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2007年5月20日 (日)

インクルーシブ教育

開業医が総合医の役割を担うことによって、病院へ患者が集中するのを防ぎ、
勤務医の負担を軽減しようという対策が取られようとしている。
病院へ患者が集中するのは、ひとつには開業医より病院の方が
診断のスキルが高いのではという、思い込みが患者の側にあるのだろう。
しかし実際には診断のスキルは個人差で、
優秀な開業医もいれば、凡庸な勤務医もいる。
ただ、開業医は自分で診療科目を自由に設定できるという点で、
どうも信頼性に欠けるような感じがすることは確かだ。
開業医の診療科目には、質の保証がないといっていい。
だいたい何を根拠にひとりの開業医が「皮膚科」と「泌尿器科」とか
「内科」と「外科」なんて看板を掲げられるのだろう。
だったら専門医がいる病院へ行った方が安全だと思うのは普通の感覚だ。

だから国が一定の教育を施して総合医の資格を与え、
プライマリケアを担ってもらうという考え方は、理にかなっているとは言える。
まあ、個人的には、現行の医療制度がすでに限界に至っており、
これを変えなければ問題は解決しないとは思っているけど。
医療においても他の分野と同様に、専門分化した領域を
統合する必要が高まってきているということだろう。

5/18付けの毎日新聞「論点」は、そのような時代の流れを感じさせる
『インクルーシブ教育』という興味深い記事を掲載している。

インクルーシブ(包み込み)教育とは、障害のある子も普通学級で
授業を受ける教育をいうのだそうだ。
一般に障害児は隔離された特殊学級で教育を受けるのがこれまでのやり方だった。
これは普通学級とは別に、障害児に「手厚い教育」をおこなうという名目で
おこなわれているわけだが、その裏には、普通学級を効率よく運営するためには
できるだけ同じレベルのこどもを集めた方がやりやすい、
という発想が潜んでいることは明らかだろう。

しかし、そのおかげで社会性を育むための学校という、せっかくの場で、
社会は多様な人間の集まりであることを実際に経験できず、
競争原理に支配されて、落ちこぼれなどという序列がまかり通るはめになり、
自尊感情や思いやり、普通児だけでなく障害児自身の
人間関係形成能力の育成にも支障をきたす結果を呈してしまった。

インクルーシブ教育は、障害者の権利条約の中では原則とされており、
この条約が国連総会で全会一致で採択されたのを受けて、
日本政府もこの条約の批准を検討していると、記事にはある。

「論点」の筆者のひとりである広島大大学院教授 落合俊郎さんは、
インクルーシブ教育が目指す先には共生社会があると言い、
「共生社会とは資本主義と社会福祉が共生していくための政治的戦略なのだ。
つまり、市場主義の行き過ぎで格差が生じ社会不安が増大した失敗を反省し、
資本主義と福祉社会の融合・共生を図るための理論である」と書いている。
「人々が市民意識を持って互いに助け合い、役割を分かち合う社会を
築きあげるためには、学校現場でも同じよう体験を持ち、
意識を変える必要がある」ということなのだ。

障害者でなくても、私たちはそれぞれみな、
何らかのハンディキャップを持っている。
そういうことを意識できない社会より、
しっかり意識させてくれる社会の方が
はるかにすばらしいと思わずにいられない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

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2007年5月 9日 (水)

連休中の共時性

連休は久しぶりに蓼科の山荘へ。
4月29日に小淵沢にオープンしたばかりのキース・へリング美術館を覗き、
我が家へは明るいうちに着いたのに、気温は10度を切っており、
早速ストーブに火を入れる。
牛乳パックを火種にするとよいと教えてくれたのはお隣さん。
最近はマッチ1本で火がつくまでになった。
乾ききった薪は、紙のようにぺらぺらとよく燃える。
火いじりが好きなので、ストーブの扉は開けっ放しだから、
薪はそれこそあっという間に燃えてしまう。
バラクラ・イングリッシュガーデンの隣の「ストーブハウス」で、
「それじゃあ、暖炉ですね」と言われて、ああ、そう思えばいいんだと妙に納得。
ストーブにとっては、必ずしもいいわけではなさそうだけれど。
「ストーブハウス」はストーブ用品だけでなく、
雑貨やカジュアルウエアなどもあり、ドライブの途中に寄るのが楽しみな店だ。

我が家の裏の山には日本カモシカが生息しているのだが、
どうやらそいつが冬の間に敷地に侵入したらしく、
下の方だけ皮をはがれた樹が数本、ご丁寧に落し物まで残してあった。
どうせなら在宅中に来ればいいのにと思うが、
そこまで親しくはなりたくないってことらしい。
今回は、朝の散歩でアカゲラが樹をつついている所に出くわし、
しばらく姿を見なかったリスも挨拶にやってきた。
タラの芽は芽吹きが遅く、収穫なし。
もっとも芽吹いても、高すぎてもう手が届かないのがほとんどだ。
タラというのは、芽を取り損なうと
梯子をかけなければ届かないほどの大木になるのだ。
芽が届かないっていうのは、ここから来たのだろうっていうのはジョークだけど。

ちょっとした驚きは、別荘の住人が運営している私設文庫で
20年以上も前に仕事で使っていた本に出合ったことだ。
この文庫は各自が寄付した本で成り立っており、そもそも、そんな所に
「お母さんのための小児科百科」なんていう本があること自体
想像を超えていたのだけど、私にとってこの本は、
松田道雄さんの「育児の百科」の次くらいにいい本だと思って購入した本で、
それがいつのまにか失くなってしまい、あれはどこへやったのだろうと、
最近になってしきりに思い出す本だったから、
それが仕事とは全然関係のない場所にあったということが
なんだか奇跡のように思えてしまったのだ。
もちろんすでに絶版になっている。

そのことを考えていると、それに出くわすという体験がわくわくするのは、
自分という個は孤立しているのではなく、
大きなつながりの中にいるような感じをもたらしてくれるからだろう。
私自身は、これを神秘的なできごととは思わないが、
何か大きなエネルギーをもらったような気分になることは確かだ。
だからユングも、共時性という名前をつけずにいられなかったのだと思う。

連休中の電話は、さすがに緊急度は低い。
長期の休みに入るとあって、準備に怠らないのか、
それとも遊びに忙しくて電話どころではないのか。
もともと忙しいときには電話は少ないものなのだ。

ふだんの電話は、「どうしたらいいでしょうー」という感じが多いのだが、
連休中のは、ひとあじ違う。
クリニックも薬局も休みだと分かっているので、
何とかこの長丁場を自分で乗り切ろうとする。
どうしたらいいか自分で対策をたてて、
応分の協力を依頼してくるという感じなのだ。

連休明けまで薬が持ちそうもないので薬局に交渉し、
先生から依頼をもらえれば処方してくれる、
という約束を取り付けたから、先生に電話をしてほしいとか、
これから実家へ帰るので、かかりつけ医の薬がなくなったら
前にもらった薬で代用したいが、それでよいかとか、
人はそれなりの状況に置かれれば、
自分で解決策を見出す力はあるのだなあということを実感する。

岸田秀さんは近著『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』の中で
「人間は、一応何とかやってゆけている限り、
変わったことは考えないものである。-略- 
どれほど知能が高かろうが、世間の常識から
多大の被害を受けている者の頭にしか、
常識を覆す独創的思想は浮かんでこない」 と述べている。
余談だけれど、この本は人類はアフリカから生まれたのに、
どうして黒人ばかりではないのだろうという私の素朴な疑問に、
ある仮説で応えてくれている。

とんでもない考えに触れるというのは楽しい。
電話相談を辞められないという相談員の多くは、
そんな風に思っているに違いない。

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