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2009年7月27日 (月)

『ベンジャミン・バトン』

ようやく『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』をレンタルDVDで見る。
この作品はアカデミー賞こそとらなかったが、心に残る作品だった。

ブラッド・ピットの演じるベンジャミンは、年老いた姿で生まれて、
次第に若返っていき、最後は赤ん坊の姿で息絶える。
フィッツジェラルドの原作によるこの設定は非常に奇異だが、
にもかかわらず、切なさはリアルである。
ひとつには、死という別れの形式が自分との別れも意味しており
他者との別れ以上に、人は自分との別れを切なく感じるからかもしれない。
ベンジャミンが、年を経るにしたがって幼児化していくさまは、
老人が年を重ねるにしたがって、認知能力を失っていくのに似ている。
そこだけ取れば、老人とこどもは似ている、という話で終わる。
しかし、ほとんどの老人は、そうやって認知能力を減少させつつ、
外見も年老いながら他者との別れを迎える。
この別れ方は、いわば併走してくれる人と一緒にゴールを迎えるということだ。
ゴールテープを切るのは独りであっても、
ゴールまでは自分と同じように時間の経過をたどる他者が存在する、
という意味で、そこにはいくばくかの心強さがある。
ところが、ベンジャミンは同じように認知能力を失っていくのだけれど、
それは普通の人の人生というコースを逆走する形をとる。
彼のスタートラインは、他者のゴールラインから始まり、
そこから出発して、途中で一瞬のすれ違いを経て彼らから遠ざかっていく。
ベンジャミンには伴走者はいない。
デイジーは最後の彼を抱きとめてくれたが、彼女は伴走したのではなく、
ほんのつかの間のすれ違いを経て、死の間際に突如として現れたにすぎない。
だれもが死ぬときは独り、と分かっていても、それを共有してくれる人がいない、
という寂しさが迫ってくるのがベンジャミンの人生である。
胸を衝かれるような切ない感じ、というのはここから来るのだろう。

少し前にギンレイで観た『エレジー』では、
年老いた大学教授であるベン・キングスレーが、
あたかも最後の生(性)のエネルギーを燃やそうとするかのように
若い学生(ペネロペ・クルス)に一方的に恋をし、
彼女を自分のものにしようと、執拗に迫る。
ところが、いざ彼女が彼の思いを受け容れようとすると、彼は逃げるのである。
現実に向き合ったとき、彼にとっては死に向かう一方の自分と
生にあふれた彼女との間の、大きすぎる年齢差を障害と見てしまう。
そして自分の方から離れていく。
このあたりは、昨今の年齢差の大きいカップルを見ていると
想像がつかない心情だが、とにかくそうなのである。
ところが数年後、再び彼の前に現れた彼女が
死への病を抱えていることを知って、やっと彼は彼女を受け容れる。
この態度は傍から見ていると、なんだか随分身勝手な感じもするが、
死に向かう、ということは案外そんなものかもしれないとも思わせられる。
彼と彼女は、親子ほどの年齢差があるが、その差が変わることはない。
にもかかわらず、人は死に際しての孤独には、
そうそう耐えられるものじゃない、と映画は言っているようでもある。

そう考えるとベンジャミンの孤独が、より胸に迫ってくる。
朗らかさと若さの象徴のようなブラッド・ピットという俳優以上に
適役はいなかったかもしれない、という風にも思うのだ。

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2009年7月23日 (木)

煮ても焼いても食えないときは・・

アメリカから一時帰国していた妹を成田に見送りに行く。
親の介護のことは、もっぱらメールでやりとりしているが
年のせいで読み落としがあるのか、自分が言いたいことを
優先する癖があるのか、どうしても話がちぐはぐになるので
会って話そうということになったのである。

2年前に家族旅行で来たときは息子たちも一緒だったが、今回はひとり。
前半は我が家へ、間に池袋のホテルで姉妹合宿をおこない、後半は妹宅へ。
1週間足らずの滞在中に、親戚連中とのランチ、介護施設の見学と、
なかなかハードスケジュールだったが
心配したほどには時差ボケにもならなかったみたいだ。

ボケが進んだ親の話をしていると、いろいろ考えさせられる。
自分が認知症になったとしたら、自分がどうしたいか
ということをどう表現し、どうやって実現していったらいいのだろうか。
親を見ていると、そこのところが、よく分からなくなってくる。
AについてもBについても「そうしたい」と言われると
AとBが異なる場合、周りはどちらを選択すればいいのか分からなくなる。
QOL(クオリティ・オブ・ライフ)には、幸福という概念も含まれるだろうが
認知症の人のシアワセは、どうやって確定すればいいのだろうか。

一緒にいると、何度もおなじことを聞かれたり、
ありそうもない話を聞かされたりしてうんざりするが
いざ施設へ、という段になると急に可哀想になるみたいだ。
そういうとき、本人のシアワセはどこにあるのだろう、と考える。
可哀想という思いは、本人のシアワセを考えているようでいて、
自分のシアワセを優先しているようでもあり、どうもよく分からない。

