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2006年3月27日 (月)

今を生きる

梅の香りを楽しむ間もなく桜の季節になってしまった。
花屋さんの店先が華やかになって、気分もうきうきしてくる。

外来小児科学会の春季カンファレンス午後の部は「抗菌剤適正使用を考える」。
一部はHibワクチンの必要性、二部は抗菌薬適正使用ガイドラインの紹介を兼ねて、
咽頭炎や扁桃炎、急性中耳炎や急性副鼻腔炎などについて、
小児科開業医の先生たちが、いかに抗生剤を使わずに治療できるかを
経験をベースに発表し、ガイドラインの必要性を訴えていくもの。
三部は、このガイドラインを例に、いわばガイドラインの総論とでもいう内容で、
構成としては虫の目から鳥の目へと、通常とは逆のコースだったけれど、
得るものの多い内容だった。

医療ガイドラインは、医療者が標準的な治療法を知るためのものだが、
患者にとっても、自分が受ける治療が妥当かどうかを判断する上で、とても大事だ。
今回の発表の中で特に印象的だったのは、
「肺炎は、診断がついてから治療しよう」というコメントがあったこと。
肺炎の予防と称して、抗生剤の効かない風邪に抗生剤を使うことによって、
耐性菌による肺炎が、かえって治療を難しくしてしまうからだ。
だから、「なるかどうか分からない病気を予防する」のではなく
「病気は、なってから治療しよう」というのだ。

これって、医療においては画期的というか
ほとんど異端な考え方なんじゃないだろうか。
そこに踏み込んだという意味で、私にとってはとても感動的だった。
医療が、ふつうの考え方に、ちょっと近づいた気がする。
医療も生活の一部だってことが、ようやく浸透してきたのかもしれない。

電話相談では、しばしば「今を大切に」と話す。
特に子育ての場面では、「明日」の不安のために、
「今」が単なる準備期間になってしまうことが多いからだ。
たしかに「明日」は希望を運んでくれることもあるのだけど、
「明日」ばっかり見ていると「今」がおろそかになってしまう。
「今」の中には大事なことがたくさんあって、病気もそのひとつ。
それをちゃんと経験するってことが、シアワセを見つける秘訣だ。
なのに、「明日」ばかりを見て、かえって不幸を引き寄せている
と思われる事例がたくさんある。

予防のために抗生剤を使うという考え方にも、「今」をとにかくやり過ごす
って意味で、これと共通するものが感じられて、ずっと気になっていたのだ。
なんか無理があるよなって。

お医者さんにとっては、「病気である今」っていうのは
とにかく早急に何とかしなければならない課題だし、それは生業でもあるから、
「明日」より「今」が大事って言うには、論理の逆転が必要で、
それはなかなか難しいことでもある。
「あなたの仕事は病気を治すことでしょ」って突っ込まれて
「でも、私は神様じゃありませんから」って開き直れる
度胸のある医師はそうはいないだろう。
他人に不安をなんとかしてもらおうっていう方が、ホントは無理なんだけど
それを分かってもらうには、まず医療者が、
論理の逆転を受け入れる必要があると思う。

かかりつけ患者からの電話相談は、言ってみれば、
患者の「今」を一緒に生きるためのもので、その意味で、
従来の医療の論理を逆転させるきっかけになるのじゃないかと、
実は私はちょっと期待している。
たぶん相当の時間がかかるだろうとは思うけれど。

「熱が心配だ」と電話してきて、一旦は電話を切ったものの
「やっぱり待てなかったので受診したら、いつもと違う抗生剤を処方された。
心配になったので先生に確認したいからもう一度明日受診する」なんてケースや、
「いつもの保湿クリームがなくなったの。代わりに使える市販のクリームはある?」
って言って切った後、「今、教えてもらったのを買ってきた。これって顔にも使える?」
と再びかけてくる電話を受けながら、「いろいろやってみて、うまくいかなかったら、
また違うことをやってみて。いろいろ試していると何がアタリか分かるからね」
と話すことができるのも、そこに匿名性とは違う何かがあるからだ。
もちろん名前を知っているだけで、会ったこともない人ばかりなのだけど。

しょせんは電話。万能じゃないし、できることにも限りがある。
でも、自分から何かを求めてかけてくる若い(若くないのもいるが)親に
何かが届いている手ごたえを感じていることも確かだ。

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2006年3月21日 (火)

