« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月20日 (金)

物語の力

今年の東大の入学式で、先端研准教授の福島智さんが述べた祝辞は
心を揺さぶるものだった。
私は、たまたま教えてくれる人がいて、HPの動画で聞いたのだが、
宇宙に行きたいという夢を持っていた福島さんが、
小学生のときに目が不自由になり、それから数年後に耳も不自由になって
まるで暗黒の宇宙にひとり放り出されたような、
自分がなくなってしまったような絶望感におそわれながら、
自分をET(地球外生命体)と捉えなおして生きてきた経緯を
淡々と、しかしそれだけにとても印象深く語っている。

盲聾という状態が、どれほどの状態かは想像を絶するが、
ヘレン・ケラーやジョン・F・ケネディを引きながら、
フロンティアは心の中にあると説き、
想像力を巡らしながら、そこへ一歩を踏み出そうと励まし、
人間同士相手の本質を捉えることは難しくても、
少しばかり魂を触れ合わすことならできる。
だったら相手がETでも、それは可能だろうと締めくくる。
それは力強くもあり、しかし福島さんの孤独な叫びを聞くようでもある。
壮絶なという形容を、おそらく福島さんは好まないだろうが、
それに近い人生の中で、自分をET(誰とも違う存在)と捉えなおして
自尊感を獲得してきた福島さんから、とてつもない勇気をもらう。

人はさまざまな物語を紡ぎながら生きている。

『博士の愛した数式』を書いた作家の小川洋子さんは
『物語の役割』の中で、人はつらい現実を受け入れ、
折り合いをつけるために物語を必要とする、と書いている。
小川さんにとって小説を書くということは、物語が持っている力に導かれながら
すでにあるけれども、まだ気づかれずにいる物語を見つけ出し、
掘り出して、それに言葉を与えることだ。
人が物語の中に自分の居場所を見つけるように、
物語を発見し、言葉にするという行為の中に小川さんの居場所がある。
物語は、自分が特別な存在であることを確認するためのものでもあるのだ。
現実の中ではささやかな存在であるということと、
物語の中では、誰もが特別な存在であるという矛盾の中で人は生きている。

電話の中でも、さまざまな物語が語られる。
それは、ときには作り話のようでもあり、小説より奇異な事実のようでもある。
でも事実かどうかは、あんまり問題にしない。
作り話だとしても、それを語りたいという本音がそこにあるからだ。
そして、かけてくる人が納得できる所に着地するよう心を砕く。

小川さんは、物語のあるべき姿をこんな風に書いている。

物語もまた人々の心に寄り添うものであるならば、
強すぎてはいけないことになるでしょう。
あなた、こんなことではダメですよ、あなたが行くべき道はこっちですよ、
と読者の手を無理やり引っ張るような物語は、
本当の物語のあるべき姿ではない。

人は電話の中で、自分が特別な存在であることを確認する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 8日 (日)

お客さまは神様です

「お客さまは神様です」という言葉がある。
ある有名な演歌歌手が発して以来、
この言葉は流行語を通り越して、いまや常識に近い。
でも実際のところ、この言葉の真意は、どの程度理解されているのだろうか。
私自身も、せいぜい「お客さまは大事」という程度にしか理解していなかった。

そもそも、お客さまはいいとしても、神様というのがよく分からない。
だいたい、ヒトはなんで「カミサマ」なんてものを発明したのだろうか。
「カミサマ」は「宗教」につきものだってことになっているが、
世の中に、なぜ「宗教」というものがあるのかというのもよく分からない。

自分を制御する何かを、外に具現化したのが「カミサマ」だ、
という説明を何かで読んだような気もするし、
脳科学では、すべての概念はヒトの脳が生み出すと考えられているが、
こんな面倒くさいものを、わざわざ考え出した理由は、いったい何なのだろう。

私の仕事は、現実的には「宗教」とは何の関係もないのだけれども、
「宗教的」であることは避けて通れないといったところがある。
サービス(語源は「神に仕える」)とか、
ホスペス(ホスピタリティの元である「客」の意)という言葉と
密接な関係があるからというのは、説明としては分かりやすいが、
でも、どちらかというとそれは後づけの理屈で、
自分の感覚では、どうも自分の方から宗教に引き寄せられているような感じもあり、
それは年のせいなのか、育ちのせいなのか、それとも自分には
自分では意識できない、救いを求める何かがあるのか、などと考えたりしていた。

東大大学院教授で倫理学が専門の菅野覚明さんによれば
日本人ほど宗教的な民族はないのだそうだ。
ただしこれは、いわゆる「宗教」とは違う。
「宗教」が必要ないほど、どっぷりと宗教的なものに浸かっているのが日本人で、
その様相は、世俗的、科学的合理性と「宗教」を対比させて
現実生活を営んでいる欧米人とは、大きく異なるとのこと。
「宗教」はおいしい水が出てくる水道に、わざわざとりつける浄水器に
過ぎないと考えているのが、日本人。
日本人にとっては、宗教とは水そのものなのだ。

で、「カミ」とは何かっていう話になるのだが、
菅野さんによれば、「カミ」とは実在そのもの。
実在とは、「自分の手の内にないもの」、言い換えれば「究極の他者」である。
そうか、「カミ」とは「究極の他者」だったのだ!
これは、実に説得力のある説明だ。
ヒトは自分の中に「究極の他者」がいるってことを言いたくて
「カミ」を発明したってわけね。
その意味では、一神教も多神教も違わない。
でも日本人は、世の中は合理的知性では捉えきれないと考え、
その意味では「科学」も「宗教」も同列のものとみなしている。
浄水器の水でみそぎができないのと同じように、
科学で世の中は解明できないと考えているのだ。

さて、ヒトがどうやってカミに出会うかといえば、
「祟りじゃあ」というのが、それだ。
たたり(祟り)とは生の「他」に出会う感覚であり、
菅野さんの言葉を借りれば「ゾクッとする感じ」であって、
これが見えるカタチになったものが清浄ということなのだそうだ。
つまり寺院の庭が、きれいに掃き清められているのは、
祟りに会うことができるように準備しているというわけ。
これから考えても、祟りとは怖いだけじゃなくて
得体の知れない、サプライズに満ちたものだってことが分かる。
ちょっとばかり有難いというイメージもあるんじゃないだろうか。
私がお墓を好きなのは、お墓が祟りに満ちているからなんだと妙に納得してしまった。

カミに相対する基本的な態度は、道元の言う「生死を生死にまかす」
つまり身をまかすということであり、これは最高の敬意で接するということでもある。
クライアントに対する時の、まな板の鯉の気分っていうのは、
極めて日本的な、カミサマに対する態度だったともいえる。
「お客さまは神様です」という言葉の真意が
「お客さまは『究極の他者』です」という意味だとすれば、
私の仕事にかぎらず、顧客を相手にする仕事はどれも
多かれ少なかれ宗教的な様相を帯びてくるのは当然のことなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »