« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月29日 (土)

『語り』から得られること

採用が決まった論文の修正稿を、連休明けに送れるように手直しする。
採用に当たっての編集委員会からの注文を読むと、
電話相談は、まだまだ小児科医には理解されていないことがよく分かる。
的外れな意見もあり、相手が同業者(医師)だったら、
こんな風には書かないだろうと思う部分もあって、読んでいてムッとするが、
そこをグッとこらえて丁寧に詳細なお返事を書く。
相手に理解してもらうためには、相手が何を理解していないか、だけでなく
相手の思考プロセスを踏まえた上で、自分のそれはどう異なるか、
ということを述べなければならず、終わるとドッと疲れてしまった。
でもまあ、何事もいい経験だし、言いたいことは
とりあえず全部書いたので、気分はすっきりした。

連休の最後の日は秋葉原でディペックスジャパン(DIPEx-Japan:
Database of Individual Patient Experience-Japan)のフォーラムに参加。
このフォーラムに参加するのは今回で3回目になる。
第一回目では、患者が自らを語る、というさまざまな試みのひとつとして、
それがもたらす効果について興味深い報告を聞くことができた。
本家本元の英国ディペックスでは、医療者の教育材料としても
この語りのデータベースは活用されて効果をあげているとのこと。
英国では、ひも付きの財源を利用せず、どのような情報も公平に提供する、
というところに主催者の見識の高さを感じる。
たとえば予防接種の情報でも、必ずプラスマイナス両方の情報を提供し、
最終判断は、予防接種を受ける側に委ねる。
こういったところは、かけ手に意思決定を委ねる電話相談と共通している。

第2回目では、シンポジウムのパネラーにがん患者も加わり、
患者としてのさまざまな思いを語ってくれた。
このときは、患者以外に学術分野からの参加者も多く、
臨床家以外の人たちの関心が意外に高いことが印象的だった。
一般に、現実に直面しているという意味では、
臨床現場にいる人の方が問題意識は高いと思われるが、
アカデミズムの最先端も、なかなか先鋭的だ。
ただし、これは研究課題について、ということかもしれず、
必ずしも臨床とは重ならないのかもしれない。

そして先日の第3回目では、これまでの経緯として、
どんな風なデータベースができつつあるかが報告され、
患者さんの実際の語りの映像を見ることができた。
「前立腺ガンで余命6ヶ月、と言われて、まず水虫の治療に行きました。
汚い足でお棺に入るのは、こどもたちに申し訳ないと思ったので」
という高齢の男性の語りは、いろいろな意味で聴衆の心に残ったようだ。
この方は7年経った今でも、元気に過ごしていらっしゃる。
パネラーの精神科のDrや社会学の研究者からのコメントも興味深かった。
最近は、文化人類学的な視点から、病いや患者を考える
という人たちのコメントを聞くと、なんだかホッとする。
それぞれが各分野のスペシャリストなのに、目線はフラットだからだ。

今回は受付のお手伝いを頼まれたこともあって
懇親会にも誘っていただき参加することにしたのだが、
パネラーの先生方と同席する羽目になり、ちょっと慌てる。
私のテーブルは患者さんも一緒だったのだけど、患者さん以外は
お医者さんかアカデミズムの分野の人なんて、そう経験できることじゃない。
でも、「語り」は確実に治療効果があるという話から、
「語り」を聞くことは、聞く側のわたしたちをも元気にする、
という話で大いに盛り上がり、これを、どのように生かしていくか、
という具合に話は展開して、少しばかり先の見通しがついて終わる。
自分がやりたかったことができそうな場に出合った予感がする。
来年以降が俄然楽しみになってきた。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月23日 (日)

"男性向け"に興味あり?

"男性向け"が女性にも興味を持たれている、というニュースがネットに出ていた。
「男性向けだけどちょっと興味があるものランキング」によると
1位にランク・インしたのは、《男性用腕時計》だとか。機能的な印象が強いけれど、
その機能がオシャレに見えるのではと記事は分析している。

"男性向け"なんて区分けをしないで、
女性も選べるようにすればいいのにと思う商品は、よくある。
そもそも、売る側が「これは男向け、これは女向け」と
ターゲットを区別する必要など、全然ないとは思う。

たとえば革ジャンパー。
どう見ても男物の方がかっこいい。
革の感じも質感をきちんと残してある(ように見える)。
こういうハードでワイルドな感じのを
やわらかいスカートと合わせたらおしゃれだなあと思うのだけど
男物を着たくても、サイズの合うのがない。
ジャンパーのようなものは、男物のSサイズでもとても大きすぎてダメなのだ。

カバンなんかも、男物の方がはるかに使い勝手がよさそうだ。
電車の中でしゃれたカバンを持っている男の人を見ると
思わず「どこでお買いになったのですか?」と聞きたくなる。
小物に凝っている人は、たいてい靴や着ているものも
なんとなく独特の雰囲気を持っていて、センスのよさを感じさせる。

セーターやマフラーなどの色使いも、男物の方が
ずっとシックでおしゃれな感じがする。
女物というと、どうしても甘くかわいらしい色になってしまうのだろうが、
そういうのが好みの人もいるだろうけど、
そうじゃない好みの人もいるってことに、
案外メーカーは気がついていないんじゃないかと思う。

いっとき、マニッシュな装いというのが流行ったことがあったが、
そういう風に、宝塚の男役っぽいファッションとかいうのではなくて、
自分の好みに合わせて、男物を着たり身に着けたりしたい
というのが今どきの女の人が考えていることなんじゃないだろうか。
体格がいい若い世代は、案外それを苦労なくやっているのだろうが、
われわれのような小柄な世代には、なかなか難しい。
ユニクロはユニセックスを標榜しているみたいだけど、
男物のSはやはりデカすぎるしー。

メーカーはものづくりのためのマーケティング調査はしているはずだが、
案外古めかしい先入観から抜け出せていないんじゃないんだろうか。
男は機能性にうるさい、とか、
女物は、色がきれいでかわいらしいデザインじゃないとダメとか。
それって、曲がったきゅうりは売れない、
というスーパーの言い訳に、どことなく似ている。
きれいな色や、かわいいデザインのものを身につけなければ女じゃないよ
と、メーカーが思い込んでいるだけなのかもしれないのに。

このランキングの2位に入ったのは《理髪店の顔そり》だそうで
極めつけは最後の蒸しタオルで至福のひととき、だとか。
顔そりは興味はないが、蒸しタオルは見るからに気持ちがよさそうだ。
先日行きつけのヘアメイクで、カットが終わって洗い流したら、
スタッフの人が、温かいタオルを首に当ててくれたのは、ちょっと感激だった。
思いがけなさ、というのはサービスの極意だろう。

男物のシャツを寝巻き代わりに着るというのはあるが
体を締め付けない下着《トランクス》が3位というのは、
ばあさんが死んだじいさんのラクダの肌着を着ているみたいで、ぞっとしない。
でも、カラーバリエーションや柄が豊富な《ネクタイ》が5位、というのは妥当。
そもそも、女物のネクタイなんて、めったにお目にかからないのだから。
実用的ならいいってわけでもなく、
女性性と男性性を、うまく混在させられるようなモノが望まれている
ってことなんだろうと思う。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月18日 (火)

国語の能力

「漢字の読めない総理」がメディアの格好のネタになっている。
頻繁をハンザツというあたりは読み間違いと言うより、
無意識に思わず違う言葉が出ちゃったんだろうと思うが、
未曽有をミゾユウ、踏襲をフシュウと続くと、ちょっと言い訳が苦しいかもねー。
でも、私はソーリに同情はする。
漢字って、ふとしたときに読み方や書き方が、一瞬飛ぶことがあるのだ。
これは年には関係がないように思う。
私だって、しょっちゅう恥をかいている。
多分、漢字を覚えるときに字義を理解しないで、
字面で覚えてしまう習慣があるからだろう。
コンピュータの変換機能のおかげで、変てこな間違いで恥をかく経験は
ずいぶん減ったが、おかげで正しい漢字理解の機会も減ってしまった
かもしれないと思うと、ちょっと残念な気もする。

それより私には、これみよがしにスーパーを視察してみたり、
タクシーの窓から首を突っ込んで、運転手さんといかにも
ざっくばらんに話をしてみせる、というパフォーマンスの方が嫌味だ。
ふだん、日用品の買い物などしたことがない人が、
1回くらいスーパーに行って、いったい何が分かるって言うのだろう。
庶民感覚をアピールしたいのかもしれないが、
なんだかソーリ大臣になって、うれしくて仕方がない、
というはしゃいだ感じしか伝わってこない。
こういう生活者感覚の読み間違いの方が、よほど問題じゃないだろうか。

読み間違いと言えば、医療者の国語力というのも結構怪しい。
勉強会で、看護師資格を持った国立大学看護学部の准教授が
門戸とモンドと読んだことがあった。
ほかにもいくつか?があったが、もちろん誰も訂正しなかった。
若いから見逃してあげたのかもしれない。

この勉強会では、ちょっとした演習をやったことがある。
以下の文章から、医療事故防止のために
どのような問題点を考える必要があるか読み取って、というものだ。

「患児の保護者が前回の培養結果を聞きに来院した。
その検査結果を紹介先の病院へ報告するためである。
受付では、来院理由が不明であった。その前に他院への
紹介状を書いており、外来担当医は(検査結果の確認を
指示した担当医とは別)その紹介状の再交付かと考えた。
結局、外来看護師が保護者との会話を思い出して、来院の
理由が判明した。検査結果を渡して、目的は達成された」

