« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月29日 (月)

エイフマンの『アンナ・カレーニナ』

S先生が東京新聞主催のバレエコンクールの
審査があるので、日曜日は2代目のF先生による代稽古。
2代目と目される先生クラスの人は何人かいるが、F先生は、
身体的にもメンタル的にも、一番S先生に近いかもしれない。
でも若いだけあって、ウォーミングアップのバーレッスンも、
指摘は非常に論理的で分かりやすい。
それは教わったことを、自分の身体で経験し直し、
それを言語化して伝えようとしているからだろう。

バーレッスンの後は、ターンの練習。
私は大人になってから始めているし、めまい症もあるので
ターンは苦手なのだが、コツをつかむと
だんだんできるようになってくるのは楽しい。
その後は5月の現代舞踊協会の舞台の練習。
ふだんS先生が厳しくチェックを入れている部分について
それが何を要求しており、どうすればそれが達成できるかを
F先生に見てもらいながら、みんなで細かく修正していく。

踊りでも絵でもそうだが、何かを表現するためには、
その根拠となる心情理解が不可欠で、もちろん理解しても
技術がなければ表現には至らないのだけれど、
技術が不充分でも、表現しようとする気持ちがあると
観客には伝わるというところは、どうやらさまざまな芸術に共通する。
逆に、心情に対する理解が不足していたり、
身体表現に対する抵抗があると(これが意外と厄介だが)、
踊りが形だけの薄っぺらいものになるだけでなく、
まったく違ったものになりかねない。
ところが、こういう踊りでも映像で観ると
それなりに美しく映ってしまうことがある。
ここが、生と映像との大きな違いでもある。

今回の踊りで表現しようとしているのは、
不本意に佐渡に流された政治犯たちの心情だが、
彼らの寂しさや悲しさ、怒りといった内面の葛藤を表現するには
自分の中にある似たような体験を引っ張り出してくる必要がある。
そして、それらが過不足なく観客に伝わるためには、
個々の身体表現だけでなく、どうやってそれらを、
同期させるかも考えなきゃ、という結論に
みんなでたどり着いたのは収穫だった。

「モダン」の身体表現は、「クラシック」とちがって抽象的である。
だから観客の側に、感じとる力が要求される。
誰もが感じるレベルにまで抽象度を高めているがゆえに
誰もが同じように感じるとは限らない、ということが起こるのだ。
そこを補うのが、集団の同期のしかただという考え方は面白い。

新国立劇場で上演されたボリス・エイフマンの
 『アンナ・カレーニナ』にでも、おなじことを感じさせられた。
彼の振り付けは非常に現代的で、幾何学的でアクロバティックな
動きが多いのだが、それが実に的確に心情を表現するのだ。
人間の心理を抽象化すると、まさしくこんな身体表現に
なるに違いないというような振り付けが随所に見られる。
特に群舞は素晴らしく、10数年前に初めて観た
『チャイコフスキーの光と影』でも圧倒されたが、今回も同様だった。
上流社会の、うわべだけの社交や中身のない空虚さが
個々のダンサーの身体表現が同期することでまざまざと見えてくる。
その時代の、そうした雰囲気というのが表現されてこそ、
主役の3人(アンナ、カレーニン、ヴロンスキー)の心情も
鮮明に浮き彫りになるということなのだ。

今回の演目は、日本での初演であり、
日本人のバレリーナが初めてエイフマンバレエを踊る
という意味でも注目すべき舞台だった。
実は、チケットを予約した時点では、
主演のキャストが発表されておらず
チケットが来た時点で主演が日本人だと分かった。
本音を言えば、ロシアキャストで観たかったのだが
変更ができなかったので、それなら日本人が
エイフマンのバレエを、どう踊りこなすか、
というところに焦点を当てて観ることにした。
結果として、技術的には相当なレベルまで達していて、
その意味ではエイフマンバレエを堪能できたが、
表現されるべき心情や、人間が情念に翻弄されるさま
といった点では、やや物足りなさが残った。

慣習の墨守が生み出す安寧と調和
という幻想に対する破壊的な激情

を表現するには、現代日本人はあまりに華奢であり
禁欲的すぎるのか、はたまた恵まれすぎている
ということかもしれないし、やはり越えられない壁があるのかもしれない。
ロシアキャストだったら、どうだったのだろうと思うと
返す返すも残念だが、いつかは本場ロシアへ観にいきたい、
と思わせてくれたのは、さすがエイフマンだったと言っておこう。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月26日 (金)

薄い関係

久しぶりにギンレイへ。
いろいろ雑用が多くて2ヶ月くらい行かなかったのだが
久しぶりに邦画がかかっているので、ちょっと見てみようと。
今日の2本は『剣岳』と『さまよう刃』。
すぐ近くのスタバでコーヒーを買って入ると
朝一番なのに結構混んでいる。

『剣岳』は新田次郎の原作で、
明治の末期に陸軍の指示で地図を作成するために
剣岳へ登った測量士と案内人たちの物語である。
どっちが先に頂上を極めるかと、山岳隊と競争する話とか、
剣岳の天候の難しさとか、ストイックな山の案内人とか、
エピソードは満載なのだけど、いかんせん2時間半は長い。
まあ、登るのが難しい山の話だから、意気込んでしまうのも
分からなくはないが、香川照之とか浅野忠信とか
仲村トオルとかいい俳優が揃っているのに
やたら音楽は仰々しく、作りも古めかしくていささか白ける。
人はなぜ地図を作るのか。
自分の居場所を知る必要があるからって、
当時の陸軍にこそ教えてやりたかったよな、と思う。

『さまよう刃』は娘を殺された父親が
殺した未成年の相手2人に復讐する話である。
親の気持ちとしては納得できるが、
こういう話は『重力ピエロ』のように、
極力重さを削り取っていく方が、むしろ深刻さを感じさせるんじゃ
ないかと思うが、あまりにストレートでかえって現実味が乏しい。
竹野内豊のアップはいいなあとは思うが
美形はたぶんこれからが勝負に違いない。

最近よく、薄い人間関係について考える。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などで
見も知らない人たちと、いろいろなテーマについて
ああでもないこうでもない、と意見を言い合い、
時には腹立たしく、時にはほんわかと暖かい気持ちになる
という関係が、意外と心地よくなっている。
文字だけのやりとりは、感情が分かりにくいという欠点はあるが、
真意が測りにくいのは案外利点でもある。
相手だってこっちの真意なんか分かるはずはない
と思えば、独白みたいに自分の考えを書くこともできる。
気を使わなくても済むことほど快適なものはない。

テーマがよく分からない場合はひたすら他人の意見を
拝読するのだが、これが結構勉強になるし、
世の中にはそういう考え方もあるのねー、と感心することも多い。
面と向かって、「そういう風に言われるのは不快です」
とはなかなか言えないものだが、ネットなら言えるのも、
精神健康上すこぶるよい。
もちろん相手だって、文字だけだからこちらを忖度せず
言いたいことを言っているのだろうが
溜め込まないで、吐き出してしまうことができるのは
利害関係のない、つかず離れずの微妙な距離感だからだろう。

でも、こういう薄い関係というのは裏返せば
それなりに孤独でいるということでもある。
それに耐えられないと、ちょっと辛いものがあるのだろう。
「秋葉原で無差別殺人を犯した青年は、ネットの中では
孤独だってことが分からなかったのだろうか」と息子に言ったら
「どこに居場所を定めるかって問題で、自分に適した居場所を
持てなかったのが最大の原因じゃ?」と言っていた。

清水博さんは、「場所」と「場」を結構厳密に区別しているが、
この場合の青年にとっての居場所は「場」と同義だろう。

「場とは何か」について、彼は「場の思想」
(2003年7月、東京大学出版会)のなかで次のように言っている、
という記述を見つけた。 

『場とは何かと聞かれたときに、私は次のように答えることが多い。
「あなたの体をつくっている細胞の一つを想像してください。
その細胞があなたの生命(あなたの体全体に宿っている生命)を
どのように感じるでしょうか。あなたがその細胞になったつもりで
考えてください。そのときにあなたが感じるもの、それが場なのです。」
分かりやすく言えば、場とはこの場合は自分を包んでいる
全体的な生命の活き(はたらき)のことである』

どこにいても自分が活かされている、と思えるようになるためには
剣岳を登るように苦労を重ねるしかないのかもしれない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2010年3月15日 (月)

ホントというウソ

やっと小児救急電話相談研究会の事例検討会が終わる。
相談サンプルを聴いて検討会をしよう、と言い出したのは私だけど、
100件近いサンプルを次から次へと聞く、というのは結構難行だった。
でも、各地の小児救急電話相談が、どの程度かという実態を
おおよそつかむことができて、言ってみてよかったと思う。
我々の班に求められていることは、教育研修体制を作ることだが
実態が分からなければ手のつけようがないからだ。

サンプルを聞くとよく分かるが、みんな一様にかけ手の話が聴けていない。
これは、相談員に採用された人たちが、電話相談についての
研修をまったく受けておらず、自分たちがふだん電話でやっていることが
電話相談だと、単純に考えて始めてしまったからではあるが、
医療における、医療者のコミュニケーションの
典型なあり方が露呈したとも言えるだろう。

相手の話を聴けないのは、相手の問題を解決するのは
自分たちだと思っているからで、医療の現場ではこれがふつうである。
電話相談では、その常識を180度転換させなくてはならないが
それは、電話相談がホントとウソを識別できないからだ。
(電話じゃなくても識別は難しいけど)
それに慣れるには、まず自分を否定することから入らなければならない。
それがものすごく大変なので、研修中に辞める人が続出する。

昨日の検討会でも、
「そんな厳しいこと言ったら辞めちゃう人が出る」
という発言が参加した医師から出ていたが、
無償のボランティアならイザ知らず、
お金を(それも税金を)いただいてやる以上は
それなりのレベルのお仕事をしなきゃいけないでしょ、と言っておく。
各自治体という官は、とりあえず形になれば、他はどうでもいい
と思っているのかもしれないが、他人の金だと
気楽な仕事ができるものだと感心する。
サービスを受けるのは、払っている側の人なんだけどね。
これで少しは電話相談について理解を深めてもらえただろうか。

次に取り掛からなければならない仕事があるのだけど
一息つきたいのでダウンタウンへ。
そうだ、『ガラスの巨塔』という本を教えてもらったんだっけ
と、デパートの上にある三省堂へ。
運良く1冊だけ残っていた本を持って隣接したカフェに入る。
ここは買う前の本を持ち込んで読むことができるのだ。
それにしても、やけにカフェが混んでいる。
そういえば、午前中に久しぶりに行ったスーパーも
めずらしく混んでいた。
どういうことなんんだろうと思いながら、
結構な分量の単行本なので、さーっと読み始める。
著者は「プロジェクトX」のプロデューサーだった人。
NHKの内部告発もののようで、たしかにドラマ化したら面白いかも。
組織の中で上昇していくことの怖さは伝わってくる。
NHKのように、優秀な人が多ければ多いほど
その闇も深いのかもしれない、と思わされる。
「プロジェクトX」は2,3本見たことはあるが、
作りがパターン化しているのが分かった時点で、見るのを止めてしまった。
作り手は、本当の感動物語、を提供したかったのかもしれないが
みなさん、こういうのが好きでしょ、
と言われているみたいで白けちゃったのだ。
こちらが直接お金を払うと、健康優良児のための
道徳教育番組のようなものを見せられ、
間接的な場合は俗悪番組を見せられる、
というテレビメディアの構造が、どうもいまひとつよく理解できない。
こちらが見たいのは、ホントというウソ、なんだけど。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月 1日 (月)

共感の先にあるもの

小児救急電話相談の質の評価方法を作成するために
相談のチェックをしていると、さまざまな実態が見えてくる。
われながら、なかなか的を得た提案だったとちょっと得意になる。

看護師を名乗る相談の受け手は、
医師の代わりという気負いがあるのだろうか
やたらに偉そうで、あいづちの打ち方も横柄か、さもなくば
上から目線で「お母さんね」を連発する。
電話という相手が見えないメディアは、
インターネットで成りすましができるように
お互いが何者でもないことによって
対等なコミュニケーションを保証している。
だからかけ手の自己決定をサポートできるのだが、
看護師という資格だけで採用され、
資質のチェックも研修も充分受けないまま
実務に就いているような状況では、
そんな基本さえ教えられていないのだろう。
それに加えて、相談と診療の区別もついていないから
当然のことながら、相手の話もほとんど聴けていない。
各地の自治体や医師会は、それでも
電話相談ができている、と思っているのだ。
まずは、どうやって受け手に自分を省みてもらうか
この1ヶ月間、そればかりを考えているときに
タイミングのいい出会いがあった。

日経新聞の「やさしい経済学」に連載中の
『「個人」の再発見』という短文は
なかなか興味深いヒントを与えてくれる。
筆者の宇野重規さんは、東大准教授という肩書きだから
まだ若い世代に属するのだろうが、
そういう人の視点だけに今後が楽しみである。

彼は、
近代における個人化は、それまで個人同士をつなげていた
規範や価値観から切り離されることで成立しており
その結果が「リキッド・モダニティ」といわれる近代社会だと述べ、
それが社会がさまざまな場面で見せる不確実性の要因に
なっているとともに、社会の問題が個人の問題として
認識されてしまう現状を、近年の失業者問題を
例に挙げながら説明する。
しかし、個人というものをよく眺めてみれば、
そこには「利己心」と「共感」の両面があり、
人間は他者の目を意識せずには生きられないということを、
トクヴィルとアダム・スミスを引用して述べる。
そして、複雑で不確実性に満ちた世界では、
単純なモデルにしたがって、一方的に世界を変えようとするより
異なる価値観に対して「共感」を示すことで、
たえず自分の自己中心的な世界観を修正していく方策が
有効であるということを、ラモの『不連続変化の時代』から述べる。

人間に「利己心」と「共感」の両面性がある、というのは
爆音をとどろかせて暴走する若い連中などを見ていると
実態としてよく理解できる。
あのうるさい音だって、誰かに聞こえると思うから
やっているのに違いなくて、得意の裏には
必ず他者の目を意識する本人がいる。

「共感」が相手とつながるためのものであることは
普通の人間関係ではごく当たり前のことだが、
それが相談やカウンセリング、ビジネスなどといった
仕事がらみになると、とたんにそれは
相手を説得するための手段に変わってしまう。
自分の思うように相手を動かす、という意識が
なかなか払拭できないのが人間の性だと言えないこともないが、
これまで「共感」は、つながるためのもの
つまり、相手の「利己心」を理解するためのものとしてしか
捉えられてこなかった、といえるのかもしれない。
しかし、宇野さんはここで
「共感」という技法を、相互に自己修正し合う機会として
捉える、という考え方を紹介している。

これこそが、ほんとはコミュニケーションと
表現されるものなのだと私は考えている。
彼が言うように
流動化し、不安定になる社会だからこそ、
個人の多様な思いに重きを置き、それを尊重し、
そしてつなぐこと、が必要な時代になってきている。
コミュニケーションの時代、とはそういうことなのだと改めて思う。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »