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2009年4月30日 (木)

テレビというお年寄り

今年大学3年生になった息子が
「今年の新入生は常識がない」とブツブツ言っている。
部室にやってきて、「その本見せてください」と息子に棚の本を取らせ、
パラパラっとめくって見て、「ハイ」っと返してよこしたりするらしい。
部室の前で酒を飲んでいたヤツもいたみたいで、
「ウチは校内で飲酒したら退学だから」とムッとしている。
まあ、下級生に対して常識がないと言えるほど
彼に常識が身について来たとは思えないが、
こどもは誰でも、ひとつひとつ経験を積みながら、
社会でどう振舞ったらいいかを覚えて行くものよ、と言っておく。
若い草彅クンも、この大騒ぎに反省しきりだろうが
一方の総務大臣はどうだろうか。
もはや反省できるほど若くはないとしたら、先は暗い。
たぶん高齢化社会というのは、こういう人たちをどのくらい
許し続けられるかってことが試される社会なのだろう。

そういう意味ではメディア、特にテレビも相当高齢化しているみたいだ。
まるで時間さえ埋められれば中身はなんでもいい、と思っているみたいに、
どこかで流していたのと同じネタを恥ずかしげもなく流す。
ちょっとしたネタは、どの局でも1週間続く。
同じテーマでも新聞の場合は、違う視点や切り口というのが
まだ、いくらか残っているけれど、テレビの場合は
ただ流すだけだから、視点も切り口もほとんど変わらない。

ひょっとしてテレビメディアの役割はニュースの報道ではなく、
われわれの深層心理の代弁なのかもしれない。しかし、
それにしては一般市民と乖離しているように感じるのは、
私たちは、「たいへんだ」とは思っても、次には
「じゃあ、どうすればいいか」と考えるために
「何が、どう大変なのか」と事態を見極めようとするのに
テレビは、その見極めの部分をすっ飛ばして、いきなり
「どうすればいいか」を報道しようとするからかもしれない。
この辺は、どういうわけかお医者さんの語り口と似ているのだ。
たぶん両方に共通している特性があるのだろうと思う。
それを考えてみるのは、結構面白いかもしれない。
ひと昔前までは、私たちの中に「たいへんだ」と
「どうすればいいか」の間のプロセスはなかった。
でも、経験を積むにしたがって私たちはだんだん利口になり
「何が、どう大変なのか」を見極めようとするプロセスが生成してきた。
テレビもお医者さんも、まだそれに気づいていないというのも共通している。
いきなり結論だけを提示されても、それが正しいかどうか
判断のしようがなければ、受け取る側は半信半疑になるだけなのに。

最新のトピックは新型インフルエンザだが、豚インフルエンザが
新型インフルエンザになったからって、何か問題でもあるのだろうか。
たいていの病気は人から人へうつるものだし、
いつの世にも新しい病気というのはあるし、出現しないはずがない。
私たちはたいていの病気に免疫を持っていないから予防接種をするわけだし、
ほとんどの病気に免疫があるから、今まで生き延びてこれたのだ。
それがダメなら死ぬしかないだけだが、まるでテレビは
「たいへんだ、たいへんだ」と騒いでいれば
死ななくて済むとでも思っているみたいなのだ。
テレビも疲れちゃったのかも。
きっと、自分の役割が何か分からなくなってしまったので、
ひたすら、自分はここにいる、と叫ぶしかなくなってしまったのだろうが、
そういうところが総務大臣と似ている、と思ってしまうのだ。

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2009年4月18日 (土)

問題はロジスティックなんだろうか

先週の「地域医療の未来を考える会」は面白かった。

医療者とメディア関係者のコラボとあって、医療者だけの会に比べると
雰囲気はワイワイガヤガヤと、まったく肩肘張ったところがない。
あまりにみんな言いたい放題なので、てっきりメディア関係者ばっかりが
来ているのかと思ったら、実はその多くがお医者さんだった。
医療者ばかりの会でも、お医者さんは活発に発言するけれど、
そういうときの話し方というのはえてして裃を着ている感じで、
どうしても聴く側は緊張を強いられてしまう。
「俺は医者だ、なんか文句あっか」という雰囲気が漂ってしまうのだ。
メディア関係者というのは、一般的に(あくまでも一般的にだけど)
日常性が足場になっているせいか、小難しい言い方で相手より
優位に立とうとすることは、あまりない(ような気がする)。
あまりに抽象的で、何を言っているのかよく分からないことはあるが、
この年になると、抽象的であることが深いわけでもない
と分かってくるから、そういうのは適当にスルーできる。
そうか、つまり人間って相手が違うと全然違う面が引き出される
ってことだな、と思いながら、放言が飛び交うのを楽しく聴く。

沖縄の先生や、NPOの代表の報告も興味深かったが
もっとも印象深かったのは、某国営放送にお勤めのパネリストの話だった。
今、メディアに起きている劣化と医療に起きている劣化は、
共通しているのではないか、というのがその主旨である。

