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2008年8月28日 (木)

自他の境界

アフガニスタンで日本人の青年が拉致され殺された。
現地の農業支援に自分を生かしたいという志を半ばにしてのことだった。
『ペシャワール会』には、ほんとにわずかだが応援をしていることもあり
「殺したりしちゃいけないよ。なんとか無事に戻して」と、
祈るような気持ちでニュースを待っていたが、叶わなかった。
誰が、どのような目的でこんなことをしたのか分からない。
中村哲さんが率いる『ペシャワール会』の活動は、
作物のできない不毛な土地に、まず井戸を作るところから始めるという
大変地道なもので、現地の人にとっては希望の星だっただろう。

しかし、人によっては他国の人間に自国で成果をあげられて
自分をないがしろにされたような気持ちになったかもしれないし、
もっと政治的に、自分たちの勢力を拡大するためには
よそ者は邪魔だと認識して、追い出す必要があると考えたのかもしれない。
殺された日本人の青年は、その恰好の標的になった形だが
彼が残したものは、決して無駄ではなく確実に残り引き継がれるだろうと思う。
今は、ただご冥福を祈りたい。

自分と他人との間には境界があるようで、案外ないのかもしれない。
内田樹さんは『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』の中で
自分の中には未知の自分があり、それを他者と呼ぶのであり
「私たちがそれなしではすまされない『絶対的他者』とは(驚くなかれ)
『私』のことである」と述べている。
そしてレヴィナスを引いて、

言い換えれば、「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、
私に理解できない<他者>が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、
それでは、というのでそのような<他者>との共生の方途について
具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである。
「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な
構造体であることを意味している。
「単体の私」というものは存在しない。私はそのつどすでに他者によって
侵食され、他者によって棲まわれている。
そういうかたちでしか私というのは成立しないのである。

と述べている。
そして

人間の人間性を基礎づけているのは、
この「私が犯したのではない行為について、
その有責性を引き受ける能力」である。
老師(筆者注:レヴィナス)が「倫理」と呼んだのは、そのことである。

と続けている。
内田さんの文章はレトリックが巧みなので、
読んでいると深く納得する一方で、なんだか腕のいい詐欺師に
だまされているような感じを持つこともあるのだが、
この部分は実感として分かるような気がする。

つまり私たちは、どこで他人とつながっているかといえば
自分の中に、自分では認識できないものを抱えているという一点で
つながっているということだろう。
よく、相手を思いやるとか、相手の立場に立って考える
などと言うが、自分が相手になれるわけではない以上、
これは口に出して言うほど簡単ではない。
でも、それが自分の中にいる、自分が知らない自分に
目を向けることだとしたら、(これだってメチャクチャ難しいけど)
もうちょっと現実味を持って理解できるんじゃないかという気がする。
だから他者の行為の責任を引き受ける、というところまでは
相当道のりは遠いが・・・。
(ユダヤ人であるレヴィナスは、こう考えざるを得なかった)

この本では、オムツや武道の話が、このテーマと絡められて出てくる。
娘も息子も保育園にお世話になった私としては、ずうっと
一番いいときを見逃したかもしれないという思いがあって、
今頃そう言われてもなあ(コミュニケーションがうまく取れれば
オムツはしないで済むという話なんだけど)、とも言いたいが、

武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、
相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。
「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。

という部分には頷けるものがある。

私たちは、ほんとは絶対的な個体にはなり得ないのに
無理にそれを志向しているのかもしれない、
と考えてみる必要もあるのかも。

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2008年8月23日 (土)

誰を味方につけるのか

週遅れで夏休みのクリニックの電話が結構入る。

「日本脳炎の予防接種をしようと思うが、ワクチンはまだ古いまま?」という母親。
新しいワクチンの入荷予定は入っていないという話をしているうちに、
公費で受けられる期間が、あと2年あると分かり、もう少し待ってみると。
別の母親は
「公園で、ほかのお母さんたちが『蚊が飛び交っているのよね』って言っている。
やっぱり受けたほうがいいですよね」
この子は、初めて受けようと予約をしていたときに、
中学生の日脳ワクチン被害者が出たために、急きょ接種をやめたのだとか。
お兄ちゃんはスケジュール通り接種していたが、
「え?小4でも受けたほうがいいの?」ということになって、
結局兄も妹と一緒に受けることになった。
こちらは別に受ける方がいいとも悪いとも言わず、ただ
「メリットとデメリットをね、どう考えるかなんだけど」と言っただけ。

かと思うと、若い母親から
「アレルギーテストできますか。離乳食を始めているのだけど、
あらかじめアレルギーがあるかどうか知っておいたほうがいいと思って。
卵とか牛乳とか小麦とかやっておいた方がいいとかいうことはない?」
メドをつけてテストするっていっても無駄になるかもしれず、
アレルギーがあるかどうかは離乳食を食べさせているうちに分かってくるから、
対処はそれからでも遅くない、と話す。

予防医学が浸透して、何につけても事前に防ぐという感覚が強まっている。
予防医学は理念的には理解できるが、実のところあんまりピンとこない。
ひとつには、誰も未来については予測ができないのに、
未来は過去の延長線上にあるという前提で、
過去のデータを適用するのは基本的に無理がある、と思うからだ。
もちろん予防接種などはそれなりに有効だし、必要だろうが、
接種する方にしてみれば、感染のリスクとワクチン被害のリスクという
二重のリスクを元に未来予測をしなければならず、ここでは
予防接種をしなかったから死ぬかもしれないという覚悟と
予防接種をしたから死ぬかもしれないという二重の覚悟を迫られる。

本来予測不可能なことを、予測と予防というシステムに入れ込もうとすると、
思考停止に陥るだけでなく、突発的なことが起きたときに、
いかにうまく対処するかというスキルも落ちてしまう。
マニュアル育児といわれるものは、その結果だろう。
そして、これは医療者にも言えることではないか、という気がする。

福島の産婦人科医の事件に際してまず感じたことも、それだった。
医師の逮捕は私も不当だとは思うが、それは
ひとりでがんばったんだから責めるのは酷だ、とか
医療崩壊を招きかねないから避けるべきだ、と考えるからではなく、
逮捕は何ら問題の解決にはならないと思うからだ。
多くの医療者は、無罪の判決を受けて
「標準的な医療をおこなった結果について責任を追及されるのはおかしい」
とコメントしているが、これには違和感がある。
『標準的な医療』は答なのではなく、
答えに至るためのプロセスだったんじゃなかったか。
ほんとうは『標準的な医療』を、目の前の患者にどう適用するか、
というところに医師の技術や医師と患者の裁量権があるはずで、
このことに案外医療者は無自覚なのではないだろうか。
この事件の患者側が納得していないというのは、
そこなんじゃないかという気が、私はする。

この事件の何が問題で、どうだったらよかったのだろう
という私の疑問に対して、ある医師は


事前に重篤な疾患だということを示唆されながら
「なぜ、医師がバックアップの体制を直接整えなかったのか」、あるいは
「危険かもしれないと分かっている妊婦なら、複数の産婦人科医がいる
施設に移すという選択肢はなかったのか」
「医師を派遣している医大は、日頃から十分なバックアップを
とれるようにしていたのか」
「医師が勤務する病院では、産婦人科の手術で何かあったときに
他科の医師が応援できる体制にあったのか」などなど
地方でよく見られる”一人医長の診療科”の問題点が
報道では、ほとんど明らかになっていないことだ、と述べている。

マスメディアが肝心なことを報道しない(できない)ということは於くとして、
医療体制も含めて、どこに瑕疵があったか、
一番よく分かっているのは、同業の医師たち自身だろう。
その医師たちが『標準的な医療』を盾に、
真摯に患者に向き合い、患者のために
自分たちに何ができるかを自問し、
体制作りも含めて、肝心な点を避けて通り過ぎるとしたら
患者との信頼関係を築くことは永遠にできないのではないか。
そして、いずれまた同じようなアクシデントが起きるだろう。

患者を味方につけないで、医師はいったい誰を味方にしようというのだろうか。

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2008年8月18日 (月)

