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2006年11月30日 (木)

親がこどもにできること

久しぶりに蓼科にあるセカンドハウスへ行く。
紅葉は、もう終わっていて、山々はほとんどけもの色というか一面茶色。

今年は、5月の連休も、8月のお盆休みも、我が家のアッシー君と都合が合わず、
とうとう年末のこの時期が、今年初めての山行きということになってしまった。
高3の息子が受験を控えていたからということもある。
別に自分が受験をするわけじゃないから、ほったらかして行ってもいいのだけれど、
まあ、根が良妻賢母(?)なので、何かと気を使っているのだ、これでも。
さいわい息子は、早々と進路が確定したので、
今回は大手を振って、ほったらかしを敢行したというわけ。

留守にするのは、ほんの2日間だが、これから金がかかるのだから、
買い弁はしないで、極力自炊をしろと言い置いて行ったのが効いたのか、
今回は、スクランブルエッグを作り、冷凍の餃子を焼き、
うどんをゆでて、ついでに付け汁を自作するということもやったらしい。
冷蔵庫に保存していた鰹節は見つけられなかったので、
引き出しの中の粉末の出しの素を探しあて、
餃子の付け汁をヒントに、しょうゆに酢とゆずコショウを加えるという、
奇想天外な付け汁を作り、それなりにおいしかったようだ。
こうやって、自分なりの経験を積みながら、生きる力がひとつひとつ
身に着いていくのだなあと、ちょっと感慨深い気持ちになる。
目端が利く娘にくらべて、息子はなんともおっとりしており、
女親としては、これで世間に出て行けるだろうかと
気をもんだこともあったが、変にいじらなくてよかった。

新しいことを生み出すには、「知っている」より、
「知らない」ことの方が大事な場合も多い。
というか、知っていると意識できることではなく、
知っていると意識できないことを、いかにたくさん蓄えさせるかが、
われわれおとなが、こどもにできることなんじゃないかという気がする。
たくさんの「する」機会を与えておけば、あとはこどもが、
それを自分の力にして生きて行くのだろう。
もっとも、ことITに関しては、完全に親子の立場は逆転しており、
「お母さん、分からなかったら俺に聞かないで、まず、自分でやってみなさい」
なんて言われて、コノヤロと思うことはしばしばだけど。

山では、夫はもっぱらログハウスのメンテナンスと薪割り。
私は仕事の合間に、薪ストーブでひたすら火遊びをしてすごす。
ストーブで薪を燃やす面白さは焚き火と一緒で、一度はまると止められない。
都会では焚き火なんてのどかな遊びは、もうできなくなってしまったが、
山では、ストーブの中でも外でも、刻々と変わる炎の様子を眺めては、
ああでもない、こうでもないと火種をいじくり、時を忘れる。
こうやってボーっと時間をやりすごすのが、私のシアワセなのだけど、
何もしないはずの時間も、実はこまめに薪をいじることで
成り立っていると考えると、なんとなくおかしい。
水面を優雅に漂う水鳥の水面下の足が、必死に水をかいているのに似ている。

ボーっとするのが好きな私としては、日がな1日寝転がって、
おなかがすいたら食料を採取しに行くというのが理想だが、
目指すところに食い物がなかったりして空腹を満たせない
ってことになるのは悲惨だから、そうなると、やっぱり定住して
食料を栽培し、蓄えることを考えざるを得ないわけで、
そうなれば、種をまき、水をやり、実を収穫するという作業は避けられない。
こうやって、のんびりするためには、忙しくしなければならない
というのが、ヒトの常態になっていったのだろう。
これを文明と呼んでいるわけね、人類は。
面壁○年なんて修行があるのは、何もしないってことが
いかに難しいかってことなんだろうなあ、きっと。

友人のお母さんは、「今年の夏は越せないかも」とお医者さんから言われた後、
夏を越し、9月の誕生日を家族と過ごし、その2ケ月後に亡くなった。
葬儀のあと、娘である彼女は、「できることを全部やってくれた気がして、
こどもとしてはありがたかった」と言っていた。
親がこどもにできる究極のことがあるとすれば、
どうやって死ぬかを見せるってことかもしれない。
よく生きるってことが、いかに死ぬかってことなら、
私にもできるわけね、とちょっと気が楽になった。

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2006年11月15日 (水)

トリスタンとイゾルデ

木枯らしが吹いた日曜日、池袋の芸術劇場へ新響のコンサートを聞きに行く。
今回は創立50周年記念の最終プログラムで、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」。

新響(新交響楽団)は、1956年に故芥川也寸志氏によって創立された
アマチュア交響楽団で、東京を拠点として、年に4回の定期演奏会をおこなっている。
団員は会社員、学生、主婦、教員など、職業も年齢もさまざま。
夜間や休日に練習を重ね、演奏会は、すべて団員の自主運営である。

数年前に中学の同級生が、この楽団でビオラを弾いていることを知り、
それ以来、スケジュールが合うときは、可能な限り聞きに行く。
自分ではとうてい選ばないような、めずらしいプログラムがかかることもあり、
指揮者も飯守泰次郎、小林研一郎、小松和彦など日本人だけでなく、
ヴィクトル・ティーツなど海外からの招聘もあり、音楽性豊かな演奏が魅力だ。
休憩中に同級生とミニ同窓会ができるというのも楽しいが、
何といっても、チケットが安いのが嬉しい。
S席でも3000円という超破格値なのだ。
もちろん、今回の「トリスタンとイゾルデ」もだ。それも、一流の歌い手と字幕つきで。

「トリスタンとイゾルデ」は12世紀の騎士道物語を下敷きにしていると言われる。
トリスタンはイゾルデに命を助けられ、彼女に強く惹かれながらも、
自分が仕えるマルケ王とイゾルデを結びつけようとするところから悲劇は始まる。
解説には、トリスタンは死への傾斜が強いと書いてあるが、
わが身の重傷を治療できるのは、イゾルデの医術しかないと知って
単身彼女の住む敵国アイルランドに渡ったのだから、
むしろ生への執着は人並みにあったと考えるべきだろう。
つまり、ここでの死への傾斜は、恋愛における「永遠」を求めてのことであり、
現世では、とうてい結ばれないことを知った彼の「永遠への希求」と考えるほうが自然だ。
中世のこの時代は、人は常に「死」と隣り合わせに生きており、
「死」と「生」の境界もあいまいだったから、彼にとって願望が成就できれば
死でも生でもどちらでもよかったのだろうと思われる。

医学が進歩した現代では、死ぬということは医学の敗北を意味するから、
「死」は忌み嫌われるものになっている。
これは、たぶんに、医療界の価値観が反映した結果だろうと思う。
しかし、一般人の「死」の捉え方は、もっと素直で自然なもの
という言い方に語弊があるなら、歴史を引きずったものではないだろうか。
太田光クンと中沢新一さんは「憲法九条を世界遺産に」で、
「死」に美を感じる感性にフタをしてはいけないのではないかと書いているが、
科学をなりわいにしている人の多くは、こういう考え方には、
あえて目をそむけているか、考えが及ばないように見える。
自殺の問題などに解決の突破口が見つからないのも、
こうしたものの考え方に影響されて、善悪の観点でしか
物事を捉えていないからかもしれない。

ついでに言えば、この本では、宮沢賢治を引用しながら、
愛は、いともたやすく憎しみに変わるということについても述べられている。
中学生の頃、宮沢賢治に何かひっかかるものを感じて、
素直に好きになれなかったのは、これだったのかもしれない。
愛と正義が世の中をよくすると思っている人には、ぜひ読んでもらいたいよね。

新響のコンサートで毎回感じるのは、道楽の音楽はいいものだなあということだ。
ここには、音楽を職業にしていない人の余裕とひたむきさがある。
弾く側は、ただひたすら好きな音楽を奏で、聞く側は、そのお相伴にあずかる。
そこには、誰かの役に立つことで自分の価値を確認しようとか
自分の才能を誇示して金を稼ごうなどという、さもしい気持ちがない。

19世紀的な芸術家であるワーグナーは、
凡人では考えられない自信と才能、金銭感覚に加えて強運の持ち主だったとか。
そういう芸術家の商品化を経て、21世紀には何が残るのだろうか。

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2006年11月 3日 (金)

学校で教わったこと

小学校のクラス会があった。
担任だったI先生が83歳という高齢なので、最近はほぼ毎年やっているのだが、
それでも、毎年なんらかのサプライズがある。
何十年ぶりかに顔を見せてくれる人がいるのだ。

今回も中学卒業以来40年ぶりに会う男子の参加者がいて、
これは、誰だか全然分からなかった。
女子の場合、分からないということは、まずない。
どちらかというと、女子は、多少の伸縮はあっても
風貌にはほとんど変化がない(ように見える)。
幼稚園から高校まで付属のせいで、女子とは長いと高校まで、
つまり14年間一緒の人が多いからということもあるだろう。
男子は中学卒業後は外へ出るので、私のように幼稚園の2年保育からだと11年、
小学校からだと9年、中学から入った人だと3年しか一緒じゃないので、
もっとも姿かたちの変化が激しい思春期を見ていないから、
変化の度合いを大きく感じるのかもしれない。

小学校時代は2クラスで、担任は6年間F先生とI先生だった。
クラス替えはあったけれども、私はどちらかというとI先生が多かった。
この6年間持ち上がりという制度は、私たちの卒業後まもなくなくなったので、
それだけに、先生にとっても私たちのクラスは、
思い入れの深い、特別なクラスのようなのだ。
だから、女性のF先生は、もう随分前に亡くなってしまったけれど、
国語の担任だった男性のI先生は、持病もおありで大変そうなのに、
毎回必ず二次会まで出席してくださる。

私たちの学校は教育実験校だったから、私たちは実験材料でもあったのだが、
それでも45年以上も前の小学校生活は、ほんとうにのんびりしていて、
給食と休み時間のために学校があるようなものだった。
低学年のときは、ひたすら、いかに硬い砂団子を作るか夢中になり、
ちょっと大きくなってからは、水雷艦長なんていう、
今聞いたら顰蹙ものの名前の追いかけっこや、
蹴塁球、ドッジボール、ゴム段(ゴムとび)なんかに男女とも忙しかった。
校庭で遊べるかどうかは、職員室の外に出される旗の色で
分かることになっており、白はOK、赤はNOで、
雨が降った後の微妙な天気のときは、いつ旗の色が変わるかと、
みんなでやきもきと待っていたものである。
クラブ活動は、私はI先生が顧問の「お話クラブ」に所属して、
なにやら文章を書き散らしていたが、先生は監督するでもなく、
私は男の子たちとだらだらとおしゃべりしながら、
教室の窓から見える空が青くてきれいだった記憶しかない。

I先生の授業は、板書がきれいなことが、こども心にも印象的だったが、
授業では随分難しいことを教えてもらったような気もする。
作文を書くときに気をつけることとして、「起承転結」とか、
「序破急」なんていうのも、先生から習った。
というか、これは先生からしか聞いた記憶がない。
今回のクラス会では何人もが、「I先生のおかげで、
文章を書くことが好きになりました」と言っていたけれど、
本当は、この小学校時代に私たちは、
もっと根源的な部分を育ててもらったのだということを、
最近送られてきた中学の同窓会誌を読んで、改めて感じた。

それは銀座のクラブのオーナーになった卒業生からの投稿で、
彼女は、こういう生き方を貫ける自我を母校に育ててもらったことを
感謝している、という言葉で最後を結んでいた。
T大生でもテレビタレントになる時代だし、職業に優劣があるわけじゃないから
どんな選択もありだと言うことは簡単ではある。
けれども、この彼女の選択が、誰もが考えるような
ありきたりなものでないことは確かだし、
相当の紆余曲折があっただろうということは、一面識もない私にも想像がつく。
世間の価値観とは別のところで自分を貫くというのは意外に難しく、
多くの場合は、自分を貫いているようでいて、
世間に合わせた生き方をすることで、安心を得ているものだろう。

今でも覚えているのは、あるときI先生が、
「『間違っているかもしれませんが』っていう言葉は言わなくていいからね」と、
急に授業中に言い始めたことだ。これは何度も言われた記憶がある。
小学校の高学年になり、自分の意見を言う前に言い訳で
予防線を張る子が多くなってきたのを、先生はさりげなく注意したのだ。
それは、世の中には、自分とは別に正しいことが存在しているわけではなく、
だから自己表現に躊躇は必要ないというメッセージだったと、今になると分かる。

連日マスコミを賑わしている高校の未履修教科問題で気になるのは、
なぜ、義務教育でもない高校教育に、文科省が関わるのかということのほかに、
生徒に言われて、あるいは世間の風潮に負けて、
何が大事かの判断ができなくなってしまっている学校と先生の無様さだ。
何かを見失っているのは、制度を作っている側なんじゃないだろうか。

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