« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月23日 (金)

伝わること・伝わらないこと

ワールドカップドイツ大会を見ていると、
「意図」は伝えるものではなく、感じとるものだという思いを強くする。
コミュニケーションが、しばしばキャッチボールにたとえられるのは、
コミュニケーションでは、相手の受けやすいところにボールを投げること、
つまり、相手を思いやることが重要だと説明するためだが、
サッカーを見ていると、コミュニケーションとは、感じとることだという気がする。
キャッチボールでは、投げる側に焦点が当たっているが、
サッカーで肝心なのは、むしろ受ける側ではないだろうか。

しばしば意表をついたボールを出し、
それを巧みに受けとめた結果が、印象に残る、感動的な結果につながる。
ボールをやりとりしながら、「意図」を創り出し、それを感じとることで
試合運びが決まっていくのがサッカーの醍醐味であるように、
コミュニケーションも、一見「言葉」のやりとりのように見えるけれど、
本質は「意図」を創出し、それを感知するところにあるのではないだろうか。
たとえ、それが得点に結びつかなくても、だ。

言葉によるコミュニケーションは、水面上に見えている氷山のようなもので、
人の思いのほんの一部分しか表現できていないのだけれど、
なかなかそう理解されないのは、見える部分ばかりを重視してきた時代の
せいと言ってしまっては簡単すぎるかもしれない。
でも、キャッチボールやパスまわしばかりが注目されてきたのは確かだ。

しかし、氷山で見えているのは、全体の7分の1でしかないように、
言葉によるコミュニケーションが、コミュニケーション全体に占める割合は、
全体の3割程度にすぎず、ほとんどは、表情やしぐさなど言葉以外に負っている。
表情やしぐさは、意識的に制御するのは困難だから、
どんなに美しい言葉で取り繕っても、ここに本音が表れてしまうわけで、
これをどう感じとるかで、コミュニケーションは決まる。

電話のように相手が見えないと、言葉がすべてだと思われがちだが
話はむしろ逆で、言葉に込められた「意図」をいかに感じとれるかで
コミュニケーションの質が決まるところは、サッカーとよく似ている。
電話相談員を採用する際に、知識や資格ではなく、
感性(感じとる力)を見るのは、このためだ。
投げる能力ではなく、受ける能力の方が重視されるのだ。

伊丹十三さんと、岸田秀さんの対談「哺育器の中の大人」が出たのは1978年。
あれからもう30年近くも経ってしまった。
伊丹さんは亡くなってしまったが、岸田さんはまだ健在だ。
子育てで、何がこどもに伝わり、何が伝わらないかということを、
平易に、分かりやすく語ってくれた最初の人は、
私が知るかぎりでは、伊丹十三さんではなかったかと思う。

この中で、伊丹さんは、自分のこどもが生まれた真冬のさなか、
病院の窓を全部開け放ったことを例にとりながら、
「本来、現実に適応するために備わっていた適応力を引き出そうということが、
今や不自然な、勇気を要することになってしまっていてですね、
新生児を現実の厳しさから遮断して、いわば赤ん坊から適応力を奪うような
環境を与える、ということが文化なんですね」 と語り、
未熟児であるヒトは、生きていくために文化を発明して、
文化という哺育器の中で育って行かざるを得ないのだけれど、
どんな文化が最適かは誰にも分からないというふうに、
岸田さんと話を展開させていく。

なぜヒトは、未熟な状態(胎児化)で生まれることを選んだのかという、
伊丹さんの問いかけに、
「進化っていうのは、僕にいわせれば一つの決断ではないか。だから、
ある時にですね、ある種がですね、首を長くした方がいいんじゃないかト。
われわれは首を長くしようという、決断に達するト。そして、その方向に
ある種が歩み出したとするト。そうすると麒麟ができる」
と岸田さんが応じるくだりは、私がもっとも好きな部分のひとつだ。

