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2009年1月22日 (木)

約束された場所で

思うところがあって、村上春樹さんの
「アンダーグラウンド2 約束された場所で」を読む。
「アンダーグラウンド」はサリン事件の被害者の聞き書きだが
「約束された場所で」はサリン事件を引き起こしたオウム真理教の
信者からの聞き書きをまとめたものである。

「アンダーグラウンド」を読んだのは本が出たばかりの頃だったから
その細かい内容については、もうほとんど忘れてしまったが、
読みながら、誰もが何かおかしいと思いながらも
何とか会社へ行こう行こうとしていたのが強く印象に残った。
これは何なんだろう、というのが正直な感想だった。
そんなに何が何でも会社へ行こうとする気持ちがどうも理解できなかった。

一方「約束された場所で」には、だれもが一様に自分の生活に違和感を感じ
なんとかその違和感から逃れようとして、オウムに入っていく様子が語られている。
そういえば、この団体の教祖が選挙運動をしているのを、
原宿のオフィスの一室から、仕事の手を休めて眺めていたっけ。
それは何とも異様な光景で、後になって、あのとき出馬したあの人の指示で
地下鉄にサリンを撒いたというのが、これまたどうしても理解できなかった。
この本の中の語り手たちは、サリンを撒いた当人たちとは異なるが
それぞれが「自分の違和感に非常にクリアな答えを得られた」のが、
この組織に参加するきっかけになった、と述べている。
しかし、いくら論理的でクリアな答えを得られたとしても、
あの教祖に、うさんくささを感じなかった感性というのが分からない。
実際に会うと違う魅力があるのかもしれないが、
そもそも近寄るのに抵抗を覚えるというのが、
普通の感覚なんじゃないかと思うのだ。

つまりこの2冊の本には、端的にいって
社会に適応した人たちと、適応できなかった人たちの両方が描かれているのだが、
両方に共通しているのは、生の感覚の欠落のようなものだ。
そのことを、村上春樹さんと河合隼雄さんは巻末の対談で
「悪を抱え込む力」というような表現で述べている。
つまり生命力には善も悪も内在しているのに、
ここに出てくる人たちは、みんな善(だけ)を志向していて、
それがゆえに、その行動はなんだかわけが分からない感じなのだ。

悪を排除しようとする誘惑には警戒が必要かもしれない。
それは自分自身の悪から目をそむけたいからかもしれないからだ。
そういえば、オウムの信者たちは、しきりに自分たちに
サリンが撒かれていると言い募っていたのだった。
善人ぶってばかりいるといずれ滅びる、というのは
なにもテレビ業界のことではないってことだ。

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2009年1月19日 (月)

CHANGEのきっかけ

メディわのカレンダー機能を備忘録代わりに使うことにしたら
これがすこぶる快適で、何かしら毎日書き込める。
他人には公開されないからプライバシーは守られているし
(といってもSEが見る可能性はあるんじゃないかと、ちょっと不安だが)
メディわは1日に1回は必ず覗く習慣がついているから、開くのに面倒もないし。
大きな労力を使わないためには、何でも習慣化してしまうに限る。
バレエのレッスンだって、登校だって長い間が開くと
アクションを起こすのは、なかなかエネルギーが要る。
そういう意味では、休みというのはあんまりないほうがいいのかもしれない。

国会審議は、その習慣化の弊害を示す最たるものだろう。
定額給付金をめぐる議論を聞いていると
国会議員の先生たちが、大臣は給付金をもらうのもらわないのと
どうでもいいような習慣化されたやりとりに没頭している。
100年に1度の危機に対策を講じるっていうのはエネルギーが要るし、
100年も生きた人はいないから、抜本的な対策を考え付かないのは
仕方がないのかもしれないが、ぐだぐだと時をやり過ごしていても
給料が出るような職についていれば、何も好き好んで
一生懸命働こうとは思わなくなるのは人間の性なんじゃないだろうか。
与党と野党は大きな談合をやっているように見える。
談合を防ぐ最良の対策は情報開示だっただろうか。
選挙のときだけじゃなくて、定期的に彼らの
通信簿をつけるシステムというのも必要かもしれない。
有権者とのつきあいとか地元への貢献ではなく
国政にとって、どのくらい意味のある仕事をしたかという
目に見える評価システムを作った方がいいんじゃないかという気がする。

先週はディペックスジャパンの総会に初めて出席。
今年度から研究協力員として、この組織に関わることになったので
NPO設立にむけての最後の総会ということもあり
組織自体をもっと知っておこうと大手町まで。
いろいろな大学がこんなところにオフィスを構えているのかあ
と驚きつつ、12時から5時間近く続いた議論に浸る。
長時間だったがなかなか心地よく、さくまさんの配慮もあって
同じ方向を向いている人の集まり、というのが、
こうも気持ちを前向きにさせるものだということを久しぶりに感じることができた。

議論は必ずしも整然としているわけではなく、
あちこち、さまざまに飛び散るのだが、多様な視点があるので、
いろいろな角度から物事を考えることができる。
何より嬉しいのは理事長の別府宏圀先生が、
普通のお医者さんにはない患者視点を持っていることだろう。
NPOという組織が一般にどのような運営のしかたをするものなのか
あいにく私は知らないが、どんな組織でも
トップがどのような理念を持っているかにかかっている。
そうした理念は、声高に語られれば伝わると言うものではなく
些細な事柄への考え方の表明によって伝わる。
ごく小さなテーマをどう認識しているかに、その人が現れるのだ。

議論の中には、「診察というのは医師によって異なる」という話も出た。
某医学系出版社が出している「病院」という雑誌向けに
書いた内容と重なっていて、思わず「そうそう」とうなづいてしまった。
診察と言う行為は医師という個人と、患者という個人の相互作用によるから
同じ患者を違う医師が診ると結果は異なる。
そもそも「風邪に抗生物質を使うか使わないか」といった
医学の知識自体が医師によってばらばらだし、
見立てには医師の主観が入るから、これもばらける。
EBMがこれを何とかできるのかどうか、私には皆目分からないが
少なくともこういう事実を一番よく知っているのは、実は患者の方なのだ。

この原稿ではもうひとつ、
電話相談は患者の声から医療者の問題を発見するシステムだ
ということについても触れておいた。
これは電話相談に携わっている医療者には、ほとんど認識されていない。
もちろん導入している自治体にも認識されていない。
毒にも薬にもならない統計を習慣的に取っているのがその証拠だ。
彼らは自分たちが患者(住民)のことを知らないとは思いたくないから、
本心では、自分たちが知っているのは患者の体、もしくは症状であって、
患者のことではないと思っていても、変わろうとしない。
電話相談とは無知な患者に回答者が何かを教えてあげるものではなく、
回答者の側が、自分の「無知」という問題を、
患者という鏡から教えてもらうシステムなのだ。
CHANGEは「無知」が認識できて初めて起こるといえるだろう。

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2009年1月 7日 (水)

アラカンは異端

昼間「今日は七草食べるの?」と息子に聞かれて
「ああ、用意しなきゃね」と答えたまま、すっかり忘れて
バイト前の夕食はサーモンのクリームスパゲティにしてしまった。
何も言わなかったところを見ると息子も忘れていたのだろうか。
母親に物忘れを自覚させるような酷なことはしまいという子の心か。

「アラ還になりましたが、チョイ悪オヤジで今年も頑張ります」
という年賀状が山形の先生から届く。
最近毒舌が聞こえませんね、という去年の年賀状への返事なのかも。
嵐勘十郎とチョイワルオヤジとどういう関係があるんだろうと
しばらく考えてしまったが、ああ、アラウンド還暦かとひらめく。
しかしこの先生、今年は62歳のはずだから、言うんだったら
「アラ還からはだんだん遠ざかりますが」って言うべきじゃないの?
と内心でツッコミながら、相変わらず世相に敏感、と感心する。
世の中の動きに敏感な先生ほど、患者についてもよく見ている。
そして、たいていの場合、こういう先生はお医者さまの中では異端だ。
でも、一般人から見るとこういう先生が一番まともに見える。

お正月に熱が出て休日診療所を受診し、
そのまま下がらないために、5日にかかりつけ医で
マイコプラズマと診断されたが、まだ下がらない、
もう1週間も熱が続いているのにー、という電話が何本も入る。
熱が出てもすぐに診断がつくわけではないだろうから、
どうしても「後医は名医」になるのは避けられないが、
診断がつかないのに抗生物質を処方する、というのがよく分からない。
診断無しの処方っていうのはありなんだろうか。
診断の質的研究っていうのが必要なんじゃ?という気がする。

昨年亡くなった小児科の大御所の先生の口癖は
「診察室にビデオを設置して診断名を伝えた様子を録画しておき、
診察室の外に出たところで聞き取り調査をすると、
8割は診断名を覚えていない」と言うものだった。
「患者とはそういうもんだよ」という上から目線が言外に感じられて
あんまりいい感じはしなかった。
この伝からいうと、医師がいくらきちんと伝えたとしても
覚えていない患者に問題があるってことになるが、
果たして患者が理解できるように伝えていたかの方が問題だろう。
実はビデオを撮る価値は、そこにあったはずなのだけど
そこには関心が行かなかったらしい。
偉くなればなるほど自分を省みるということができなくなるのかも。

この辺が医療者の電話相談員としての不適切性といえるかもしれない。
♯8000も含めて、診療時間外の電話相談というと医療者の多くは
保護者(素人)の質問に医療者(専門家)が回答を与えることで
不安を解消する、あるいは不要な救急受診を減らすものと考える。
専門資格があると、どうしても自分の存在価値を強調したくて
こういう解釈をしてしまうのだが、それはひとりよがりというものだ。
電話相談の本質は、むしろ双方向性を担保するところにあって、
それは「やりとり」というコミュニケーションの部分だけでなく
時間外の場合でいうと、診療というボールと
結果・経過というボールのキャッチボールということでもある。
保護者が投げ返してきた問題は、まさに医療者が投げたボールなのだ。
焦点を当てるべきは、医療者がどんなボールを投げたかってところにあるので、
つまり相手の問題ではなく、自分の問題がどこにあるかが分かる
というところが電話相談の価値なのである。
これが理解できないので、医師が電話相談のマニュアルを作って
看護師にやらせるという、わけの分からないことが起こる。
それに黙って従っている看護師も看護師だとは思うが
習い性とは恐ろしいものである。

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2009年1月 1日 (木)

神さま、仏さま

20081231_2

日付が変わったので箱根駅伝のベンチコートにイヤーマフを着け、
腰にはホカロンを貼って万全の防寒体制で恒例の初詣に行く。
今年は出足が少し遅れたせいか、それほど混んでいない。
いつものおいしいお神酒をいただき、みかんをもらう。
なんでみかんなんだ、と思いながらおみくじを引き
そうか蜜柑は未完なんだ、とひらめく。
お前は未だノビシロがあるっていうのが
今年のfirst inspiration。
おみくじは大吉、お守りは達磨。
「何事も正直にして他人を恨まず仕事大事とはげみなさい」と。
面壁9年か、黙々とやれってことなのね、と理解する。

1時半ごろ帰宅したらすでに読売新聞が配達されている。
なるほどねー、この会社は手回しがいい、と感心。
久しぶりなので「朝まで生テレビ」を見ようと居間に布団を敷いて
見始めたが、あっという間に眠りに落ちてしまった。

暮れの最後は溜まった新聞の切抜きの片付けに費やした。
今回、ようやくほとんどを捨てることができたが、相当古くても
今でも関心が持続しているものはちょっと惜しいので、ファイルに戻しておく。

玄侑宗久さんのエッセイも、そのひとつ。
これはお正月真近に読み直す度にいつも元気をもらう。
仏教には「死」を穢れだという認識はなく、喪中忌中という概念は神道のものだが
その「穢れ」を他に及ぼさないためという発想で「忌中・喪中」といってひきこもる。
だから神社の境内には墓地はない、というくだりは何回読んでも笑える。
自分の主義主張の尻拭いを他人にやってもらう、
というのは、どう考えても宗教とは言えない感じだ。
仏教には穢れを抱えたままひきこもることには何の意味も感じない。
仏教は基本的にめでたいことと悲しいことは混ざったりしない、と考えていて、
それは人の一生をよく見てきた結果のようでもある。

もうひとつは中央公論に掲載された脳神経科医の岩田誠さんの
「脳と『こころ』はどう違う」という論文の切り抜き。
日付がメモしてないのでいつの号だが分からなくなっているが、
切り抜いたところをみると、そのときはそれだけの価値がある
と思ったに違いないのだが、こんな風に面白いとは思わなかった
という記憶がよみがえるくらい、今読むとよく分かって面白いのだ。

岩田さんは「Brain&Mind」を「脳とこころ」と訳したのがおかしいのでは?
と語り始めて、Mindは「精神活動」、つまりヒトの脳に存在する
神経回路網によって営まれる神経活動に対応した、
ヒトという種の生物に普遍的な現象であり、
神経回路網によって実現され得る能力、
つまり「何ができるか」ということだと説明する。
これに対して「こころ」は、そのような精神活動の
さまざまな組み合わせによって生まれてくる
個体に特異的な現象であり、神経回路網による活動の実際の具現、
つまり「何をしたか」だと説明する。

今日脳科学の対象となっているのは「何ができるか」という能力の部分であり
「何をしたか」という能力の具現は、一般的な脳科学の研究対象になっていない、
にもかかわらず、脳を調べればこころが分かる、
と思われているらしいのは、Mindを「こころ」と訳したせいではないか
というのが、ここで岩田さんが述べていることである。
もちろん脳を調べることは、こころに近づく一歩ではあるけれども
そこから「こころ」まではまだ相当な距離がある、はずなのに
そのことは、未だにあまり明確にいわれていない気がする。

同じように不幸な生い立ちであっても、犯罪を犯す者と犯さない者の差が
何によるものか、というのが「こころ」の問題だけれど、
この個体の特異性がなぜあるのかについては、岩田さんは
科学による「説明」ではなく、精神医学による「了解」でしか
理解できないだろうと述べて、こころに対応する英語があるとすれば、
それはSoulであろうと言う。
おそらく、多くの脳科学者は誰も、脳=こころだとは思っていないのだろうが
脳とこころの間には、次元の違いといってもいいくらいの段差があって
そこについては手付かずですって言わないのは、
学者としてはちょっと不誠実のような気がする。
それが学者の「こころ」なのかもしれないですけど。

Photo:昨年暮れに「房総の村」で手作りした上総の注連縄

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