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2007年8月31日 (金)

熊本の短い夏

急に涼しくなって、あの憎らしいほどの暑さを何だか懐かしく感じてしまう。
喉もと過ぎれば、ということは、あの暑さは今頃胃袋のあたりにいるのかなあ。
ブートキャンプのDVDも、さすがにあの暑さでは冷房なしにはできなかった。
冷房をかけて汗だくになる、というのも何だかすご~く矛盾していると思うけど、
暑さにただへたばっているよりは、いいような気もする。
暑いと動きたくないしー。
まあ、暑いから何にもしない、というのも好みではあるけれど。

先週末は外来小児科学会の年次集会が熊本であった。
この学会は、毎年8月の最後のほうに年次集会があるのだ。
よくこの暑い時期にやるよなあと思うが、開業医の先生が多いので
一番ヒマな(つまり患者が少ない)時期に勉強時間を持ってきているのだそうだ。
熊本へは行ったことがなかったので、物見遊山を目的に、
学会とは全然関係のない安いツアーを探して、早々とチケットを確保。
ついでに参加するプログラムを決める。不真面目な参加者だ。

熊本空港へ降り立ってみて、南に来たことを実感して愕然とする。
前回の九州開催は、数年前に大分であったのだけど、
そのときは関東の方が暑く、「なんで南のほうが涼しいんだ」と大いに不満だった。
今回は、南の威力をもろに感じる。参りましたという感じだ。
おまけに市内までのリムジンバスも冷房が弱いのか暑く、
暑いとイライラするという人間の、というか、自分の性がよく分かる。
寒いところの人も我慢強いが、暑いところの人も、きっと我慢強いに違いない。

今回は一泊だけのつもりなので、着いた集会の前日におみやげを買っておこうと、
ホテルで一休みしてから街へ出てみる。
熊本市内は観光都市というより、ごく普通の都市と同じで結構大きい。
新市街というアーケードを歩いてみるが、吉祥寺とか荻窪あたりの商店街を
歩いているみたいで、ドトール、スタバ、ケンタといったチェーン店は一通りあり、
熊本らしい特徴を探すのは難しい。
新市街がある以上、旧市街もあるのだろうと思うが、
暑くてとてもじゃないけど探す気になれず、デパートで芥子レンコンを買い、
タクシーで熊本城に連れて行ってもらい、お城の中を見て天守閣まで上り、
ここも暑いので、さっさと退散する。
茶店で氷を食べようかなあと思うが、暑すぎて食べる気にならず。
でも熊本城の美しさは印象的。こういう歴史を感じさせる場所が、
生活の中にあることは、人の心にどう作用するのだろうと考えたりする。

翌日の年次集会では、もっぱら『質的研究』のプログラムに的を絞り、
午後の最後は関連のワークショップ(WS)を選ぶ。
リーダーではなく、いち参加者として参加するワークショップは気楽で楽しい。
二組に分かれて「保護者の意思決定に関与すると思われる要件を挙げる」
という課題に取り組むが、私たちの組は事例がシンプルだったこともあり、
比較的簡単に達成してしまう。でもどうも物足りない感じは残る。
今まで何回か、この年次集会でワークショップをやってきて思うのだけど、
お医者さんのような頭のいい人たちが、この種のWSに取り組むと、
ともすれば課題の達成自体が目的になってしまい、
プロセスで獲得するものが薄くなる傾向があるような気がする。
今回も、もう少し丁寧に考えてみたら?という部分があったのだけど、
とんとん拍子に結論へ行ってしまった感じがあって、
飛行機の関係で、プログラムの終わりまではいられなかったことを、ちょっと後悔。
この続きは、勉強会で埋めることにしよう。

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2007年8月23日 (木)

ポストモダンのマーケティング

小児医療関係者のMLが、医療制度の話題で盛り上がっている。

発端は、「風邪に即、抗生剤」とか「アトピーに即、抗体検査」といった
過剰診療を問題と考えるDrからの書き込みだった。
日本の開業医は世界でも例のない、フリーアクセス、自由競争だから
過剰診療、過剰治療になるのは自然の流れなんだから、皆保険制度を見直して、
かかりつけ医制度を導入するのがいいんじゃ?というのだ。
3分診療でも時間をかけた丁寧な診療(もちろん、これには正確な情報提供と
相手が充分理解できる丁寧な説明が含まれる)でも、収入が同じであれば、
必然的に、数をこなす診療にならざるを得ない、というあたりは、
医療もなにやら、大量生産、大量消費という「近代の呪縛」から
抜け出せないでいるみたいで、ポストモダンはまだまだ先のことといった感じだ。

一方、受診者に選択権がある皆保険制度は、最低限守るべきという意見もある。
誰もが等しく、生命を守るための制度の恩恵を受けられるということほど
豊かさを保障するものはないという意見には、ある種のロマンもあって、
合理性だけでは物事は解決できないという意味では賛成。

カナダ在住のDrからは、アレルギー抗体検査を例に、彼の地の医療のあり方が。
あちらでIgE抗体があまり検査されない理由は、まずは「高いから」、
そして「それなのにあまりあてにならないから」だとか。
オンタリオ州では、年齢に関わらず医療費は基本的に無料なので、患者負担はゼロ。
だけど、医療費の絶対値として高いからといって、それに見合う価値が
見出せなければ実施しない。
これは日本とどこが違うのかというわけだ。

Drの中には、患者は所詮素人なんだから、
患者に医療を評価する力を求めても無理、なんていう
前近代的なタイプもいるけれど、患者が本当に求めているのは
評価することではなくて、自分が納得できることなのだから、
そこへ向かって、どうやって制度を再構築していくのか
(こういうのをリストラっていうのだっけ)Drだけでなく、医療者だけでもなく、
医療の受益者も巻き込んで考える必要があるんじゃないかと思う。

こどもの嘔吐と腹痛が治まらない、と電話をしてきた父親。
当院のかかりつけ患者ではなく、大きな病院を受診しての相談で、
受診についていったのは母親だから、分かるのは診断名と処方された薬だけ。
それらの情報から、多分診察をした先生は、こう診断して、
その薬を処方されたのでしょうと話し、嘔吐と腹痛の対処法と、
その種の感染症は治るまで、ある程度の時間がかかるので、
こんな風にしながら、一緒に付き合ってあげてくださいと説明する。

こどもの苦しい様子を見守ることがつらいのは、いつの時代でも同じだけど、
大人になるまでの過程で、つらい経験が少ない世代になるにしたがって、
耐える力も弱くなっているってことかもしれないが、
そこに若干の医療不信もあったりするから、コトは単純ではない。
でも、電話を終える頃にはスーッと霧が晴れたような声音になって、
「今度は、ぜひそちらの医院を受診したいと思います」と言ってくれる。
当院にかかったことのない人が、電話一本でかかりつけ患者になる、
これこそが時間外の電話相談の意義なのだ、
ポストモダンのマーケティングなのだと、楽しい気分になる。

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2007年8月20日 (月)

人と人をつなぐもの

昨日は夏祭り最後の日だった。
ようやく少し涼しくなった大通りの両側に、たくさんの屋台が出ている。
それも食べ物屋ばっかりだ。
こんなに食い物が豊かなのに、なんで食べ物屋なんだと思いながら、
昼メシを食べてこなけりゃよかったと、ちょっと後悔する。

通りは車をシャットアウトし、笙や篳篥を奏でる人、鬼面の装束をつけた人、
浴衣に黒羽織にカンカン帽といういでたちの集団などが、
やってくる神輿を出迎えようと待っている。
神輿を担いでいるのは、褌に祭り半纏の男衆が圧倒的だが、
きりりと鉢巻をした女の人もちらほら見える。
この色っぽさは、日本独特の風情だろう。
男たちはかかととつま先で膝を屈伸させながら、
二拍子の独特な足運びで、神輿をゆらりゆらりと運んでくる。
みんな何か大きなものに寄りかかっているような、
成り行きは神輿任せとでも言いたげな、
ゆったりとした嬉しそうな表情をしている。
男の人には酒を飲ませて神輿を担がせておくにかぎる。
究極の平和とは、彼らの闘争本能を祭りと酒で
懐柔することに尽きるんじゃないだろうか、などと考えながら
携帯で写真を撮ったりする。

ある時ふと思い立って、外来小児科学会の重鎮である、
I先生主催の『質的研究会』に出てみたことがある。
その後体調を崩したこともあって、ずっと欠席していたのだが、
先日、そのI先生から「一緒にこんな研究をやりませんか」とお誘いをいただいた。
21世紀のテーマはコミュニケーションだと言われるだけあって、
どこでもコミュニケーションが話題になるのだが、
どれもテクニックのレベルでの話で、もう少し根源的なことを考えたいと
思っていたので、I先生のお誘いは、とても魅力的でヒントが満載だった。

自分の中に何かがもやもやしていて、何かになりそうなのだけど
それが何だか分からない時に、それに形を与えてくれるものに
出会えるというのは、ラッキーというか僥倖としかいいようがない。
世界には、自分を生かしてくれている何かがあると感じるからだ。

今村仁司さんの『社会性の哲学』は、人の社会性の起源を
こうした人間の存在感情から説き起こしている。
新聞の書評で、「ああ、そういうことを考えてくれている人がいたのだ」と
知った時は、本当に驚きだった。
私にとっては高価な本だったので、ちょっと中身を確認して、
よさそうだったら図書館で借りようと思い、丸善まで出向いたのだが、
立ち読みしてみて、その文章の平易なこと、それなのに、
私が今までまとまりなく考えていたことを、きちんと言語化してくれていることに
2度驚き、大枚をはたいて購入してしまった。
読み終わるのが惜しくて、読み進みたくないと思う気持ちと
でも、先を読みたいと思う気持ちの板ばさみになる本に出会うことは、
そうそうないけれど、そういう本に出会ったときの幸福感もまた、
自分を生かしてくれている何かを感じることに似ている。
今村仁司さんという人については、今年急逝されたということしか
知らないのだが、こういう人には、もっと長生きして
いろいろ教えてもらいたかったと心底思う。

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2007年8月 4日 (土)

夏の1日

朝早く息子と夫をキャンプに送り出し、つかの間のひとり暮らしに突入。
息子が夏休みだと、やれバイトだ、サークルだ、祭りだと、
なんだか1日中飯炊きばっかりやっているような気分だが、
今日から少なくとも2日間は、掃除と洗濯だけ考えればいいのだと思うと、
ふつふつと解放感が沸いてくる。で、そのふたつは朝のうちに済ませちゃったし。

午前中は先月の仕事のまとめの事務作業。
天変地異があると電話の本数は激減する。電話以外に関心が向くからだ。
大きな不安があると、小さな不安はかき消されてしまうってことだ。
忙しいっていうのは、別にいいことでもなんでもないが、こういう効用はある。

仕事が一区切りついたところで、一昨日購入した麺棒を返しにデパートへ。
バスのお客が私を含めて2人。さすが夏休み。みんなどこかへ行ってしまった。
この麺棒、最近、近所で発足した学童保育クラブから、
「餃子つくりをするので貸して」と言われて貸したのはいいが、
公園へ持って行ったとかで、失くされてしまったのだ。
公園で餃子つくりかよ、と思いつつ、こちらが言い出すまで「失くしました」でもなく、
夫が先手を打って「弁償だな」と言って、やっと「弁償します」
ってことになったのだけど、地域のためにとか、
こどもたちに豊かな時間を、なんて耳ざわりのいいことを言う前に、
もっと基本的な礼儀を養うべきでしょ、大人も、とちょっとムッとする。
弁償するって言ったって、買いに行くのはこっちなのだ。

あちこちのデパートを探して、とりあえずの品を買ってはみたものの、
大昔に大学の購買部で買ったのとは大違いで、やっぱり気に入らない。
「妥協することない」と夫も言うので、返すことにしたのだ。
当のデパート曰く「返金は商品券になりますが」と言うので、
端数はどうするのかなと見ていたら、一部商品券、端数は現金だった。
端数だけ現金にすれば、デパートはいくらか得ってことなんだろうか。
どうもよく分からない。
変な世の中、と思いながら行きつけの八百屋を覗いたら
メキシコ産のマンゴーの安いのがあったので、ちょっと機嫌が直る。

午後は、仕事をしながら妹に頼まれたビザ申請書を作成する。
夏の暑さが増してきたせいか、電話が結構多い。
40度とか、41度という高熱の子が結構いる。
その合間をぬって、インターネット上で書類を書き込んでいく。
指示通りにおこなっていけばすんなり作成できるので、全然難しくない。
アメリカという国は、こういうシステムはしっかりしていて、
誰にでも簡単にできるようになっているところは、オープンで実に気分がいい。
何事もシステム設計側が偉そうに、わざわざ難しそうな方法を編み出す
どこかの国とは大違いだ。

内田樹さんの「街場のアメリカ論」は、そのアメリカとは日本にとって何なのか
という観点で書かれている。つまり日本にアイデンティティ・クライシスを
もたらしたアメリカとは、いったいどういう国なのか、というのがテーマだ。
いろいろと面白い角度から論じられているが、中でも、
アメリカという国が理念先行型だという主張には、ハタと納得。
アメリカの統治システムは、いかにして賢明で有徳な政治家に統治を託すか
ではなく、いかにして愚鈍で無能な統治者が社会にもたらすネガティブな
効果を最小化するかに焦点化されている、のだそうである。
外側から見ていると、アメリカという国はティーンエイジャーみたいだが、
案外賢いのかもしれない。でも戦争ばっかりしているところは、
とても成熟した大人とは思えないなあ。きっとまだティーンなので、
ナショナル・アイデンティティを確立するには喧嘩しか方法がないのだろう。

ビザができあがり、あとはお金を振り込むだけなので、それは週明けにして
洗濯物を取り込み、ベランダの花に水をやって、夕食は冷やし中華にする。
おいしいものを食べると、俄然シアワセな気持ちになる。
シアワセに長生きするコツは、感覚を磨いておくことだと、
ひとりでガッテンしてしまった。

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