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2009年10月30日 (金)

耳と腎臓の不思議な関係

新聞に、左の肩から背中にかけて痛いのには漢方が効くと
書いてあったので、近所の女性専門の漢方薬局へ行ってみる。
素人だか玄人だか判別し難い女の子が
調合するしかないのでと話してくれるが、
すごく高い(月額2万円くらいする)のでさっさと諦める。
やっぱり金持ちしか医療を受けられない時代になっているんだなあ、
と思いつつ、もっとも金持ちは左の背中が痛くなるような
生活なんてしないんだから、そうでもないかと考え直す。
ふと思い立って、漢方で耳鳴りに効くのもあるのか?と
さほど期待もしないでネットで検索してみたら、これがあるのだ。

中医学、つまり中国の伝統医学では、耳は腎臓と関係があるそうだ。
腎臓の機能を強化するような薬で、腰の痛みにも効くらしい。
腰が痛いのと、何か下腹に力が入らない感じとは関係していたのか。
なんだか腰の関節が緩んでいるみたいで、
腰に力が入らないから腹筋を鍛えることができず、
お腹に力を入れないで腰を庇おうとするので、
身体の動きが恐る恐るになってしまう。これは腎臓と関係があったのね。
さらにそれが耳と関係しているなんて、半信半疑だが驚きである。

さっそく取り寄せてみることにするが、なんとなく怖い。
ネットで本や洋服や食品を買うのは、もう抵抗がなくなったが
さすがに薬となると、初めてということもあってちょっと躊躇する。
お金については、効かなかったらどぶに捨てたつもりになればいいが、
身体に異変が出たらどうしよう、と考える。
でも、何か変な状態になるようだったら止めればいいし、
芸術祭も近いから、腰の調子はなんとかしておきたい。
ぎっくり腰がある私としては、これから本番に向かって、
腰のアクシデントだけは避けたいのだ。
(今度の踊りは、上半身を床に沿わせて回転させる、
なんていう高度な振り付けがあるしー)
という思惑のほかに、耳と腎臓がほんとに関係があるのか
試してみたい、という気持ちもあり意を決して注文。

で、飲み始めて1週間。
耳鳴りは相変わらずだが、腰の調子は劇的である。
何となく下腹に力が入らない感じがなくなって、
はずれていた蝶番のネジが締まった感じがする。
まったく腰は身体の要というのは本当だなあと実感。
耳から来ているみたいだったふらつきも、めっきり少なくなってきた。
耳鼻科では埒が明かないので、自分で勝手に
「良性発作性頭位めまい症」と名づけていためまいは、
以前に比べるとだいぶよくなってはいたのだけれど、
どういうわけか、日差しがカッと激しい日に外へ出ると
何だかうまく適応できない感じで、疲れやすくてつらくかった。
特に曇りや雨の日の翌日の晴れ、というのがしんどかったのだが、
それが、明らかに楽になっている。
曇っている日は、めまいは楽だが腰がつらく、
晴れている日は腰は楽だが、めまいがつらい、
というのが、全日OKになって俄然強気になってきた。

それにしても、耳がおかしいというと耳しか診ないので
原因も治療法も分からない、という西洋医学は、
やっぱり根本的に発想を変えた方がいいんじゃないだろうか。
耳は身体にくっついてあるわけだし、
どことつながっているかっていうのは、すごく大事なはずだ。
心と身体と問題にする前に、身体それ自体を別の観点で
見直すってことが、もっと考えられてもいいように思う。
身体は部品の集まりじゃなくて、ネットワークそのものってことだ。
83歳のバレエの先生が口癖みたいに言うように
「自分の身体のことは、自分にしか分からないからね」
というのはホントである。

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2009年10月22日 (木)

『アンナと過ごした4日間』

久しぶりにシアター イメージフォーラムへ新作映画を見に行く。
246号線沿いの紀伊国屋は、どでかいビルに変貌していて、
表参道から青山学院までの通りは、相変わらず賑わっている。
でも、よく見ると数年前にはあったけど今はなくなっている店もあり、
テナントが入っていないビルもちらほら見える。

整理券をもらって、はす向いのスタバでしばしお茶。
マイナーな映画館なのに、観客は圧倒的に中高年が多い。
ここのイスは大変すわり心地がよいが、
かさ置きも飲み物ラックもないところに、
ウチはほかの映画館とは違うんで、というような自己主張を感じる。

