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2006年5月26日 (金)

情報リテラシー

電話で話を聴くという仕事は、慣れてはいても疲れるものだ。
たぶん、頭の中の特定の部分しか使っていないからだろう。
だから、仕事以外の時間は、身体を動かしたり、町へ出たりしてバランスをとる。
美術館めぐりも、そのひとつだ。

佐倉にある川村記念美術館は、会員になっていることもあるが、
絵だけでなく、広大な庭も楽しめるので、時間を見つけては訪れる。
今回はシャガール展で、タイトルは「ラ・フォンテーヌの『寓話』」。
シャガールが制作した寓話の挿絵(版画)を展覧している。
画家の世界の捉え方は、いつも刺激に満ちているが、
この展覧会では、19世紀の画家が描いた同じ寓話の挿絵も展示しており、
シャガールとの違いを興味深く比較することができる。
カメラの発明によって、絵画は写実から自由になったのだ。

過去に出会うと、時代が常に動いていることを実感するが、
時代の真っ只中にいると、それはなかなか意識できない。
変わることは不安だから(なぜだろう)、変化の兆しがあると
誰もが何とか、変わるまい、とどまろう、とする。
そのために「伝統」とか「文化」といった言葉が都合よく使われることも多い。
「日本の伝統を守ろう」とか、「優れた文化を継承しよう」とかいった言い方で。
でも、私は「伝統とは継続するものではなく、参照するものだ」という言葉が好きだ。
誰が言ったかは忘れてしまったけれど。
伝統に立ち返りながら、でも、それには縛られない
という姿勢の方が健全じゃないかと思う。

「赤ちゃんって、いくつから海へ行ってもいいですか?」と
6ヶ月の赤ちゃんを持つ若い母親からの相談。
ああ、もう夏なんだなあ。相談は、しばしば季節を感じさせてくれる。
ひととおり話をしてから、「海へ行く予定なの?」とたずねると、
「義理の親が、海へ連れて行きたいと言うので」という返事。

もうずいぶん前のことだが、
「5ヶ月の赤ちゃんを連れてスキーに行きたいけど、
赤ちゃん用のゴーグルってありますか?」という相談が入ったと
仲間うちで話題になったことがあった。
「発想が飛んでいる」、「いや、今の若い親は非常識」などなど、
さまざまな感想が飛びかったものだ。
受ける側には戸惑いもあったのだろう。
そこまでしてスキーに行かなくたって、という思いもあったかもしれない。

あれから10年以上経った。
ジジババも変わったものである。
赤ちゃん連れのレジャーが市民権を得たのか、
それとも、ジジババの意識の規制緩和が進んだのか。
自分だって、孫ができたら怪しいものだが、
なんだか孫をペットにしかねないジジババの姿が目に浮かんで、
慎重になりかけている母親の方に、やや肩入れ。
「不安だったら、こう言って断るといいわよ」と秘策を伝授して終わる。
北極でも、赤道直下でも赤ちゃんは生きているのだから、
どんな風に子育てをしてもOKだし、こどものたくましさに
親が引っ張られるくらいが、ちょうどいいとは思っているが、
自分が納得できない子育ては、やってはいけないと伝えたいと思う。

最近では、権威にものを言わせる話し方というのは少なくなってきた。
みんな賢くなってきたし、そんなダサい手法は気恥ずかしい
と感じる人の方が多くなってきたのだろう。
それでも、テレビメディアの害を主張するのに、
問題を極端に単純化して不安を煽るといった、
まさにテレビメディア的手法で、講演をおこなったりしている元テレビマン、
なんていうのに出会ったりすると、なんだかタイムスリップしたような妙な気分になる。
どこかで見たことがあるような気が・・と思ったら、
「アドルフの画集」に出てくるヒットラーに、雰囲気がそっくりだった。
毒を以って毒を制すっていうやつは、テレビの十八番だったのね。

「私の言うことはひとつの見解だと思って。これが真実だなんて信じたりしないでね」
と断って話し始めたのは、20年以上もアメリカで医師をしていた
某子育て支援NPOの、元気な70代の代表だが、
聞き手に対する信頼感が感じられて嬉しかった。
時代を先取りするのは、やはり女性なのかもしれない。

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2006年5月19日 (金)

あてのない旅

電話相談とは、電話をかける側の問題を、
受ける側が解決するもの、と考えられるようになったのは、
情報化の進み具合と関係があると、私は思っている。
「情報」という言葉が、まだ諜報的な響きを持って受けとられていた初期の頃は、
相談をする側も受ける側も、持っている情報量にはたいした差はなく、
お互いに「ああでもない、こうでもない」と
手探りで答えを探したものである。

