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2008年10月28日 (火)

エビデンス・ベースド

60代後半の知人の医師は、2回の脳外科手術後、胃がんで胃を全摘。
化学療法を行っている最中に、心不全の発作を起こし、
現在は医院も閉鎖して酸素吸入をしながら自宅療養している。
心臓の治療は弁置換しかなく、相当厳しい状態にある様子は、
ときどきご自宅へ伺うだけでも分かる。
かつてはEBMの勉強会を主催したのに続いて、
質的研究の勉強会も開始し、病状が深刻になったところで
さすがにリーダーの席は譲ったものの、
私たちと始めた研究では、相変わらずリーダーを続けている。
私たちは、その勉強会のために、ご自宅へお邪魔するのだ。

心臓の発作は必ず毎晩夜中に起きるのだが、
彼はそのたびに妻を起こし、血圧を測らせる。
「特別変わったことがないのに、毎晩測らせるのよ」
と彼女は少し憂鬱そうだ。
発作は服薬すれば落ち着くのだそうだが、
それだけでは済まないところが、医師魂というべきだろうか。
起こされる側は、いっときひどく疲労困憊していたが、
最近は慣れたように見える。
できるだけのことをしたいというのも家族の心理だろう。
彼は血圧以外にも排便の回数や、病院での検査結果などを、
すべてグラフにプロットし、訪問すると、
ほとんどの時間は、その説明に費やされる。
私たちのは勉強会というより、お見舞いと言った方がいいだろう。
彼はPub Medで化学療法中の心臓の
弁置換手術についての文献も収集している。
自身のデータとつき合わせて手術の可否を判断しようと考えているのだろう。

私たち素人が難しい病気になったとしたら、
どんなにがんばって情報を収集しても、
これがベストと思える治療法や結論に辿り着くのは難しいだろう。
もちろん多くの患者は、自分の病状がシビアであればあるほど
綿密に情報を収集し、覚悟を決めて意思決定をする。
手術の成功率が50%と出たときにどうするかは、
その人の人生観(死生観)や価値観が関わってくる。
そのときに、初めてその人らしさが現れると言う意味では
意思決定こそが人の個性といえるかもしれない。
手術の成功率が10%とか20%だったらどうだろうか。
まだまだやりたいことがあり、死ぬには早すぎると思っていたら
たとえ10%でも、それに賭けるだろうか。
それとも逍遥として、死を受け容れるのだろうか。
そのときの、その10%は、その人にとって
どういう意味を持ってくるのだろうか。

彼の持論は「科学的であること」だが、
EBMの勉強会のときも、エビデンスを目の前の患者にどう適用するか
という最終段階については、あいまいなままだった。
科学的とはどういうことか、と考えるのに最適だったのに避けたのか、
それともそういう問題意識がなかったのだろうか。
次に始めた質的研究の勉強会では、
山のような会話データをコード化し分析することが
どうやら彼にとっての「科学的」であるように見えた。
彼にとっての「科学的」とは、当事者性を抜いて分析することで、
確かにそれは「科学的」かもしれないが、
人間の研究には向かないのではないか。
当事者性をどのように組み込みながら、説得力のある議論を
展開するかでしょ、と何度も話したが、全然かみ合わない。
まるで、EBMで満たされなかったことが、質的研究でなら
満たされるとでも考えているみたいなのだ。
でもそれは大きな誤解だと、私は思う。
私は質的研究は、妥当性のレベルで議論するという意味で、
確率より、さらにあいまいだと考えるけれども、
(いや、どっちもどっちか)
どうも、彼はそう考えないみたいなのだ。
まあ、『研究』というのは、そういうものなのかもしれない。

エビデンスが揃えば、彼は手術に踏み切るのだろうか。
エビデンスが揃わなかったら、どうするのだろうか。
そもそも何をエビデンスと考えるのだろうか。
10%の成功率をエビデンスと解釈するのだろうか。
私は、患者も医師も意思決定は同じように行っていると考えるので
質的研究の勉強会でも、患者の意思決定を研究するのなら
まず自分(医師自身)の意思決定の仕方を探ってみてはどうか
と提案したのだけど、まるで理解されなかった。
療養中の先生には
「せっかく患者になったのだから、ぜひその心境を書き留めておいてください」
とお願いしたが、彼にもその重要性は理解できていないみたいだ。
そういうのは、彼にとっては「科学的」ではないってことなのだろう。
医師のアイデンティティーは、どこかで彼自身のアイデンティティーに
席を譲るはずだが、正面からそう問いかけるには、もう遅すぎるのかもしれない。

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2008年10月23日 (木)

