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2010年5月30日 (日)

回帰現象

やっと現代舞踊協会の「五月の祭典」が終わる。
自分が求めるレベルと、現実に達成できるレベルが違う
というのは毎度のことだけど、まずは宿題をひとつ終えた気分。
腰に異変を起こしませんようにーと祈りながら
リハーサル、本番へと流れる時間を過ごす。
本番までの待ち時間に、どうやって万全な準備をするか
その方法を見つけることが自分の課題だ
と分かったのは、今回の収穫だった。
終わった翌日、髷のために伸ばしていた髪の毛を切りに
外苑前のヘアメイクまで。ようやくさっぱりする。
年をとるほど、切り替えが早くなるのは死に近づいているってことか。

週末は、退職後14年ぶりの元いた会社の同窓会。
場所はいつものヘアメイクのすぐ近くのチーズの店だった。
こんなところに、こんなオシャレな店があったなんて。
集まったのはOG、現役合わせて総勢30人余り。
在籍1年足らずから30年以上と多彩なメンバーが揃う。
それぞれの所属部署も、電話秘書サービスから
電話相談事業部、テレマーケティング、生活科学研究所など
さまざまで、もちろんみんな女性、それもすこぶる元気な女性ばかりだ。

世話人のグループ分けにしたがって
グループごとに前へ出て、みんなに近況報告をする。
基礎体温を測る器具販売の会社経営に転じた人、
民俗学者の秘書、マーケティング会社の経営者、
電話相談サービスごとスポンサーに買い取られた人など
みんなさまざまなキャリアを積んでいる。
もちろんサラリーマンを続けている人もいるし、
今年、会社との契約を更新できなかった人もいる。
老いてなお元気な人もいれば、
乳がん、甲状腺など病気を克服した人もいる。

現役が参加しているのは、自分の仕事へのプラスを
狙ってだろうが、会社の現況はなかなか厳しそうである。
女性の発想だけで勝負できる時代は終わった、ということだろうが、
社内は黒い背広姿ばかり、という話を聞くと、
社員の99%が女性だった会社が、
ほとんど男性に置き換わるというところに、極端な揺れを感じる。
「女性を売り物にする時代じゃないんじゃないか」という議論は
私がいた15年前に、すでにおこなわれていたが、
その頃、そういう意見にまともに耳を貸す姿勢はなく、
さまざまな試行錯誤は、どれも中途半端だった。
まあ、読みが悪かったのである。

私はこの会社で、積極的であることと図々しいこと、
恥知らずとしたたかさは表裏一体だということを学ばせもらった。
そういう意味では、得難い経験をさせてもらったのだけど、
でも、そういう過去を懐かしむ感覚は、あまりない。
世話人は、次回は社長にも声をかけよう、とか言っているが
やっと抜け出した場所に、もう一度戻るなんてゴメンだ。
帰りがけ、電話秘書サービスを持って独立した人に
若干のカンパを置いて行く。
そのための同窓会だった?と思うと少し違和感。

帰宅すると、メディアはさかんに福島大臣罷免のニュースを流している。
まったく普天間の問題は分からないことだらけだ。
どのメディアも鳩山さんがアホだから、という論調である。
たしかに「勉強不足だった」という首相の言い方は、
単純に考えると「今頃そんなことを言うなんて、なんてアホなんだ」
ということになるが、じゃあ、もし鳩山さんがアホじゃないとしたら
どういう理解の仕方があるか、ということを
どうしてメディアは考えないのだろうか。
ふつうに考えたら、一国の首相が、わざわざ自分をバカだと
思わせるようなことを言うはずはない。
どんなに誠実な人だって、自分をバカだと思われるよりは
「結構優秀」と思われる方がいいに決まっているからだ。

でも、そういう風に複眼的にものごとを考えないから、
大手メディアはアメリカに情報管理されている、と思われるのだ。
松田武阪大大学院教授は
『戦後日本におけるアメリカのソフトパワー』-半永久的依存の起源-で
アメリカが日本のメディアの情報管理をシステム化していた事実を
明らかにしているが、たぶん日本のメディアは
そういう過去から抜け出せていないのだろう。