ひと昔前までは(どこでもそうだろうと思うが)新人を鍛えるのは現場だった。
そこで、さまざまな失敗の経験を積ませ、
その中から自分なりのものの考え方、見方を習得させる
というのが、オーソドックスな新人育成の方法だった。
電話相談の場合も、まず現場で相談業務に当たらせ
「それじゃダメ」とか「そこが問題」とか言われながら
時にはすっかり自信喪失し、暗ーい気持ちで「自分は向いてないかも」と
思いながら、何とか持ちこたえていると、あるとき視界が開ける、
というのが一人前になるための必須プロセスだったような気がする。

ところが、収入の伸びが鈍るにしたがい(国営放送の場合は受信料収入の減少)
そういう時間的、精神的余裕がなくなり、試行錯誤をさせるのではなく
管理職が介入して、時間をかけずに仕事をこなすようになった。
新人は育たなくなり、そのうちに(どういうわけか)偏差値は高いが
仕事へのインセンティブは乏しい新入社員が入るようになり、
さらには現場(失敗)を知らない新人が管理職になるに至って、
インターネットで集めた情報を使って、予め想定したストーリーに
見合った事例で肉付けしたような番組を作るようになったというのである。
しばしば現実とはまったく違った内容の番組ができてしまうのに、
見るほうもそれに気づかない、という背景には、
作る側も見る側も頭でっかち、つまりは観念のお化け、という実態も
あるのだろうが、どちらも育てるロジスティックがないという意味で、
医療も同じじゃないか、というのが彼の言い分のようだった。

う~ん、ロジスティックというより原資の配分のしかた、
もしくは理念の問題なんじゃないか、と考えつつプログラムは進む。
次の発表者は内科のお医者さんで、彼はこれまでの医療が
「出来高払い」だったことを指摘しながら、
サービス化を進めることによって、医療機関の収入は伸ばせると主張。
確かに、今の医療収入は投薬と処置によって支えられているのだろうが
あいにくこちらが不勉強なために、サービス化がどうして収入増に
結びつくのか、いまいちよく分からない。
DPCって、そのためのものだったんだっけなどと
もやもやしながら最後のワークショップに突入する。

自治体病院は要るか要らないか、というテーマの話し合いでは、
同じ医療者でも、民間の医療機関勤務だと
公的医療機関に対しては非常に手厳しいことが分かる。
まあ、同じ人間でも立場が変われば、180度言うことは変わるから
鵜呑みにはできないけど、公的機関にできて民間にできないことはない、
というのが大方の意見のようでもある。
確かに技術的にはそうだろう。
でも問題は、いざとなったら金銭的なメリットよりも
患者のメリットを優先できるかどうか、ってことじゃないのかなあ。
国民皆保険制度であれば、われわれは守られると考えてよいのだろうか。
医療機関といえども、案外民間の発想は一般企業と近いんじゃないか。
何かというと原資(ロジスティック)がないことが問題にされるけれど、
原資がない時代の医療やメディア(政治もだが)のありようが
問われているときに、カネがないから、と言うんじゃ問いと答えが噛み合わない。
豊かさを志向するときも、貧しさに立ち向かうときも
お金だけに焦点を当ててしまう、この国の国民性は何とかならないものだろうか。

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2009年4月14日 (火)

縄張り意識じゃないからかも

久しぶりにトイレを探している夢を見る。
この種の夢は、これまでの人生で、何回も見た記憶があるが
毎回、せっかく見つかっても汚くて使えない、とか
こんな所でするの?というようなとっぴな場所や形態だったりで
やきもき、いらいらしているうちに目が覚める
というのが多かったような気がする。

汚いトイレのトラウマは、小学校にさかのぼる。
郊外活動からの帰りに切羽詰って猛然とダッシュし、
入った駅の和式のトイレが、大変汚れていたのである。
それと同じような光景は、10年位前息子とモロッコへ
旅行したときに立ち寄ったモスクワ空港のトイレでも見た。
こちらは洋式だったが、上げられたフタが
汚物で汚れているのに仰天してしまった。
どうやったらあんな風に汚せるのか、どうやっても想像できない。
でも、つい最近何かでモスクワのトイレは汚い、
という文章に出会って、ああ結構普通のことだったんだ、と納得した。

一般に女性は汚いトイレを嫌う。
これは日常生活でもそうだし、マーケティングデータもあるのだろう。
だから最近は、デパートに続いて、駅のトイレもずいぶんきれいになった。
トイレに先人の痕跡が残っていると、どうして嫌なのかは謎だ。
ひとつは、汚いという観念が強固なせいだからだろうと思うが、
他人の存在というものを強烈に感じさせられる、という点もあるかもしれない。
犬や猫の縄張り意識と同じようなものを、
人間も持っていて、それを感じとるからじゃないだろうか。
この縄張り意識はたぶん、男性には普通に自覚されているのだろうが、
女性は、案外これを抑圧しているのだろう。
トイレの痕跡は女性の無意識を刺激しているのかもしれない。

なんでトイレの夢なのか、ということについては
いろいろ心理学的な説明があるけれど、真偽のほどは分からない。
夢の意味づけというのは、人間だけに特徴的なものだろうと思うが、
人間の場合は、そうせざるを得ないような本能の乖離があるから、
まあ、当たるか当たらないかは別として、
自分の内面を考えるための参考材料にすれば
いいんじゃないかという気はする。
ああでもない、こうでもないと考えるのは楽しいしー。

今回の夢でもトイレはなかなか見つからなかったが
いつものように探していたら、どこかのおばさんが、
「産婦人科のトイレを借りればいいよ」と教えてくれる。
先生らしき人の目を盗んで、ひと部屋に便器がふたつ
並んでいるトイレに入ると、そこにはすでに女性の先客が。
もうひとつを使おうと思ったら、
おじさんが滑り込んで来て先に座ってしまう。
じゃあ先生に借りる許可をもらわなきゃと、
ガラスで隔てられた隣の部屋の、
吉幾三に似た先生に話しをしていたら自分の番になり、
隣の女性と並んで座って仲良く話始めたところで目が覚めた。

このところ昼間は、いろいろと腹の立つことを思い出しては、
ひとりで無駄な反芻をしていたのだけど
なんだかすっかり癒された感じがして、とても気分がよい。
なんで産婦人科なんだ、とか、なんでおじさんが先に来て座るんだ、
とか、考えれば考えるほど不思議だが、
一番の不思議は、なんで癒された感じがするのか、ということだろう。
これが腑に落ちるのは、ずっと先のことなのだろうと思うが。

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2009年4月 4日 (土)

カリスマが不要なわけ

WBCはイチローの決勝打で勝ってよかった。
あそこでイチローが打てなかったら、最悪だっただろう。
サムライジャパンの勝敗に、まるで自分の存在価値がかかっているかのように
いちいち大騒ぎするのもどうかと思うが、自分とは何の関係もない
サムライジャパンを、まるで自分のように感じてしまう性癖は、
世の中の平和にとっては必要なものかもしれない。
イチローは軽い胃潰瘍とかで、開幕戦は休場するようだが、
WBCの1ヶ月あまりは大変なプレッシャーだっただろう。
怪我をした村田選手をはじめ、こんなことがあると、これからは
WBCには出ない、選手は送らない、という判断が出てもおかしくない。

WBCが面白かったのは、日本や韓国の
スモールベースボールがよかったからだと言われている。
原監督の「選手を起用するときは、どいつと失敗したら
悔いが残らないかを考える」という言葉が印象に残ったので、
彼の『選手たちを動かした勇気の手紙』を読んでみることにした。
私は原監督になってからの巨人の試合はほとんど見ていない。
ONの頃は、わりと見ていたほうだと思うが、
長島さんが監督になったあたりから、つまらなくなって見るのを止めてしまった。
仕事と育児で忙しくてそれどころではなかったからでもあるが、
金にまかせて選手を寄せ集めるというやり方に嫌気がさしたこともある。

原監督のこの言葉は、野球に限らず言えることだろう。
仕事をするときには、私も同じように考える。
でも、どこでそう判断するかということになると理屈では説明できない。
「何となくこの人だとヤバイ」という直感でしか判断していないが
原監督には、何か基準があるのかしらん、と思って読んでみたのだ。
でも、どうやら彼も同じみたいだった。

この本の中には「選手は信頼しても信用するな」という星野さんの言葉も出てくる。
信頼と信用の違いはリスクを覚悟できるかどうかだと言ったのは
「信頼の構造」を書いた山岸俊男さんで、山岸さんはこの中で
日本人は「信頼」ということが苦手だと述べている。
信用とは、「あの人に任せておけば悪いようにはしないはず」
という、言い換えれば他力本願的だが甚だ利己的な態度である。
原監督の『どいつと失敗したら悔いがないか』と言う態度は
日本人にはめずらしい、自分でリスクを取る態度のように見える。
もちろん、これは近年の日本人にめずらしいというだけで、
江戸時代あたりの日本人には、ごく当たり前の態度だったのだろう。

この本の中で原監督は、基本的にその時々の判断は
選手自身に任せているが、責任が大きくなりすぎるときは、
ベンチがサインを出すことで選手のプレッシャーを軽くすると言っている。
ベンチの役割は、選手を駒のように動かすことではなく、
勝利という目標に向かって、全員が力を出せるような場を形成することだからだ。
普通の企業では、部下は上司の指示で仕事をしているから、
責任は上司が取ることになっているが、にもかかわらず、
いざとなると部下に責任を押し付けて、責任逃れをする上司は多い。
そういう人には原監督の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいと思うが、
彼の采配は、いわゆるピラミッド型の組織とは違っていて
自律分散型の組織だからこそできたのだろうとも思う。
個々の選手は目標に向かって自分がするべきことを理解しており、
原監督が目指しているのはそういう選手を育てることである。
そして彼は、そこに最大限の自由を与えているようでもある。
選手をよく観察し、意向を確認しながら必要なアドバイスだけを与える
なんて、最高の上司だと思うが、その彼が
『指揮官にカリスマ性はいらない』とも言っている。
個々の選手を自律させれば、指揮官はカリスマである必要はない。
実に分かりやすいロジックじゃないだろうか。

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