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2009年5月27日 (水)

日本語に直してみれば

カタカナ語(外来語)のために本来の意味とは違うニュアンスに
なってしまう言葉はたくさんある。
『トリアージ』という言葉の使い方にも、そういうところがあるんじゃないか
ということは、以前「電話トリアージ」で書いた。

『トリアージ』の元の意味は「選択する」だが、そこには
適切な人に適切な対処を選択するという目的が込められている。
適切な選択をおこなうために、さまざなな要因を勘案して判断する、
というのが、この言葉が持つ本来的な意味なのだろうと思うが
日本の医療での使われ方を見ていると、どうも効率よく医療を行うために、
医療者がおこなう振り分け、もしくは順番の判断というような感じがする。

『コンプライアンス』という言葉も怪しい。

「小児保健研究」vol66.no5の委員会報告
『社会的サポートとしての小児救急の電話相談のあり方について』に
次のような文章が出てくる。

6.電話相談システムにおける看護職の役割

1.医師と看護職の役割の違い

  ー略ー

 一方、看護職は対面の場であったとしても診断をつけることはできず、
また薬などについても指示することはできない。
看護職による電話相談は保護者・家族の不安解消のための支援が特に重要である。
保護者の不安解消のためには、専門家からアドバイスをもらうだけではなく、
保護者自身が子どもの発する信号に注意を向けることにより、
早期に症状を把握し対処できるように、
保護者の家庭看護の力を育てる支援が必要となる。
保護者の一時的なコンプライアンスを高めるだけでなく、
健康に影響を及ぼす行動や意志決定を、よりよくコントロールできるようになること、
つまり、エンパワーメントされるように支援していくことが求められる

この文章の要旨は、

看護職は診断、指示はできないが、電話相談で保護者を支援することはできる。
家庭看護の力を支援することで保護者のコンプライアンスを高め、行動や意志決定が
コントロールできるようになるような力をつけることが、その支援のめざすところである。

というようなことだろう。

『コンプライアンス』は、一般に「法令遵守」と訳されていて
新聞に載る時には、もっぱらビジネスの領域で、
企業が法やモラルに則った行動をしているかどうか、というときに使われる。
辞書によれば、要求や命令に従うこと、と書かれている。

医療の分野での意味は、健康用語辞典によれば

「患者が医師から処方された薬を指示通り正しく、
確実に服用し、注意事項を守ること。
患者のコンプライアンスが不十分だと、薬物治療の効果が現れにくくなる。
処方内容や処方指示について患者が理解できていない、
服用することを忘れる、薬物の有効性について信用していない、
副作用を恐れている、などが背景にあるケースが多く、
その改善を行うことが医師、薬剤師、看護師など
医療スタッフの重要な役割となる。」

とあるから、基本的には一般的な使われ方と同じである。
患者が医療者の要求や命令に従って、よい結果を出せているときは、
コンプライアンスがよい、結果が悪いときはコンプライアンスが悪い、
というような使われ方がされる。
つまり患者が命令に従うか、従わないか、を
この言葉で表現すると考えればよいだろう。

私が首をかしげたのは、本来電話相談には
『コンプライアンス』という概念がないのに、
なぜ、電話相談のあり方を論じるのに
『コンプライアンス』という言葉を使うのかが分からなかったからである。
この『コンプライアンス』を日本語に置き換えてみれば、そこがはっきりする。
置き換えて再掲してみよう。

看護職による電話相談は保護者・家族の不安解消のための支援が特に重要である。
保護者の不安解消のためには、専門家からアドバイスをもらうだけではなく、
保護者自身が子どもの発する信号に注意を向けることにより、
早期に症状を把握し対処できるように、
保護者の家庭看護の力を育てる支援が必要となる。
保護者の一時的な命令遵守(服従)を高めるだけでなく、
健康に影響を及ぼす行動や意思決定を、よりよくコントロールできるようになること
つまり、エンパワーメントされるように支援していくことが求められる

なんのことはない、看護職が電話相談でおこなおうとしている支援とは、
命令遵守を高めることだと言っているのである。
これを書いた人は、それが電話相談だと思っているということである。
実に道は長いのである。

もっとも医療界でも、この『コンプライアンス』という言葉は
分かりにくい言葉のひとつではあるらしい。
それが、命令とか要求という言葉の持つ権力性を
嫌がる気風だとしたら喜ばしいことではある。
しかし、カタカナ語に言い換えたところで、
その意味するところが変わるわけではない。
むしろ本質があいまいにされるだけである。
だから電話相談のような、医療の持つ権力性を無化する
システムについても、こうした誤解が起きてしまうのである。

ところで国立国語研究所の調査によれば、
この『コンプライアンス』という言葉は立派に
「言葉の意味の混同や混乱が多いもの」のリストに入っており、
患者の3割は、これを「医師が法令を守って治療すること」
と理解しているとのことである。
むしろ、患者の方が正確に理解していると
考えるべきなんじゃないだろうか。

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2009年5月25日 (月)

珈琲店でお気に入りの椅子に会う

先日、神楽坂の森戸記念館で別府宏圀さんの講演を聞いた帰りに
目をつけておいた上島珈琲店。
入り口を入ると左側に壁に向かった肘掛け椅子がずらっと並んでおり、
次回ギンレイに来たときには、これに座って本を読もうと決めておいた場所だ。

今回の2本立ては「バンク・ジョブ」と「その土曜日、7時58分」
どちらも泥棒の話だが、「バンク・・」は1971年に英国で起きた
英国最大の銀行強盗事件で実話が元になっている。
政界、警察などを巻き込んだスキャンダルがらみの話で
すこぶるテンポはよい。
この時代は、人も社会もある意味では素朴だが、
話そのものが映画にお誂え向きなので、
見る側はあくまでも観客として見ればよく、
結末は正義が勝つから気分は楽である。

これに比べると「その土曜日・・」は
監督がシドニー・ルメットだからなのか、
舞台が今という時代のせいだからか、まったく救いようがない。
金のために親が経営する宝石店に強盗に入る兄弟。
(被害は確かに保険で補填されるから実害はないはずだが)
ドラッグにおぼれ、会社の金を横領している
会計士の兄(フィリップ・シーモア・ホフマン)が考えたアイデアに
離婚して娘の養育費が払えない
気弱な弟(イーサン・ホークが適役)が巻き込まれる。
金がない、ということが引き起こすさまざまな誤算。
結末も、ありえないわけではないが、なんだか憂鬱である。
こういう時代に私たちは生きているのだとは思うが、
どこか遠くの世界のことだと思いたい。

終わって外へ出るといいお天気で、予定通り上島珈琲店へ。
運良く空いていた肘掛け椅子に座れて、なんだかうきうきしながら
池谷祐二さんの「単純な脳、複雑な私」の続きにとりかかる。
これでオットマンがあったら言うこと無しだなと思いつつ読む。
快適。
もっとこういう椅子のあるカフェがあればいいのに、と思うが
あんまり見かけないところを見ると、カフェといっても、
実は短時間のお客しか想定していない所が多いのかもしれない。
店内のざわつきも、かかっている音楽もまったく気にならずに
集中するが、なかなか読み応えがあり長時間続けると疲れるので
1時間で切り上げて帰ることに。
いつものチーズを買うために三浦屋に寄る。

ふと、娘は元気なのだろうかと気になり、ブログを覗いてみる。
更新してあるところをみると生きているみたいだ。
イケアで、ホットドッグとコーヒーで本を読みながら
まったりしたなんて書いている。
金がないはずなのに、結構のんびりやっている。
案外「その土曜日・・」を痛切に感じるのは私たちの世代までで、
若い世代は、もう少し違う感覚で生きているのかもしれない
と思うと、ちょっとホッとする。

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2009年5月22日 (金)

はじめの一歩

「小児救急電話相談の実施体制および相談対応の充実に関する研究」委員会
という長ーい名称の委員会の委員を委嘱されて、初めての会合に出る。
地域医療基盤開発推進研究事業という厚生科学研究の研究班のひとつである。
大阪方面から来る先生もいるので、新型インフルを考えて中止になるかも
と思っていたが、そうはならなかった。

厚生科学研究の研究班に参加したことは過去にもあるが(心身障害研究)
今回の面子は圧倒的にお医者さんが多く、もし形式的で眠くなるような
委員会だったら、次から「仕事があります」と欠席だなと思いつつ大手町へ。
会議室がサピアタワーの明るい会議室だったこともあってか、
途中でコーヒーのサービスなどもあり、終始和やかに進行。
結構いろいろな発言も聞くことができ、まずは、
お医者さんという職種のまじめさに好感を持つ(よかったね)。

小児救急電話相談に関しては、「外来小児科」にも何本か論文を書いたので、
それが今回の委嘱につながったのだろうと思うが、実際に参加してみると
この種の仕事は、確かに位置づけが難しいだろうということが分かる。
その原因のひとつは、各省が縦割りで、電話相談が乱立しているからである。
たとえば東京都がやっている救急安心センター構想とか(こちらは総務省)
各自治体が独自にやっている電話育児相談とか、
電話相談は、誰にでもできて手軽な住民支援業務
と考えられているから、やたら公費での参入が盛んなのである。

