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2009年11月30日 (月)

受診の仕分けはどうすれば?

民主党の事業仕分けは久々のヒットだった。
今まで、各省庁がこっそりと隠れてやっていたことが、
どんどん表沙汰になって行き、彼らがいかに好き勝手に
他人の金を使い尽くしていたか白日の下にさらされている。
うすうすとは感じていたことが、いまや確信になりつつある。
まあ、社用族の交際費でも省庁の予算でも、自分の金じゃなければ
バンバン使ってもなんの痛痒も感じない、というのは人間の性だろう。
自民党は、こういうのを知っていて黙認していた悪質な税金泥棒なのか
ほんとに知らなかったただの無能な税金泥棒なのか
一度解党してじっくり反省した方がいいことだけは確かだ。

もっとも組織のムダというのは、なかなか組織自体には
解決できないものではある。
自分じゃ自分のどこがおかしいか、よく分からないのと同じだ。

たとえば、たいていの医療機関には予約システムというのがある。
目的は、患者を待たせないためだったり、一般診療と予防接種や
健診などとを分けて、不要な感染を避けるためであり、
おそらく、どこの医院も患者の利益を考えて導入しているはずである。

これらの予約の方法は千差万別で、
朝、診療開始の1時間前から人海戦術で電話を受けているのもあれば
自動応答の電話やインターネットによるものもあるし、両方の併用もある。
電話やインターネットによる自動予約でも、24時間いつでも予約でき、
数日前からでも予約可能なシステムもあれば、
夜の7時にならないと翌日の診療予約ができないとか
当日の診療予約しかできず、それもその日の7時から4時までしか
対応していない、という医院もあって複雑なだけでなく不合理なこと極まりない。
しかも窓口の受付時間は、これとは別だてなのである。

ふつうに考えれば、機械の予約システムとは、
人ができないことを機械に代行させるわけだから
そこに時間制限があるというのは、まったく合理性を欠いていると思うが、
時間制限をしなければ受診患者が多すぎてすぐに満杯になってしまう
というのが医院側の言い分である。
しかし、ひとりあたりの診療時間を予め想定して
1日に診療可能な受診患者数をシステムに組み込んでいるはずだから、
受付時間を制限したところで、あまり意味はないように思うが
システムを導入する側には、そういう発想はないみたいなのだ。

そもそも予約といったって、病気の患者が関わることだから、
電車の運行みたいに寸分たがわず、ことが運ぶわけがない。
(電車だって天変地異に左右されるわけだし)
大きな大学病院の場合だと、朝の7時頃に診察券を出しても
実際に診療してもらえるのは昼過ぎだったりすることはよくあることらしい。
3時間待って3分診療、というのが患者のぼやきとして聞かれるが
そもそも3分の診療で済むような状態なのに、わざわざ大学病院へ
行くというのが、おかしいといえばおかしいのかもしれない。
そう考えれば、小さな診療所で20分や30分待たされるのは、
しかたがないと言えるかもしれないが、
根本的な問題は、待たされるほど患者が多いのはおかしい、
とは誰も考えないことだろう。

だいたい病気の患者が医療機関に出向くというシステム自体に
無理があると思うが、往診よりも宅診が主流になっているということは
それだけ重病な病人が少なくなったということではないか。
(ちなみに宅診とは医師が自宅で診療をすることだそうである)
想像するに、往診から宅診へという診療スタイルの変化は
重病な患者が少なくなったことと無関係ではないと思うが、
そうなると患者が自分で受診の必要度を判断することになり、
そこには医療万能という幻想が必要だったと考えるとわかりやすい。
そして結果的に、これが多くの不要な受診を生み、
需要(患者)と供給(医師)のアンバランスを生んでいる。
それを整理するために、わけのわからない予約システムを導入するくらいなら、
まずは、余計な受診をしなくても済む方法を考える方が、
よほど患者のためだし、医療費の無駄もなくせるんじゃ?と思うけど・・。

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2009年11月28日 (土)

ふるさとの今

芸術祭の本番は、なんとか無事終了。
佐渡に流された流人の心情を表現した、この創作バレエ「望郷」で
私が一番好きなところは、内面の葛藤を表現している部分だ。
振り付けでこんな風に、人の心情を表現してしまうところに
先生の才能を感じるが、その振り付けをこなせる踊り手は必ずしも多くない。
踊りには技術だけでなく、心情の理解が必要で、
それには人生経験も求められるからかもしれない。
芸術祭では、同じ教室の若手が振付けた、
こどもたちのプログラムもなかなか見どころが多かった。
小さい時から訓練を受けているこどもたちは、
手や足の先まで基本に忠実で、それ自体が表現になっている。
でも先生も言うように
「下手をすると体操みたいになっちゃうから、
表現という部分では、まだ関わらないといけない」
体操みたいなバレエは多いが、そこに表現するものがなければ
踊りとは言えないのだろう。

翌々日はディペックスのインタビュアーへのインタビュー。
一番バッターは臨床心理士のSさんだ。
患者の語りを聴いているだけでは分からないことが、いろいろ見えてくる。
1時間ちょっとのインタビューを終えた彼女から
「うわあ、よくしゃべったなあ。インタビューを受けるってこんな感じなんですね」
という感想を聞き、何だか面映い気持ちになる。
ここからどんな成果が出せるか、まだ皆目見当がつかないが。

その2日後は前の会社の部下からの誘いで
表参道の『フェリチタ』でパスタランチ。
9種類の前菜と猪肉の入ったパスタが、なかなかgood。
今年2月に入ったという新人も交えて、昔話や仕事の話に花を咲かせる。
この会社には優秀な若手が沢山いたものだが、
派手だったり威勢のいい連中は、まるで一過性の台風のように
どこかへ去って行き、今まで残っているのは、
地味な、あるいは地道にやってきた連中で
それは私が評価していた人たちでもあり、よかったなと思う。
(別に私が会社の行く末を考える必要はないのだけど)
でも、どこでもそうだろうが、誰もがむやみに忙しそうで
疲れているみたいに見えるのは気の毒だ。

せっかく表参道まで来たのだからと、この日は原宿まで歩く。
表参道と明治通りの交差点は、30年前と同じように賑わっているが、
ラフォーレの前には大きなファッションビルが建ち、
その中に娘がときどき覗くという『はんじろう』という
古着屋があるので寄ってみることに。
このビルの3階と4階で店舗展開をしており、
つるされている服を見ていると若い連中の嗜好が分かって面白い。
古着なのに、同じ物が結構な枚数あるのは
買ったはいいけど、手放す人も結構多いということか。
まるでお金が流通するみたいに服が流通している
というのが、なんだか妙におかしい。
そのうち服も物々交換したらいいんじゃないかと考えたりする。
古着屋は地下にもあって、この『Kinji』という店で息子用のシャツを購入。

原宿は30年前からずっと通勤で乗り降りしていた街だけれど
今歩いていても、昔を感じさせないのは、
新しいビルが建ったり、古いビルがなくなったりして
街自体に、しょっちゅう新陳代謝がおこなわれているからだろう。
それにしても、そんな風に変化が激しい街の中にいる
自分に違和感がないのはなぜなんだろうと不思議な感じがする。
私の仕事は人が相手の仕事で、それが街と同じように
自分を常に「今」に留めておこうとしているからだろうか。
原宿というそういう街が、ふるさとになってしまったからだろうか。

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2009年11月13日 (金)

居心地が悪い自分というデフォルト

イギリス人の英会話講師の死体遺棄容疑で
指名手配されていた市橋容疑者が大阪でつかまった。
顔の整形後の写真が出回ったときに、
時間の問題だろうと思ったが、そのとおりになった。
その後のメディアは連日、いつものように物語チックに
彼の一挙一動を報道している。

整形前の彼の写真は、とても情を寄せたくなるような人相とは言えず、
整形後のそれは、何やら方向性の見えない顔になっている。
こんなことをして、ほんとに逃げられると思っていたのだろうか、と
不思議な思いがわいて来るが、逃走後の2年数ヶ月、
建設会社の寮に住み込んで、1日9時間肉体労働に精を出し
お金をためてはネットカフェに泊まりこんで整形を繰り返し、
そして沖縄へ行ってひっそりと暮らすつもりだったのだろうと思うと、
なんだか健気な感じさえして、可哀想な気持ちになってしまう。
30歳なんて、まだこどもなのだ、現代では。

知的で落ち着いた両親のコメントは、理性的で愛情がこもっていて
「自分でも説明がつかないのだろうが、それができるまで
待ってやりたい」というようなことを言っている。
それは、非常に理解が深いように聞こえるが、息子からすれば
何も理解してもらえないのと同然だったのだろう、と思えてくる。
彼が顔の整形を繰り返したのは、むろん逃げるためだっただろうが、
それ以上に彼は、きっと自分自身と決別したかったのだろう。
イギリス人の死体を遺棄するずっと以前から、
彼はそう願っていて、ただきっかけがつかめなかった
だけにすぎないのではないか。
実感がない自分に、いつもいらだっていたのではないか
報道を見ていると、そんな気がしてくる。

自分を何かである、と位置づけることは
誰にとっても生きていくために必要なことではある。
そういうものがあるから、人は安心して生きて行くことができる。
でも、それがあまりに強固だと、人は心の中に空洞を抱えてしまう。

今月3日におこなわれた「小児救急電話相談研究会」で、
マニュアル作成に強固に反対する私に、リーダーの先生が依頼したのは
「電話相談のポイントを10個くらい、挙げてもらえないか」ということだった。
その問題意識は、「自分たちが電話相談を分かっていないのは
技術(スキル)を知らないからに違いない」ということのように思えたが、
同時に、彼が何とかみんなが納得できる着地点を探したいと
考えていることも伝わってきたので、数日間考えて
電話相談のもっとも基本的で、だからもっとも難しいポイント、
つまり相談員のあり方を5つだけ選んで、解説をつけて送った。

その5つに共通しているのは、相談の受け手である医師や看護師が
自分の位置づけから離れる、ということである。
電話は、何者であるかを特定せずに会話ができるところに、
大きな特徴がある。だからオレオレ詐欺が成立する。
電話相談は、これを最大限利用している。
かけ手も受け手も、何者でもない存在になれるから
自由な会話ができ、結果的にお互いが成長するのだ。
ところが専門家には、そこのところがなかなか理解できない。
むしろ専門家であるからこそ、相手の役に立つと考える。
自分が何者かであることから逃れられないのが
電話相談における専門家の弱点なのである。

内田樹さんは、レヴィ=ストロースを追悼する文章(毎日新聞11/11夕刊)
の中で、こんなことを書いている

他者を観察し、理解し、分類しつつなお暴力的でないような
他者との出会いはありうるのか。その可能性を若きレヴィ=ストロースは
民族学という新しい学問のうちに見出した。フィールドワーカーとしての仕事は、
とりあえず彼に「慢性の故郷喪失者」であることを要求する。
どこにいっても民族学者は「自分の家にいるという気がしない」 -略-
人は「自分が自分であることの居心地の悪さ」をデフォルトとするような
生き方をしている限り、それほど大きな破壊や愚行にはかかわらずに
いられる。レヴィ=ストロースはたぶんそう考えたのである。 -略-
『野生の思考』のもっとも鋭い批判は次の一文に尽くされたからである。
「自我の明証性と称されるものの中にまず自らの位置を定める者は、
もはやそこから出ることはない」

市橋容疑者は、なんとか自分から逃げたかったのだろうが、
それには、まず両親から逃げることだった。
その方法を間違えてしまったのではないか、という気がしてしかたがない。

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