テレビというお年寄り
今年大学3年生になった息子が
「今年の新入生は常識がない」とブツブツ言っている。
部室にやってきて、「その本見せてください」と息子に棚の本を取らせ、
パラパラっとめくって見て、「ハイ」っと返してよこしたりするらしい。
部室の前で酒を飲んでいたヤツもいたみたいで、
「ウチは校内で飲酒したら退学だから」とムッとしている。
まあ、下級生に対して常識がないと言えるほど
彼に常識が身について来たとは思えないが、
こどもは誰でも、ひとつひとつ経験を積みながら、
社会でどう振舞ったらいいかを覚えて行くものよ、と言っておく。
若い草彅クンも、この大騒ぎに反省しきりだろうが
一方の総務大臣はどうだろうか。
もはや反省できるほど若くはないとしたら、先は暗い。
たぶん高齢化社会というのは、こういう人たちをどのくらい
許し続けられるかってことが試される社会なのだろう。
そういう意味ではメディア、特にテレビも相当高齢化しているみたいだ。
まるで時間さえ埋められれば中身はなんでもいい、と思っているみたいに、
どこかで流していたのと同じネタを恥ずかしげもなく流す。
ちょっとしたネタは、どの局でも1週間続く。
同じテーマでも新聞の場合は、違う視点や切り口というのが
まだ、いくらか残っているけれど、テレビの場合は
ただ流すだけだから、視点も切り口もほとんど変わらない。
ひょっとしてテレビメディアの役割はニュースの報道ではなく、
われわれの深層心理の代弁なのかもしれない。しかし、
それにしては一般市民と乖離しているように感じるのは、
私たちは、「たいへんだ」とは思っても、次には
「じゃあ、どうすればいいか」と考えるために
「何が、どう大変なのか」と事態を見極めようとするのに
テレビは、その見極めの部分をすっ飛ばして、いきなり
「どうすればいいか」を報道しようとするからかもしれない。
この辺は、どういうわけかお医者さんの語り口と似ているのだ。
たぶん両方に共通している特性があるのだろうと思う。
それを考えてみるのは、結構面白いかもしれない。
ひと昔前までは、私たちの中に「たいへんだ」と
「どうすればいいか」の間のプロセスはなかった。
でも、経験を積むにしたがって私たちはだんだん利口になり
「何が、どう大変なのか」を見極めようとするプロセスが生成してきた。
テレビもお医者さんも、まだそれに気づいていないというのも共通している。
いきなり結論だけを提示されても、それが正しいかどうか
判断のしようがなければ、受け取る側は半信半疑になるだけなのに。
最新のトピックは新型インフルエンザだが、豚インフルエンザが
新型インフルエンザになったからって、何か問題でもあるのだろうか。
たいていの病気は人から人へうつるものだし、
いつの世にも新しい病気というのはあるし、出現しないはずがない。
私たちはたいていの病気に免疫を持っていないから予防接種をするわけだし、
ほとんどの病気に免疫があるから、今まで生き延びてこれたのだ。
それがダメなら死ぬしかないだけだが、まるでテレビは
「たいへんだ、たいへんだ」と騒いでいれば
死ななくて済むとでも思っているみたいなのだ。
テレビも疲れちゃったのかも。
きっと、自分の役割が何か分からなくなってしまったので、
ひたすら、自分はここにいる、と叫ぶしかなくなってしまったのだろうが、
そういうところが総務大臣と似ている、と思ってしまうのだ。
ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic
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