受付の業務能力不足やスタッフの連携不足などがあげられ、
私は医師のコミュニケーション能力不足をあげた。
すると、すかさずあるDrが私に、
「そんなことは、どこにも書いていない。想像でものを言ってはいけない」と
非常に強い口調で、まるで何か間違いでも犯したかのように言ったのだ。
「え、だってここにそう書いてあるじゃないですか」
「そんなことはどこにも書いていない」
という、ちょっと緊迫したやりとりが何回か続いたあと、ようやく出題したDrが
「アメリカのこの例題の原典には、医師のコミュニケーション不足も
問題点としてあげられています。僕らも、こういうことが読み取れるようになりたいと
リーダーの先生と話しているんです」と介入して、一件落着した。

もちろん、この例文には
「医師のコミュニケーション不足があったために」とは書いていない。
しかし驚くべきことは、私の意見に反論したDrは、
文章としてあるかないかを問題にしたのではなく、
本気で、この文章にはそういう内容は含まれていない、
と思っていたらしいことなのだ。
こういう風に、目に見えないことを「ない」と考える傾向は、
以前、別の場面でも経験したことがある。それは

「電話相談の内容って言ったって、かけてきた人のことだけで、
それは社会全体のことじゃない、ごく一部にすぎないじゃないか」
という、これもあるDrからの論文の査読意見だった。このときは、
「見えないからって『ない』わけじゃないでしょ。
鏡に自分を映すと背中は見えない。
でも、だからって背中がないとは思わないんじゃ?」と反論を書き、
共著者のDrから「そういうことを書くとけんかになるから止めておけ」と
アドバイスされて、しぶしぶもっと穏やかな内容に修正した。
私としては、けんかをする気はさらさらなく、
我ながら、すごく美しい比喩だと思ったので、
ぜひとも世に出したかっただけなのだけど。

だからこの勉強会のDrが、書いてないから事実はない、と考えたとしても
別段驚きはしないが、文意を読み取る能力については大いに疑問がある。
この先生が学会誌の編集委員長とは!
おそらく日常的にも、こういう調子で
患者とのコミュニケーションをおこなっているのだろう。
医療者のコミュニケーション能力の問題が叫ばれるが、
それはむしろ、国語の能力と言うべきなんで、
そこから考えていったほうがいいんじゃないかって、
今度の年次集会の会長の先生には提言しておこうか。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 7日 (金)

死者との境界

来週は時間が取れそうもないので、今のうちにとギンレイへ。
「歩いても 歩いても」と「たみおのしあわせ」の邦画2本。
2本立ては、今や少々つらいときもあるのだけど、
ギンレイのは、単に2本見るっていうだけでなく、
つながりをあれこれ考えるのが楽しいので、通ってしまう。

今回のは原田芳雄つながりとも言えるし、
阿部寛・夏川結衣コンビ(結婚できない男)と
オダギリジョー・麻生久美子コンビ(時効警察)という
グッドコンビつながりとも言える。
「歩いても・・」がおぼれそうな男の子を助けに海に飛び込んで
死んでしまった長男を忘れられない夫婦(原田芳雄と樹木希林)の物語で
「たみお・・」が亡くなった妻であり母を忘れられない
夫(原田芳雄)と息子(オダジョー)の物語だとすれば、
死者から逃れられずに生きている人間、というつながりもあるかもしれない。

どちらもすこぶる日本的な家族が描かれる。
「歩いても・・」は海に近い住宅街の廃業した医院(内科・小児科)が舞台だし、
「たみお・・」の父親と息子が住む家は、静岡らしい茶どころにある
今は亡き妻の父親が営んでいた、これもかつては医院だった家屋が舞台だ。

「歩いても・・」の次男である阿部寛の結婚相手は子連れの再婚で、
父親は亡くなった長男への思い入れが強い。
次男坊は、それが面白くないが、帰省した最後の方では
連れ子の男の子を仲立ちにして和解しそうな感じを抱かせる。
う~ん、男家族の関係って難しいんだなあと思わせるが、
うだつの上がらない風に見えた阿部ちゃんの次男は、
結局母親の意向などものともせず、再婚相手とちゃんと娘を作り、
免許も取って、乗るのを楽しみにしていた母親は亡くなってしまったので
乗せなかった代わりに、家族を乗せて母と行った時のようにお墓参りに行く。
ゆったりとしたギターの音色はゴンチチだろうなあ
と聞き入っていたらやはりそうだった。
この時間の流れ方は、中南米や南ヨーロッパの映画とも違っていて
何かがたくさん詰まっているのだけど、全然それを感じさせない静けさが漂う。
「誰も知らない」とはまったく違うテーマだが
そういう静けさは是枝裕和監督の共通したテーマなのかもしれない。

「たみお・・」では父親に育てられた息子のオダジョーと母が再婚した娘とが
すったもんだの末、結婚までこぎつけるが、結局父親と式場から逃げ出してしまう。
この最後の場面は、あえて「卒業」のパクリとはっきり分かるように作られている。
「卒業」のダスティン・ホフマンは、親の呪縛から必死に逃れようとしたのに、
たみおは、母の呪縛からも父の影響力からも逃れられない。
それどころか、父親も息子も死者の呪縛がなんだか心地よさそうにさえ見える。
監督の岩松了は、清志郎と絡んだりして顔を見せて遊んでいるが
最後の最後に、非現実的などんでん返しを見せてくれる。
でも、あまりにとっぴなために、これはこれでありだなと思わせてしまうのだ。
日本人は生者と生者の境界もあいまいだが、死者と生者の境界もあいまいだ。
それってなんだかいいよねと思わせるあたりが、2人の監督の腕なのかも。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 6日 (木)

手放す勇気

連休は蓼科の山小屋のメンテナンスに行ったので
バレエのレッスンは2週間ぶり。
背中の左側だけが妙にこった感じで痛いのは、
レッスン不足のせいではないような気がするが、
どこで診てもらうのがいいのか分からないので、
湿布薬でごまかしながらぐずぐずしている。
建てて20年の小屋と同様、生まれてん十年の体もガタが来ている。
こういうときに相談できるホームドクターがいればいいなあと思うが
日本はそういう制度になっていない。
自分で見当をつけて受診するから
ドクターショッピングが増えるんじゃないかという気もする。

墨東病院で、手遅れで亡くなった妊婦さん以外にも
搬送を断られたため、脳内出血で意識不明の妊婦さんがいるとの報道が。
どこもかしこも産科医不足の大合唱だが、平日は複数体制なのに、
どうして土日休日はひとり体制になってしまうのかが、よく分からない。
別にお産は平日に多いってわけじゃないだろう。
それ以上に分からないのは、産科医の負担を軽くするために、
どうしてもっと助産師を活用するって話にならないのか、だ。
何もかも産科医が担当しなくても、普通のお産は助産師が担当するように
したらいいと思うが、そうすると何か困ることでもあるのだろうか。
もちろん、何か異状があった場合は産科医の協力を仰ぐように
後方支援のシステムを整えておくことは大事だが、
だからといって、何もかも産科医が担当するようなやり方は
全く現実的じゃないと思うが、これも患者のニーズって話なのだろうか。

会社の仕事でも何でも、誰かに仕事が片寄って
ひとりが忙しくなりすぎることを防ぐ基本は、まず業務を分担するってことだろう。
そのためにスタッフを育てて、能力を高め権限を与えて責任を持たせる。
優れた上司というのは、たいてい、いつも暇そうで
部下の相談に乗るのだけが仕事、みたいな雰囲気をかもし出している。
部下をうまく使いまわすのが上司の役目だからだろう。
医師はプレーイングマネージャーだから、そうはいかないだろうが、
自分の手に負えないほど仕事量が多ければ、
まずすべきことは、担ってもらう誰かを探すということで、
いくら待遇をよくしても、働けるキャパには限りがあるのだし、
今どきは、金より時間がほしいっていう人も多いはずだから
一人前の産科医が育つまで現状で我慢してってわけにはいかないだろう。
もし、助産師に担わせることに法的な問題があるのなら
法律を変えるためのアクションを起こすことを考えたらいいと思うが、
その辺になるとみんな及び腰なのはなぜなんだろう。

近々出版される「アクチュアル小児科診療」の『電話医療』の項目に
ちょこっと原稿を書かせていただく機会を得て書いたのは、
時間外の電話相談はチーム医療の一環だということだった。
チーム医療には患者(小児科の場合は保護者もだが)自身も含まれる。
医療を担うのは医療者だけではないのは、医療が生活の中の一分野だからだ。
医療という分野が生活と切り離されているなら、
医師や看護師などだけが忙しい思いをする、
ということは理論的にあり得るのかもしれないが、
医療はあくまでも生活の中の部分なのだから
医師や看護師の問題を考える前に、患者にも応分の能力的負担
(金銭的負担じゃない)をしてもらうことを考えてはどうなのだろうか。

それは、もっと患者(保護者)の賢さを活用するということだ。
患者(保護者)の裁量範囲を大きくして、できることは、
極力やってもらうって発想が必要だろう。
つまり患者に業務を一部肩代わりしてもらうってことネ。
医療は、それが可能なほどの不確実性には満ちていると思うが、
これがなかなか実現しないのは、多くの医療者が、
むしろ肩代わりされることに不安を感じてしまうからなんじゃないか。
こうした医療者の内面の問題抜きに、
システムや頭数だけ整えても、所詮対症療法のような気がするが。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »