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2006年2月26日 (日)

骨のないさかな

週1回の宅配は、生協のようにカタログから注文する。
添加物や農薬が厳しく管理されていて、
野菜や食品加工品、冷凍、冷蔵品のほかに日用品もあり、
重いモノなんかを買いたいときには重宝している。
最初の頃は、これも生協のように、
毎週必ずパックの野菜が届くシステムだったが、
食べたくもない野菜を食べさせられるのは、
やっぱりイヤだと思ったので、交渉して止めてもらった。
名産とか、なんとか農法などというのには、もうあまり関心がないけど、
佃煮や漬物に保存料を使ったり、肉だけじゃないソーセージっていうのには、
どうしても納得できないので、そういうものは、ここから買う。

今や食品が安全であることは当たり前のことで、
その上で、どのくらいおいしいかが選択の基準なのだから、
アメリカの牛肉なんて、多分一生食べないだろう。
最近は口に合わないものを食べると、すごく損をした気分になるので、
能書きや宣伝文句は、ほとんど当てにしない。
後悔しないように、自分の勘を頼りに、
ギャンブルのつもりで当たりはずれを楽しむ。
信頼できるかどうかは、言っていることより、
やっていることを見ないと判断できないからネ。

その宅配のカタログの中に、骨のない干物っていうのがあった。
豊後水道のおいしそうな鯵だ。
骨があるから魚はイヤっていう子のために
中骨が除いてあるのだそうだ。

骨から身をはがしながら、さかなを食べるのは、
さかな好きには楽しいものである。
「食べるのウマイねえ」なんてほめられたりすれば、
ますます嬉しくなって、目の下や鼻づらなども完璧に制覇しようとする。

「目玉が恐いから、さかなは嫌い」という女性が
同年代にいることを知ったのは、もう30年以上も前のことだが、
そのときは、ちょっとした衝撃だった。
「えーっ、女の子ぶってぇ」という感じもあったし、
煮魚の目玉に目がなかった自分が、
なんだか野蛮人みたいで、色気に欠けるような気もした。

しかしその後、
「イカって、こんなにぐんにゃりしているって知らなかった」とか
「頭がついているさかなって、睨まれているみたいでイヤなんです」
なんて言う若い主婦たちと仕事で出会って、
あの若い女性が女っぽさを誇示しているわけでも
自分に色気がないわけでもないことが分かった。

そして今や、こういう感性は男性にも及んでいる。
我が家の高2の息子は、さかなを食べる時は、
器用に皮を取り除いて食べる。
「皮の模様が気持ち悪いからヤダ」なんだそうである。
「できればさかなは出さないで」というのが本音らしいが、
「さかなが食べられないと、ウチには住めないからね」
って言われるので、考えた末の妥協策らしい。
「皮が一番おいしいのに」なんてもってのほかなのだ。

好き嫌いが言えるということは、いいことだと思う。
骨があるからさかなはイヤだというセリフは、
さかな以外に食べるものがなければ出てこない。
それでもさかなを食べさせるのか、ほかのもので代替するかは
その家、その家が考えることだろう。
なんでも食べられるようにがんばるのもよし、
経済的に許せば、家族がそれぞれ好きなものを食べるのもよし、
偏食などというのは、飢餓になれば吹っ飛ぶのだから
つかの間の豊かさを享受しようって考え方があってもいい。

だから中骨のない干物っていうのも、なかなか独創的だとは思う。
ただ、骨をよけながら食べるっていうのも、
さかなのおいしさのうちだってことを、当のさかな屋さんが忘れてしまうとしたら、
結果的に自分の首を絞めることになるんじゃないか
っていう心配は、ちょこっとある。余計なお世話だけどね。

カニだって、料理に使うときは剥き身を使うけど、
みんなで食べる時は、やっぱり殻つきだし。
誰かが剥いてくれたら楽でいいなあって思うけど、
みんながひたすら殻剥きに専念する
あの無言の時間も、また捨てがたいひとときのような気がするのだ。

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2006年2月15日 (水)

本源的共同性

春のようなうきうきする陽気。
花々が、光に向かって首を長くしている。
花粉が飛ぶまでの、つかの間の日々だ。

レッスンのためにウォーミングアップをしていると、
気温によって体の柔らかさが違うことが、よく分かる。
寒い時期は、ちぢこまった筋肉を無理に使って、腰を痛めることも多かった。
去年はそれで、さんざんマッサージに通った。
でも、おかげでマッサージの気持ちよさに、すっかりはまってしまった。
筋肉をほぐしてもらうと、頭がボーっとして溶けたバターみたいになる。
これがなんともシアワセな気分なのだ。

今回の振り付けは、先生曰く「太っちょの黒人のおばさんの気分でね」。
広大な大地を表現しろってことだ。
おばさんはともかく、これはなかなか難しい。
日本とアフリカのスケールの違いもあるが、
狩猟民族と農耕民族では、身体の使い方がまるで違うのだ。
私はアフリカの音楽も踊りも、結構好きな方だが、
それでも油断すると、すぐ「ナンバ」になる。

踊りには舞踏言語とでもいうようなものがある。
これが理解できないと、踊れるようにはならない。
だから、まず単語(動作)を覚えるわけだが、これがひと仕事だ。
もちろん、これだけで表現できるようにはならない。
単語がつながってフレーズにならないと相手に伝わらないからだ。
フレーズが喋れるようになるまでが、またひと苦労である。
単語の段階は忘れるのも早いから、
フレーズが喋れるようになるまでは、結構な年月がかかる。
いろいろな曲に合わせて、何度も何度も練習を重ねることで
ようやく言葉が喋れるという段階に到達する。
ぺらぺらにはほど遠いけど、いちおう。
これは赤ん坊が言葉を覚えるプロセスと、まったく同じである。
でも、赤ん坊よりたぶん苦労は多い。

まず自意識の問題がある。
これを払拭するのは結構大変だ。
ダンススタジオには、たいてい壁一面の鏡が張ってあるが、
最初は、とても見ちゃいられない。
目には入っているけど見てはいない。
見てはいないのに、意識はしているから、かえって動きがぎごちなくなったりする。
でも、そのうちにだんだん気にならなくなってきて、
最終的には、しげしげと見ることさえできるようになる。
心地よささえ感じながら、だ。
でも、あんまり見てばかりいると先生に、
「鏡ばっかり見ないのよ」なんて言われる。
中にはナルシストもいるからだ。

もうひとつは、見ることとすることのギャップである。
ちゃんと見ていないからできないのか、見てはいるけど身体が言うことを
聞いてくれないからできないのか、これはよく分からない。
ちゃんと見ていないために、全然違うことをやっているって感じの人もいれば、
見てはいるのだけど、どうしても日本とアフリカの境界を越えられないって人もいる。

発達心理学者の浜田寿美男さんは、
赤ちゃんのバイバイの動作を例に引いて
「模倣というのは、相手のすることを 『見た通りにする』 のではなくて
『した通りにする』 ことであって、これは本源的自己中心性とともに
人間に生まれつき備わっている、本源的共同性なのだ」って言ってるけど、
おとなになると、この本源的共同性が弱くなるのかもしれない。
そう考えると、赤ちゃんを、まだおとなに育っていない生き物と
とらえる視点は間違っているともいえる。
むしろ、育ちそこなった赤ちゃんをおとなと呼んでいる、と考えるべきなんだろう。

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2006年2月 7日 (火)

ホモとヘテロのあいだ

今年最初の人間学アカデミー講師は、伏見憲明さん。
今期のテーマは「生きるための知」で、伏見さんのタイトルは
『誰と生きていくのか』である。
伏見さんがゲイの作家だということは、今回初めて知ったのだが、
ゲイに限らず、誰と生きていくのかっていうのは、
誰にとっても切実で普遍的な問題だ。

冒頭の小浜さんの「伏見さんを呼んだのは、ものめずらしさもあるけど、
孤独とか寂しさということへの切実な話が聞けるのではないかと考えた」
という前振りに、妙に共感。
今どきの若者は、人とのかかわり方が下手になっているとか、
コミュニケーション能力が低下していると語られるときの、
なんとも言えない違和感がどこから来ていたのか、
なんとなく分かったような気がしたのだ。

伏見さんは、ふだんは面白おかしく話すことに終始するらしいが、
今回は初めて講演原稿を書いたとかで、至極まじめな雰囲気で始まる。
といっても、もちろん、ところどころにゲイ(芸?)の片鱗を感じさせる。
ここには書けないような、危ない突込みも随所に顔を出して、トークとしても絶妙。
マッチョな男が、オネエ言葉で喋るのは、それだけでもう、芸である。
自分の生い立ちを含めながら、立ち向かってくる世の中の正しさに対し、
「こういう自分だって正しい!」と声高にゲイを主張することから、
「わたしだって自分のままで生きて行きたいのよ」って自分の欲望を肯定しつつ、
どうやってそれを実現するか、という風に変わってきたと話しながら、
「自分はめずらしく誰からも叩かれることなく、ビンボーだけども今はそこそこ幸せ。
世の中には、確かにおかしいところもあるけど、なんとなくいい方向に
向かっているのじゃないかって感じてる」と締めくくる。
彼がラッキーな時代に生きているってこともあるけれど、やはりこれは
ぎりぎりの孤独を経験した人の、実感からくる明るさだろう。ホッとする。

電話相談をやっていると、世の中には実にいろいろな人間がいて、
正しさとか正解という言い方が、いかに何も表現していないかよく分かるのだが、
性的な性向というのもそのひとつである。
ホモとヘテロがあって、どっちに属するのかということではなく、
赤と紫の間の無限の波長のどこに属するのかというのが
人間の性のありようなのだと分かるのだ。

そしてこれは、なにも性的な性向に限ったことではない。
それぞれの人は、無限の波長のどこかに属しているのだけど、
それを世の中では、常識とか規範というくくりで便宜的に大きく分ける。
正常と異常とか、保守と革新とか・・・。
でも分けられている方は、そうは思っていないから、
くくられることの微妙な違和感を感じながらも
「ああ、自分はこっちの組でよかった」なんて思いながら
そういう違和感をできるだけ見ないようにして、つつがない日常を送る。

同じ波長に属している人とは、ほとんど出会うことがない、という意味で、
誰でも常に孤独なのだけど、それに向き合うのは怖い。
つまり、自分の個性に出会うということは怖いことなのだ。
だけどそういう怖さを回避して、他人とかかわることなんてできるのだろうか。
「自分はひとりぼっちだ!」と叫びだしたくなるような寂しさを感じて、
初めて他者とかかわりたいと切実に思うんじゃないだろうか。
だから、そういうぎりぎりの孤独感抜きに
かかわり方が下手だなんて言われても、なんだかなあって思うのだ。

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