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2006年7月28日 (金)

カラダとココロ

ある日の夜。夕食も終わってくつろいでいると、
息子が突然家を出て行き、しばらくして戻って来た。
「M君が、気分が悪くてウチで休みたいと言っているのだけどいい?」
M君は、小学校から中学までの同級生で、
すぐ近所に住む、息子の遊び友達のひとりだ。
みんな小学校のときから仲がよく、小さいときは近所の銭湯を溜まり場に、
大きくなってからは、もっぱら我が家でゲームに明け暮れ、
高校に入ってからは、ゲームの後は、もっぱらサイゼリヤを社交場にしている。
「サイゼリヤのメシは、冷凍なんだよなー」と言いながらも、
家から近く、高校生の小遣いでもまあまあの食事ができて、
夜遅くまでワイワイできるっていうのが魅力のようだ。

M君は、最近シャワーを浴びていても脈が速くなるなど、
何だか調子が悪いらしいとは聞いていた。
運動部に入っている元気な子なのに、と気にはなっていたのだが、
玄関を開けると、ドアの外で、つらそうにうずくまっている。
家に独りでいるということができなくて、息子を呼び出したらしい。
息子のベッドで休ませることにする。
もともと体格のいい子なのだけれど、なんだか頬がこけたような感じがするので、
「ご飯ちゃんと食べている?」と聞いてみる。
「食べたい気持ちはあるんだけど、食べると気分が悪くなる」とのこと。
みんなで遊んでいても、ときどき横になってしまうことがあるのだそうだ。
気分が悪いというのは、何となく不安な状態におそわれるということらしい。
内科を受診したが「なんともない」と言われたとのこと。
精神科の予約を取ってあるというので、ちょっと安心する。

梅雨入り前の暑さが尋常じゃなかったせいか、
体調を崩している人はずいぶんいるみたいね。
バレエの先生はヘルペスの予後が長引いて、まだ調子が悪そうだし、
レッスンの仲間も、調子を崩している人が多い。
同級生のメーリングリストでも、体調のことがひとしきり話題になっていた。
お医者様の中にも、体調が悪い人がいるみたいだし、
かく言う私自身も、今年は首のコリがあまりにひどいので
梅雨入り前に、久しぶりにマッサージに通った。
何回か通って、だいぶよくなったかなと思っていたら、
ある日、突然頭がフラフラするようになって、もう1ヶ月以上続いている。
めまいはしないのだけれど、歩くと振動がモロに頭に伝わるっていうか、
なんか頭の中のピントが、今ひとつピタッと合っていない感じがする。

身体は元気なので、歩いたり踊ったりするのは苦ではなく、
でも、踊っていてバランスをとるのが、ちょっと弱くなっている気はする。
フラフラは、朝が一番強いのだけど、動き始めると慣れてくる感じもあるので
いったい季節が変われば治るのか、それとも治らないものかと、様子見の状態だ。
いかにも首から上と、首から下は別物というのが実感だけれど、
カラダは「元気だから動きたい」と言っているようでもあり、
でも、ココロは「複雑なことはやりたくないなあ」と言っているようでもあって、
どっちの言うことを聞いてやればいいのか、よく分からない。
これって、カラダとココロは一体ということなのか、
それとも別物ということなのかと考えてみたりする。

自分が具合が悪くなってみると、こういうときに
何科にかかるかというのは、結構判断が難しいと分かる。
初期判断を間違えると、被害甚大というケースを沢山知っているし、
こういうときに、相談できるかかりつけ医、というか
ファミリードクターがいたらいいのにと思う、今日この頃です。

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2006年7月18日 (火)

電話相談のマニュアル

今年の梅雨は気温の上下が激しいせいか、
妙に身体が疲れて気力も沸かない。
体調を崩している人も多いみたいだ。
王監督が胃の全摘出を受けたみたいだが、
どうしてマスコミは「癌」だと言わないのだろう。
もう相当前から、マスコミ報道は信用されなくなっているが、
今や、それさえも問題ではなくなってしまったのだろうか。

というわけで、だいぶ前に送られてきていた、某地域が作成した、
小児救急電話相談のマニュアルに、ようやく目を通す。
誰が小児救急電話相談を担当するかは、地域によって異なっていて、
医師が出るところもあれば、看護師のところもある。ここは後者だ。
それなのに、どういうわけかマニュアルの表紙には、
小児科医の名前だけが、ずらっと並んでいる。

小児科医がマニュアルを作り、看護師がそれを元に
電話相談をおこなうということらしいのだが、そのことが、
すでに方向違いだと説明しても、なかなか理解できないみたいだ。

電話相談は、かけ手の自立を支援するためのシステムだから、
そのためには、まず受け手が自立していることが最低条件なのだが、
片方にプレゼンスを示したい医師がいて、
もう一方に下働きに慣れてしまった看護師がいる、という図式の中で、
看護師が自立して何かをする、ということが、
いかに難しいかということが、この一件から見えてくる。

なぜこれが問題かというと、こういう受け手側の関係は、
相談する側と、受ける側の関係に、必ず反映されるからだ。
こういう関係は、言ってみれば、嫁-姑の関係のようなもので、
当事者に自覚が無い限り、代々持ち越されて、断ち切ることができない。
もともと電話相談は、従来の患者-医療者関係に対する異議申し立てから
出発しているのだけど、それはあくまで患者側のニーズだから、
医療者の側には、なかなか理解できない。
誰だって、自分の側に問題があるかもしれないとは思いたくないし、
これを解決するには、自我の組み換えを必要とするから、そう簡単ではないし、
だからマニュアルを作って、テクニックを磨けば何とかなる
と思いたがるわけだが、医師も看護師も、どちらも電話相談をよく知らないのに、
知っているつもりになっているから、それでよいことになってしまう。

その中で、電話相談の本質は、「やり方」じゃなくて「あり方」にあるのだ
ということを言っていくのは、本当にエネルギーが要る。

前から疑問に思っているのだが、
看護師というのは医師の下働きをする人なのだろうか。
医師には診断を下し、治療をおこなうという権限(責任)が与えられているが、
看護師には、どのような権限(責任)と職務が与えられているのだろうか。
どうも、ここがよく分からない。
看護業界では、看護師の復権を目指して、
いろいろな策が講じられているみたいだが、
「看護とは何か」ということは、どのくらい真剣に考えられているのだろう。
中身も無いのに「権限」だけはあるっていう風になるとしたら、最悪だ。

このマニュアルの、もうひとつの問題は、情報の新しさだ。
たとえば電話相談では、もう30年以上も前から
「下痢のときに与えるミルクは、薄めなくてよい」と言っていて、
このことは昨年、外来小児科学会のEBM勉強会が、ようやく追認した。
電話相談は、別に権威によるお墨付きを必要としているわけではなく、
その時々に、相談する側にとって、もっとも望ましい結論が見出せればよいわけで、
学会が生活実感より遅れているから、役割りを果たしていないんじゃないか、
なんてケチなことを言うつもりはない。
でも、このマニュアルの作成者たちが、自分たちの拠っている情報が、
ひょっとして古いかもしれないという自覚なしにマニュアルを作り、
しかもそれを半強制的に看護師に使わせるとしたら、
これは二重に問題なんじゃないのだろうか。

こういう問題は、どうやったら解決できるのだろうか。

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2006年7月 8日 (土)

ハーバードの学生の問い

アメリカで再婚した妹の義理の息子が、
卒論を書くために、夏休みを利用して日本に調査に来ることになった。
テーマは「日本は、性的、暴力的な情報が、あらゆるところに
溢れているのに、その種の犯罪が驚くほど少ないのはなぜか」というもの。
まじめな日本人が、日常的に性的、暴力的な情報の氾濫を許容している
というのも、理解しがたいことらしい。

社会学者や人類学者、学生、政治家など、いろいろな分野の人に
インタビューをしてまとめたいとのことなので、
私からは、人間学アカデミーのシンポジウム(7月22日)を紹介する。
通訳として、妹の実の息子(ハーフで、これも大学生)が同行するので
私の苦労は、たぶんほとんどないはず。
どんなレポートをまとめてくれるのか、今から楽しみだ。
できあがったら送ってもらいたいものだ。

このテーマには、たぶん一神教と多神教(いや仏教か)の問題がからんでいるだろう。
だいたい日本人って、「かくあるべし」っていう風に人間を規定しないからなあ。
どこかで「人間って、そんなもんだよ」って考えているふしがある。
もともと性的な抑圧は少ないから、
朝っぱらから目を覆うようなスポーツ新聞を
車内で広げているおじさんたちも沢山いて、
これは顰蹙ものではあるけれど、
だからって、目くじらたてる人が少ないのは、
こんなことは、たいした問題じゃないと、どこかで思っているからではないだろうか。
そういうことは、女性に対して失礼にあたるのかもって意識も乏しいし、
女性の方も、そういう男を「どうしようもないコドモ」と半ばあきらめている。

農耕民族で、性格的におとなしいから、暴力に走らないというより、
日本人の多くは、多分どこかで、「情報が人間を操作する」というような、
単純な考え方には、伝統的に組していないからではないか。
たしかに、ある行為(たとえば殺人、放火などなど)がモデルになって、
同じ行動が連鎖するっていうことはあるのかもしれないが、
それだって、刺激-反応という単純な図式では捉えないのが、
日本人の考え方の特徴のような気がする。
もちろん、この傾向は、欧米化するにしたがって、
だんだん変わっては来ているようだけど。

ところで、なぜ、欧米が一神教(イスラム教も含めて)を
採用したのかってことは、とっても興味深いが、
これは教会がからんだ権力闘争と関係しているみたいだ。
でも、神様が世界を創ったと信じられていた時代は、
神様はいない、という認識に達して終わりを告げ、
それなら、この世界がどうなっているのか、
オレたちが究めてやろうじゃないかって意気込みが、科学の発達を促してきた。
で、世界を動かしているさまざまな原理については、
相当のことが分かってきたわけだけど、
最後に残ったのが「なぜ、そうなのか」って問いだ。
つまり、科学では答えられない問い。
そして今や、世界は、こうした科学の範疇を超えた問いで
一杯になってしまった。
たとえば北朝鮮とか。

人間って、本当にワケが分からない生き物だ。
同じような境遇で育っても、犯罪者になる人もいれば、ならない人もいる。
それがなぜかってことは、たぶん遺伝子が解読されても、
簡単には解明はされないだろう。
遺伝子が、自分の出番をどうやって決めるのかってことが、
まだまだ謎なんだから。

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