カポーティ
日比谷のシャンテシネへ「カポーティ」を見に行く。
トルーマン・カポーティの「冷血」を読んだのは、もう30年以上も前のことで、
この、アメリカの片田舎で起きた一家惨殺事件を、
カポーティがノンフィクション・ノベルに仕立てたこと以外の内容は
ほとんど忘れてしまった。
ただ、カポーティが犯人、特にペリー・スミスを、
必ずしも心底憎むべき犯罪者とは描いていなかったという
印象だけは、かすかに記憶がある。
「カポーティ」は、カポーティが、その「冷血」を手がけ始めてから
仕上げるまでの過程を描いている。
フィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー主演男優賞をとったからって、
こんな暗そうでマイナーな映画には、そうそう観客はつかないだろうと
高をくくって出かけたのだが、どうしてどうして、
朝一番の回だというのに、開演15分前に映画館に着いたときには、
すでに客席は、ほとんど埋まっていて、席を見つけるのが結構大変だった。
しかも観客は圧倒的に年配客が多い。
どういう風の吹き回しなんだ?と、自分のことは棚に上げて、ちょっとびっくりする。
アカデミー賞といっても、最近は何が評価されたのかよく分からないのもあるが、
フィリップ・シーモア・ホフマンの主演男優賞は、100%納得できる。
あの舌足らずで、おかしなしゃべり方は、たぶん彼の造型なのだろうが、
こどもじみていて、自己顕示欲が強く、自己中心的だけど
どこか屈折していて繊細なカポーティ像(ほんとうはどうなのか分からないが)が、
くっきりと描き出されて、見事なノンフィクション・ムービーになっている。
カポーティは「ティファニーで朝食を」の成功の後、
次のジャンルを開拓すべく、この一家惨殺事件に目をつける。
この辺の、作家というか芸術家ならではの嗅覚は鋭い。
彼の取材に同行するのは「アラバマ物語」を書いたネル・ハーパー。
後半、この「アラバマ物語」の成功が、いっそうカポーティを焦らせることになる。
逮捕された犯人であるペリー・スミスの取材を進めるうちに、
カポーティは、母親から捨てられたという彼の貧しい境遇に、
自分の境遇を重ね合わせて、次第に共感を抱くようになる。
カポーティを、自分を救ってくれる友人だと思ったペリー・スミスから、
「相手は立派な人間だった。だから自分は恥を感じて殺してしまった」
という告白を引き出すところは、カポーティの作家としての洞察力を感じさせる。
彼は、決してこれを単なる強盗殺人事件の小説では終わらせたくなかったのだ。
しかし、スミスには人間的な共感を抱きながらも、
彼にとってスミスは、あくまでも自分の小説の素材だった。
小説の結末のためには、スミスを救うことより現実に決着がつく方が大事だと思い、
現実の決着がつかなければ、小説が発表できないと焦るところは、
小説家のエゴを描いて、「冷血」というタイトルは、
むしろ作家自身にこそふさわしかったのだと思わせる。
控訴を棄却されて、死刑を待つしかないスミスの方が、
小説家の俗物的なエゴを受け容れて、崇高ささえ感じさせる。
友人として死刑執行に立ち会ってほしいと頼まれて、そうした結果、
カポーティは、「冷血」の後は1冊も小説を完成させることはなく、
アルコール中毒で亡くなったと、短い記述があって映画は終わる。
ジェームズ・ボールドウィン、エリザベス・テイラー、マリリン・モンロー
リチャード・アヴェドン等との華やかな社交の世界で生きていくためには、
カポーティには名声を保つための作品が必要だった。
ペリー・スミスは、その格好の素材のはずだった。
けれども、それが素材だけで終わらなかったことを知って、
私たちには、なにかホッとするものが残る。
それが、この映画のよさなのかもしれない。
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