その後、情報化が進むにつれて、情報は多ければ多いほど
正解をもたらすと思われるようになり、
「持っている人」は「持たない人」より優位で、
正解にたどり着く可能性も高いと思われるようになった。
つまり、受け手の情報量が多ければ多いほど、
かけ手に正解を提供できると考えられたのだ。
ここでの問題は、「情報を提供する」ということが
「正解を提供する」ことと混同されてしまっていたことである。

しかし、情報量が多ければ、選ぶのにも苦労するわけで、
「情報は多ければ多いほどよい」という、この考え方は、
どうやら違うらしいということが、だんだん分かってきた。
「正解」というのは、その辺に転がっているわけではなく、
自分で認識・決定するものだという考えが、ようやく一般的になってきたのだ。
「場の研究所」の所長で金沢工業大学教授の清水博さんのように
感度の高い人は、早くから
「情報はモノではなく、人が生み出すコトだ」と言ってきたし、
ドゥルーズなどもそう考えていたらしいことを知ると、
人間の違いは、人種や国籍ではなく、つくづく単なる個人差だと分かって面白い。

かつての職場の先輩は、電話相談を「いつも手探り」と表現していた。
これは、電話は相手が見えないというだけでなく、相談の本質でもある。
相談を受ける側は、あちこち飛躍する相手の話を、
まるで、とっちらかった部屋を片づけるみたいに整理し、焦点を絞っていくのだが、
どこに何を片づけるかは、受ける側に任されているから、
あっちへ入れるのか、こっちへしまうのかは、確かに手探りでしかない。
しかも、そうやって片づけた部屋は、持ち主の部屋とは似て非なるものに
なる可能性もあって、これが電話相談の恐ろしく、そして愉快なところでもある。
電話相談員は、「大いなる誤解」から抜け出せない宿命を負っており、
それが分かっていないと、危ないことこの上ないが、
肝に銘じておけば、気楽と言えば気楽ではある。

対話というのは、言ってみれば、あてのない旅だ。
心理学者の河合隼雄さんは、「先生は、なんにもしてくれなかった」と
クライアントに言われることがよくある、と著書の中に書いているが、
実際、電話の場合も何が相手に届いたのかは、よく分からないことが多い。
ただひたすら聴いていたら、相手が勝手に納得したと
感じることの方が多いものだ。

相談員になろうという人は、だれでも最初は
「少しでも不安を解消してあげたい」とか、
「人の役に立ちたい」などと意気込むが、
そう思えているうちは、まだシアワセだと言える。
たいていの相談員は、一度は
「今までの私は、なんだったんだろう」と落ち込んで
やっとスタート地点に立つ。

自分には、たいしたことはできないけど、
相談してくれる相手がいるから、自分は育つことができると
思えるようになって初めて、コトは始まると言える。

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2006年5月11日 (木)

愚行権

相談を受けていて、母親みたいな父親が増えてきたと
感じるようになってから、もうずいぶんたつ。
きっちり状況を把握して相談してくる人もいる一方、
電話口で、いちいち母親に状態を確認しながら話すタイプもいて、
「これも育児参加のバリエーションか」と思ったりするが、
相手が医療機関だと、「ここはひとつオレが」って身構えるってことなのだろうか。

多くの場合は、論理的でよく整理された相談だが、ときどき変てこなのもある。
母親の心配は、おろおろがダイレクトに伝わってくるが、
父親のおろおろは、なんだか妙に偉そうなのである。
対等っていうのを、高飛車に出ることと勘違いしているのか、
弱みを見せまいという日常生活の癖が、電話でも出てしまうということか。

夜中に高熱の相談をしてきた父親。
特別問題がなさそうなので「明日受診して」と言うと、
「でも常識的に考えて、9度8分もあるのに何にもしないなんておかしいだろ」。
夜中でも診るべきだという言い分は分からないでもないが、
今の常識は違うんだよね、知らないのはあなたの方なの、と
誰がこんな常識を教えたんだいと、ちょっと腹立たしい気分になる。

常識といえば、
「ガムを噛みながら受診するなんて非常識、ケシカラン!」という医療関係者は多い。
もちろん、この場合、ガムを噛んでいるのは、患児ではなく親である。
「清潔志向の行き過ぎで、口臭を気にした結果では?」
なんて意見で一件落着するのだが、でも、どうなんだろう。
これがアメ玉でも、やっぱりケシカランって思うんだろうか。
喉が痛いときとか、ちょっとおなかがすいたときに、アメをなめることはよくある。
それでも、やっぱり受診するときは、アメは口から出して、
ティッシュかなんかに包んで、ポッケに入れてから診察室に入れと言うのだろうか。

「ガムをくちゃくちゃやるのは行儀が悪い」と育てられた世代にとっては、
目の前でくちゃくちゃやられると、自分に対して礼儀をつくしてもらって
いないような気になるのかもしれないなあ。
「口臭を消すため」って説明されれば、「ああ、無作法だったんじゃなくて、
自分に対して気を遣っていたのか」って納得するってことだろうか。

