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2007年3月26日 (月)

福袋医療

日本の医療は福袋だと言っているのは、北海道大学で
科学技術コミュニケーターの養成に携わっている隈本邦彦さん。

売り手は中身について知っているけれど、買い手は知らないというのが福袋。
元NHKマンだけあって、このネーミングはなかなか的を得ている。
元NHKマンといっても、ヒットラーみたいな人もいるし、まったくピンキリね。
何が入っているか分からない福袋を買うという行為は、
お金を出す側にとっては一種の賭けだから、当たれば儲けもの、
はずれたとしても、リスクを承知の遊び感覚だから、
買い手が売り手に文句をつけるということは、ほとんどない。
でも、だからといって買い手が満足しているかと言えば、そんなことはない。
最初から自分のニーズは脇に置いているわけだから、
まあ、こんなもんかというのが大方の感想だろう。

だけど、命を預ける医療がそれではおかしい。
医療で問題なのは、売り手は自分たちは最高のものを提供している
と思い込んでいて、買い手は満足してないかもしれない
なんて考えてみたこともないことだと、隈本さんは言う。

これは私も、思い当たることがある。
この仕事を始めてびっくりしたことのひとつは、患者満足度調査のやり方だ。
自院の患者にアンケートを取って満足度を調査し、「患者は満足している」と、
堂々と学会で発表したのには、開いた口がふさがらなかった。
自院にかかっている患者が、自分が特定されるかもしれない調査に
そうそう本当のことなんか言うわけがない、という感覚が皆無なのだ。
一般企業が顧客満足度を調査するときは、必ず第三者に依頼し、
しかも回答は無記名にしてできるだけ本音を引き出そうとするのが常識だけど、
まあ患者は顧客だと思われていないってことかもしれない。
医療界の常識は社会の非常識と言ったら言いすぎだろうか。

福袋医療を打開する方策のひとつは、福袋を透明なプラスチック袋にすること、
つまり、カルテ開示を含む徹底的な情報開示だ。
そうすれば患者は、自分のカルテを見て診断や治療法を確認し、
それが世界標準に照らし合わせてどうかと判断できるからだ。
でもまあその前に、カルテを日本語で書いてもらうことが先決でしょうネ。
自国語でカルテを書かないのは、日本のお医者さんだけなんだそうだから。
それとインフォームド コンセントの正しいやり方を周知徹底することも必要だ。
現状では、医療者が選んだ治療法について説明することが
インフォームド コンセントだと誤解されている、と隈本さんは言う。

私は情報開示と同時に、何が適切な医療かという
医療自体の吟味も不可欠じゃないかと考えている。
たとえば、「風邪」という診断で抗生物質を処方するのは妥当なのかとか、
今どきの話題で言えば、インフルエンザ即タミフル処方は問題ないかとか。
もちろんこれは、タミフルが異常行動に結びついているかどうかとは別の意味で、だ。

1歳8ヶ月の子が休日当番医でインフルとの診断。
タミフルを処方されたので、「使いたくない」と断って、
解熱剤と鼻水の薬だけもらって帰ってきたという母親から
「やっぱり飲ませた方がよかっただろうか」と夜明け前に相談が入る。
「脳症にならないためには飲んだほうがいい」と言われたのだそうだ。

医療者が適切な医療を知らなければ、インフォームド コンセントも
カルテ開示も絵に描いた餅だし、患者の不安は増すばかりだ。
自分自身の受診経験から考えても、医療者には、
自分が知らないってことを知らない人が少なくない。

う~ん、これじゃあ福袋とは言えなくなっちゃうけど、どうしたものだろう。

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2007年3月16日 (金)

親になるコツ

久しぶりにジムへ。
昨年体調を崩したこともあり、おまけにお正月にぎっくり腰になりかけたので
マシンを使うのは、ちょっと控えていたのだけど、
いよいよウオーキングだけでは物足りない感じになってきた
ということは、元気が蘇ってきたってことだろうか。
プールに併設されているそのジムは、平日ということもあって空いていたが、
見覚えのある顔がちらほら見える。みんなマジメなんだなあ。
建物の入り口に「日本泳法をやってみませんか」という看板が出ていて、
ちょっと興味をそそられた。

