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2008年2月24日 (日)

ヒタンキタン

娘が出る舞台を見に、西武新宿線を乗り継いで新井薬師まで。
午前中池袋でバーゲンの買い物をしていたという妹と
昼に合流し「メリメロ」というフレンチでランチ。
シェフがひとりで切り盛りしている、こじんまりとしたフランス田舎料理の店だが、
味は繊細で優しく、シェフの雰囲気そのままのような料理に
こういう店がある地域をうらやましいと思う。

「ヒタンキタン」という今回の公演のテーマは、『家族』だそうだが、
恋愛や介護、ロリコン、狂牛病ならぬ狂豚病といった社会的なテーマを
組み込みつつ、ヒトの欲望をカニバリズムに喩えて見せる。
誰でも自分のことはフツーだと思っているかもしれないが、
傍から見ると、とてもフツーには見えないと言われているようで、
いやあ、これが演劇の役割だよねと思いながら見る。
日常をデフォルメすることで、リアリティが見えてくるということは、確かにある。
娘は案内を出すのに「『R-15』です」と注をつけたらしいが、
思ったほどグロテスクではなく、歌あり、踊りありで楽しくもあり
しかし見方によっては相当シビアな話でもある。
だいたい豚の解体方法なんて、ふだんわたしたちは意識しない。
でもちゃんと説明されると、これはかなりショッキングではある。
わたしたちは、自分の欲望を満たすためには、
それにブレーキをかけるような要素からは、巧みに目を逸らしているのだ
ということを、あらためて突きつけられる。
欲望に限りがないのではなく、欲望を限る要素をそぎ落としているから
欲望は無限だと勘違いしてしまうってことなのかもしれない。
この公演は「テアトルプラトー」http://www.t-px.com/lineup-index.php
という演劇番組で放送が決定したそうだが、
こういう番組もあるのだなとは初めて知った。

午後は春一番が吹いているとかで、地下鉄が不通。
JRを乗り継ぎ、大混みのバスにもぐりこんで帰宅。
夕食もそこそこに、地域の学童保育のNPOで、
「電話相談を通して見えてくる子育て」というテーマで、ちょこっと喋る。

電話相談は、1971年に育児相談をテーマに始まったのが最初だ。
都会の生活がどんどん変化し、便利にもなるのに合わせて、
子育てのやり方をどう変化させていくか、が最初は課題だった。
そのうちに情報化の波に乗るように、科学的な思考が育児に入り込む。
育児の面倒くささを科学が解決できるかも、と考えてしまうあたりが
ヒトの浅はかさと言ってしまっては元も子もないのだけど
外界を自分の思考の枠組みにあてはめて理解する、というのは
人間の特性だからしかたがないのかもしれない。
でも、科学は補助具にはなっても、解決策にはならない、
ということを、相談を通じて教えてもらった。
こういう社会を生き抜くには、親もこどもも、
生き物としての感覚を磨く必要があるのではと思う。
こどもの感覚がおかしいと言われるが、振り返ってみれば
おとなの感覚も相当おかしい。
というか、おとなの感覚の方がはるかにおかしい。

漁船を感知できないイージス艦なんて、その最たるものだろう。

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2008年2月18日 (月)

身体の過剰

質的研究でパイロットスタディをおこなう準備を進める。
なんだかだんだん大がかりになってきてワクワクしてしまうが、
逆に、これで本当にうまくいくだろうかという一抹の不安もある。
ハードの整備が進めば進むほど、何かが落ちていくような気がするのだ。
コミュニケーションという人と人との間に起こることを
ハードで補うことが果たして有効か、アナログ人間としては甚だ疑問。
しかし考えてみれば、医師と患者のコミュニケーションを考えるのに
「こうやったらいいと思うんです」と言った通りのことが、
これからおこなわれようとしているわけで、言った責任は私にもある。
事態を着々と進行させてくださった先生の手腕に、今さらながら敬服する。
会社勤めをしていた頃、「仕事を進めるにはキーパーソンが大事」
と教えてくれた人がいたが、それらしい雰囲気を漂わせた人や
いかにも自分がそうだといわんばかりの人はいたものの、
本物のキーパーソンはごくごく稀だった。
今の仕事をしていると、本当のキーパーソンというのは、
らしい雰囲気は全然なくて、どちらかというと表に出ない。
そういうタイプの人が、肝心なところで事態を動かしているように見える。

このパイロットスタディでは、準備の段階で医療者の文化というものを
知ることができるのも収穫のひとつだ。
たとえば、言語表現の違い。
「転ぶ」という言葉ひとつにしても、医療の分野ではイスから落ちるのも
階段から落ちるのも、走っていて転ぶのと同じように転倒というのだと。
う~ん、ホントかなあと思うが、だとしても「転んで頭を打つ」という表現は
やはり、おかしいですと訂正をお願いする。
こういう風に医療言語と一般言語をつき合わせるのも、
医療者の中では異邦人である私の役目だ。

胃を全摘出した長老の先生は、手術後2ヶ月しか経っていないというのに
昼食にカレーを一人前召し上がったりする。
研究会にも遠方から参加されるし、私たちをリードする力も強い。
大丈夫なのかなあと心配になるが、後輩の若い先生曰く
「具合は決してよいはずはないと思うけど、それを感じる力が弱いのだと思う」。
医師にはこういうタイプが多いのかもしれない。
何でお医者さんなのに突然死するんだろうと、
とっても不思議だったのだが、こういうことだったのか。
その後輩の先生も、首が動かなくなることがよくあり、
鍼灸師に診てもらいに行くと、
「なんで、こんなになるまでほおっておいた」と怒られるのだとか。
ただ単に忙しいだけが原因というわけでもない、感じないのよねと言うのだ。

こうした身体に対する感覚の鋭さの違いはどこからくるのだろう。
野間俊一さんは、「身体の哲学」という著書で、
身体感覚と「私」との関係について、3種類の精神病理を例に書いている。
それによれば、拒食・過食といった症例は、自己の社会的評価を
自己の身体の問題へとすりかえて、コントロールしようとした結果であり、
解離症は、身体感覚の過敏さが(これは身体の過剰と表現されている)
周囲に過剰に反応し、その脅かしを回避するために、
身体を切り離す=解離するのだという。
ここでいう解離とは、「私」の防衛のために「私の身体」が
切り離されてしまうことだが、それによって「私」の主体性も失われる。
「私」と「私の身体」は同一のものだからだ。
そして、どこにも自然な主体性を持てないために、
自傷という形で自分を確認しようというようなことも起こる。
野間さんによれば、認知の柔軟さの欠如が関係しているかもとのこと。
3つ目の境界例にも身体の過剰があるが、ここでは、体験の共有(共感)と
主体の脅かしという二面性は、矛盾したままで抱え込まれてしまう。

共感する、ということは、自分を放棄することでもあるから、
たしかに自分(主体)を脅かすことではある。
でも、ふつうはこれを脅かしとは感じない。
自分を放棄することは、ある種の快感を伴うことでもあるからだ。
説明するとややこしいが、人は通常そういう風に育ってきている。
だからといって、これらの症例は一見病理に見えて、
実はごく一般的な人のありようと地続きでもある。

そう考えると、身体感覚の弱さとはどういうことなのかと気になる。
共感性の弱さと身体感覚の弱さとは関係があるのだろうか。
確かに、あるタイプの医療者は主体を脅かされまいとして、
過剰に反応しているように見えることがある。
医療者と一般人のコミュニケーションは、
こういう観点から考えてみる必要もあるかもしれない。

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2008年2月13日 (水)

グロデックのエス

雪が降るかもしれないほど寒くなるらしいが、
今日のレッスンは大丈夫かしらと思いながら
スタジオまで約30分の道のりを歩いて行ったら、
先生の右腕が上がらないとかで、お休み。
自主練という声もあったが、どんぐりばかりが精を出しても
あんまり効果があるとは思えないので遠慮して、
空いた午前中は町をぶらつくことに。
週一の運動日がなくなるのは、ちょっと残念だけれど
極力散歩で体力を維持することにする。
腰の調子からいってブートキャンプは危なそうだし。