進化は作戦だと言う岸田さんの言い方は、
近代の科学思想には受け入れがたいかもしれない。
しかし、予選リーグを突破できなかった日本の試合は、
「意図」を創り出すことはできても(できなかったのかもしれないけど)、
それを感知する力が弱いと、結局のところ生き残れないのだ、
ということの証明だったのではないか。
そして、この根底には、何かを伝えることに一生懸命のあまり、
こどもの感じとる力を切り捨ててきたかもしれない
大人の問題が、あるように思うのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月10日 (土)

オーダーメードの人間関係

かかりつけ医の時間外電話相談に電話をかけてくるのは
父母や祖父母といった保育者とはかぎらない。

「喉が痛いけど、お風呂に入ってもいいですか。部活はやってもいい?」
と聞いてきたのは12歳の男の子。
母親の耳が不自由なので、下の子の具合が悪いときは
この子が母親の代わりに電話をかけてくる。
今回は自分の番で、お母さんに、電話で聞いてみなさいと言われたのか、
それとも、自分で聞いてみようと思ってかけてきたのかは分からないが、
母親の耳代わりだった子が、自分のこともちゃんと解決できるようになったのだなあ
と思うと、なんだか心がほっくりとする。

小児科のかかりつけ医は、おなかの中の赤ちゃんから、
こどもの親まで、守備範囲が広い先生が多い。
こどもはどんどん大きくなるし、大きくなっておとなになったら、
よそへ行きなさいというのは、変といえば変だ。
医療が、技術だけを売っているのなら、それもありかもしれないが、
病気のほとんどは「関係」で治っているのだから(エビデンスはないけど)、
「関係」の継続こそが、良質の医療を提供すると考えるべきだろう。

行政などのようなテンポラリーなサービスではない、
生活に密着したサービスでは、宅急便だって、お掃除サービスだって、
地域や家庭ごとに担当を決めている時代に、
個人を相手にする医療が、ゆりかごから墓場まで、
同じ医師が診ないというのは、むしろ時代に逆行していると言えなくもない。
美容院だって、マッサージだって、お気に入りの担当も値段のウチなんだし。
そういう、オーダーメードのサービスが受けられるということが、
豊かな生活の条件なんじゃないだろうかとも思う。

オーダーメードは、医療をはじめとした、さまざまな分野で実現しつつある。
先日のSIDS国際会議では、サポートという観点で、それを感じた。
私はあいにく時間的な都合がつかなくて、
「仲間同士のカウンセリングと専門家カウンセリングの違い」という
セッションしか聞けなかったのだが、さまざまな国の参加者による、
とても活発な質疑応答に、元気をもらって帰ってきた。

家族・友人、サポートグループ、電話カウンセリングなどの
ピア(仲間による)カウンセリングも、専門家によるカウンセリングも、
当事者との距離や関係、提供されるシステムによって一長一短がある。
しかし突然死や死産などで、こどもを失った人の悲しみは、決して消えることがなく、
また、それらは時間の経過とともに変化していくことを考えると、
利用するか否かにかかわらず、多様なサポートが
いつでも当事者の「傍にいる(ある)」ことが大事であり、
そのためには、専門家とピアとが補完し合うことが必要、
というのが、セッションの結論だった。

サポート(支援)とは、権威を頂点にしたピラミッドではなく、
誰もが対等な、水平のネットワークによって提供されるものだ。
アメリカ、イギリス、ノルウェー、オーストラリアなどのピアサポーターたちは、
みんな元気で、自主自立の精神に富んでいた。
ノルウェーでは、検死に親を招待する、などという話を聞くと、
私たち日本人は、「繊細」という言葉を隠れ蓑にして、
かえって自分たちが本来的に持っているはずのパワーを、
育て損なってきたのかもしれないなどと考えたりもする。
もちろん、このパワーを発揮するためには適切なサポートが必要だが、
サポートのありようについては、もっと考えられてもいいだろう。
ピアサポートの原点は「対等性」にあるが、
これは、それこそが当事者のパワーを引き出すために不可欠だからだ。

核家族化によって、若い世代の人間関係を作る力や
コミュニケーション能力が弱くなったと言われる。
たしかに、大家族の中には、多様な人間関係があったから、
そうしたことを学ぶ機会もたくさんあっただろう。
大家族の中で育った世代が、必ずしもコミュニケーション能力に長けているとは
私は思わないが(ある種の鈍さが、たくましさにつながっているとは思うが)、
こどもたちが、多様な人間関係を経験できるようなしくみをつくることで、
かれらには、より洗練されたたくましさを身に着けて育ってほしいと思う。

12歳の男の子の電話が嬉しかったのは、
そこに、何か答えのようなものを感じたからかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 2日 (金)

天国に着いたら?

日曜日の新聞の書評のページは、毎回読むのが楽しみだが、
ここに著名人が、自分の好きなものをリストアップするコーナーがある。
それぞれの好きなことを読むのは、
マスメディアで作られたイメージとは別の、その人を髣髴とさせてほほえましい。
みんな、だいたい10個くらいは挙げるのだが、
中には3個しか挙げない人もいて、それもその人らしいなあ
と思いながら読んだりする。

「雨の日が好き」なんていうのは、「おお、ここにも仲間が」って感じだし、
「注射の前に、看護師さんが言う『ちくんとしますよ』っていうのが好き」
なんていうのを読むと、自分の感性のありようを、ふと思い出したりもする。
おつりを渡すときに、ちょっと添えてくれる左手とか、
ひとりで入ったカフェで、ウエイトレスがかけてくれる「どうぞ、ごゆっくり」
といった言葉に感じる嬉しさも、同じ感性といっていいかもしれない。
自分の好きなものを書き出してみることは、
自分を知るために役に立つだけでなく、
自分で自分をしあわせにする方法でもある。

ジェームズ・リプトンが司会を務める、
アクターズ・スタディオ・インタビュー(というタイトルだったと思うけど)は、
「○○ 自らを語る」とサブタイトルがついているように、
現在活躍中の、一流の俳優や監督たちが、
どうやって下積みを乗り越えたか、
日ごろどんな風に自分を磨いているかといったことを、
聴衆であるアクターズ・スタディオの生徒たちの前で語る番組だ。
俳優の卵である後輩たちに、先輩である彼らが自分の生き方を語ることで、
芝居で重要なのは、テクニックではなく、
人間そのものだということを伝える巧みな構成になっている。

そこでも最後に、その日招かれた俳優に、10の質問をするコーナーがあって、
「好きな音」とか「嫌いな音」、「好きな悪態」「やってみたい職業」
「絶対やりたくない職業」などといった一連の質問に、それぞれの個性が現れる。
ユニークな人が、いかにもユニークな答えをすると
「よく考えた!」ってほめてあげたくなるが、
おおかたは、華やかな印象とは異なる、真面目で深い答えを返してくる。
最後には、「天国に着いたら神様に何と言われたい?」
という質問が用意されており、さりげなく「死」を持ち込むことで、
芝居とは、どこまでも生身の人間によって行われること、
死を意識せずには、生を演じることはできないのだと
それとなく感じさせようとしているように見える。

医療者の間では、がんなどの病気の説明や「死」の告知を、
どのようにおこなうかということが、しばしば議論になるが、
えてしてそういう議論は、「どのように」という
技術的なレベルから先へは、なかなか進まない。
「いつ言うのか」とか、「誰が言うのか」とか
「一度に言うのか」とか「小出しにするのか」といった
小手先のことばかりが論じられがちなのは、
医療が技術だと思われている現状では、仕方がないのかもしれないが、
だから、なかなか患者との対話が成り立たないのでは、とも思う。
すでに、医療者の死生観が問われる時代になって久しいと思うのだが
医療の世界の先輩は、どうやって後輩に、それを伝えているのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »