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2010年8月25日 (水)

拾いものの日

先月腫れて治療した歯茎がまた腫れた。
最初に治療してくれた我が家のすぐ裏の歯医者さんは
「体調を崩しているから」と言っていたが、
こちらから頼んで痛み止めをもらうくらい
薬をつけるときが猛烈に痛かった。
あの痛さには耐えられないと思ったので、今回は
「痛くない治療」を標榜している京橋の歯医者さんに行くことにする。
ここは、先代の先生のときから通っていたところで
今は2代目が跡を継いでいる。
先代はアメリカで学位をとった、
自由闊達で腕のいい先生だった。
2代目は真面目なところが先代とはちょっと違うが、腕は父親譲りである。

通うのなら、ほんとは玄関から歩いて1分の歯医者なのだが
痛さを避けて、わざわざ交通費をかけて行くわけだ。
で、京橋まで行くのなら、その前に飯田橋で映画を見てから行こうと
ギンレイの映画をチェック。
『ナイン 9番目の奇妙な人形』と『第9地区』っていうのは9つながりか。
『ナイン・・』は私の苦手なアニメみたいだけど
ティム・バートンが絶賛したってってアニメが、どんなのか
一応は見とくべき、という心の声に従う。

ところがこれがなかなかだったのである。
『ナイン・・』はCGアニメらしいが、雰囲気はクレイアニメに似ている。
身体はチャックつきのジュート袋だし、大きさは鉄兜の中に9体が
入ってしまうほどの人形が主人公で、人間とは随分風貌が違うのだけど、
何となく懐かしい感じがするのは、昔愛読した
「床下の小人たち」を感じさせるからだろうか。
人間が作った「人間の脳を持つ機械」が、人間社会を制覇した後に
わずか9体だけ残った「人間の心を吹き込まれた人形」が
遺言のような、その心を受け継ぐ、という話なのだけど、
動き回るのが人形と機械という、生身のイキモノじゃないおかげで
残虐さや悲惨さはカモフラージュされており、だから
こちらは安全地帯で見ているにもかかわらず、
勇気だとか、恐怖というところには、充分に感情移入してしまう。

機械はどれも絶対的に大きくて、人形は象を前にしたネズミくらいの
大きさでしかなく、力ではとても太刀打ちできそうもない。
で、9体のうち5体は犠牲になるのだけど、
最後に残るのは、機械ではなくて人形である。
人間の社会は、あたかも巨大な頭(脳)に
心が踏み潰される寸前にあるけれど、
かろうじて踏みとどまれるに違いない、と言いたげである。

こんなに面白い映画なのに、映画館はめずらしくわりと空いている。
こういう映画こそ、夏休み中のこどもが観たらいいのに、
とおせっかいなことを考える。

『第9地区』もCG満載の映画だが、ドキュメンタリータッチで堪能させる。
場所は南アフリカ、しかもやってきたエイリアンは
栄養失調で難民そのもの、というあたりはひどく象徴的である。
これは、地球上における「貧困」そのものがテーマではないのか。
きっと私たちは、今や「貧困」を、まるで異物(エイリアン)のように
感じ、扱っているに違いないと思わされる。
主人公である能天気なヴィカスは、エイリアンに遺伝子統合されていくのだが、
そこから抜け出すには宇宙規模の戦略が必要なのかもしれない。

すこぶる満足してギンレイを後にし、京橋まで来たら
飯田橋にはなくなってしまった「上島珈琲」があったので
予約時刻になるまで時間をつぶすことにする。
飯田橋店にあった、一人用のソファはなかったが
似たようなソファに身を沈めることができてジンジャーミルクティーが美味。

いいことが重なる日というのはあるものである。

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2010年8月14日 (土)

『乖離』という成熟のしかた

今年も終戦記念日に向かって、戦争を題材とした番組が次々と放映されている。
中国でおこなった戦争犯罪に対する追求を逃れるために
被爆者の治療はそっちのけで、被爆の実態をレポートにして
アメリカに伝えていたという事実を伝えた番組もあった。
日本は、このことをこれまで一切公表しておらず
上層部の責任を回避するために、国民をないがしろにしたという事実が、
戦後50年以上経ってようやく明らかにされた。

今年は戦争がどのように始まり、どのような経過を辿って
どのように終結したかを通り一遍ではなく、
より詳細にあからさまに伝える番組が多いような気がする。
戦時の白黒映像をカラー化して放映するという試みもあり
現実を直視しようとする姿勢が強くなっている感じがする。

一連の番組から伝わってくるのは、
日本の戦争の仕方の無謀さもさることながら
人間は、つい最近まで(といっても65年前までだが)
こんなにも熱く、感情的に振舞っていたのだという、何か遠い感覚である。
人と人が殺しあうことや、領土を広げることに対して、
いったい何がこんな風に熱狂的にさせたのだろうか。
もちろん、実際の生活場面で近しい人に対して、
さまざまな負の感情を抱くことはふつうにあるだろうが、
それは勘違いにせよ、独りよがりにせよ、直接的な関係に基づいたものだ。
でも戦争では、ほとんどの場合相手は見も知らない人だし、
自分が実際に手を下すことも少ない。
だからこそ、どんな感情も抱くのだといえばそうなのだが
そこに経済的な必然が強調されればされるほど
日本の戦い方は、目的達成には程遠く、
鬱陶しいほどの濃い感情に囚われて身動きのとれない、
まるで合理性を欠いた戦い方に見える。

