自他の境界
アフガニスタンで日本人の青年が拉致され殺された。
現地の農業支援に自分を生かしたいという志を半ばにしてのことだった。
『ペシャワール会』には、ほんとにわずかだが応援をしていることもあり
「殺したりしちゃいけないよ。なんとか無事に戻して」と、
祈るような気持ちでニュースを待っていたが、叶わなかった。
誰が、どのような目的でこんなことをしたのか分からない。
中村哲さんが率いる『ペシャワール会』の活動は、
作物のできない不毛な土地に、まず井戸を作るところから始めるという
大変地道なもので、現地の人にとっては希望の星だっただろう。
しかし、人によっては他国の人間に自国で成果をあげられて
自分をないがしろにされたような気持ちになったかもしれないし、
もっと政治的に、自分たちの勢力を拡大するためには
よそ者は邪魔だと認識して、追い出す必要があると考えたのかもしれない。
殺された日本人の青年は、その恰好の標的になった形だが
彼が残したものは、決して無駄ではなく確実に残り引き継がれるだろうと思う。
今は、ただご冥福を祈りたい。
自分と他人との間には境界があるようで、案外ないのかもしれない。
内田樹さんは『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』の中で
自分の中には未知の自分があり、それを他者と呼ぶのであり
「私たちがそれなしではすまされない『絶対的他者』とは(驚くなかれ)
『私』のことである」と述べている。
そしてレヴィナスを引いて、
言い換えれば、「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、
私に理解できない<他者>が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、
それでは、というのでそのような<他者>との共生の方途について
具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである。
「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な
構造体であることを意味している。
「単体の私」というものは存在しない。私はそのつどすでに他者によって
侵食され、他者によって棲まわれている。
そういうかたちでしか私というのは成立しないのである。
と述べている。
そして
人間の人間性を基礎づけているのは、
この「私が犯したのではない行為について、
その有責性を引き受ける能力」である。
老師(筆者注:レヴィナス)が「倫理」と呼んだのは、そのことである。
と続けている。
内田さんの文章はレトリックが巧みなので、
読んでいると深く納得する一方で、なんだか腕のいい詐欺師に
だまされているような感じを持つこともあるのだが、
この部分は実感として分かるような気がする。
つまり私たちは、どこで他人とつながっているかといえば
自分の中に、自分では認識できないものを抱えているという一点で
つながっているということだろう。
よく、相手を思いやるとか、相手の立場に立って考える
などと言うが、自分が相手になれるわけではない以上、
これは口に出して言うほど簡単ではない。
でも、それが自分の中にいる、自分が知らない自分に
目を向けることだとしたら、(これだってメチャクチャ難しいけど)
もうちょっと現実味を持って理解できるんじゃないかという気がする。
だから他者の行為の責任を引き受ける、というところまでは
相当道のりは遠いが・・・。
(ユダヤ人であるレヴィナスは、こう考えざるを得なかった)
この本では、オムツや武道の話が、このテーマと絡められて出てくる。
娘も息子も保育園にお世話になった私としては、ずうっと
一番いいときを見逃したかもしれないという思いがあって、
今頃そう言われてもなあ(コミュニケーションがうまく取れれば
オムツはしないで済むという話なんだけど)、とも言いたいが、
武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、
相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。
「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。
という部分には頷けるものがある。
私たちは、ほんとは絶対的な個体にはなり得ないのに
無理にそれを志向しているのかもしれない、
と考えてみる必要もあるのかも。
ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic
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