
年配の女性も結構多くて、なんだか嬉しい。
これからますます高齢者が多くなるだろうが、そういう人たちが
奇抜な、明るい色の靴を履いて楽しげに歩いているのを
見ることができたら、こちらもシアワセな気分になれるはずだ。
なんて思いつつ、靴下売り場を冷やかしていると、
顔は日本人なのに、ばかに足のきれいなショートパンツの女の人が
横で靴下を見ている。ボーイッシュで、ちょっとこれからアフリカへ
写真でも撮りに行くって雰囲気で、変に派手派手しくもなく、いい感じだ。
う~ん、これだけ足がきれいだと、
やっぱりショートパンツだろうなあ、と思いながら上へ。

どこも何かしらセールをやっているので、食器売り場で小皿を探す。
半月型の、ちょっといい伊万里風があったが高いのでやめて、
いつものように7階まで上がり、デザインギャラリーを覗き、
隣のデザインコレクションからテーブルジョイへと回遊。
キサの夏のサンダルと手ごろな九谷の小皿を手に入れる。
メンバーズカードを忘れたことを除けば、まずまずの収穫。
やっぱり今日はいい日みたいだと思いつつ帰宅する。

家に着いたら夫が、
「さくらやでジョギング用に買った時計が女性用だった。オマエ使う?
使うんなら、誕生日プレゼントにやるよ」というのでもらうことに。
携帯を持つようになってから、ほとんど時計をしなくなってしまったが
私の携帯は普段は電源を入れていないから、これはこれで不便なのだ。
まあ、デザインは夏向きだから、身に着けるのは夏の間だけだろうけど。

ネットでの無礼な振る舞いに腹を立てるのも、街で元気をもらうのも、
しょせんは自分の心の問題なのだが、実体のないものに
影響を受けるなんて馬鹿みたいだと思えたひと足早い誕生日だった。

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2009年6月25日 (木)

似たもの同士

医療者(主に医師)とメディア関係者が作っているSNSに
参加させてもらっている。
呼んでくれた編集者は、私を呼んでおいて
自分は仕事の都合で抜けてしまった。
雑誌の出版もなかなか経営が大変みたいなのだ。

さまざまなSNSやメーリングリスト(ML)は、
新しい人と知り合ったり、色々な意見を見聞きしたり、
情報交換したりできるので、仕事上でもとても役に立つ。
最新の医学情報は、たいていこれらが情報源だが、
医師の情報収集能力はまったく大したものである。
参加する医師のタイプはSNSによって全然違う(ような気がする)。
参加する職種が多いSNSほど、あたりまえだが話題は広い。
趣味や日常の話題の中で、人間性が見えてくる。
とはいっても、これはあくまでもバーチャルな世界だから
こちらが想像しているだけで、実物は全然違う可能性大だ。
これまでの経験から言うと、バーチャルな世界で偉そうなタイプは、
実物も偉そうだが、バーチャルですこぶる開かれた感じなのに、
実物は偉そう、という場合も結構ある。
どう演じたところで本質は変わらないということかもしれない。

メディア関係者と医師が多く参加しているSNSでは、
日常の話はほとんど出ない。
政治か医療に特化している印象がある。
ここでは当然のことながら、しばしば報道が話題になる。
なかでも医療報道は、ほとんど目の敵である。
まあ、たしかにそういう側面はあるので、
参加している報道関係者も、その辺はよく心得ていて
凄惨なバトルが繰り広げられる、ということはほとんどない。

医療報道に限らず、テレビにしても、新聞にしても
昨今の報道のしかたには問題が多い。
リークされたことや公的な発表をそのまま報道して、
裏を取ったり、観点を変えて掘り下げるということが少なくなっている。
これは実際に報道機関の中にいた人が言っているのだから本当だろう。

