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2006年4月21日 (金)

野生をとりもどす

かつての私の絵の先生は、「創造とは観念の所産」だと言った。
でも、絵を描いているときの感覚では、そうは思えないことのほうが多かった。

「ベルリンフィルと子どもたち」は、ベルリンフィルによるストラヴィンスキーの
「春の祭典」を踊るために、12歳から20歳のドイツの子どもたちと、
プロの踊り手が一緒に舞台に立つまでの様子をドキュメンタリー風に描いている。

指揮をするサー・サイモン・ラトルは、
「ロシアの春は、大地から割れるようにやってくる。
だから、もう2オクターブくらい深い音を出してくれ」と言いながら
力強く、喧騒に満ちて、生命そのもののような「春の祭典」を奏でる。
彼は、これを次世代に捧げる物語だと考えている。
「これからの時代に必要なのは、今までのように、ただ働くのではなく、
バラバラなものを結びつけたり、方向性を逸脱するような
創造力のある人間」だと言う。
音楽を通して、こどもたちにそれを伝えることは、
彼の命をこどもたちに捧げることなのだろう。

ドイツに住むさまざまな社会階層の子どもたちが、踊りに参加している。
イランやイラク、ナイジェリアなど、国籍もさまざまで、
難民の子や親が離婚した子など、家庭の複雑な子も多い。
そんな子どもたちを250人も振付けるのは、大変なエネルギーが要る。
アフリカから明日に希望をつないで移り住んできた少年や、
人に触られるのが嫌いだったという青年、母親に見捨てられたと
感じている少女などが、踊りによって肉体を鍛えることで、
自信や意気込みを獲得していく。

コリオグラファーのロイストン・マルドゥームも若い頃は
自分を理解してもらえないという感覚を強く味わっていた。
「肉体には内面が現れる。肉体を鍛えることで思考や感情がついてくる」と、
言いながら、不安で友だちと離れられない子どもたちを、
引き剥がして、独りで動くように鼓舞する。
踊ることは、究極の孤独に耐えること。
自分の中に何があるかを知るためには、独りになる必要があるのだ。

ロイストンは、「ダメなものはほめてはいけない」と手厳しい。
映画には描かれていないが、おそらく何人もの子どもが
途中で脱落したに違いない。
脱落しそうな子どもに、さまざまな訓練の機会を与えながら、
「高みへ上るのを助けてくれるのが本当の友人だ」と言って聞かせる。
レッスンは人生を学ぶ場でもあるのだ。

そんな彼らが、厳しい規律の中に身を置き、
数週間にわたるレッスンに耐えて、集中力を発揮する舞台は、
ありきたりだが感動的だ。
踊りの中に身を置くことで、彼らは本来持っていた
野生を取り戻していくように見える。
ラトルが「芸術は贅沢品ではなく、生きていくための必需品だ」と
言っているのは、こういうことを含んでのことだろう。

「子育ては文化」という言い方は、
子育てには文化が反映される、という意味では正しいが、
子育てを、ヒトが野生を取り戻す経験だと考えれば、
「子育ては芸術」と表現する方が、むしろ適切だろう。
子どもを生む、育てるという行為は、自分の中の野生を確認する行為だ。
特にこどもが赤ちゃんの時代は、自分がまるで本能のかたまりのような気分になる。

子育てのある側面はたしかに苦闘でもあるけれど、
それは芸術的な行為にはつきものだ。
だから、子育て中の親にかける言葉があるとしたら、
「創造するって大変なことなんだよ」っていう言葉だろう。
間違っても、「がんばってるね」なんてピントのずれたことを言っちゃいけないのだ。

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2006年4月11日 (火)

チームケア

虐待に関する相談を受けると、
電話相談の危機介入の側面を強く実感する。

こどもを虐待するのではないかと言う不安の強い母親は
そういう不安に駆られると、とにかく電話をしてくる。
多くは、ちょっとした子育てのコツや考え方を話すことで落ち着くが、
このときの不安というのは、とても身体的な感じで、
言葉で解決するというより、話すことで不安と距離をおき、
その時間をやりすごすことによって、大事に至らずに済んでいる
といったほうがいいような印象がある。
だから、他愛のないおしゃべりに終始するわけだが、
これで分かることは、私たちは日常の他愛のないおしゃべりによって
ずいぶん助けられており、いかにそうした他愛のない関わりが
私たちの生活にとって大事なものかということである。

もっともこの「虐待」という言葉自体は、まったく不適切な用語で、
「通常から逸脱したこどもの扱い(child abuse)」を
「虐待」と訳したために、世の中の親を必要以上に

不安に陥れてしまったというのが実情だろう。
世の中は「不安ビジネス」にあふれているわけで、
私たちはそれに踊らされないように、賢くならなければいけないのだ。

しかし一方で、この「逸脱」には、
ある種の攻撃性が潜んでいることも確かだ。
攻撃性の根底には被害感情があると言われるが、
そうした被害感情の多くは、生育過程で積み重なってきており、
簡単には相対化できないし、解消も難しい。
だから「虐待」の連鎖ということが起きるのだろう。
攻撃性を抑制するのは、実はとても難しいことなのだ。
そして、そうした攻撃性は、時として相談者である母親自身にも
向かうことがあるから、聴く側としては緊張を強いられる

このような母親をケアするには、小児科医や精神科医をはじめ
看護師、保健師、MSW(メディカルソーシャルワーカー)、
ボランティアなど、さまざまな人たちによるネットワークが必要である。
もちろんここには電話相談員も含まれるだろう。

病院内だけでなく、病院外でもチームで事に当たる
という発想が求められているのだと思う。


そして、もうひとつ。
こういういわゆる少数派からの相談を受けていて感じることは、
多数にとってよいことが、必ずしも全体にとって
いいとは限らないということである。
少数にとってよい、つまり居心地のよい社会を目指すことが、
結局、多数にとっても居心地のよい社会になるのではないか。
少数派を、私たちが住む社会に対する問題提起と
とらえる視点も必要ではないかということだ。

こういう考え方は、電話相談が精神科の先生の薫陶を受けてきた
という経緯によるものかもしれないが。

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2006年4月 4日 (火)

14歳のジャズ

現代の好みの文章の書き手を挙げるとすれば、
JMMのライターのひとりである春具(はる えれ)さんも、そのひとりだ。
天下国家のことも、日常の何気ない些事も、同じように語りつつ
そこに精神の余裕を感じさせる腕は、なかなかだと思う。
つくづくユーモアは人間性をはかるものさしだなあと感じる。

その春具さんがオースティン・ベラルタという、
14歳のジャズピアニストについて書いていたので、つい買ってしまった。
彼風に言えば、こういうのをファン心理というのであるなあ。
あの人がいいって言っていたから、きっといいのよねっていうヤツ。

購入前に試聴し損なった上に、買ってから来日予定があることが分かり、
いやあ、春具さんもマーケティングの片棒を担いでいるのかあと
いっときちょっとブルーな気分になったけれど、気を取り直して、
このアルバム「処女航海」が失敗作だったときの口直しのために、
ついでにボブ・ジェームスの新譜も購入する。
これも試聴ができなくて、いささか不安ではあった。
「上海の天使たち」?今さら東西融合でもないだろうにと。

しかし、帰宅してゆっくり聴いてみたら、
オースティン君は、なかなかのものだった。
特にオリジナルがいい。
これが14歳?と思わせてくれるのネ。

14歳から17歳くらいまでというのは、
おとなでは、到底つかみきれないほどのものを持って、
それを持て余している年代でもある。
情報としては知っていても、経験としては
世の中を知らないのが彼らの強みなのだ。
オースティン君も、アルバム制作にあたって、
ベースにロン・カーターを指名したのだとか。
まったくいい度胸をしてる。

こういう連中は、上手に放牧してやると、こちらにも宝物をくれる。
好きにさせておくと、とんでもないすごいものを出してきたりする。
そういうのを半ば怖がっているのは、おとなの方で、
彼らは、そういうおとなをよく分かっているから
こいつは信頼できるかどうか、試したりする。
『女装したい』とか言ってみたりして、道徳観を揺さぶったりするわけ。

まじめでアホなおとなは、茶髪でピアスなんかやっているヤツには
ロクなヤツがいないと思い込んでいるから、
「茶髪が変わる!」なんて言って、彼らと意思の疎通ができるようになると
いかにもすごいことをやったって思いたがる。
ここには「茶髪でも変えることができる、変えたのはオレだぜ」って
いうニュアンスが込められているのだけど、
でも、これは私に言わせれば「茶髪だから変わった」のであって

相手がよかったってことだ。
人は「こうしたい」っていう意思がなければ、そうはならないし、
そういう意思は他人が植えつけるわけじゃない。

だから茶髪の発芽を阻んでいるのは、何だったのかって考えれば、
彼らをとりまくおとなだって変わる必要は大ありのはずなんだけど、
問題は、そういう人たちにはそういう意思がないかもしれないってことなのネ。

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