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2009年2月27日 (金)

『チェンジリング』

絶好の映画日和、と勇んで家を出た雨の月曜日。
途中で報告書が届いていないという連絡が入り、止むなく引き返す羽目に。
どうしてそういうことになるのか見当もつかないが、とにかくやり直して
(今日は家でアカデミー賞の中継を見てろってことかなあ)と思いながら
しばらくWOWOWを見るが、これで「おくりびと」が賞を取ったりしたら
明日は映画館はもっと混むだろうし、明日の朝もシステムがダウンしないという
保証はないしーと考え直して、やっぱり観にいくことにする。
ちなみに、事前に流出したとかいうアカデミー協会の文書では
「おくりびと」が外国語映画賞を取っており、その通りになった。

目指すは日劇プレックスの「チェンジリング」。
初回は間に合わないので、とりあえず2回目の席を確保し、
みゆき通りの裏にあるパン屋さんでランチ用のパンとサラダを購入。
ちらっと松屋を覗いて、時間までカフェで読みかけの本を読んで過ごす。
開演30分前に入るが、映画館にはもう結構な人。
映画の楽しみは、もちろん映画自体だが、
興味を同じくする人がどれだけいるか、ということを知るところにもある。
昔は席を確保しようと早くから並んで、なんだか落ち着かない気分だったものだが
今は指定席制になっているところも多くて、精神的には非常によい。
豊かになるということは、人の気持ちを落ち着かせるものだと実感する。
席にはかさ置きも設置されているし、ドリンクスタンドは当たり前だし。
これで美術館にあるみたいな手荷物を預かってくれる
コインロッカーがあれば言うこと無しである。
開演までロビーでランチの豆サラダをむしゃむしゃ食べる。
これが結構おいしくてヒットだった。
荒川良々クンが来ていて、ちょっと意外な感じがする。

「チェンジリング」では、まず1928年のロス警察の実態が描かれる。
アンジェリーナ・ジョリーの演じる母親は電話会社に勤務し、
単親で息子を育てている芯の強い女性だ。
その母親の息子が誘拐され、数ヶ月後に戻ってくるのだが、
母親が別人だと言っているのに、「それは間違い」というくらい
この頃のロス警察はめちゃくちゃである。
あげくのはてに、彼女はアタマがおかしいことにされ精神病院に送られる。
精神病院の医者は警察の言いなり、看護婦は医者の言いなりで
どこも自分たちの利益のためにしか動いておらず、善悪の判断などしない。
時代に逆らうのは誰にとっても難しいということだろうが、その中で
ジョン・マルコヴィッチ扮する牧師が母親の唯一の味方になる。
ただ、マルコヴィッチ自身が何となく狂信的な雰囲気を持っているので
こちらはどうも、こいつはホントに味方なんだろうかと半信半疑で見てしまう。
このあたりは、イーストウッド監督の計算なんだろうか。
組織のおかしさに対抗するには、個人もある種の
「変」である必要があったということなのかもしれない。

母親は最後まで息子は別人という自分の意見を曲げない。
誘拐犯がつかまり処刑されたあとも、
彼女は息子が生きていると直感しており、
それが正しいということは、アカデミー賞の作品賞を
彼女が言い当てることで、さりげなく表現される。
今日がアカデミー賞授賞式だと思うと不思議な感じがする。
母親は希望を持ち続けて生きた、という余韻を感じさせて映画は終わる。

この母親を見ていると、拉致被害者の家族のことが頭をよぎる。
母親がどんなに否定的な情報がもたらせれても屈しないのは
直感と息子に対する理解と信頼で編まれた絆があるからだろうが、
泥酔記者会見で辞任するような大臣が政治家をやっているようじゃ
拉致問題は進展しなくて当たり前だなあと思わせられる。
問題にすべきは、風邪薬とお酒をちゃんぽんにしたために
朦朧状態で記者会見に臨んだことではなく、
ちゃんぽんが原因だとしたら、本会議も意識朦朧状態だった
可能性があるってことだと思うが、誰もそうは思わないみたいね。
行き当たりばったりのお粗末な言い訳は、
1928年ごろのロス警察のそれとほとんど変わらない。
現代の日本が80年前のアメリカ以上に進歩していないということなのか、
それとも、人間というのはいつの時代も変わらないってことなのか。
私たちに母親ほどの希望はあるのだろうか。

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2009年2月17日 (火)

欲望抑制装置の機能不全

だれでも自分の利益を最大にしたいと思うのはあたりまえだが、
それぞれの欲求を、どうやってバランスするか
という仕組みが整っていないと破綻をきたしてしまう、
というのが金融危機が教えてくれたことだろう。
「会社は株主のもの」という主張が問題なのは、
株主の利益を最優先しようとすると、金を儲ける以外の要素、
たとえば消費者や従業員にとっての利益は
簡単にないがしろにされてしまうからだろう。
消費者や従業員の要求は、しばしば金儲けにつながらない。
金儲けにはつながらないが、喜びや善いことにつながることがある。
株主もそういう意向を持っていないわけじゃない(と思う)が、
喜びや善いことより、お金の方が価値が高いとする社会では
そうした目に見えない事柄は無視される。
多くの株主は「いい会社」の株を持っていることより
「配当のいい会社」の株を持ちたいと思っているだろうから
消費者や従業員と利益が相反すれば、当然ながら株主利益が優先される。
これを巧みに裁けるようなトップは、なかなかいない。
トップにはトップの利益が絡んでいるからだ。

肥満の増加という問題から見えてくるのも、株主優先主義に似ている。
ここに提示されているのは、生活環境の変化に伴って
欲求のバランスが取れなくなってくる人体という問題だ。
東京国際大学教授の妙木浩之さんはJMMで、
摂食障害を例に、過剰な飢餓感が食欲をコントロールする機能を破壊し
過食につながることを示しながら、ヒトが置かれている環境に
適応しようとして、本来的に持っていた生物学的機能が働かなくなり
肥満が増えてきた事実を、「太りゆく人類」という本を引用しながら述べている。

日本人が、丸々と太った赤ちゃんを健康優良児として
もてはやしていたのは、つい50年前のことだ。
私が電話での育児相談をおこなっていた30年前も
地方やお年寄りには、まだ赤ん坊は大きければ大きいほど
健やかだとみなす考え方は残っており、
「ミルクの飲み量が少ない」というのは母親たちの最大の関心事だった。

肥満はある時期は遺伝だと思われ、
またある時期は、理性でコントロール可能だと思われていた。
体重管理ができないようなビジネスマンは、ビジネスマン失格
などというアメリカ発の価値観がもっともらしく聞こえたものだ。
しかし今や肥満は理性で解決可能なほど容易なものではなく
食物依存とでもいうべき深刻な問題であることが明らかになりつつある。
多脂肪、カロリー過多の食事と、体を動かすことの少ない生活環境との
相互作用の結果が、食欲抑制装置の破壊による肥満という結末なのだ。

肥満は理性でもクスリでも手術でも治すことはできない。
食生活の改善などという個人的な問題で済ませられるものじゃなくて、
ここで示唆されているのは、食欲抑制装置を破壊するような
社会そのものを、どう変えるかということなのだ。
そういう意味では、肥満はタバコや薬物依存と同じ
食物依存という問題なのであり、株主優先主義とも重なる気がする。
金持ちほど金に執着するというのは、金欲抑制装置が
壊れてしまったということなのだろうから。

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2009年2月16日 (月)

花粉症の季節

仕事中に娘から電話。「鼻水がひどい。これって花粉症?ママはどお?」
「私も昨日から鼻水出てる。でも前より楽。年取ったから反応が弱いのよ」
と言って、知り合いのM先生を受診するように話す。

翌朝、娘からメール。
「M先生って耳鼻科じゃなくて皮膚科じゃない?皮膚科でもいいの?」
「ああ、間違えた。H(息子)のアレルギーのかかりつけなので勘違いしちゃった。
F先生はどお?内科だけど花粉症の治療もやっているかもしれない」
「わかった。聞いてみる」

娘は、いよいよ母もボケてきたかと思っただろうなあ。
(私にめげず、あなたはしっかりしてください)と心の中でつぶやく。
まあ、こどものことはそんなに心配ではない。
親が頼りなければ、こどもはしっかりするだろうし。
それは正しい道を歩めるかどうかといったことではなく、
ちゃんと自分で試行錯誤をしていけるだろう、という意味でだ。

政治家が頼りないのは、国民がしっかりしすぎているからかもしれない。
国民にとって政治家は出来の悪いこどもみたいなものなんだろう。
「3年前に俺らが言ったことなんか、どうせあいつら(国民)は分かっちゃいないよ」
とたかをくくっている太郎クン。
酔っ払って記者会見に臨む昭一クン。
昭一クンの様子がおかしいことも察知できない側近クン。
この子たちは、いつまでも親がすねをかじらせてくれると思っているのね。
でも、親には勘当という手があるのだからなあ。

マスコミが頼りないのも、国民がしっかりしすぎているからかもしれない。
ニュースが今やバラエティとほとんど変わらないのは、
マスコミがくだらない内容を流すことで、国民の知性を低下させ、
自分たちが思うように操作できるようにしようとしているからではなく、
山形浩生さんが言うように、彼らがもはやどのように情報操作するか、
という定見さえも持てなくなってしまったからなんだろう。
マスコミはほんとにアホになってしまったのだと思う。
こちらはどうやって勘当すればいいんだろうか。
養子を迎えることでも考えるとするか。

ひょっとして太郎クンも昭一クンも側近クンもマスコミクンも
みんな花粉症なのかもしれない。
たしかにこの季節、顔はぐしゃぐしゃ、頭はボーっとしちゃうものね。

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2009年2月 9日 (月)

『警官の血』

今年最初の人間学アカデミーは山形浩生さん。
毎年聴講に際しては自分で講師を選ぶのだが、
専門分野に興味があるか、全然知らない人、というのが選択基準だ。
山形さんは後者。名前も何をしている人かも全然知らなかったが
世界各国でODAに従事しつつ翻訳の仕事もしている。

さて、1回目の講義を聴いたのだが、これがどうもよく分からない。
内容は理解できるのだが、なんだか全体像がつかめない。
細部がうまくつながらなくて、靴の上から足を掻いているって感じなのだ。
ふつうの講義は、どこまで風呂敷が広がるか、といったおおまかな目安があり
その中の、今はここを話しているんだな、という感触が最初の講義から
つかめるものなのだが、それがないのだ。
これは山形さんが自称しているように、彼がジェネラリストだからかもしれない。
専門分野がないので、いきなり断片が示され、
こちらはそれが積み重なっていくのを見ていなくてはならず
だから取り残されたような感じを持ってしまうのかも。
もっとも日常生活というのはそういうものだし、
それは普通のことで、むしろ私たちはアカデミックであることに
慣れすぎているのかもしれない、なんてことも考えつつ、
もうちょっと理解しようと、彼の『要するに』という本を読んでみる。
これは、彼が10年近く前にネットなどに書いた文章を集めたものだが
読み進むにしたがって、自分と似た感性でもあることが分かる。
分からなかったのは、そのせいだったの?!

ところで一昨日、昨日とテレビ朝日で流れた「警官の血」というドラマは
久々に堪能できる面白いドラマだった。
三代続いた警官の物語でキャストも豪華だったが、
顔ぶれのすごさをほとんど忘れさせてしまう内容だった。
最近のテレビドラマは、内容の貧しさをキャストでごまかしている
類のものが多いが、内容がしっかりしていると
キャストは背景になり得る、ということを実感できるいいドラマだった。
いい原作さえあれば、見ごたえのあるドラマはできるってことだろう。

戦争から復員してきた安城(江口洋介)は、
地域の生活を守る仕事に就きたいと警官に応募する。
まじめで理想家肌で、しかしそれだけにやや甘さがあり
それが同期で公安刑事になった早瀬(椎名桔平)に殺される要因にもなる。
大戦直後の日本で男娼が公然とおこなわれていたというのは初めて知ったが
フィリピンでどうやって生き残り、それがどのような傷となって
早瀬の中に残って行ったかということは、後編になって徐々に明かされていく。

この父のあとを継いで、息子(吉岡秀隆)も警官になる。
殉職した(ことになっている)父の姿は息子にとって
不条理であり、しかし完璧なモデルでもあった。
息子は学生運動に警察のスパイとして送り込まれるが、
これが彼の精神を病ませる原因になる。
父の純粋さは、息子にとってはある種の弱さとして受け継がれ
彼も殉職するが、それはほとんど自殺に近かった。
ここでは吉岡クンのうまさが光る。

一時は家庭内暴力もあった中でクールに育った
3代目(伊藤英明)も、父の後をついで警官になる。
父親を突き放しながらも、父の姿に感化されていたのだろうと
思われるが、警官という職業はすでに家業になっている。
かれは素質(?)を買われ、マル暴刑事である佐藤浩市の元に
スパイとして送り込まれ、闇の部分を暴くという任務を果たす。
このときの経験が彼に実力をつけるが、同時に足元をすくわれそうにもなる。
しかし、父が疑問を晴らそうと早瀬の所に乗り込んでいって
自爆したのとは異なり、彼はそれを逆手にとって自分を守ることに成功する。
取引の相手は警視庁のエリート幹部になっていた早瀬の息子だった。

父が祖父の資質を渾沌とした状態で受け継いでいるのに対し、
息子はしたたかに、それを乗り越えているように見える。
それは賛否両論ある、日本人としての変化なのかもしれない。
しかし、それは山形浩生さんの知性とも似ていて、
私には好ましく感じられる。
私たちは、これに後を託すのだという思いにさせられる。

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2009年2月 2日 (月)

飼いならす前に

2月からスタートした新規クライアントとの初業務。
クライアントそれぞれが異なる要望を持っているので、
なかなか全部に応えるのは難しいが、
我ながら、なんて良心的なんでしょ、と思うくらい個々のニーズに対応している。
それを当たり前と思うか、ありがたいと思うかに医師の人間性を見ることがあり
そんなところで、思わぬ人間観察ができるのも、この仕事の役得かも。
「仕事をやらせてやってる」という雰囲気のクライアントに限って
診察の不備を、こちらが補っている印象が強いのも面白い。

新しいクライアントでの実務は、もっぱら事務長が担当している。
事務長を置いている診療所は、いくつもあるが
実際に権限を持たせて仕事を任せているところは少ないような気がする。
ここの事務長は若い(といっても40代だと思うが)女性で
以前IT企業に勤めていた経験があるせいか、すこぶる話が早く物事の運びも早い。
こういう風に業務分担ができていて、権限を委譲している診療所は
先生の雰囲気も民主的である。
これからの医療では、これは重要な要素になるだろう。

ほぼ時間通りに業務が終わったので、久しぶりにギンレイへ。
遅ればせながら、ショーン・ペン監督の「イントゥ・ザ・ワイルド」を見に行く。
少し早くついたので、先に勝野豆腐店に寄ってお豆腐と油揚げを購入。
前回来た時は午後だったせいか、なんだか初めての店に入りづらく
そのまま通り過ぎて、ぐるっと回って通りに出たところの店で
漢方っぽい入浴剤を買って帰ってきてしまった。
やっと念願のお豆腐が買えたわけで、すこぶる嬉しい。

「イントゥ・ザ・ワイルド」は、端的に言ってしまえば
若者の自分発見の旅物語だが、アメリカらしくヒッチハイクをしながら、
途中はアルバイトで金を稼ぎつつ、アラスカまで延々と旅をして行く。
将来を期待された大都会での生活を捨てて、
アラスカの自然の中で、誰にも頼らずに自分の力を試したい
という彼の望みの背景には、出生の問題や家族(特に父親)との
不和などがあり、それが社会への違和感にもつながっている。

徹底的に自分の意思を貫くというところが、いかにもアメリカの若者らしいが
それはキャリアを積んで金持ちになる、という従来の生き方ではない。
最初から方法が与えられている生き方ではなく、
生きる方法を学ぶための練習を積むといったものだ。
それを支える農場主やヒッピーの夫婦、一人暮らしの老人などの
鍛えられた他者性が印象に残る。
彼のある意味頭でっかちな理想論に、それぞれが心を動かされるところは
妙に大人ぶったところがなくてすがすがしい。
ショーン・ペンは、アメリカの物質主義的な面を充分見据えながら、
こういう人の心をアメリカ的なものとして描きたかったのだろう。

アラスカの荒野に捨てられたバスを見つけて棲みつき
ひとりで暮らし始めて数週間。さまざまな思いが心をよぎる。
ようやく父を許せるようになり、家族の許へ帰りたいと思い始めたのに
濁流の渦巻く河を渡ることができない。
食料は底をつき、必死の思いで食べられる植物を探して口にする。
それが命取りになる。
何物にも縛られない自由の裏に、そんな危険が潜んでいること、
人生が思い通りにいくものではない、ということも
若い彼には想像がつかなかった。
しかし見ているこちらは、この若者の感性に感情移入しつつ
それでよかったのだよ、と言いたい気持ちになる。
私たちは、若者を家畜として飼いならす前に
まず、野に放ってやる必要があるのだろう。

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