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2006年8月30日 (水)

かみなり症候群

電話相談が利用されるきっかけというのは、いろいろある。
不特定多数からの育児相談や医療相談を受けていたときは、
「テレビで言っていたけど」とか「新聞で見た」なんていうのが結構あって、
電話相談も情報源の一種として活用されているというのが実感だった。
この中には、もちろん「医療機関で言われた」というものもあるし、
「家族や友人に言われたので気になって」というのも含まれていた。

どういう人が電話相談を利用しやすいのだろうか、という雑談の中で、
あるベテランの相談員は、「週刊誌なんかをよく読む人よ」と言っていたものだ。
雑多な情報に接することが多いと、迷路に入り込みやすいということなのだが、
今では、身の回りで雑多じゃない情報を見つける方が難しくなってしまった。
電話相談だって、心してかからなければ、怪しいものだし。

かかりつけ患者からの相談の場合は、対象(患者)もテーマ(医療)も
限られているので、きっかけはそれほど多彩ではない。
その中で気になるのは、「保育園(幼稚園)の先生に受診してと言われた」とか、
「学校の先生に診てもらうように言われた」というものだ。
ほとんどの場合緊急性はなく、中には首をかしげるようなケースもあるのだけど、
親は「先生」に言われた手前、もう一方の「先生」の判断を求めざるを得ない
といった感じで電話をしてくる。

集団を預かる側の「先生」は、毎日それなりの責任を感じながら
仕事をしているのだろうが、その割には中途半端な知識で判断を下し、
余計な指示を出して、かえって混乱を招いているように思えることも少なくない。
いわゆる「先生」の多くは、医療研修の機会も多く、それなりに勉強もして、
知識もあるようなのだが、残念ながら、その活用の仕方がワンパターンなのだ。
「先生」だから、啓蒙するしか能がないってことなのかもしれないが、
全体に知的レベルが上がっている時代の「先生」の役割というのは
もう少し真剣に考えられてしかるべきなんじゃないだろうか。
小児科医の負担軽減のためにもネ。

高木光太郎さんの「証言の心理学」は、
記憶というものが、脳の中の堅牢な倉庫ではなく、
他者に対して開かれたネットワークシステムなのだということを
証言の現場に生じた歪みを題材に、分かりやすく語っている。
証言の分析に関しては、かつて浜田寿美男さんの講義を受けたときに、
コミュニケーションという観点から、とても興味深く聞いたものだが、
歪みが生じる様相については、正直半信半疑だった。
「日本人は、相手の思いを忖度する癖があるからじゃないのかなあ」
などとも考えたのである。でも、受講者が発した
「じゃあ、もしそういう(取調べされる)事態になったら、どうしたらいいのか」
という質問に対して浜田さんが
「完全黙秘しかないかもしれない。相槌もダメ」と言ったのは、とても印象に残った。
浜田さんは、人間というのは、そんな風に境界のあいまいなものだから
そういう場面で自分を守るには、自分から境界を作らなければならない、
と言ったのだ。

高木さんは、この本のなかでそのことを「共同想起」という言い方で表現している。
コミュニケーションのそういう側面が、供述者と取調官の力学の中で
(意図しない)捏造を生み出していくのも、証言の現場の危うさなのだ。
そして、仮説を立てる側の取調官だけでなく、そこに関与する心理学者でさえも
一歩間違うと、正解が分かったつもりの「神」、
つまり特権的存在者になってしまう、と自戒を込めて述べている。

電話相談の研修では、しばしば<いま><ここ>を強調する。
「相談を受けるということは一期一会だ」ということを叩き込むためだが、
それは浜田さんが言うように、

私たちは自分の身体をもち、その内側の視点において、
たった<いま>の、まさに<ここ>から、この世界を生きている。
過去の世界は分厚い層をなして、容易には見えず、
将来は一瞬先に何が起こるかも、ほんとうは見えない。
その意味で人間は神から遠い。
にもかかわらず、一方でそれと気づかずに
<ここのいま>の自分のありようをそこに投影し、
あるいは他者との対話の中で、相手の言葉に自分の思いを重ね、
分かったつもりになって、しばしば不当な越境をおかす。
そこで人はまるで神のようにふるまう。

ということを戒める意味でもある。
特権的存在者はあらゆるコミュニケーション場面に存在する。
現代は、だれもが神様になりたい『かみなり症候群』に侵されているからだ。
でも、この本は、そうした特権的存在者の不在をめざす努力が、
こんな分野から始まっているという事実を教えてくれる。
これはちょっと感動的だ。

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2006年8月22日 (火)

まな板の鯉

Medi-Waというソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の
NON(Not Only Nurse)というコミュニティが、
初めての勉強会を開くというので、面白そうだなと参加表明をしたら、
事例を提出するはめになってしまった。
「相談とは」「相談を受ける側の役割とは」を考えるのに、
電話相談から適当なケースを出してほしいというのである。

20年くらい前までは、インターネット上で人と知り合い、
その後顔をつき合わせて仲よくなるなんてことは、
人見知りをする自分には、およそ「ありえない」ことだったが、
時の流れというのはオソロシイものである。
環境は人を変えるのネ。

どんな事例が適当か考えた末に、ある精神疾患の母親のケースを選ぶ。
もちろんこれは、こんな難しいケースもあるぞってプレゼンをしたいからではなく、
「相談を受ける」ということは、「相手が望むような関係を結ぶこと」
だってことを言うのに、適当だと考えたからだ。
普遍的なことを考えるために、もっともいい方法は、
もっとも極端なケースからアプローチすることだというのは
長年の経験から学んだことでもある。

下準備のために記録を辿ってみたら、2年半のブランクをはさんで、
現在までに27回の相談が来ていたことが分かる。
記録を読み返してみると、そのときどきの相談内容もさることながら、
自分の心の動きも振り返ることができて、なかなか興味深い。

記録を元に、初めて電話をかける時点で、すでに相談者が自分の問題を
解決したいと思っているように感じられたこと、
「不安」という身体的な(と私は思っているのだが)問題を
言葉で解決するのは難しく、どうしたものかと悩んだ時期があること、
そして結局、あなたとはいつもつながっているよっていうことが
相手に伝わればいいのだと分かったことなどを、経過報告と絡めて話す。

参加者からは、精神疾患は対応を誤るとやっかいなこと、
サポートに当たっている側は、ともすれば自分の役割だけに終始し、
目的地はどこかを設定できずにコトが運ばれる傾向は、
地域医療だけでなく、チーム医療などでも共通の問題になっていること、
(みんながトスを上げるのだけど、誰もあっち側へボールを返さない
という愉快な比喩は、ひょっとして組織一般に共通する問題かもしれない)
研修生の時のシビアな経験が、その後のものの見方や方向を決めてしまったという
医療者ならではの心情なども聞くことができて、有意義な時間だった。

医療者にとっては、「相談を受ける」ということが、
ともすれば「治療的関係」と理解されてしまうらしいこと、
身体疾患に対処するための「決定論」的発想は
相談には馴染まないってことまでは言及できなかったが、
それは、次回以降の自分の課題にする。

会には医療コーディネーター(MC)の資格を持った人も何人か参加していた。
この資格がどういうものか、私自身はよくは知らないのだが、
話によると、医療者と患者の架け橋のような役割をするものらしい。
つまり、医療者と患者の間にも、男と女の間にあるような
暗くて深い(?)河があるので、そこに橋をかけるか、
もしくは両岸を行き来する渡り船を浮かべよう
というアイデアが結実したのが、MCという職種のようだ。
利用者側に軸足を置きつつ、両者の中間に位置して利用者の意思決定を
支援するという点は、電話相談員と共通している。

勉強会というまな板の鯉になるのは、相談を受けることとよく似ている。
「相手が望むような関係を結ぶ」ためには
「ええい、煮ても焼いてもどうとでもしてくれい」というまな板の鯉のような心境で、
自分を差し出すことが必要になるが、実はこれが結構難しいのだ。
だいたい、まな板に乗るまでがひと苦労なのだが、
それ以前に、自分は鯉なのか鰯なのか、それとも蛸なのかってことが
はっきりしないと、まな板にも乗りようがないってところがある。
MCも相談員も、みんなそこで苦労して、
そして、これは一生の仕事だと愕然とするわけだ。

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2006年8月16日 (水)

社民党の党首に会う

アメリカから卒論のための取材に来ている甥が、インタビューをしに、
社民党の福島みずほさんに会いに行くというので同行する。
衆議院議員会館へは、学生のときに某議員のお手伝いで通ったことがあるが、
参議院議員会館に足を踏み入れるのは、今回が初めてだ。
少し早く着いたので、ロビーの洗面所を利用しようと思ったら、これが男女共用。
今どきめずらしい過去の遺物だが、ひょっとして一番進んでいるかも?
往々にして周回遅れが最先端になるっていうのは、よくあることだけど
もうちょっと広いといいなあと思う。
アリーmy Loveに出てくるトイレみたいに。

初めてお会いする福島さんは、テレビで見るよりずっと小柄だが、
とてもエネルギッシュで気さくで、話も分かりやすい。

日本の犯罪件数は、昭和30年代から減り続けており、増えていないこと。
しかし一方で、マスメディアはひとつの犯罪を執拗に報道する傾向があり、
そのため見る側は、いかにも凶悪犯罪が増えているという印象を持ってしまう。
他方、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待など、
今まで表沙汰にならずに潜んでいたものが、表に出るようになったこともあり、
日本社会の暴力的傾向が減っているかと言えば、一概にはそうとも言えない。

最近は、被害者の発言力が強くなり、
それをメディアが大々的に報道することもあって、裁判にも影響を与えている。
これによって量刑がバランスを欠くようになると問題だけれど、
遺族とメディアと国会が連動して法制化を働きかけたり、
被害者と加害者の交流という新しい動きも生まれている。

福島さん自身は、管理社会が犯罪を無くすとは考えていないので、
むしろ格差を広げないようにすることで、犯罪を防止していきたいとのこと。
再犯をどう減らすか、加害者の更正、被虐待児への里親制度の整備、
DVやセクシャルハラスメントの防止に力を注いでいきたいという話は、
児童虐待やDVと決して無縁ではない、私の仕事にも心強いエールだった。

情報化社会の利点は、昔ならとても入手できなかったような情報が、
まるでシャワーを浴びるように、苦労もなく手に入るところにあるのだけれど、
受けとる私たちの感覚は、まだ古きよき時代のままのところがあって、
情報が入ってくれば、それがすべてだと思ってしまうところがコワイ。
自分たちが知らされることは、事象のほんの一部かもしれないし、
時には、歪曲され、単純化されているかもしれないのに、
報道は公正中立なものという、変な幻想が抜け切れていないから、
それによって、かえって新たな偏見や事実誤認が
生まれているかもしれないという自覚も希薄だ。
そして気がついたときには、事態はとんでもないことになっていたりする。

どんな情報も、それを流すことで誰が得をするのかという視点で
評価していくってことが、これからの情報リテラシーには欠かせないのだろう。
そういえば、アメリカでは医学論文にもスポンサー名を明記すべきだと、
誰かが言ったとかいう記事を、つい最近も見たような気がする。

アメリカ人の甥は、今日の話をどう聞いたかな?

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2006年8月10日 (木)

クラッシュ

飯田橋のギンレイで、やっと「クラッシュ」を観る。
冒頭大きな事故場面で、わたしの好きなドン・チードルが
「衝突が起きるのは、みんな触れ合いをほしがっているからだ」
とつぶやく場面があって、ああ、これが主題なんだなと分かる。

映画の作りは、ERや24のように、さまざまなエピソードを並行させて
スピーディに展開させることで、緊張感を切らさない工夫がされている。
人種のるつぼで、銃社会でもあるアメリカで、
英語も満足に理解できない移民やマイナーな人たちが、
被害者意識から誤解を生み、トラブルを起こし、けちな犯罪に手を染め、
あやうく殺しかけたり、殺されかけたりする場面がテンポよく展開していく。
主導権を握っているはずの白人だって、決して満足できる生活を送っていない。
医療保障も思うように得られず、金銭的な豊かさも、
何かの拍子に簡単に失いかねない危うい社会に生きているのだ。

でも、人種が違うという理由でいたぶった同じ相手のいのちを救うのも、
一触即発の窮地から相手を救い出すのも、
英語ができなかったゆえに、人を殺さずに済むのも
人間社会なんだよと、この映画は言っているようにも見える。
マイナーは、自分よりマイナーをしたたかに搾取しながら
生きているのが、この社会なのだ。
白人社会で登りつめていく黒人たちの複雑な思いやそこでの軋轢、
その中で、白人同士だって、信頼に足る人間関係を築けない社会。
「遠い親戚より、近くの他人」という言葉を思い出してしまった。

長くアメリカに住み、5年ぶりに帰国した妹が、デパートで買物をしながら、
「日本はいいね。店員さんがみんなにこやかで。
自分の仕事に誇りを持ってやっている。
あっちはね、みんなにこりともしないのよ、なんかつまらなそうだし」とこぼした。
「何でなの?サービス業は増えているでしょ」と私。
「こんな仕事って思っているんじゃない?もっといい仕事、
もっといい給料って、金持ちになることばかり考えているみたい」

お金がすべてで、それさえ手に入れば幸せになれる
と思わせるところが、アメリカ社会にはあるのだろう。
そして、それを実現するために銃で必死に守りを固めるってことか。

でも、そんな殺伐とした社会でも、人間は捨てたもんじゃない
と「クラッシュ」は言いたかったように見える。
たぶん、そう思いたい観客の思いを巧みにすくい上げたところが
アカデミー作品賞につながったのだろうけど。

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