意図を汲む

「かかりつけ医の時間外電話相談に電話をかけてくる保護者は、
あらかじめ自分で答えを持って電話をしている」
という内容を論文にして『外来小児科』に発表したのは2年前。
「相談したい」と言ってくる保護者は、自分で「受診は不要」と判断している。
だから、電話相談は最初から受診するつもりのない人を相手にしているので、
電話相談で不要不急(と言われる)救急受診を減らせるということはない、
ということをデータを交えて論じた。
小児救急電話相談で、不要不急な救急受診を減らせるわけではない、
ということは言っておくべきと思ったからだ。

そもそも医療者が、時間外の救急受診を不要とか不急などと論じるのは
自分たちの都合を主張しているだけの勝手な論理だとは思うが、
別に、今じゃなくてもいいんじゃない?という受診が時間外にも多いことは確かだ。
そこに何があるのか、というのは現在投稿中なので、
まだここでは明らかにできないが、山口県医師会の研修会でも話したように、
電話相談はセーフティネットワークのひとつだから、
受診した方がいい場合は、躊躇せず受診を勧める。
ところが「受診しろ」と言っても、なんだかんだとしたがらなくて
こちらが困惑するということもあるのだ。

「ゼイゼイ言って、息が苦しそう」
「熱があって耳も鬱陶しい(中耳炎っぽい)みたい」
「お腹を痛がり、血が混じった便が出た」
「性器が赤く腫れて痛がる」

と言いながら「今すぐ受診したものかどうか迷って」とか
「治ったら行かなくてもいい?」とか言う。
まあ、治ってしまえば行かなくてもいいけど、
とりあえず、今苦しいのは何とかした方がいいし、
痛がっているのをほおっておいたら可哀想でしょ、と言いながら
対処の仕方を説明し、「明日は受診して原因を確認して」と言っておく。
相手が当の本人なら、相手とこちらの関係だけで終わらせられるが
この場合は、こどもも絡んでいるところが判断の難しいところだ。
実際の症状の重篤さと、当の保護者が判断している重篤さと
こちらが受け取った重篤さの間には確実に落差があり
対面でも言葉がもたらす落差は避けようがないというのに、
電話でその落差を判断し、どこに着地するのがベストかを考える
というのは、実にアクロバティックだなあと思う。

妊娠中に脳内出血を起こして死亡した妊婦について、
受け入れを依頼した産婦人科医院と、依頼された病院の間で
「脳内出血」の可能性を伝えた、伝わらなかったというやりとりがおこなわれている。
受け入れを依頼した側はニュアンスが受け取ってもらえなかったと言い、
依頼された側は、そういうニュアンスはなかったので感染症と考えた、
ということらしいが、ここにも、電話での伝え方(言葉の使い方)の難しさと、
電話で何かを確定させることの限界が見られる。

電話での伝え方という点で言えば、ニュアンスで何かを分かってもらおうというのは
まず無理だと思っていた方がいいが、婉曲な表現が習慣になっていると、
これを自分の意図を明確に表現した言葉に置き換えるのは、案外難しい。
ニュアンスというのは、いわば、どう受け取られても仕方がない
ということの代名詞みたいなもので、この場合は依頼側の産婦人科医が
「脳内出血の可能性があるから、手術の体制が必要なので受けて」と言わなければ
意図は伝わらないと思っていた方がいいだろう。
一方で、このケースの受け取る側は研修医だったらしいから、
ひとり当直の心細さが、たぶんに受け取り方に影響を与えたと思われる。
実際には、患者を見ている当の産婦人科医の判断の方が、
見ていない産科医より確かだと考えるのが普通だと思うが、
ひとり当直の研修医は、できれば受け取りたくなかったので
感染症というところに逃げ込んだというのが本音だろう。
もちろん、この問題は産科医個人にあるのではなく、
ひとりで当直をさせているシステムにあることは間違いない。

そもそも、電話を受けた側が相手の状態を判断できる
と考えることが、大いなる勘違いなのだ。
受け取る側は、自分が相手の言葉をどう聞いたかに関わらず
相手の意図を汲んで行動することしかできない。
それはもちろん、相手の言うなりになるということではなく、
注視すべきは、言葉ではなく相手の意図だという意味だ。
これが弱体化しているというのは、どうやら現代の傾向みたいだけど。

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2008年10月18日 (土)

懺悔の値打ち

高齢化社会になると、いろいろ難しいことが
あらわになってくるだろうなとは、前々から感じていた。

ひとつは、感覚の低下によるコミュニケーションの行き違いが
何かと軋轢を生むっていう事実で、
家庭内でも「言った、言わない」でもめる話は、よく聞く。
記憶以前に、話を注意深く聞けていない(別に老人に限ったことではないけど)
のが、発端なんだろうと思うが、これは、
言ったほうも聞いたほうも、すぐ忘れてしまうくらい
老化が進んでしまえば、トラブルは回避できる(と思う)。

街を歩いていると、いきなりぶつかってきたり、
予測できない動きに、おっと、と思わされるのは
他人の気配を感じ取る力が衰えているからだろう。
でも、これも別に老人に限ったことではないのかもしれない。

判断力の低下というのも大きい。
某元大臣の、辞める、辞めない、辞めないのやめる、
というような、オフィーリアの気分は、
状況の見極めが甘くなったということもあると思うが、
欲望をストレートに出すようになった、
と考えた方が分かりやすいかもしれない。
この人はもともと辞めたくなかったのだろう。
でも、制御機能が甘くなってしまったために、
とても時代に受け容れられないようなことを言い、
その反応の大きさに驚いて、「辞める」と口走ってしまったのだろうと思う。
心変わりしやすいことを喩えて、「女心と秋の空」というけれども、
もっと昔は「男心と秋の空」と言っていたのだそうだ。
(って気象予報士の森田さんが言ってました)
年をとると、男は女になっていき、女は男になっていく。
つまり、人間の性差もご都合主義ってことなのかもしれない。

多かれ少なかれ、年をとってあらわになるキャラクターは
若いときからのもので、それが煮詰まって出てくるから
辟易するほど濃いものになっていたりする。
これは想像だけど、たぶん年をとると自分の能力の衰えを
如実に感じるために(意識的にも無意識的にも)、
防衛本能が働きやすくなるんじゃないだろうか。
それで、必要以上に攻撃的になったり、
自己顕示的になったり、ひがみっぽくなったりするんじゃないか。

ある友人は、ん十万円という大枚をリビングのテーブルに
置いておいて盗まれた経験があり、そのショックが抜けない。で、
「もっと年をとってボケてくると、何かがなくなる度に、
『あんたが盗ったんじゃないか』って言うかもしれない。
でも、それは若い頃の経験が尾を引いているだけで
あなたたちを疑っているわけじゃないから、気を悪くしないでね」
と今からこどもたちに話して聞かせているそうだ。
若い頃のいい思いも悪い思いも、
年をとると自分の制御を越えてあらわになるとしたら、
老いそれ自体が懺悔なのかもしれない。

扱いにくい老人は、できれば遠ざけておきたいが、
自分もいつそうなるかも知れず、遠ざけられる身になってみれば
寂しいだろうなと思うから、死期が近くてもできるだけ付き合って
行こうと思うけど、まともなコミュニケーションにならないのがストレスだ。
これが介護の現実なのだろう。

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2008年10月14日 (火)

自分を確かめる

体育の日は運動会ではなく、新響の定期演奏会へ。
前日のレッスンで、そろそろふくらはぎが痛い。

今回の演目は、
ディーリアス「ブリッグの定期市」
エルガー「エニグマ変奏曲」
ドヴォルザーク「交響曲第8番」
で、指揮は小松一彦さん。

ディーリアスとエルガーの2曲は初めて聞く曲。
「ブリッグの定期市」は、イギリス民謡の旋律が
のどかな田園風景を思わせて、ゆったりした時間の流れに浸る。
時間の流れがゆっくりしているということは、空間の広がりがあるってことだ。
そういえば、我が家のお向かいのご近所さんが、
改築のために家屋を取り壊し、更地にした後の見通しのよいこと!
常々、狭い空間にごちゃごちゃと建物が建っている状態と
物の見方が近視眼的なのとは、同じことだと思っているが、
先を見通すためには、情報より空間の方が大事なんじゃないだろうか。

「エニグマ変奏曲」のエニグマとは「謎」を意味するそうだが、
『愛の挨拶』に似た優しい旋律で始まり、
次から次へとテーマを変えて行って、最後は『威風堂々』と終わる。
何が謎って、この展開のしかたこそが謎なんじゃないかという感じだ。
この3曲に、何かとても懐かしいものを感じたのは、
ドヴォルザークにも、オリエンタルな雰囲気があったからかもしれない。
土着の感じ、といったらいいだろうか。

音楽がかもし出すものも非現実には違いないのだけど、
金融危機のような、架空の価値の変動に一喜一憂する虚構とはずいぶん違う。
片方が、頭の中だけにある、現実に根っこのない観念なのに対して、
音楽は常に、自分の根っこのありかに戻るように促してくれる気がする。
今日の曲がそうだったということかもしれないが。

人間にも、ときどき2種類の人がいるように思うことがある。
搬送されたロサンゼルスで自殺した三浦某という人も
最初から最後までウソっぽい人だった。
20年位前、銃撃された奥さんを搬送してきたヘリコプターを
彼が誘導している映像は、ずいぶん芝居チックなものだった。
アナウンサーで今は亡き逸見さんが、彼に同情して泣いたときには
まだ男性アナウンサーの涙が珍しい時代だったこともあって、
ちょっと唐突な感じは受けたが、ウソっぽいとは思わなかった。
でも、三浦某の振る舞いには違和感が強かった。
奥さんをホテルで襲わせた件については有罪で、
ロサンゼルス郊外での銃撃については無罪、
というのは流れから言えば、どう考えても不可解だったから、
彼が日本で無罪になったのは、
あくまで裁判というゲームの中において、ということなのだろう。
それは、おそらく本人が一番よく知っていたのではないだろうか。