『アンナと過ごした4日間』はイエージ・スコリモフスキという
ポーランドの監督による監督・脚本・制作の映画で
第21回東京国際映画祭審査員特別賞を受賞している。

出だしは映像も音もミステリータッチである。
切り落とされた手を焼却炉に投げ込むレオン。
「手に指輪がはめられていなかったか」「いなかった」
という会話に、物騒なものを想像させられる。

レオンが姿を追うアンナ。看護師のようである。
レオンが介護をしていた祖母の死。
ポーランド語でも祖母をバアチャというらしい。
なんでこんなところに共通点があるんだ。
祖母が死んでレオンは遺品をすべて燃やしてしまう。
自分の心の中から一切を振り捨ててしまいたいようだ。
でも、その顔は涙と洟とでぐしゃぐしゃである。

祖母に飲ませていた睡眠薬を砂糖と混ぜて
アンナの部屋の砂糖とすり替える。
彼女の部屋に忍び込む算段が整う。
そして、夜になるとアンナが寝ている部屋に忍び込む。
取れそうになっている白衣のボタンをつけてみたり
塗り残した爪にマニュキアを塗ろうとしてみたり
時には、眠っている傍で、ひとり彼女の誕生日を祝いながら、
みんなが残したご馳走を食べ、きれいに部屋を掃除して帰る。
彼女が使っているタオルの匂いを、シアワセそうに嗅いだりするところは
まるで究極のストーカーだが、彼女に触れることは決してない。
修理をするために持ち帰った鳩時計を返そうとして、
失敗したところで彼のたくらみは表沙汰になる。

なぜそんな振る舞いをしたのか、と問われて
レオンは「愛」と答える。
ネタばれになるので、これ以上は明らかにできないが
ああ、そうかもしれない、と思わされる。
アンナが自分と同じ傷を持っていることを彼は知っているから
ただじっと寄り添って、それ以上の振る舞いをしない。
アンナにも彼の気持ちは理解できるのだが、
彼が同じ傷を負っていることを彼女は知らない。
そう考えると、結末は納得がいく。
「愛」は必ずしも理解されるとは限らないのだ。

気持ちだけでなく、起きた事実さえも、
言葉で明らかにすることには限界がある。
言葉にすることで、さらに傷が深まることもあるからだ。
傷を負った動物が傷が癒えるまで、じっと潜んでいるように
レオンは自分の傷を癒すために、アンナの傍で過ごしたのかもしれない。
アンナを癒すことは、自分を癒すことだったのかもしれないと思うと、
人がつながることの不思議さを感じる。
壁を見たときの、心に広がる悲しみとも諦念ともいえない複雑な感情は、
誰もがレオンと同じ傷を負っているからかもしれないのだ。

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2009年10月15日 (木)

断る本音

知り合いの某小児科医から封書が届く。

「各位

日頃はお世話になり有り難うございます。
この度、私は日本外来小児科学会理事に立候補することといたしました。
引き続き外来小児科学の確立と普及に尽くしたいと考えております。
立候補にあたりまして推薦人が必要となります。恐縮ですが、私の推薦を
お願い申し上げます。用紙を同封いたします。私の氏名と、皆様の勤務先、
住所、氏名を記入していただけますでしょうか。氏名は自筆であれば
押印は不要です。同封しました返信用封筒にてご返送下さい。

よろしくお願いします。

                                   本人氏名  」


これまで別の学会の理事に立候補した人に
投票して、と頼まれたことはある。
立候補したのは全然知らない人だったが、知り合いのドクターから
専門領域の活動を推進するために必要な人なので頼むと言われて
投票用紙に名前を書いた。
頼んでこられたドクターとは、お会いしたことはなく
手紙とML上でのやりとりしかないが、
まじめで信頼できる方だと思っていたので
その先生の頼みとあって快諾した。
学会の理事の投票などほとんどしたことはないが
いい機会なので、ついでに知っている先生の名前も書いておいた。
この先生については、もちろん考え方も人柄も
よく知っているから躊躇することはなかった。

封書を送ってきたドクターは、私も参加している
質的研究勉強会のリーダーである。
彼は亡くなった長老先生の後を継いでリーダーになったのだが
リーダーになるためには、自分の息がかかった人間で
周りを固めるような野心的なタイプである。
医師は医師じゃない人間より偉いと思っていて
集まりなどでも、自分の関心を満たすためなら、
他人への配慮など一切せずに振舞う。