しかしそれにしても理解できないのは、
通常パフォーマンスの効果を最大化したいときは、
事前期待をできるだけ下げておいて、相対的に達成度合いを上げる
というのが常套手段のはずなのに、
鳩山さんがやっていることは、それとは正反対なことだ。
事前期待を高めるだけ高めておいて、結果をはずすというのは
最悪だと思うけれど、どうしてそんな初歩的なミスが起きるのだろう。

それに加えてもうひとつ解せないのは、鳩山さんは物言いは丁寧だし
腰も低い(低く見える)のに、やっていることはそれとは反対なことである。
そもそも日米が先に移設の合意をし、それに沖縄(国民)を従わせる
というのは、あの物腰とまるでマッチしない。
今までの自民党の首相は、物言いも振る舞いもエラソーだったが
鳩山さんは、新しいタイプなのだろうか。

こんなに分からないことだらけなのに、大手メディアは
「首相がアホ」ですべてが片づくと思っているらしい。
そんな簡単な話じゃないんじゃないかって考える方が、
よほど普通なんじゃないかと、ミステリー好きの私は考えるのだけど。

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2010年5月20日 (木)

『許されざる者』

クリント・イーストウッドが5月31日で80歳を迎えるということで、
NHKの衛星放送やWOWOWが特集をやっている。

西部劇大好きなイーストウッドファンが、
『許されざる者』をベスト1にあげていたので、勉学のために見ることにする。
西部劇は子どもの頃、テレビで見ていたくらいで(ローハイドとか)
あとは、いつだったかこどもの頃の大晦日に、
親が正月の買い物をしている間、妹と2人映画館に放り込まれて、
そこで『アラモ』を見た位しか記憶にない。
こどもが見ても問題なさそうな映画は、それくらいだと親が判断したのだが、
西部劇のドンパチは、ファンタジーだとでも思ったのだろうか。
小学生のこどもにとっては結構な衝撃で、でもジョン・ウエインより
リチャード・ウイドマークの方が印象に残ったのはなぜなんだろう。
その後、イーストウッドが注目されたマカロニウエスタンも全然興味はなく、
その意味では、彼をちゃんと追いかけているとは言い難いのだけど
まあ、『ローハイド』はずーっと見ていたし、ロディのファンでもあったから
イーストウッドとの付き合いは長い。

『許されざる者』には、さまざまな許されざる者が出てくる。
ビッグ・ウイスキーという町の保安官は分かりやすい悪党だが
(それにしても、ジーン・ハックマンという俳優は悪役をやらせるとピカ一である)
ウソに塗り固められた自伝を書こうとやってくるイングリッシュ・ボブだって、
ほとんど自分の実績のために、それを執筆しようとしているライターだって、
娼婦館のオーナーだって、素朴な町の連中だって、
イーストウッド演じるウイル・マニーをそそのかす
スコフィールド・キッドだって同等である。
ウイル・マニーが復讐の大義名分に掲げた
傷つけられた娼婦とその仲間たちさえ、
決して後味がよいとはいえない復讐に、
他人を巻き込んだという意味で、許されがたいといえるだろう。
この映画が高く評価されたのは、そのように簡単には善悪をつけられない
のが現実なのだということを描いて「最後の西部劇」と言われたからだと思う。

娼婦という、いわば社会の底辺の人間に対するイーストウッドの
暖かいまなざしもさることながら、ここで印象に残るのは、
町の住民の流れ者に対する反応である。
この町では、よそ者は銃の携帯が許されない。
もちろん住民は銃を持っている。
自分たちが武器を持っているにもかかわらず、
武器を持っているかもしれないよそ者に、異常な恐怖を抱くのは
恐怖心には、さしたる根拠があるわけでなく、
むしろ自らによって掻きたてられるものであって、
それは相手より優位に立たなければ決して解消できないが、
仮に優位に立ったとしても、限りなく生み出され続けるということでもある。
このあたりは、なんだか自分のことを棚に上げて、他国の武力制限に腐心し、
それでいて暴力(戦争)に突入するアメリカ自身を連想させる。
この映画は1992年公開だが、おそらく湾岸戦争も意識されているだろう。

このところメディアで報じられている普天間基地の移設問題の根っこにも、
この町の連中と同じような反応があるのではないか。
メディアの報じ方を見ていると、この問題は安全保障上の問題というより、
実際にはたぶん、経済的な利害関係の綱引きであって、
安全保障論議はどうでもいいみたいな扱いである。
それは安全保障論議というものが、実はほとんどビッグ・ウイスキーの
町の住民意識以上にはなり得ないからじゃないだろうか。

人間や社会は、少しくらい時代が変わっても、そう簡単には変わらない。
そしてそこでは誰もが「許されざる者」なのだというリアルな視点を
示してくれたという意味で、この映画はアカデミー作品賞に値するのだと思う。

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2010年5月18日 (火)

花束の行方

何かと話題を持ち帰ることの多い娘が、
今年の母の日に提供してくれた話題。

久しぶりに実家へ帰ろうとしていた母の日、ドアをノックする音が。
独り暮らしなので、ドアのノックには
一切出ないことにしているから、この日も無視する。
さて、そろそろ出かけようと玄関を開けたら
床にハンカチが敷かれ、その上にカーネーションの花束が。
ドアに挟んであったらしい紙切れがパラッと落ちて、そこには
「○○号室の隣人です。母の日にカーネーションを買ったが、用事は済んだ。
自分が持っていても枯らしてしまうので、もらってくれませんか」という文面が。
気味が悪いので、とりあえず花束は部屋に入れ
そのまま出てきた、という。

久しぶりに家族4人で卓を囲んだ夕食の話題は
これは下心のあるアプローチなのか、ほんとのことなのか、
カーネーションはどうするべきか、という話題で盛り上がる。
ピンクのカーネーションの花言葉を調べてくれる友人、
返しにいくときは一緒に行ってあげるよ、というボーイフレンド。
わが家では、「何もしないで無視」という夫に対して
「男がアプローチするときは、そんな稚拙なことはしない。
それは手紙どおりだけど、もらう筋合いはないから返すべき」という息子。
平和外交主義者の私は
「お母さんに渡せなくて残念でしたね。いただいておきます」
と挨拶して、相手の顔を確認しておく、という意見。
娘は、「こういうやり方をしたら、相手が引くんじゃないか
っていう風に思わないのが、おかしい」と憤慨している

なんで、母親に渡せなかったんだろう
親が要らないって言った?
息子があげるっていうのに要らないっていう親なんている?
いや、要らないって言うことはあると思う、と
4人で息子が初めて買って来た母の日のケーキを食べながら、
喧々囂々、侃々諤々。
とにかく帰宅したら写真を送ってもらうことにして、娘は帰宅。
しばらくして写メで送られてきた写真には、ピンクのかわいい花束が。
数えたらカーネーションは20本もあったらしい。
ハンカチも娘が言うほど変じゃない感じがする。
ひとまず、とてつもない危険は回避できたかも、と息をつく。

素直に考えると、
何かの事情で母親に花束を渡せなかった男の子が
「あ、そうだ。隣に若い女の子がいた」と思いつき、
娘に花束を託した、という話は別に不思議でもなんでもないのだが、
物騒な事件をいろいろインプットされているうちに、わたしたちの中には、
自分たちと常識を共有できない、コミュニケーションが下手な危険な若者
という虚像が作り上げられていき、それが無意味な恐怖心を形成し
相手の関わりを拒否して、結果的に更なるコミュニケーションの
不全が形成されていく、という循環が起きている
ということは考えられないわけではない。