情報の伝え方が断片的で一般論に終始し、断定的である
というのはマスコミの特徴だが、実は医師の情報発信の特徴でもある
ということは、以前厚生省の研究班に参加したときの結果である。
この結果は「小児保健研究」に発表した。
マスコミは不特定多数が対象だから、どうしてもそうなる。
説明不足、というのも両者に共通している。

SNSに参加して、もうひとつ共通点があることが分かった。
両方とも「感情的」あるいは「情緒的」ということである。
感情を揺さぶるような報道のしかたは特にテレビに多いが
新聞もそういう物語を作る傾向が強い。
怒りや同情をかき立てるような仕立て方は、
読者や視聴者をひきつけるための戦略なのだろう。

医師が案外情緒的というのは、これとはちょっと違う。
ごく一部のことだろうと思うが、
「自分はこんなに一生懸命にやっているのに、
患者(マスコミ)は全然理解してくれない」という思いが
根底にあるような感じがする。
でも一生懸命さでは、患者だってマスコミだって同じはずだから、
大変さでは共通しているわけで、理解し合うきっかけは
そこにあると思うのだが、彼らにとっては大きな壁があって
乗り越えるのは不可能、もしくは徒労だと思っているようである。
マスコミは相手をひきつけるために情緒を利用し、
医師は自分の感情は見るが、相手の感情は見ない。
似てはいるけれど、相手の感情に配慮しているという点では
明らかにマスコミの方が上手といっていいだろう。
マスコミは叩く相手ではなくて、学ぶ相手なんだろうと思う。

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2009年6月13日 (土)

たぶんネタが多すぎなんじゃ?

らっきょうの甘酢漬けを作る。
今年は甘酢に赤梅酢を入れてみることにする。
赤梅酢が入ったらっきょう漬けは、切り口がほんのり赤く染まってきれいなのだ。
これで切り口の褐変がカバーできたら、おすそ分けするときも言い訳しなくて済む。
切り口が茶色く褐変するのは、たぶん鋼の包丁を使っているからだと思う。
別に実害はないのだが見た目が美しくないし、多少味にも影響しているはずだ。
こういうの、昔はどうしていたんだろうと考える。
褐変自体を気にしなかったのか、使う包丁が違っていたのか。
手作りしてみると、市販のらっきょうがきれいにできあがっているのは、
おそらくビタミンCか何かで漂白をしているか、何か工夫があるに違いないと分かる。

某SNSのリンクフレンドでジャーナリストの人のブログの映画評を読んでいたら
彼が書いた本が目に留まり、アマゾンのページへ。
「新聞はこれからどうなるか」という関連テーマの本が結構出ていることを知る。
なかには30人もの人がレビューを書いている本もある。
地味なテーマに、こんなに何かと言いたい人がいるのだ。
ベストセラー小説について、あれこれお互いに言い合いたい
というのなら分からないこともないが。

新聞が衰退しつつある背景には、
新しいことを知らせてくれる手段が、新聞だけではなくなったってこととか
記録媒体として使い勝手が悪いとか、
目に見える情報だけが情報だと誤解されているとか
記事の作り方が旧態依然としているとか
ビジネスモデルとしての経営の仕方が古いとか、
いろいろあるみたいだけど、
一番大きいのは、そもそも毎日そんなにネタがない、ってことじゃないだろうか。
これはテレビとも共通しているだろう。
ネタがないから、内容が薄くなり、
内容が薄いから読者の期待に応えられずに顧客離れが起きるってあれだ。

もちろん世の中には、知るべき事柄はあふれているし、
私たちは、今アフガニスタンで、あるいは沖縄で
何が起きているかを知っておくべきだとは思うが、
新聞自体が、すでに情報処理能力を越えた情報を処理しきれずに、
結果的にネタがない状態に陥っているのではないかと懸念する。

そして問題は、新聞自身がそのことを理解できていないってことだろう。
もちろんこれは新聞に限ったことではないけど・・。
シャワーのように起きたこと(ニュース)をこれでもかと浴びせかける、
というのを無益だとは言わないが
(特に日本のように湿気が強くて汗がこびりつきやすい気候では)
シャワーだって、多くてせいぜい1日2回、
必要に迫られなければ、2日に1回でもこと足りる。
そもそもシャワーは、浴びたい人のためにあるっていうことを
新聞にかぎらずマスメディアといわれる大メディアは見落としているのだと思う。

そういう意味では夕刊を廃止した新聞もあるみたいだが、
どうせならいっそのこと、毎日ではなく、2日おきとか3日おきに
発行するっていう風にサイクルを変えてみたらいいかもしれない。
もちろん毎日の戸別配達には感謝しているし、それを
学費の足しにしている学生のアルバイトをなくしたくはないが、
いくら腕利きのジャーナリストだって、こんなに複雑な世の中に、
毎日短時間で、読み応えのある、痒いところに手が届くような
記事を書けという方が、土台無理な要求なのではないだろうか。

新聞が、自分の情報処理能力に合わせた情報発信の方法を
見出すことは、情報化社会では大事なことのような気がする。

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2009年5月27日 (水)

日本語に直してみれば

カタカナ語(外来語)のために本来の意味とは違うニュアンスに
なってしまう言葉はたくさんある。
『トリアージ』という言葉の使い方にも、そういうところがあるんじゃないか
ということは、以前「電話トリアージ」で書いた。

『トリアージ』の元の意味は「選択する」だが、そこには
適切な人に適切な対処を選択するという目的が込められている。
適切な選択をおこなうために、さまざなな要因を勘案して判断する、
というのが、この言葉が持つ本来的な意味なのだろうと思うが
日本の医療での使われ方を見ていると、どうも効率よく医療を行うために、
医療者がおこなう振り分け、もしくは順番の判断というような感じがする。

『コンプライアンス』という言葉も怪しい。

「小児保健研究」vol66.no5の委員会報告
『社会的サポートとしての小児救急の電話相談のあり方について』に
次のような文章が出てくる。

6.電話相談システムにおける看護職の役割

1.医師と看護職の役割の違い

  ー略ー

 一方、看護職は対面の場であったとしても診断をつけることはできず、
また薬などについても指示することはできない。
看護職による電話相談は保護者・家族の不安解消のための支援が特に重要である。
保護者の不安解消のためには、専門家からアドバイスをもらうだけではなく、
保護者自身が子どもの発する信号に注意を向けることにより、
早期に症状を把握し対処できるように、
保護者の家庭看護の力を育てる支援が必要となる。
保護者の一時的なコンプライアンスを高めるだけでなく、
健康に影響を及ぼす行動や意志決定を、よりよくコントロールできるようになること、
つまり、エンパワーメントされるように支援していくことが求められる

この文章の要旨は、

看護職は診断、指示はできないが、電話相談で保護者を支援することはできる。
家庭看護の力を支援することで保護者のコンプライアンスを高め、行動や意志決定が
コントロールできるようになるような力をつけることが、その支援のめざすところである。

というようなことだろう。

『コンプライアンス』は、一般に「法令遵守」と訳されていて
新聞に載る時には、もっぱらビジネスの領域で、
企業が法やモラルに則った行動をしているかどうか、というときに使われる。
辞書によれば、要求や命令に従うこと、と書かれている。

医療の分野での意味は、健康用語辞典によれば

「患者が医師から処方された薬を指示通り正しく、
確実に服用し、注意事項を守ること。
患者のコンプライアンスが不十分だと、薬物治療の効果が現れにくくなる。
処方内容や処方指示について患者が理解できていない、
服用することを忘れる、薬物の有効性について信用していない、
副作用を恐れている、などが背景にあるケースが多く、
その改善を行うことが医師、薬剤師、看護師など
医療スタッフの重要な役割となる。」

とあるから、基本的には一般的な使われ方と同じである。
患者が医療者の要求や命令に従って、よい結果を出せているときは、
コンプライアンスがよい、結果が悪いときはコンプライアンスが悪い、
というような使われ方がされる。
つまり患者が命令に従うか、従わないか、を
この言葉で表現すると考えればよいだろう。

私が首をかしげたのは、本来電話相談には
『コンプライアンス』という概念がないのに、
なぜ、電話相談のあり方を論じるのに
『コンプライアンス』という言葉を使うのかが分からなかったからである。
この『コンプライアンス』を日本語に置き換えてみれば、そこがはっきりする。
置き換えて再掲してみよう。

看護職による電話相談は保護者・家族の不安解消のための支援が特に重要である。
保護者の不安解消のためには、専門家からアドバイスをもらうだけではなく、
保護者自身が子どもの発する信号に注意を向けることにより、
早期に症状を把握し対処できるように、
保護者の家庭看護の力を育てる支援が必要となる。
保護者の一時的な命令遵守(服従)を高めるだけでなく、
健康に影響を及ぼす行動や意思決定を、よりよくコントロールできるようになること
つまり、エンパワーメントされるように支援していくことが求められる

なんのことはない、看護職が電話相談でおこなおうとしている支援とは、
命令遵守を高めることだと言っているのである。
これを書いた人は、それが電話相談だと思っているということである。
実に道は長いのである。

もっとも医療界でも、この『コンプライアンス』という言葉は
分かりにくい言葉のひとつではあるらしい。
それが、命令とか要求という言葉の持つ権力性を
嫌がる気風だとしたら喜ばしいことではある。
しかし、カタカナ語に言い換えたところで、
その意味するところが変わるわけではない。
むしろ本質があいまいにされるだけである。
だから電話相談のような、医療の持つ権力性を無化する
システムについても、こうした誤解が起きてしまうのである。

ところで国立国語研究所の調査によれば、
この『コンプライアンス』という言葉は立派に
「言葉の意味の混同や混乱が多いもの」のリストに入っており、
患者の3割は、これを「医師が法令を守って治療すること」
と理解しているとのことである。
むしろ、患者の方が正確に理解していると
考えるべきなんじゃないだろうか。

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2009年5月25日 (月)

珈琲店でお気に入りの椅子に会う

先日、神楽坂の森戸記念館で別府宏圀さんの講演を聞いた帰りに
目をつけておいた上島珈琲店。
入り口を入ると左側に壁に向かった肘掛け椅子がずらっと並んでおり、
次回ギンレイに来たときには、これに座って本を読もうと決めておいた場所だ。

今回の2本立ては「バンク・ジョブ」と「その土曜日、7時58分」
どちらも泥棒の話だが、「バンク・・」は1971年に英国で起きた
英国最大の銀行強盗事件で実話が元になっている。
政界、警察などを巻き込んだスキャンダルがらみの話で
すこぶるテンポはよい。
この時代は、人も社会もある意味では素朴だが、
話そのものが映画にお誂え向きなので、
見る側はあくまでも観客として見ればよく、
結末は正義が勝つから気分は楽である。

これに比べると「その土曜日・・」は
監督がシドニー・ルメットだからなのか、
舞台が今という時代のせいだからか、まったく救いようがない。
金のために親が経営する宝石店に強盗に入る兄弟。
(被害は確かに保険で補填されるから実害はないはずだが)
ドラッグにおぼれ、会社の金を横領している
会計士の兄(フィリップ・シーモア・ホフマン)が考えたアイデアに
離婚して娘の養育費が払えない
気弱な弟(イーサン・ホークが適役)が巻き込まれる。
金がない、ということが引き起こすさまざまな誤算。
結末も、ありえないわけではないが、なんだか憂鬱である。
こういう時代に私たちは生きているのだとは思うが、
どこか遠くの世界のことだと思いたい。

終わって外へ出るといいお天気で、予定通り上島珈琲店へ。
運良く空いていた肘掛け椅子に座れて、なんだかうきうきしながら
池谷祐二さんの「単純な脳、複雑な私」の続きにとりかかる。
これでオットマンがあったら言うこと無しだなと思いつつ読む。
快適。
もっとこういう椅子のあるカフェがあればいいのに、と思うが
あんまり見かけないところを見ると、カフェといっても、
実は短時間のお客しか想定していない所が多いのかもしれない。
店内のざわつきも、かかっている音楽もまったく気にならずに
集中するが、なかなか読み応えがあり長時間続けると疲れるので
1時間で切り上げて帰ることに。
いつものチーズを買うために三浦屋に寄る。

ふと、娘は元気なのだろうかと気になり、ブログを覗いてみる。
更新してあるところをみると生きているみたいだ。
イケアで、ホットドッグとコーヒーで本を読みながら
まったりしたなんて書いている。
金がないはずなのに、結構のんびりやっている。
案外「その土曜日・・」を痛切に感じるのは私たちの世代までで、
若い世代は、もう少し違う感覚で生きているのかもしれない
と思うと、ちょっとホッとする。

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2009年5月22日 (金)

はじめの一歩

「小児救急電話相談の実施体制および相談対応の充実に関する研究」委員会
という長ーい名称の委員会の委員を委嘱されて、初めての会合に出る。
地域医療基盤開発推進研究事業という厚生科学研究の研究班のひとつである。
大阪方面から来る先生もいるので、新型インフルを考えて中止になるかも
と思っていたが、そうはならなかった。

厚生科学研究の研究班に参加したことは過去にもあるが(心身障害研究)
今回の面子は圧倒的にお医者さんが多く、もし形式的で眠くなるような
委員会だったら、次から「仕事があります」と欠席だなと思いつつ大手町へ。
会議室がサピアタワーの明るい会議室だったこともあってか、
途中でコーヒーのサービスなどもあり、終始和やかに進行。
結構いろいろな発言も聞くことができ、まずは、
お医者さんという職種のまじめさに好感を持つ(よかったね)。

小児救急電話相談に関しては、「外来小児科」にも何本か論文を書いたので、
それが今回の委嘱につながったのだろうと思うが、実際に参加してみると
この種の仕事は、確かに位置づけが難しいだろうということが分かる。
その原因のひとつは、各省が縦割りで、電話相談が乱立しているからである。
たとえば東京都がやっている救急安心センター構想とか(こちらは総務省)
各自治体が独自にやっている電話育児相談とか、
電話相談は、誰にでもできて手軽な住民支援業務
と考えられているから、やたら公費での参入が盛んなのである。

その証拠に、構想をぶち上げてはみたものの、人手不足の問題が
生じたら看護協会を動かせばなんとかなる、と考えている。
某地域の先生は
「ウチの地域は、看護師が割のいいアルバイトとしてやっているよ。
いつもやっていることを、やればいいんだから、って言ってある」
まあ、このあたりが一般的な認識なんだろう。

私の担当は、小児救急電話相談の意義を考えることと、
相談員のレベルアップによる質の向上。
報告書を見ると、民間委託については、質の確保が問題と書いてある。
いくつか参入している民間の会社の名前は
どれもなじみのある名前で、なんだか懐かしい気もする。
でも、民間の質が問題という認識はちょっと違うだろう。
民間では、30年以上前から電話相談をおこなってきており、
そもそも電話相談というものを始めたのも民間なわけだし、
彼らはそれでお金を稼いでいるのだ。
もちろん私だってれっきとした民間である。
私はなんでよばれたわけ???と思いつつ
「民間の質が心配なのでね」という発言には
「民間の方がレベルは高いですよ」とやんわりと反論しておく。
公的機関は民間のレベルくらいにレベルアップしなければ競争にならない。
公的ネットワークというコネでお茶を濁しちゃいけないのである。

民間で電話相談が始まったのには、さまざま背景があるが、
一番大きな理由は、電話相談のようなコミュニケーションの
あり方が求められていたからである。
今、医師や看護師が電話相談をおこなうということは、
そういう求めに応じるということである。
これは実際の医療現場で求められることとは全く違う。