本番は何が起こるかわからない

やっとバレエの発表会が終わった。
新人が多く参加していることもあって、当日の前の週は
通常の練習のほかに、照明合わせ、会場での場当たりと忙しく
前日の土曜日も練習して、当日は朝から楽屋入りし
写真撮影の後は念入りなリハーサル。
今回は、本番前のリハーサルとは別に場当たりがあって助かった。
練習場と会場とでは幅も奥行きも違うから、
リハーサル1回だけというのは、ちょっと不安なのだ。
本番当日のもうひとつの難しさは、
自分の出番に合わせてコンディションを整えることだ。
タイミングよく体を温めてアイドリング状態にしておかないと、
これが驚くほど本番に差し支える。
いつだったかの芸術祭では、帰宅して玄関で靴を脱ぐときに足がつった。
たいそう痛かったが、舞台の上でなくてよかったという安堵感の方が大きかった。

発表会でもないと、他のクラスの演技を目にする機会はない。
こどものクラスのレベルが総じて高くて驚かされる。
いろいろな大会で賞を取っている演目もいくつかあるが、
そういう演技でも、82歳の先生の厳しい注文がつく。
たとえ相手が小学生でも
「見せようとする意識が出すぎ。『祭り』の楽しさは
踊る側が楽しんで踊ることで表現できなきゃダメ」
というような指摘を受ける。
この年齢で、こんな高度な内容はすぐには咀嚼できないだろうと思うが
その言葉は必ずあとまで彼らの中に残り、
その子の表現に確実に影響を与えるだろうと思うと、
早い段階でそういう機会を持てる彼らを、
なんだかうらやましく思ったりもする。

私たちの『タンゴ』は、リハーサルでは位置取り以外は、
ほぼ問題なくできたものの、本番では若干のミス。
本番でできるためにリハーサルをするのに、
なんでリハーサルでやらなかったことをやるんだ!と思うが
リハーサルがうまくいくと、案外本番はダメという典型みたいだった。
年配だけど新人の踊り手には、
アクシデントに弱いので、できるだけそれを回避しようと
段取りを入念にするタイプと、
年の功ともいえる度胸で、アクシデントを気にしないタイプの2つがある。
いくら段取りを入念にしても、本番では何が起こるか分からないから
何が起こっても動じないためには、とにかく場数を踏むことが必要だが、
前者のタイプは、ひとつひとつをきちんとこなす能力には優れているから
案外前へ進んでいくのは容易だ。

問題は後者で、アクシデントに動じない度胸というのが
実は言われたことに対する理解力の乏しさや、ある種の鈍さだったりする。
まあ、どんな分野でも最初の段階では、何を言われているのか
皆目理解できないのが普通だから、しかたがないということはあるのだけど
そういう人に限って、結構分かったつもりでいるようなのだ。
年をとってから新しいことを始めるときに難しいのは、
できないことによってプライドが傷つくことを、どう乗り越えるかだが
自分のプライドを守ろうとすると、感覚を遮断するということが起きるのだろう。
変なプライドはかなぐり捨てる、というのは言うは易し、行うは難しだ。
そのため、こういうタイプは往々にしていいものを仕上げることより、
自分が舞台に立つことを優先しがちになる。
たぶんそれは、プライドを守ろうとした結果なのだろう。
ただこれだと、何を言われても何が起こってもへこたれない代わりに
なかなかうまくはならないだろうという予想はつく。
センスというのは、気づきがないと磨かれないからである。

私自身は結構本番が近づいた時期に腰を痛めたので、
とにかく当日を無事に迎えられるようにと
夏に履き慣れている下駄は本番までは封印し、
ちょっとでも気になるとマッサージに行って戦々恐々として過ごした。
ところが、私より若いベテランの先生が
本番直前に膝を痛めるというアクシデントがあり、
テーピングで何とかしのいではいたが、
自作自演も含めて出番も多かったから、
痛々しい姿を目の当たりにするはめになってしまった。
彼女は教室も持っているような実力があるから
穴を開けずに何とかやり過ごせたが
あれが自分だったらと思うとゾッとする。
代わりの人もいないし、群舞のメンバーへの責任と
先生への申し訳なさとで、身の置き所がなかっただろう。