独りでマシンを使って身体を動かすのは修行僧のような気分だ。
もうちょっとここを動かそうとか、う~ん、この辺で止めておこうとか
自分の関心を、自分の身体だけに向ける時間というのは心地がよい。
生活が便利になったために、身体を動かす量が減って、
それを補うためにジムへ行くっていうのは、我ながら、すごく矛盾していると思うが、
でもここには案外、本質的な違いがあるのかもしれない。

昔の人は身体を動かしていたとはいっても、
自分へ関心を向けることは少なかったんじゃないだろうか。
生活の中で身体を動かすというのは、むしろ音楽に合わせて、
次から次へと踊りが展開していくバレエのレッスンに似ている。
踊っているときは、音楽に合っているかとか、周りと調和しているかとか、
自分のあり方に関心を持ってはいるのだけど、
だからって自分のことを考えているわけではなく、
意識は、何か別のことに集中していて、
むしろ自分のことは、すっぽり抜けているという感じに近い。

深刻な相談をしてくる人たちにかぎって、
自分に関心が向きすぎていることを考えると、
自分のことに過度な関心を持つのは、あんまり健全とは言えないが、
現代人は、生活が便利になるにしたがって、
自分を忘れるということが下手になっているのではないか。
その分、自分に対する関心が強くなっているような気がする。
他人に対する気遣いと、自分への関心の強さは反比例の関係にあるのだろう。
そしてそれは多分に、便利さによる時間感覚の変化が影響しているように思う。

夜中に、小学生の娘が熱でつらそうだと電話をしてきた母親。
ひとしきり話した後、「また、つらそうだったら電話していいですか」と言うので、
ちょっとむっとして「つらそうだったら受診するように」と言う。
もちろん本人が言いたかったのは
「つらそうなのを見るのは不安なので、電話してもいいですか」ってことだろうけど、
こどもがつらそうなときには、電話なんかしないで、
こどもの傍に付き添っていてやれよ、とこっちは言いたいわけだ。
どうも、デンと構えて動じない親というのが最近は少なくなってきた気がする。
時代が変われば親のあり方が変わるのはしかたがないし、
こどものことより、自分のことが優先する親は昔からいるわけだし、
どうでもいいような情報がやたらに飛び交う中で、
必要以上に不安を掻き立てられるのが現代だから、
これは親の問題というより、人間という生き物の問題なのだけど、
親が適切な判断力を身に着けないと、困るのはこどもだ。

かと思うと、
九州の実家で里帰り出産をしたあと、関東の自宅へ帰って3ヶ月健診を受け、
「母乳不足だからミルクを足すように言われた」と電話をしてくる親もいる。
パーセンタイルでは正常の範囲にあるのに、どうしてなのかと言うのだ。
聞いてみると、体重も母乳の量も特に問題はなく、赤ちゃんもすこぶる元気だ。
今どき、まだ集団健診をやっているところがあるっていうのも驚きだが、
だれも担当者をチェックできない体制というのも、大いに問題だろう。
担当したのは、高齢の小児科Drとのことなので、
「たぶん数字を見間違えたのでしょう」と話して納得してもらう。
やっぱり、親には適切な判断力が必要なのだ。

この母親は、里帰り中に受診した小児科医院が
時間外の電話相談を実施していたので、
関東から九州への長距離電話でセカンドオピニオンをとることができたわけだが、
そういう機会に恵まれていない一般の親が、
専門医の言うことに逆らって自分の判断を貫くのは至難の業だろう。
でも、こうやって親は情報への接し方を学び、
専門家だって玉石混交だということを知り、
自分のこどもについては、自分が責任を持つという基本を理解する。
こどもは、まさに身をもって親を育ててくれているのね。

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2007年3月 1日 (木)

タミフルと異常行動

インフルエンザと診断されてタミフルを服用した中学生が転落死する事故が相次ぎ、
タミフルが異常行動の原因かどうかが取り沙汰されている。
この問題については、小児科医の間では一昨年あたりから話題になっており、
時間外の電話相談にもぼつぼつと入って来ていたので、
私自身は結構以前から「服用後は、行動に注意するように」と説明していた。