ハラホロシャングリラ

ハラホロシャングリラという劇団の新人公演を見に荻窪のアトリエへ。
ここのオーナーは中野俊成さんという作家で、テレビの
「大改造ビフォアアンドアフター」や「本当は怖い家庭の医学」などの
構成も手がける多才な人だ。
この劇団は、ふだんは紀伊国屋サザンシアターを根城に、
ウエルメイドな喜劇を上演することで知られている。

今回の出し物は朗読劇で、北村薫の「語り女たち」という原作を、
新人の女性陣が回り持ちで読んでいくもの。
男性陣は、もっぱらナレーターである。
昨今では、詩のボクシングとかコンサートと朗読のコラボなど、
朗読劇は、今やちょっとしたブームだが、ラジオ世代にとっては
これは耳に懐かしく、心地よいパフォーマンスでもある。

話の内容は、虫が息子に生まれ変わったり、ビンの中を駱駝が歩いたりと、
シュールなものだが、これを女が読むと、まるでふだんのお喋りを
聞いているようで、まったく違和感がない。
これが男だと、狂気か創造の世界の話になってしまうのだろう。
女って、本質的に異次元の生き物なのかもしれないし、
語る(騙る)ことに長けているってことなのかもしれない。

今回は新人公演ってこともあって、パンフには「笑いはありません」と
断り書きがあったが、なんとなくおかしみが漂う演出もあり、
見る側が、それを探しているって雰囲気もあって、
「笑い」が求められている時代の雰囲気を、ここでも感じる。

ラマチャンドランという脳神経学者によれば、
「笑い」はOKのサインだということだが、だとすると
ここ数年のお笑いブームは、日本人、それも特に若い世代が
「OK」を必要としているってことなのかもしれないと思う。
若い世代ほど、ある種の危機を感じとってもいるのだろう。

笑いを演じる側に男性が多いのは、男の方が無意識に
危機に直面しているってことを感じているからかもしれない。
常にOKを必要としているいきもの、それが男なのかも。
男にとって、異次元っていうのは決して日常ではなくて、
あくまでもワープするもの、作り出すものなのだろう。
だから喜劇という様式が成り立つわけで、それはすてきなことではある。
でも、常にOKを必要とするとすれば、それもやっかいだなあ。

ラマチャンドラン先生は、この辺はどう考えているのだろうか。

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2006年3月11日 (土)

電話トリアージ

久しぶりに息子と一緒に渋谷と銀座へ。
渋谷では五本指が色違いの楽しい靴下を買い、
息子は銀座の伊東屋で筆記用具を購入。
気に入ったのが見つかって「オレ、胸ポケットに刺しちゃうよ」とご機嫌だ。
こどもの嬉しそうな顔を見ると、ホントにシアワセな気分になる。
ついでにMacのショールームでiPodを冷やかし
かっこいいイヤホンを見つける。
どうせ聞くなら、こういうので聞きたいなあ、
今度買いに来ようと思いながら帰宅したら
夫が「B&Oのだろ、持ってるよ」

行き帰りの電車では、もっぱらHBRの特集「決断の科学」を読む。
エビデンスによる意思決定、ベンチマークからエビデンスは見つかるか
など、なかなか興味深い記事が並んでいる。
「エビデンスじゃ意思決定はできないよな」とは思うけど、
意思決定する側にとっては、参考になることの多い記事だ。

「EMERGENCY CARE」の2005年6月号
「救急医療とトリアージ」も、意思決定に関係している。
こちらはもっぱらトリアージする側のためのもの。
この中の「日本の救急医療における電話トリアージのあり方」が
読みたくて、バックナンバーを取り寄せたのだ。

トリアージという言葉は、「選別する」という意味である。
このときの主体は医療者、多くは看護師である。
「電話でトリアージができるかな?」という突っ込みは、この際おくとして、
問題は、電話相談とトリアージを結びつけていることだ。
たぶん医療者の多くは、電話相談がどういうものか知らないのだろう。

たとえば小児救急電話相談は、救急受診を減らすことを目的にしている。
これって受診したいって人の意思を、電話相談で変えられるってことが前提だ。
でも、電話相談は、どうやってかけ手の意思を実現するかって
ことを考えるためのものだから、これは目的と手段の整合性がない。
受け手である相談員が、相手の意思と自分の判断とが違っていたり、
価値観に合わなかったりするときに、それを乗り越えるのに
どんな苦労をしているかってことなんかも、全然知らないのだろう。
それでも、ぎりぎりまで相手の意思を尊重しようとするのが相談員なのだ。
相談する人とされる人の間には、どうしたって力関係が生じるけど、
それをフラットな関係に引き戻すのも相談員の役割で、
でも、人って相手より優位であるところに喜びを感じるいきもの
でもあるから、それに溺れないってことも要求される。
電話相談をやろうっていう医療者に、これがどこまで分っているだろうか。