その証拠に、構想をぶち上げてはみたものの、人手不足の問題が
生じたら看護協会を動かせばなんとかなる、と考えている。
某地域の先生は
「ウチの地域は、看護師が割のいいアルバイトとしてやっているよ。
いつもやっていることを、やればいいんだから、って言ってある」
まあ、このあたりが一般的な認識なんだろう。

私の担当は、小児救急電話相談の意義を考えることと、
相談員のレベルアップによる質の向上。
報告書を見ると、民間委託については、質の確保が問題と書いてある。
いくつか参入している民間の会社の名前は
どれもなじみのある名前で、なんだか懐かしい気もする。
でも、民間の質が問題という認識はちょっと違うだろう。
民間では、30年以上前から電話相談をおこなってきており、
そもそも電話相談というものを始めたのも民間なわけだし、
彼らはそれでお金を稼いでいるのだ。
もちろん私だってれっきとした民間である。
私はなんでよばれたわけ???と思いつつ
「民間の質が心配なのでね」という発言には
「民間の方がレベルは高いですよ」とやんわりと反論しておく。
公的機関は民間のレベルくらいにレベルアップしなければ競争にならない。
公的ネットワークというコネでお茶を濁しちゃいけないのである。

民間で電話相談が始まったのには、さまざま背景があるが、
一番大きな理由は、電話相談のようなコミュニケーションの
あり方が求められていたからである。
今、医師や看護師が電話相談をおこなうということは、
そういう求めに応じるということである。
これは実際の医療現場で求められることとは全く違う。

なぜか。

この1年間で、そのことが少しでも浸透させられれば、
私の役割は果たせたと言えるのだろう。

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2009年5月19日 (火)

『グラン・トリノ』

月曜日の朝一番、丸の内ピカでリー3に『グラン・トリノ』を見に行く。
イーストウッドが久々に監督と主演を兼ねている。

予告編は、スター・トレックとかハリーポッターシリーズとか
ターミネーター4とか、CG満載の映画ばかりだ。
予告編を見る限り、どれも英雄待望がテーマみたいな映画ばかりで
欧米映画は神様の不在を、何かで補わずにいられないのだなあ、
という感じがする。

グラン・トリノとは1972年から76年にかけて作られた
フォードの車につけられた名前だそうである。
イーストウッドが演じる頑固な老人が、何よりも大事にしている。
自分が作っていた車だからだ。
世代継承というテーマは淡々と表現されていて
映画を見終わって立ち上がった隣の年配の女性の2人連れは
「いい映画だったわね」と言っていた。
ミスティック・リバーもミリオンダラーベイビーも
主人公が可哀想で、どうしても2回は見ることができないが
この映画は結末は悲しいのに、なんだかほっとする感じさえする。
産卵のために川を上っていった鮭を見るような感じがするのだ。

自分が一番大事にしているものを誰に手渡すか、というのは
中年以降の世代にとっては、大きなテーマだろう。
イーストウッド演じるウォルトは、その相手を隣に住むモン族の少年に決める。
モン族とは、東南アジアに居住する少数民族で、
頑固で偏見の強かったウォルトが、まったく文化の異なる
モン族の少年に心を開いていくところに、アメリカ社会における
少数民族の孤独と老人の孤独の重なりを見る感じがする。

映画の最後に、過剰な不安が引き起こす愚かな振る舞いも描かれる。
これはアメリカという銃社会のことを言っているようでもあり
新型インフルで大騒ぎしている最近の日本のことのようでもある。

いや、日本の場合はちょっと違うかもしれない。
日本の騒々しい振る舞いは、不安が引き起こしているというより
新規なものに対する易興奮性といった方がいいだろう。
連日メディアを賑わしている新型インフル関連ニュースは、
不安というより、政治家主導のお祭り騒ぎのような感じがする。
メディアが政治の言うなりなのは、今さらどうしようもないのかもしれないが
医療者には、もう少し独自の行動基準があっても
いいのではないかという気はする。
そういうものがないのが医療者というものなのかもしれないが。

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2009年5月11日 (月)

いしぶみ

ギンレイに「おくりびと」がかかったので見に行く。

2本立てのもう1本は「大阪ハムレット」。
父親を亡くした男の子3人兄弟の成長譚で、なかなか面白かった。
松坂慶子の大阪のかあちゃんと岸部一徳のへたれのとうちゃん
(ほんとは亡き夫の弟なのだが)という組み合わせが、
生きるというのはこういうことだと思わせて秀逸である。
こういう話に会うと、いやあ大阪にはかなわんなあと思わされる。
いやいや庶民という意味では、東京も一緒ではあるのだが。

「おくりびと」はさすがに見たい人が多く、久々の満席である。
この映画がどうしてアカデミー外国語映画賞をとれたか
ということについては、すでにいろいろな説明がされているが、
私はカメラワークのセンスも大きかったのではないかと思う。

冒頭、雪の中を車が走ってくる映像に、まず「ん?」と思わされる。
その乾いた、情緒を感じさせない映像は、邦画にはめずらしく
ミステリアスな雰囲気さえ漂わせている。
この導入は、外国人審査員には結構なインパクトがあっただろう。
舞台が山形ということもあって、撮られている景色は、
日本の山であり田んぼであり、家屋なのだが、
邦画にありがちな、湿った感じはあまりしない。
物語自体が、死者との別れという、下手をすると
涙でぐしゃぐしゃになりかねない内容なのだが、
そこここにユーモアを漂わせ、悲しみだけでなく、
死を忌み嫌う怒りや嫌悪さえも、突き放して見せる。
「死」という普遍的な経験には、誰でも個人的な
思い入れを投影することができる。
滝田監督は、それは観客にお任せしましょう、というスタンスに立って、
ここではもう少し別のことを言いたかったようにも思う。

唯一、情緒的なエピソードは、主人公の大悟と父親が交わす石文だ。
石文(いしぶみ)とは、昔、まだ文字がなかった頃、
自分の気持ちを伝えるのに、もっともふさわしいと思う石を
拾って相手に渡し、受け取った相手は、その石の大きさや形状から、
相手の思いを推し量ったのだと、大悟は説明する。
大悟は白くて丸い小さな石を父親に渡し、
父親は小さかった大悟の手に余るような、大きな石を渡してくれた。
その後父親が家を出たために、親子はそのまま別れて数十年が過ぎる。
次に大悟が父親に会ったのは、父が死んだあとだったが
その手には大悟が渡した石が握られていた、というものである。

「おくりびと」とは、死者を生と地続きの死の世界へ
送り出す役割を担う人のことだが、そうやって死と生が
無言のうちに通じ合うように、生と生も、
実は無言のうちに通じ合っているのだと、
この映画は言っているようでもある。
「おくりびと」とは、実は石をおくりあう人を言うのかもしれない。

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2009年5月 5日 (火)

ある訃報

朝起きたら、シャンソン歌手の高英男さんが亡くなった
というニュースが流れていた。90歳だったそうだ。
ときどき、あの人はどうしているのかなあと思い出しては
もう死んじゃったのかな、と考えたりしていたので
ああ、今まで生きてくれていたのだ、と少し心が和む。

彼は、こども心にも強烈な印象を残してくれた歌手だった。
シャンソン特有の感情に満ちた声に加えて、いつも黒づくめの衣装と
きっちりとアイラインを入れたバタ臭い雰囲気が、男でありながら
女性性を感じさせてなんとも色っぽく、オシャレだった。
本人は否定していたそうだが、化粧をする男性歌手としては、
やはり彼が草分けだったんじゃないだろうか。
ウィキペディアには、デザイナーの中原淳一が彼をプロデュースした
と書いてあるが、当時は男が化粧をするのは、芝居以外にはなかった
(と思う)から、その雰囲気はこどもながらに異端で、
しかしそれが時代にちゃんと受け容れられていたのは
大晦日の紅白歌合戦に彼が常連だったことを見ても分かる。
たぶん、『異端』はこの頃、まだ商品になっていなかったのだろう。

亡くなった忌野清志郎さんも化粧が強烈な歌手だったが、
清志郎が出てきた時代は、そうした反時代性は
すでに商品化されてしまっていたような感じがある。
もちろん、これは清志郎自身とは何の関係もないことだが、
彼に何となく痛々しさを感じてしまうのは、
そういうことも関係しているのかもしれないと考えたりする。

高英男さんと同じ頃に芦野宏さんというシャンソン歌手もいた。
こちらはまだご存命だが、彼は正統派の歌手という雰囲気を漂わせ
声そのものも歌い方も、いかにも優等生という感じで
文句のつけようがなかったが、その毒のなさは私の好みに合わなかった。
たぶん、2番手としてのマーケティング戦略だったのかもしれないし
芸大卒という経歴が、『異端』を嫌ったのかもしれない。
『異端』は商品にはなっていなかったけれど、
価値の違いとしては厳然と意識されていたってことだろう。

何でもあり、の時代になって『異端』とはどういうものかが
見えづらくなってしまったのはちょっと残念な気がする。
あ、そういうの、心の奥底にしまい込んで、今まで見ないようにしていた、
というようなものが出てこないかなあ、と願っている自分がいる。

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