今朝はカフェオレを飲みそこなったので、カフェに入りたいけど
あいにく読む本を持ってこなかったなあ、どうしよう、
何か適当な本を選んで、コーヒーを飲みながらざっと目を通して
飲み終わったら返すってことにしようかなあ、などと考えながら
カフェが隣接している本屋へ。
適当に身体論の本を選んで、カフェオレを注文し読み始めたら、
これがどんぴしゃりで、結局購入する羽目になってしまった。
う~ん、フロイトのエスとグロデックのエスが違うなんて知らなかった。
しかもグロデックの方が先だったなんて・・・。
日本の研究者は、海外の研究の紹介ばかりしているとは
よく言われることだが、そういう人も必要だよね。
試食販売ならぬ試読販売っていうのも、結構ありなのだ。
今日をお休みにしてくれた先生に感謝、
自主練を蹴った自分の勘にもエールを送る。
いいネタというのは、私の場合いつもあちらからやってきてくれるのだ。

ここから後は家へ帰って読もうと途中で止め
(面白い本は読み進むのがもったいないのだ)
我が家のオトコどもと自分のためにバレンタインのチョコを買い
行きつけの安い八百屋での買い物は、重いので最小限に留める。
なんだか野菜が急に値上がったみたいだが、
原油価格の影響が出てきたのだろうか。
外出して帰路に着くときは、いつも雛鳥のために
餌を運んでいる親鳥の気分になる。
荷物が重いとなおさら。

冷たい風が吹きっさらしのバスターミナルには、高校生の長蛇の列。
今日は何かあったのだろうかと考えてみるが、全然思い浮かばない。
女の子はみんなミニスカートの制服、男の子は詰襟で、
全員お決まりのようにマフラーを首に巻いているが、
コートを着ている子は一人もいない。
おばさんとしては、あんなにお尻の近くまで足を出して寒くないのか、と思うが
お洒落だと思えば、あの年齢では寒さなんて何のそのってことなんだろう。
そういえば、我が家のかつての高校生も、とうとう一度もコートを着なかった。
しかし、いつも思うのだけど、あらかじめ待機しているバスに乗せるのなら
こんな寒い日は、早くから停留所に横付けして中に入れてくれればいいのに、
暑くても寒くても、時間にならないと横付けしようとしない感覚は全く不思議。
まるで顧客よりルールを守るほうが大事と言わんばかりで、
親切にすることより、不親切な方が
自分の存在意義を誇示できるとでも思っているみたいだ。

高校生の群れを見ていて、沖縄で暴行された中学生のことを考える。
この事件については、誰も触れようとしないネットグループもあれば、
怒りを書き込んでいるグループもある。
私自身は最初にこのニュースを聞いたとき、
どうして「家まで送ってあげる」というような危ない言葉に、
やすやすと従ったのだろうかととても不思議だった。
『送り狼』というのは昔から有名で、たとえ相手が日本人だったとしても、
知らない人にはついていってはいけないというのは、
(かつての)日本では常識だったし、自分の娘にも、それは厳命していた。
沖縄では、この種の事件は頻発していて泣き寝入りも多いらしいし、
米軍の横暴さというのは目に余るものがあるそうだが、
だとしたら余計に、もっと身を守るということに
神経質であるべきだったのじゃないか、という気がしてならない。
中学生が友達連れとはいえ、夜の10時過ぎまでイベント会場にいる
というのもよく分からないし、友人と一緒だったのにひとりだけ
オートバイに乗ったというのも、よく分からない。
これを、ずっと抑圧されてきた沖縄人の人権意識の問題という風に
還元している人もいれば、思春期の女の子の一時的な気の迷いと
説明している意見もあるが、どっちも子育てという観点からは
いまひとつという感じがする。

この事件は、早くも政治問題化しそうな気配だが、
どうもここには、報道されていない何かがあるんじゃないかという気がする。
私としては、これが底の浅い国防意識に火をつけて、
一挙に軍国主義化へと暴走しないことを願うばかりだが。

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2008年2月 6日 (水)

思考の整理学

ギンレイで「オリヲン座からの招待状」と「自虐の詩」を見る。

「オリヲン座」の宮沢りえちゃんは、ちょっとやせすぎじゃないかなあ、
でも昭和32年ごろだと仕方がないか、などと思いながら、
蛍も飛んだりする古きよき時代の再現といった、
この種の情緒べったりの映画にはやや食傷気味。

「自虐の詩」は阿部ちゃんだけを見るつもりで行ったのだが
幸福も不幸も違いはないというあたりが、ちょっと新鮮。
人生万事塞翁が馬ってことを漫画チックに描くとこうなるってことらしい。
しかし、指を詰めてまで堅気になって幸江と大阪へ出てきたイサオが
なんでパチンコばっかりやっていて、なかなか仕事をしようと
しなかったのかが、もうひとつよく分からない。

映画の後は、打ち合わせまで時間があったので、
外山滋比古さんの「思考の整理学」を読みながら、久しぶりにひとりでお茶。
ケーキをひとつ食べきるのは、甘すぎてちょっとキツイ。
「思考の整理とは、いかにうまく忘れるかである」というくだりは、大いに気に入る。
別に努力しなくても、忘れるのは得意だしー。
自分にとって価値があることは忘れない、ということは、
世の中には、そんなに価値があることは(自分にとって)多くないってことか。
師匠と言われる人が何も教えないのは、
弟子の知りたいという欲求をかきたてるためだと。
昔の人は「育てる」とはどういうことかを、よく知っていたということだろう。

突然、なぜ病気というものがあるのか、
ということをもう一度えなければいけないという気がして、急いでメモをする。
これについて書かれた本は、途中まで読んだのだが、
ルーティンワークに入って中断してしまった。もう一度読み返そう。
話の発端は、ある人の診療ガイドラインについて書いた日記をネタに
内科のお医者さまが、果たして予防接種で病気を防ぐ必要があるのか、
自分は疑問に思っているとメッセージをくださったからなのだが、
この種の意見は、小児科医のMLでは決して出てこない。

子どもの数が減っているのに、小児科医が足りないというのは
すごく変な議論だと思うのだが、これは病院の小児科医について
言われていることで、むしろ開業している小児科医は経営の心配をしている。
重症の感染症が少なくなり、日常的に病気になるこどもも減っているからだ。
少しばかり診療報酬をいじっても、この事態は解決しない。
こういう傾向を、予防接種の効果だというお医者さんもいるけれど、
私はむしろ、近藤誠先生の「栄養状態の向上」説に賛同する。
小児科のお医者さんたちにとって、これからどうしたら?は緊急課題なのだ。
小児科医の役割については、これから本格的な議論が始まるはずだが、
マッチポンプだけは、いいかげん止めた方がいいのでは?と私は思う。
不安を煽って、その解決に乗り出すというパターンは、もう流行らないでしょう。

打ち合わせで主要な議題を終えたあとは、お茶漬けを食べながら
有料トイレの話や、問題児で自治体から返品されたお医者さんの話で盛り上がる。
受験世代の男の子は、医者になろうというような子でも
アホみたいだよ、女の子の方がはるかに優秀さ、という長老の話に大笑い。
我が家の男の子についても、これで世の中に出て使い物になるのかしらと
心配したものだが(今でもまだ心配だが)、
お医者さんの卵でもそうなんだと、ひと安心。
男の子というのは、なかなか大人になれず、やっと大人になっても、
どこか観念的で、それで空回りしているケースも多い。
昔は、もうちょっと何とかなんないものかと気をもんだが、
最近は、どうにもならないものだと分かって、ほおっておけるようになった。
つまり、こちらも成熟したってことだ。

帰りは若い小児科の女医先生とJRで。
「中国製のギョウザなんか食べて、ああなっちゃったときに、
自分の家でできることってあるかしら」とたずねたら、
「毒物は、とにかく出す。嘔吐も下痢も止めない。
身体が出したいと言っているものは、とにかく出す、これしかないですよね」
としごく真っ当な答え。
自分のところで作れないので、お金を出して買うのだから、
リスクは引き受けなけりゃしかたないですよね、と意見の一致を見る。
しかし、狂牛病のアメリカと、ギョウザの中国にどこか共通した
ものを感じるのは、一体何なのだろう。

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