彼に言わせれば、同じ研究会のメンバーだから、
ということで至極事務的に封書を送ってきたのだろう。
リーダーとして立派に務めているのだから当然、
と思っているのかもしれない。
でも、そういう無遠慮な人に私は理事になってほしくない。
私の理想の医師像には程遠いからである。
日常的に無作法な人が偉くなると、
さらに無作法に磨きがかかる。
医療はますます悪い方向へ行くだろう。
他人に配慮できない人が、いい医療など考えられるはずがない。
彼は質的研究にももっとも不向きな人だと思うが、
本人にしてみればそこでリーダーになることは
単なるステップにすぎないのだろうと思う。

医師や自分の子飼い以外の人間には全然配慮しない人は、
そんな風に私が感じているなどとは、まったく感知していないだろう。
そういう人だから、たぶん理事にはなるのだろうと思う。
世の中を渡るのに図々しさに勝るものはないからである。

こういうのは黙ってスルーするべきか、
婉曲な理由を伝えて断るべきか決めかねているが、
いずれにしても、こちらの本音に気づいてもらうことは
期待できそうにない。
まあ、自分は不利益をこうむらず、
相手には自分の意図を伝える、
なんていうのは虫が良すぎるが。
これだから世の中は、なかなか良くならないのだ、きっと。

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2009年10月 7日 (水)

過去を乗りこえる

台風が来る前にと、ギンレイへ「スラムドッグ・ミリオネア」を見に行く。
インドのスラム街で育った青年が、クイズ番組で勝ち進みミリオネアになる話だが、
このクイズ番組、みのもんたさんのあれと、何から何まで一緒である。
どっちがどっちをマネたんだろう。
そんな貧しい教育もないヤツに、結構難易度の高い問題が答えられるはずがない
と当局ににらまれて、インチキではないかと捕らえられ
青年は厳しい取り調べを受ける。
そうした取り調べの中で、それまでの人生が明らかになる形で映画は進行する。

青年はなぜ答えることができたのか。
過酷な経験があったから、というのが答えだが、
その過酷さは、貧しさだけでなく命の危険をも伴ったものである。
大人たちのウソを見抜き、同時に自分も大人たちを欺きながら
兄弟で助け合って生き延びた結果としての、ミリオネアなのである。
そこには弟である青年の一途さ、というのもひと役買っていて
最後にはお金だけでなく、恋人も手に入れてメデタシなのだが
そういう主人公だから、最後に運命の女神も微笑んだのだ、
と言いたげな結末は、アカデミー賞作品としてはちょっと甘い感じもする。
アカデミーもBRICsの台頭を無視できなかった、ということかもしれない。

インドのスラム街の貧しさを私は実感できないが、
『衣食足りて礼節を知る』というのは、
そう単純ではないのかもしれない思いながら見る。
衣食足りた日本で、なかなか礼節が尽くされないのは、
豊かになれば独りでも生きていける、と錯覚されているからだろう。
そうなったときに、人は一時的に礼節を忘れてしまうのだろうと思う。
お金がある人ほど尊大な振る舞いをするのは、そのせいかもしれない。
でも、どんなにお金があっても、孤独には耐えられないと分かった時、
改めて礼節を意識するというのが、『衣食足りて礼節を知る』
ということの本意なのではないか。
現代という時代は、豊かにはなったものの、
まだ孤独の厳しさが実感できていない、
あるいは孤独に押し潰されそうになってはいるが、
それを乗り越える術を見出せていない時代なのかもしれないと思う。

こどもにとっての過酷な経験という意味では、
「スラムドッグ・・・」の前の週に上映されていた「重力ピエロ」も共通している。

こちらは、母親がレイプされた結果妊娠し生まれた弟が、
レイプした犯人である、自分のほんとうの父親に復讐する話である。
レイプされた母親は自分がこどもの頃に自殺してしまう、という過酷さを、
主人公である弟は、ほんとうの父親を探し当てる
エネルギーに昇華させていく。
その一途さは「スラムドッグ・・」に通じるものがある。

どちらも兄弟が助け合うという状況は同じだが、
「スラムドッグ・・」の兄が弟の望みを叶えるために
最後は札束の中で息絶えるのに対して
「重力ピエロ」の兄は、弟を助けて共犯になる。
ハングリーであることが生き延びる条件である社会の厳しさと
ハングリーさがないことが問題視される社会で生き延びる
難しさの違いが、ここにあらわれているけれども、
どちらも生き延びることへのアクセルが利いていて
そのアクセルの前では、モラルの持つ意味はかすんで見える。
若者に対して、それでいいのだよ、と言っているようで
この2本を、私は好ましく思う。