なぜか。

この1年間で、そのことが少しでも浸透させられれば、
私の役割は果たせたと言えるのだろう。

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2009年5月19日 (火)

『グラン・トリノ』

月曜日の朝一番、丸の内ピカでリー3に『グラン・トリノ』を見に行く。
イーストウッドが久々に監督と主演を兼ねている。

予告編は、スター・トレックとかハリーポッターシリーズとか
ターミネーター4とか、CG満載の映画ばかりだ。
予告編を見る限り、どれも英雄待望がテーマみたいな映画ばかりで
欧米映画は神様の不在を、何かで補わずにいられないのだなあ、
という感じがする。

グラン・トリノとは1972年から76年にかけて作られた
フォードの車につけられた名前だそうである。
イーストウッドが演じる頑固な老人が、何よりも大事にしている。
自分が作っていた車だからだ。
世代継承というテーマは淡々と表現されていて
映画を見終わって立ち上がった隣の年配の女性の2人連れは
「いい映画だったわね」と言っていた。
ミスティック・リバーもミリオンダラーベイビーも
主人公が可哀想で、どうしても2回は見ることができないが
この映画は結末は悲しいのに、なんだかほっとする感じさえする。
産卵のために川を上っていった鮭を見るような感じがするのだ。

自分が一番大事にしているものを誰に手渡すか、というのは
中年以降の世代にとっては、大きなテーマだろう。
イーストウッド演じるウォルトは、その相手を隣に住むモン族の少年に決める。
モン族とは、東南アジアに居住する少数民族で、
頑固で偏見の強かったウォルトが、まったく文化の異なる
モン族の少年に心を開いていくところに、アメリカ社会における
少数民族の孤独と老人の孤独の重なりを見る感じがする。

映画の最後に、過剰な不安が引き起こす愚かな振る舞いも描かれる。
これはアメリカという銃社会のことを言っているようでもあり
新型インフルで大騒ぎしている最近の日本のことのようでもある。

いや、日本の場合はちょっと違うかもしれない。
日本の騒々しい振る舞いは、不安が引き起こしているというより
新規なものに対する易興奮性といった方がいいだろう。
連日メディアを賑わしている新型インフル関連ニュースは、
不安というより、政治家主導のお祭り騒ぎのような感じがする。
メディアが政治の言うなりなのは、今さらどうしようもないのかもしれないが
医療者には、もう少し独自の行動基準があっても
いいのではないかという気はする。
そういうものがないのが医療者というものなのかもしれないが。

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2009年5月11日 (月)

いしぶみ

ギンレイに「おくりびと」がかかったので見に行く。

2本立てのもう1本は「大阪ハムレット」。
父親を亡くした男の子3人兄弟の成長譚で、なかなか面白かった。
松坂慶子の大阪のかあちゃんと岸部一徳のへたれのとうちゃん
(ほんとは亡き夫の弟なのだが)という組み合わせが、
生きるというのはこういうことだと思わせて秀逸である。
こういう話に会うと、いやあ大阪にはかなわんなあと思わされる。
いやいや庶民という意味では、東京も一緒ではあるのだが。

「おくりびと」はさすがに見たい人が多く、久々の満席である。
この映画がどうしてアカデミー外国語映画賞をとれたか
ということについては、すでにいろいろな説明がされているが、
私はカメラワークのセンスも大きかったのではないかと思う。

冒頭、雪の中を車が走ってくる映像に、まず「ん?」と思わされる。
その乾いた、情緒を感じさせない映像は、邦画にはめずらしく
ミステリアスな雰囲気さえ漂わせている。
この導入は、外国人審査員には結構なインパクトがあっただろう。
舞台が山形ということもあって、撮られている景色は、
日本の山であり田んぼであり、家屋なのだが、
邦画にありがちな、湿った感じはあまりしない。
物語自体が、死者との別れという、下手をすると
涙でぐしゃぐしゃになりかねない内容なのだが、
そこここにユーモアを漂わせ、悲しみだけでなく、
死を忌み嫌う怒りや嫌悪さえも、突き放して見せる。
「死」という普遍的な経験には、誰でも個人的な
思い入れを投影することができる。
滝田監督は、それは観客にお任せしましょう、というスタンスに立って、
ここではもう少し別のことを言いたかったようにも思う。