さいわい、この論文は懸念したほどひどくはなく、
電話相談についての概念規定はなかったものの、
米国のケースについては、かけ手の目的がきちんと明記されていて、
トリアージとは、かけ手の目的に沿ったものであることが分かるように書かれていた。
電話トリアージは、かけ手の行動を制御するものではなく、
かけ手を適切にケアするためのものなのだ。

電話トリアージを、サービスの供給側にとって都合のよい方法と
捉える見方は、たぶん日本独特のものなのだろう。
お上はシモジモの者を思うように動かせる、という意識が抜けていないのだと思う。
アメリカでは、電話トリアージは患者をケアするためのものとしておこなわれていて、
その結果、「救命センターなどへの不必要な利用を最小限にする」
ことができるとなっているのだけど、
これが日本に入って来たとたんに、
「不要な受診を減らす」と目的化してしまうのは、
もう文化の影響としか言いようがない。

でも人はどうやって意思決定するかってことを考えれば
今後はもっと違うアプローチを取らざるを得なくなるだろう。

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2006年3月 7日 (火)

子育て支援のポイントは

昨日は春一番が吹いたが、我が家の玄関では、
数日前から桃の花が春を伝えてくれている。
先週日本橋へ出たときに、山梨の桃の枝を配っているのに遭遇。
春を手渡ししてもらえるのが嬉しくて、思わず並んでしまった。

今年はラベンダーとローズマリーも、うまく年を越せた。
寒い北側に置いたのがよかったのか、水やりがうまかったからなのか、
よく分からないのだけど、あんまり手をかけないのがコツなのだろう。

「5ヶ月の孫が泣き止まない」という相談が祖母からあった。
母親が風邪で熱があるので、実家へ連れて来たとのこと。
ミルクは飲ませたし、お風呂にも入れた。なのに・・というのだ。
すぐに母親の元へ返して、それでもダメなら再度電話をくれるように話す。

おっぱいをあげたり、おむつを換えるのだけが母親の仕事じゃないはずなのだけど、
風邪がうつっちゃいけないっていう思いの前には、
母子関係など目じゃないってことなんだろうか。
「風邪ひいたって治るから」って言ったら、しばし絶句だった。
母性神話なんて吹っ飛んでいるところが救いといえば救いだが、
母親を機能でしか見ていないようで、情緒とか感性とはちょっと違うものも感じる。
孫可愛さという感覚ではなく、こうすべきというような観念が先行していることへの
違和感とでもいったらいいだろうか。

もっとも「赤ん坊に風邪ひかせちゃいけない」っていう発想は、
予防医学の行きすぎというより、昔の医療から抜け出せていないからだろう。
このたぐいで、「夫の親が心配するので」っていう電話も、よくある。
最新の知識でも、古い経験に太刀打ちできないのは、
ここに力関係がからんでしまうから。
だから、母親教育と同じように、ジジババ教育もしないと
かえって母親のストレスを増すことになる。
三世代同居では(でなくても)、経験者の発言力は強いし、
それがイヤで核家族を形成すれば、孤独ともつきあわなくてはならない。

子育てが楽しくなるような環境を整備することが、
子育て支援のポイントだと、私は思っているのだけれど、
それは、まわりが余計なことを言わないってことだ。
ジジババだけでなく、専門家と言われる人もね。
自制心を持って適度な距離を保つということである。

子育ての楽しさは、いろいろ失敗するところにあるのだから、
うまく失敗させてあげるというのも、専門家の役目のはずなんだけど、
だいたい専門家っていわれる人たちは、失敗を封じられて育ってきているし、
そういう自分を評価しているから、なかなか他人の失敗に寛容になれない。

これって、失敗や挫折を恐れて、ついこどもの先回りをしてしまう
親の姿とちょっと似たところがある。
親の場合は、自分と同じ苦労をさせたくないっていうのもあるけど、
こどもの失敗と自分の失敗を同一視している場合も多いから、
失敗を恐れる生き方は連鎖するってことになる。

こういう連鎖をどうやって断ち切るか、っていうのは難しい問題だが、
親の話を右から左へ聞き流すこどもの態度っていうのは、
案外参考になるのかもしれない、なんて考えてもみたりもする。

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