終わってから観に来ていた娘と息子と、
仕事が終わった夫と合流し、久しぶりに家族そろっての遅めの夕食。
娘と息子からダメだしを受ける。
私になんか日頃の恨みでもあるのかい?
というような息子からの強烈なダメだしもあったが、
バレエのキャリアが長い娘からの
「レベルはともかく、とにかくうまくなった。
先輩は後輩の失敗は織り込み済みで踊るものなんだから、
失敗した人がいても、『私はちゃんと踊っていた』なんて言わないのよ。
ママだって、そうやってカバーしてもらってやってきたんだからね」
という言葉に勇気づけられる。
こどもも順調に成長していることを確認できた、いい日だった。

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2008年8月 8日 (金)

貧困を利用するビジネス

アメリカ人は、どうしてあんなに尋常じゃない太り方をするのだろう
と以前から不思議に思っていた。
日本でも最近はメタボなどといって、肥満に対する対策が立てられている。
スーパーへ買い物に行くと、
「そんなに買って、どうやって食べ切るの?」と思うほど、
大量に食べ物を買って行く人がいる。
そういう人は必ずしも豊かそうに見えるわけじゃないし、ほっそりもしていない。
たしかに、豊かになって食べる量そのものは増えているだろうし、
食生活の欧米化も要因のひとつになっていることは間違いないのだろう。
昔は見かけなかったような太り方の人が日本でも目につく。

で、アメリカ人があんなに太るのは、きっと大量生産、大量消費という
物質主義的な社会に適応できない人たちが彼の国にもいて、
そこに蔓延している、ある種の空虚感が
過食を招いているのではないかと、ひそかに仮説を立てていた。
昔、栄養学を勉強をしていた頃に違和感を感じたのは、
この学問は、生体に対する物質の出入りについては、
いろいろとうるさく言うのに、生体の素質、
つまり個々の人間があらかじめ有している条件については
ほとんど問題にしないことだった。
なので、こういうのは自分には向かないと思って、さっさと身を引いてしまった。

そのアメリカ人が、なぜ太っているのかについて触れていると書いてあったので
堤未果さんという人の「ルポ貧困大国アメリカ」という本を読む。
それで分かったことは、あの肥満は貧困の結果だということだった。
つまり栄養失調。
栄養失調が肥満をもたらすということは、栄養学的には明らかな事実だが、
それがアメリカという豊かさの象徴のような国で起こっている
という事実に、まず驚かされる。
さまざまな国から移民が流入している大国で、市場原理システムが暴走した結果、
明日の食べ物にも事欠くような貧困が生まれているという事実を、
この本はさまざまな角度から描いている。
サブプライムローン問題が報道されたとき、
その理解しがたい貸付け方が信じられなかったものだが、
これは、経済的弱者を食いものにする「貧困ビジネス」だったのだ。
そしてこの「貧困ビジネス」は連邦緊急事態管理庁(FEMA)など
政府機関の民営化とセットになって展開されている。
もちろんそこには医療も含まれる。
アメリカの医療費が異常なほど高いのは、それがビジネスになっているから。
自由競争のために生み出された使い捨て労働力が貧困層を形成し、
病気になれば破産する、世界一高い医療費によって中間層は
貧困層に滑り落ちる。

アメリカのすごいところは、この貧困層を再利用するシステムさえ
作り出してしまうところだ。
つまり戦争という名のビジネス。
ここでは戦争さえも民営化されている。
貧困層にとって、貧困から抜け出す唯一の方法は志願すること。
ローンを抱えた学生や、破産寸前の弱者は
言葉巧みに志願させられる。自己責任で。
アメリカは契約社会と言われているが、ここで行われている契約は
騙しのテクニック満載の名ばかりの契約だ。
つまり、どこの社会でも悪質さは共通している。
そしてこれには、個人情報の一元化もひと役買っている。
NGOのスタッフは「もはや徴兵制など必要ないのです」と言う。
「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。
経済的に追いつめられた国民は、黙っていてもイデオロギーのためではなく
生活苦から戦争に行ってくれますから。-略-
大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。
これは国境を超えた巨大なゲームなのです」

ここには州兵としてイラク戦争を支えた日本人の話も出てくる。
「アメリカ社会が僕から奪ったのは25条です。人間らしく生き延びるための
生存権を失ったとき、9条の精神より目の前のパンに手が伸びるのは
人間として当たり前ですよ。-略-」

いったい世界には何が起きているのだろう。
アメリカの後追いをしている日本は、
どこへ向かっているのだろうと思わずにいられない。

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