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2009年10月 1日 (木)

捨てる技術

「ご注文いただいた本棚が入りましたので
明日お届けできます」と、朝突然電話が入る。
幸いその日はバレエのレッスンもお休みなので都合はいい。
でも、お店のHPでは「10月初旬のお届け」となっていたので
連絡があったら片付けに入るつもりで、部屋の中はまだ手つかず状態。

「何時ごろになりますか?」(うー、片づけが間に合わなかったらどうしよ)
「9時半にはお届けできます」(ひゃー、早い!)
「じゃ、がんばって片づけてみます」
ということで、1日中わき目も振らずに本を移動させ、
戸棚とデスクを動かして床を掃除する。
本も床もしっかり汚れている。

朝9時過ぎに塀の外の道にトラックが止まる。
「あれそうだぞ、たぶん」と夫。
と、まもなく玄関のインターホンが。
若くて屈強な若者が2人で運んできて、さっさと梱包を解いてくれる。

本棚がいくつも並ぶと、ただでさえ狭い部屋がますます狭くなるので
今回初めてスライド本棚というのを購入。
だいぶ前に友人宅を訪問した時に、ライターだったご主人が
「本が納まらないので、これにしたんです」と言っていた。
そのときは、機能だけを追及するのって、なんかおしゃれじゃない、
という感じがしたのだが、とうとうそんな悠長なことも言ってられなくなった。
本が二重に並ぶのだから、理屈の上では
同じ間口で本棚2連分は入るはずである。

まずアルバムから手をつけ始めるが、
娘の大きなアルバムはA3のスペースに収まらない。
仕方がないので、それは仕事用のキャビネットに入れることにして、
残りのアルバムを片づける。
真新しい本棚に古ぼけたアルバムは似合わないが、しかたがない。
次は展覧会のカタログ。
我ながら、よくもこんなに集めたものだと思うくらい量が多い。
しかも絵画展のカタログは大きさが千差万別で、
どこへどう収納するかは、ちょっとしたパズルだ。
大好きなボリス・エイフマンのバレエ公演のプログラムも出てくる。
来年の3月に、10年ぶりくらいの久々の公演があるので、
さっきチケットの申し込みを書を書いたばかりだ。
中身を覗いて思い出に浸りたいが、そこら中に本が散乱しているので
心を鬼にして片づけに没頭する。

この本棚は、棚板を自由に設置できるのはいいのだけれど、
どの大きさの本をどこに収納するかは予め決められている。
文庫や新書のスペースは豊富だけれど、
単行本のスペースが意外に少ない(ような気がする)。
スペースと手持ちの本の量が、うまく合うだろうか。
今ある本が全部収まるか、だんだん不安になってくる。

結局新書のスペースにも無理やり単行本を収納することにし、
キャビネットにも相当量の本を入れることにして
ダンボール2箱分の本は処分することに決める。
本だけはなんとか片づいた状態になったら、もう夜である。
でも、今度はガラス扉がついているので本が汚れることはないし
部屋もすっきりして、すこぶる気持ちがいい。
つまり部屋の大きさに対して、物が多すぎたってことだ。
まだキャビネットに入れていた書類は外にあふれたままだし
バックなどの小物は居間を占領しているから、
片づけは終わったとはいえないが。

たしか「捨てる技術」という題名の本があった。
どんな内容か読んでいないので分からないが、
立花隆さんが、どこかで
「自分を創ってきた歴史を捨てるなんて」というような感想を書いていた。
でもまあそれは、立花さんのような知の容量の大きい人が言えることで
凡人は、部屋と同様自分のスペースにも空きを作ってあげないと
新しいことが頭に入らないってこともあるんじゃないだろうか。
本にかぎらず物を処分するということは、過去と決別することでもあるが
それは「人間死ぬ時はひとり」みたいな潔い感じもある。
もちろん決別する過去は、ちゃんと選択するわけで
これが自分の土台になった、と思える本はやはり捨てられない。
なので、形見も含めた古い本ほど捨てられない、ということになる。

なんだかんだ言っても、人間というのは
案外代わり映えしないものなのかもしれない。

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