ロスの独居房で自殺したと聞いたとき、事故だったのかもと思った。
30分間隔で見回りをしている中で、
見回り10分後に発見されたというのも、なんだかよく分からない。
ただ、いくら彼が強靭だといっても、サイパンでの半年以上にわたる拘留で
心身ともに相当消耗していたことは想像に難くない。
誰もが「とても自殺をするようには見えなかった」と言っているが、
「とても自殺をするように見えない」ように振舞うことが
彼にとっては、一貫した態度だったのではないか。
その限界が来てしまった、という風に私には思える。
虚構から抜け出すには、唯一現実的な手段を取るしかなかったのだろう。

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2008年10月10日 (金)

適度な事故に遭わせたい

緑園都市にある山中先生のクリニックへ、
投稿予定の論文の共著者としての署名をいただきに行く。
山中先生は、このところ事故予防の活動が大忙しで、
なかなか論文も見ていただけず、
やっとここまでこぎつけたという感じだ。
「時間がないから無理」なんて散々言っていらしたけど、
その割には細かい部分までチェックしてくださって、気合を感じる。
おかげで、こちらの頭もだいぶシャッフルできた。
ひととおりチェックが終って、救急医療の話に。
「アメリカなんかはさあ、救急医療体制が整っているから
救急受診を減らす必要はないんだけど、
日本の場合は体制が不備だから、どうしても供給する側が減らそうとする。
でも、僕らはそういう考え方はしていないよね」
「僕らは」という言葉に、同じ考えを持つ仲間同士
というニュアンスを感じて、ちょっと勇気づけられる。

山中先生の次は、成瀬の高橋先生のクリニックへ。
午後の診療開始直前に滑り込むようにして署名をいただく。
お義母さまの具合が悪いとかで、
「また、いろいろとお願いすることが多くなるかもしれないけどよろしくね」とのこと。
それぞれの先生が、忙しい生活を抱えながら、
こちらをいろいろと気遣ってくださるのに感謝。
論文1本出すのも、なかなか大変な作業である。

山中先生が事故予防に取り組んでいらっしゃるのは、
0歳を除いた1-19歳の死因の第1位が「不慮の事故」だからだ。
こどもはほとんど病気では死ななくなった。
こういう先生のロジックは、あまりにクリヤーでうなってしまう。
しかし病気で死ななくなったってことが、
事故にあっても助かるのが当然というところにつながっている感じがある。

割り箸事件なども、診察した医師の問題は指摘されるが、
割り箸を持って走り回っていたこどもに対して
注意不充分だった親については、あまり指摘される声を聞かない。
親はそうそう目を配れるわけではなく、だから親の責任を問おうとは
私は思わないが、自分にも責任の一端があるときに
あんまり相手ばかりを責めるのは、フェアじゃない気はする。
事故も、近年では予防可能と認識されるようになって、
accidentではなくinjuryと呼ばれるようになったのだそうだ。つまり傷害。
ということは、誰が予防できたかという話につながっていくのだろうか。
山中先生との話は、今は医療への期待が、やや行き過ぎている時代かも
というところで終わったが、振れすぎた振り子を戻すのは大変そうだ。

巷を騒がせているこんにゃくゼリーも
すったもんだの末、製造中止になった。
死亡例が出たから、というのが直接的な原因だろうが、
こういうのを対症療法というんじゃないか、って気もする。
窒息事故を起こすのは、こんにゃくゼリーに限らない。
ミニトマトなどの窒息例もあるのだそうだ。
まあ、考えてみれば私たちの身の回りには危険物が一杯だし、
私たちは、どうやって危険を回避しながら生きるか
ということに日々エネルギーを使っているといえる。
でも、危険回避の方法に長ければ長けるほど、
人間の能力はアップするってことではないだろうか。
こんにゃくゼリーの製造をストップするより、
いかに、無事にこんにゃくゼリーを食べるかという技術を磨く方が
生存能力も高まるし、生活も楽しく豊かに感じられるのでは、と思うが。

同じ日に、お腹にお茶をこぼして火傷した、という相談と
ろうそくの火を触って、火傷が水ぶくれになった、という相談が入る。
そういえば、脚立に上ろうとして1mくらいの高さから落ちた、
という相談もあった。どれも1歳の子だった。
適度な事故は、こどもを賢くする。
親の役目は、事故が適度であるような環境作りかもしれない。

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