独りで食べているところを見られたくないという若者が、
密かにトイレで昼食をとる、という話題がニュースになるのは
それがニュースになるほど珍しく少数である、ということだけれど、
ニュースに接した私たちの捉え方は、むしろ逆で、
ああ、そういう若者が増えているんだ、と短絡してしまう。
だが、自分が若い頃を考えてみれば、自分たちだって若い頃には
どうやって仲間はずれにならないか、はずれていることを悟られないかと
腐心したのであり、たまたまそういうことはニュースにならなかったから
そういう実態があるとは知らなかったに過ぎないのだ。

そう考えると、隣人の玄関先に花束を置くなんて
出会い系サイトで知り合うより、遥かに健康的な
関係構築のしかたかもしれないとも思える。
ちなみに、その後娘は「ありがとうございました」という手紙を
相手のポストに入れて、花束は二つに分け、
勤め先のトイレに飾ることにしたらしい。
「あの花束、どうしたの?」と上司に聞かれたので
「あ、それは聞かないでください」と答えておいた、とのことである。

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2010年5月 5日 (水)

ハッピーエンド

友人たちと映画の話でネットが盛り上がっている。
ともだちのともだちの 輪 という関係だから、
とりたてて、すごく親しいというわけではないが
ネットの書き込みは、書きようによっては
まったく隣同士で話しているみたいに
距離がなくなってしまうのが不思議だ。

そこで、映画ではどういう結末をハッピーエンドというか、
という話題になった。

最近はハッピーエンドじゃないとヒットしないらしいという
通産省のデータ収集担当(こういう仕事をしている人がいるのね)
の話を紹介して、キャメロン・ディアス主演の
『わたしの中のあなた』も、それに入るんじゃ?と書いたら
あれをハッピーエンドというのか?
オレは今まで何を観て来たんだろ、とびっくりしてみせた友人がいた。

この映画は臓器移植がテーマになっていて、
しかも望まれる遺伝子を持ったこどもを選択的に生む
という意味ではデザイナーベイビーっぽい要素もある。
ネタばれになるので、あまり詳しくは書けないが
家族の中にドナーとレシピエントがおり、しかもドナー本人が
ドナーになることを拒否して裁判を起こすなど、
家族の団結と崩壊が隣り合わせになっている。
話としては重すぎるくらいに重いのだが、
最終的には悲しいけど納得できる結末で終わっている。

これを紹介した友人は、
ぎりぎりの所で安っぽくならないように踏ん張った、
なかなかいい映画という風に言っていて、私も同意見だったが
これをハッピーエンドというかどうかで、意見が分かれたのだ。

昔はハッピーエンドというと、ヒロインは結婚したし、
ヒーローは死ななかったし、みんなシアワセになりました、
メデタシ、メデタシというのが定番だったが、そういうのは最近は少ない。
多かれ少なかれ、どこかに痛みが残るが、
それでも総合的に考えたら、これでよかった、
という終わり方が多くなっている感じがする。
ハッピーエンドかどうかは「納得できる終わり方かどうか」
ということだ、という友人がいたが、
すべて丸く収まる、というのはあまり現実的じゃない
という実感を、映画も共有するようになってきたということなのだろう。

『わたしの・・・』がハッピーエンドか?と言った友人は、
『グラン・トリノ』だってハッピーエンドだしー、と私が言ったら
う~んとうなった(ように思う)後、
『ノーカントリー』はどうだ?と聞いてきた。

『グラン・トリノ』は、再生に向かって行こうという意志を感じる
という意味で、立派にハッピーエンドだと思うが、
『ノーカントリー』は、そこのところはややあいまいである。
けれどもあの、まるで通常の論理が通用しないという点で
メチャクチャ恐ろしい主人公シガーが、最後に無垢なこどもの
慈悲にも似た何かに触れて、内面の変化を感じさせるところは
どんな酷薄な現実にも、未来に向かって開かれた何かはある
と言っているようでもある。
だから、これも立派なハッピーエンドだと、私は思うのだ。

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