タミフルにかぎらず、何かというとすぐに薬に頼るというのは、
日本人の特徴というより、医療制度による影響が大きいと思うが、
生活者にこらえ性がなくなってきたこともあるのだろう。
この感じはすでに20年以上前からあって、それは、
社会全体の雰囲気がせわしなくなってきたこととも関係しているけれど、
情報化が進むことで、情報自体が断片的になり、
同時にランダムに飛び交うようになって、必要な情報が、
本当に必要とするところに届いていないことも原因なのだろうと思う。

たとえばタミフルについて言えば、
厚生労働省は昨日、服用にあたっての注意を喚起するよう、
医療関係団体に注意を促す文書を出したそうだが、こういう情報は、
本来患者になるはずの、一般生活者にこそ流されるべき情報だから、
その意味では、厚労省のやっていることは片手落ちと言える。
患者と医療者が同じ情報を共有した上で、どうするかを患者が判断する、
というのが近代医療の流れなのに、厚労省はいったいどうしちゃったのだろう。
行政が時代に取り残されているのは周知の事実だけど、
それは、一般生活者が何を求めているかということに呆れるほど疎いからだ。
せめて、適切な対象に適切な情報を流すことぐらいはシステム化しないと
信頼だけでなく、存在意義も失ってしまうんじゃないかと心配になる。

もっとも電話という情報ツールの普及を見れば、もともと情報というのは
取りに行くもので、やってくるのを待っているものじゃないってことは明らかだ。

情報の入手という観点で最近面白いと思うのは、
Foxが配信している、病院が舞台の「HOUSE」というテレビドラマだ。
Dr.Houseという医師が、毎回若い医師たちとともに、
いろいろな患者の治療に当たるのだが、「ER」とは異なり、
さまざまなテーマが錯綜するといった、めまぐるしい作りではなく、
ひとつのテーマに悪戦苦闘する医師たちの様子と、その解決にあたって、
知識だけでなく直感が大いに活用されているのが印象的だ。
Dr.Houseは患者の訴えを聞き、考えをめぐらせながら
しばしば情報収集のために同じチームの医師たちに患者の生活を調べさせる。
彼らは、必ずしも患者の同意を得ずに留守宅に入り込み、
患者が何を食べ、どんな生活をしているかといった生活背景を探り、
病気に関連のありそうな情報をつかんで帰ってくる。
アメリカでは、こんなことが法的に許されているのかどうか、
一般的なことなのかどうかは(とてもそうは思えないが)、よく分からないが、
何かを判断するための情報収集行動としては、とってもよく理解できる。

患者の訴えはいろいろだが、それは、
あくまでも自分にとっての不都合な事実だけであり、
相手(医師)にとって必要だろうと、患者が考えたことにすぎない。
Dr.Houseは、患者が言わないこと、言いたくないことの中にこそ、
自分が求める情報があるということをよく知っており、
それを入手するために法を犯したとしても、
それは患者を治療する上では許されると考えているように見える。
アメリカ人は、もともとこうしたアウトロー的主人公が好みなのだろう。
彼には、ほかにも偏屈な部分があって、だから上層部とは衝突し
それで身分が危うくなったりすることも少なくないのだが、
際どいところで彼の診断が患者を救い、結果的に彼も救われる。
まあ、このあたりはテレビドラマの典型で、
誰もが形を変えたスーパーマンを求めているって言えなくもないのだけれど
保守的と言われる医療界に、こういうモデルが進出してきた
という意味では、相当に新しいのね、きっと。

このドラマが、ホントかどうか「ER」をしのぐ人気で、
主演のヒュー・ローリーがゴールデングローブ賞を受賞したなんて話を聞くと、
およそ、目の前にあるものしか見ようとしない、即物的なアメリカ人っていう
イメージも、そろそろ修正が必要なのかもって思わされる。
もちろん人気の秘密は、主人公が偏屈なことのほかに、
信念に基づいて行動を貫くところとか、病院勤めなのに、
胸の谷間もあらわな洋服を普通に着ている女医たち、
というところにもあるのかもしれず、そういう意味では
むしろ伝統的なドラマなのかもしれない。

ここで流れている、発せられた言葉と現在という時だけでは事実に到達しない、
という通奏低音は、私の仕事とも共通しているが、それが、
言葉の軽さと刹那性が象徴のようなテレビでドラマ化されるところに、
なんとなく今という時代が現れているような気がする。

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