唯一、情緒的なエピソードは、主人公の大悟と父親が交わす石文だ。
石文(いしぶみ)とは、昔、まだ文字がなかった頃、
自分の気持ちを伝えるのに、もっともふさわしいと思う石を
拾って相手に渡し、受け取った相手は、その石の大きさや形状から、
相手の思いを推し量ったのだと、大悟は説明する。
大悟は白くて丸い小さな石を父親に渡し、
父親は小さかった大悟の手に余るような、大きな石を渡してくれた。
その後父親が家を出たために、親子はそのまま別れて数十年が過ぎる。
次に大悟が父親に会ったのは、父が死んだあとだったが
その手には大悟が渡した石が握られていた、というものである。

「おくりびと」とは、死者を生と地続きの死の世界へ
送り出す役割を担う人のことだが、そうやって死と生が
無言のうちに通じ合うように、生と生も、
実は無言のうちに通じ合っているのだと、
この映画は言っているようでもある。
「おくりびと」とは、実は石をおくりあう人を言うのかもしれない。

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2009年5月 5日 (火)

ある訃報

朝起きたら、シャンソン歌手の高英男さんが亡くなった
というニュースが流れていた。90歳だったそうだ。
ときどき、あの人はどうしているのかなあと思い出しては
もう死んじゃったのかな、と考えたりしていたので
ああ、今まで生きてくれていたのだ、と少し心が和む。

彼は、こども心にも強烈な印象を残してくれた歌手だった。
シャンソン特有の感情に満ちた声に加えて、いつも黒づくめの衣装と
きっちりとアイラインを入れたバタ臭い雰囲気が、男でありながら
女性性を感じさせてなんとも色っぽく、オシャレだった。
本人は否定していたそうだが、化粧をする男性歌手としては、
やはり彼が草分けだったんじゃないだろうか。
ウィキペディアには、デザイナーの中原淳一が彼をプロデュースした
と書いてあるが、当時は男が化粧をするのは、芝居以外にはなかった
(と思う)から、その雰囲気はこどもながらに異端で、
しかしそれが時代にちゃんと受け容れられていたのは
大晦日の紅白歌合戦に彼が常連だったことを見ても分かる。
たぶん、『異端』はこの頃、まだ商品になっていなかったのだろう。

亡くなった忌野清志郎さんも化粧が強烈な歌手だったが、
清志郎が出てきた時代は、そうした反時代性は
すでに商品化されてしまっていたような感じがある。
もちろん、これは清志郎自身とは何の関係もないことだが、
彼に何となく痛々しさを感じてしまうのは、
そういうことも関係しているのかもしれないと考えたりする。

高英男さんと同じ頃に芦野宏さんというシャンソン歌手もいた。
こちらはまだご存命だが、彼は正統派の歌手という雰囲気を漂わせ
声そのものも歌い方も、いかにも優等生という感じで
文句のつけようがなかったが、その毒のなさは私の好みに合わなかった。
たぶん、2番手としてのマーケティング戦略だったのかもしれないし
芸大卒という経歴が、『異端』を嫌ったのかもしれない。
『異端』は商品にはなっていなかったけれど、
価値の違いとしては厳然と意識されていたってことだろう。

何でもあり、の時代になって『異端』とはどういうものかが
見えづらくなってしまったのはちょっと残念な気がする。
あ、そういうの、心の奥底にしまい込んで、今まで見ないようにしていた、
というようなものが出てこないかなあ、と願っている自分がいる。

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