たぶん、ガムくちゃくちゃ組は、な~んにも考えていないのにね。
相手が誰だとか、無作法かどうかってこともアタマにはないはず。単なる習慣。
むしろ、かっこよさのグローバルスタンダードって考えているかもしれない。
私自身は、あんなまずいもの、よく口にできると思っている方だから
たとえリラックスできるとしても、やろうとは思わないけど。

常識ではなく、感受性のマジョリティとマイノリティがあるのだって言ったのは、
哲学者の中島義道さんだが、
「常識がない」なんて言わないで、「熱が高いと、アタマがバカに
なるんじゃないかって心配になっちゃうので」って言う方がトゲがないし、
「いまどきの親は非常識!」って盛り上がるより、
「目の前でガム噛まれるの好きじゃないので、やめて」って言う方が、
自分の好みを相手に伝えることもできて、手っ取り早いと思うのだけどね。

中島義道さんは「愚行権」でさえも、
マジョリティの感受性しか保護しないってことが気に入らないみたいだけど、

「彼が、他人の注意と警告とに耳を傾けずに、犯すおそれのあるすべての
過ちよりは、他人が彼の幸福と見なすものを彼に強制することを許す
実害の方がはるかに大きい」(ミル)

という、「愚行権」の考え方について、
まず知ってもらうって方が先決かもしれない。

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2006年5月 2日 (火)

カンブリア宮殿

村上龍さんの「カンブリア宮殿」は、
ER緊急救命室と同じ時間帯なので、いつも録画して見る。

そのたびに、いつでも好きなときに、見たい番組が
見られるように、早くなればいいのにと思う。
これはテレビをはじめとした情報産業の、究極の姿のはずだが、
デジタル化などの技術的な問題のせいか、なかなかそうならない。
「そうまでして見たい番組があるかね」と言われそうだけれど、
つまらない番組から何を引き出すかは、見る側の感性の問題だから、
自分で好きなときに見たい番組に、自由にアクセスできるようになれば、
たぶん、今のような駄作満載のテレビは変わらざるを得ないだろう。
テレビ産業が生きながらえているのは、
多分にシステム上の問題があるんじゃないかという気がする。

その「カンブリア宮殿」の、今回のゲストは竹中平蔵さん。
村上龍さんに「政治家らしくない政治家だと思うが、どうか」と
問われて、ご本人曰く「政治家っていうのは、聞く前に喋るってところがある。
でも、自分は聞いて考えようというタイプなので、そこが違うかも」と言っていた。

いったいに「先生」と言われる人たちは、聞くより喋る方が得手のように見える。
学校や塾の先生たちと、児相や病院の心理職の人たちがやっている
読書会などでも、「先生」と言われる人たちは、よく喋る。
一方心理職の人たちは、喋らなすぎるくらい喋らない。
もっぱら聞き役にまわっているという印象である。
これも職業気質なのだろう。

今回の「カンブリア宮殿」には、鳥取県の片山知事も参加していて、
ちょこっと壇上に上がって、地方の行政改革が進まない要因についてコメントもした。
「これまでの地方行政は、補助金獲得のプロを養成すればよかった。
でも補助金を得ることは、行政を運営するのとは違うから、
今になって必要な能力がないことが分かったんですね」

かつて会社勤めで新規事業開発の担当になったとき、
社長に「どんな補助金があるか調べてみろ」と言われたことを思い出した。
そのときは、これが社長職の慧眼なのか、そこまで経営が逼迫しているのか
なんとも判断がつかず、一介のサラリーマンとしてはちょっとショックだったが、
省みると、どうも企業社会も行政も、これが普通の姿だったみたい。
知らないのは、私だけだったのだ。
どうやってパイの配分に与るか考えるっていうのが
経営者の務めでもあったのだろう。

パイをどう配分すればよいかが明白だった時代から、
何が求められているか分からない時代になって、
既存の分配システム自体が、もう無理をきたしているのに、
配分する側とされる側が、まだ共依存の関係にあるせいか、
このシステムは、なかなか変わらない。
行政(官)が民間のアイデアを横取りして、分配権にものを言わせて
実施するという実態も、会社勤めの時代にイヤと言うほど見てきたから、
NPOなんていうのも、その延長にあるんじゃないかと時々疑ってしまう。

この仕事を始めるときに、いろいろ相談したら、
「補助金目当ての仕事なんかしちゃダメ。
君の仕事は、そういうのじゃないだろ」って言ってくれた
某大新聞のメンターの方が、よほど私の仕事に理解があったのかもと思うと、
中より外にいる人の方が、よく見えているものだなあと、
なんだか不思議な感じがしてしまうのだ。

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