スコールのような雨が降った日に届いた
知人からの暑中見舞いは「コハダ」の話題。
コハダはどう料理してもうまくない魚だが、
塩でしめ、酢漬けにすると、何ともいえない味わいになる。
アートディレクターの彼は、会社が傾いたのを機に
官庁の外郭団体に職を得たものの、その公務員っぽい水には
なかなか馴染めなくて苦労しているらしい。
あるとき、突然長々と思考の経過を送ってくれたりしたことがある。
もともと、もっとも公務員とは遠いタイプだったから
そういうところに職を得たことには驚いても、
「大変」ということには全然驚かなかった。

人がそれぞれ異なる持ち前の能力を発揮しながら
生き生きと生きていけるかどうかは、
彼をとりまく周囲の人たちの懐の深さがカギだろうが、
経済が豊かになり、欲望をかきたてられることが
少なくなるにしたがって、人の懐も浅くなってきたのではないか。
「煮ても焼いても食えない」コノシロという魚を
酢漬けという、手間ヒマかかった一品に仕上げたのは
なんとかうまいものを食いたいという、強い欲望があったからだろうが
そういう欲望の深さが、たぶん懐の深さにも
つながっていたのだろうと想像してみたりする。

認知症の老人がシアワセに生きていけるかどうかは
それこそ周囲の人たちの懐の深さによるはずだけれど、
もしかして、それが欲望の深さとも関係があるとしたら、
事はそんなに簡単じゃないのかもしれない。

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2009年7月12日 (日)

三者三様

先週の「人間学アカデミー」のシンポジウムのテーマは
「精神科医が診る『現代日本のうつろな気分』」。
主催者の小浜逸郎さん以外は滝川一廣、斉藤環、春日武彦と
全員精神科医である。

春日さんがなかばやけくそ気味に
「精神科医を3人も集めて何か別の意図があるんじゃないかと勘ぐる」
と呟いたように、最初はどうなることかと思ったが、そこはそれ
結果的には三者三様の面白い議論が展開された。

まず、小浜さんが中年男性の自殺が増えている、という話題を提供する。
中年女性はそうでもないのに、なんで男性ばかりが、というのだ。
斉藤さんは、男は立場の生き物なので、立場を失うと自殺へ走りやすく、
一方、女は関係の生き物だから、人間関係があるかぎり
容易には自殺しないのだと解説。
心理的剖検によると、精神疾患が高率で認められるそうである。
「うつろな気分」を
斉藤さんは学校におけるスクールカーストから生成が始まっていると言い
春日さんは、葛藤を回避することにより、みかけの自由を手に入れたものの、
どうそれを生かしたらよいか分からないという戸惑いではないか、
滝川さんは、社会システムの空洞化という観点から捉える。
どうやら共通のキーワードは「孤立化」ということのようだ。

斉藤さんによれば、近年の「コミュニケーション偏重主義」が、
学校でのスクールカースト(クラス内階級)を生んでおり、
コミュニケーション能力が高い子がカーストの
上位を占めるという現象が起きているのだそうである。
本来コミュニケーションスキルは訓練で高まるものではなく
偶然の産物なのに、そこではそれが勘違いされている。
思春期の適応能力は成人後のそれを必ずしも保証しないのに、
スクールカーストで下位になることで低下した自己価値観は
なかなか回復できず、引きこもりの要因にもなっている。

滝川さんは、こうしたコミュニケーション能力の偏重傾向は、
高度消費社会への変化に伴うもので必然的だと指摘。
物を作るより、他人の欲望をキャッチしたり作り出す能力が
求められる社会になったために、そういう能力が重視されている。
しかし、ここで言われているコミュニケーション能力とは
お笑いブームに見られるような、マニピュレーション(人を操作する)スキルの
獲得であって、社会性の発揮には結びついていない、という点では
3人とも合意しており、このあたりは、いかにも精神科医らしい。

春日さんの、コミュニケーションの達人というのは毛づくろい、
つまり中身がない話を延々とできるってことで、
それは対話能力とは関係がないのだという説明は、
なかなか納得感がある。
そう、ふつうのおばさんが得意なあれ、である。
だから、つながり志向が強いタイプは、自己の内面に関心がない
という一方で、自己への関心が高いとつながり志向が弱い、
という問題が起きてしまい、このあたりはなかなかうまくいかないのだ。

自殺する人は自己愛が低下していると言われるが、
自己愛とは自分を正当に評価できるというプライドであって
そこでは低い自己評価というのも自己愛の一種である。
だから自己愛を高めることは、単純に自殺防止には結びつかない。
むしろ、社会的ポジションによって支られていた自己評価を
何で代替するか、ということを考えるべきで、それは、
家族以外の人間関係をどのくらい持てるかだろう
というのが、3人が出した結論のようだった。

つまり男の人は中年になったら、おばさんに変身しなくちゃならないのだ。
永六輔さんは、まさしく時代を先取りしていたのである。


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