今を生きている私から見ると、そこに大きな違和感を感じるのだ。

一方最近周囲の人間を見ていて感じることは、
部分的には感情的な振る舞いが見られるにしても
全体として多くの人たちは冷静で、物事を多面的に捉えることに
慣れて来ており、無用な諍いは避ける傾向があるように見えることである。
秋葉原で無差別殺人をおこなった若者に対して、
当初は幾分かの同情を持っていたものの、
彼がネットの中にしかリアルがなかった
と言うのを聞いたときは疑問符だらけになった。
ネットは相手と対話をするシステムではなく、
むしろ自分と対話できるシステムであって、
その意味で完璧なバーチャルであるはずなのに、
ネットを使いこなしているように見える若者でさえも
それが分からないことがあるのだ、と意外だったのだ。

もちろんネットの世界でも(この場合はSNSのような対話システムだが)
妙に熱くなる人というのはいるものだが、文字の世界では
書かれた字面からは、それが相手の本音なのか、演出なのか、
はたまたこちらが過剰に読み込んでいるのか、ということは判然としない。
だから(しかたなく)文字に起こされた事実だけをつかみ、
それに対して自分の意見を表明する、ということになる。
これが無用なトラブルや、感情の波立ちを抑える方法だというのは
いわばネットの処世術であろう。

で、現代の若者たちが覇気がないと言われるのは、
ある意味当たっているのかもしれないが、たぶん豊富なネット経験の中で
きっとこういう振舞い方を自然に身につけ、それが彼らの
ある種の穏やかさにつながっているのではないかと思うのだ。

そんなことをつらつらと考えていたら
昨日のプライムニュースがタイミングよく『日本人と宗教』を論じていた。
お盆の時期だからだそうだが、しかしこれが存外に面白かった。
前半のスピリチュアルの部分は見逃してしまったのだが、
現代の宗教は、かつてのように何かを信じ、
集団の力で自分たちをシアワセにしようとするものではなく、
自分と向き合い、心を豊かにしたい、という個人化した動きに変わりつつある。
仏像ブームは、その象徴であるというのだ。
仏像を眺めることで、人は自分が何者かを自問する。
そこには、濃すぎる人間関係を逃れようとする力が働いている。
とりわけ面白かったのは、島田氏が宗教における重要な役割として
「乖離」を挙げたことだった。
つまり自分を見るもう一人の自分、というものをいかに育てるか
これが「成熟」ということで、宗教とは本来そういう成熟を目指すものなのである。

秋葉原での無差別殺人の若者や、
第二次世界大戦を実行した軍部がなんだか幼く見えるのは、
そこに、乖離という成熟のあり方が感じられないからなのだろう。

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2010年8月 7日 (土)

絆の問題なんだろうか

なんだか朝からむうっと暑い日が続くので、いっこうにしゃきっとしない。
毎日しゃきっと過ごせるかどうかは、ほとんど習慣の力に拠っているから
夏の間は、まあだらだらと言い訳がましく過ごすことにする。
昔、大学の先生が、江戸っ子らしいベランメエ調でインド人を評して曰く
「ああいう暑い中で毎日を過ごしているから、あいつら妙に哲学的なんだ」と
語っていたが、暑くて身体を動かせないと、
頭の中をアイドリングさせるしかないのだろう。
日本もだんだん亜熱帯化しているから、
「勤勉を旨」というのもそのうち変わるかもしれない。
暑い地域にはそれなりの生き方というのがあるだろう。

ところで、100歳以上の高齢者の行方不明が続出している。
私は今回の事件で、100歳以上が4万人もいるということを初めて知ったが
そんなに多いなんて、誰も今まで不思議に思わなかったのだろうか。
私の感覚では、100歳以上は「稀」、110歳とか113歳なんていうのは、
「ごく稀」の代名詞という感じで、そんな年齢が実在しているなんて
ほとんど信じられないから、その多くが行方不明と聞いても
別に不思議な感じはない。
行政の手が回らなくて生死の確認ができていなかった、らしいが、
100歳を越えているようなめずらしい人には、まずは会いに行く
というのが普通の感覚なんじゃないかって気はするから
行政マンにとってはめずらしいことではなかったのだろう。
まあ、普通の感覚じゃ仕事なんてやってられない
ってことかもしれないので、そうだとしたらお気の毒というしかないが。

誰にも知られないで死んでいく、といっても死ぬ時はどうせひとり
だと思うから、それ自体は別にどおってことはない。
死んでもなかなか見つからなければ、そのうち土に還るだけである。
それのどこが問題なんだろう。
絆があろうがなかろうが、人はいずれ死ぬってだけのことだろう。
100%の確率で起こることに対して、あんまりドラマチックな
味付けはしない方がいいような気がする。

BSフジの『プライム・ニュース』で、遺品整理の会社を運営している人が
「捨てられるのは、捨てる側だけじゃなくて捨てられる側にも問題がある」
というようなことを言っていたが、そういうものだろう。
やっかいなことばかりやっていて、うんざりっていう親はいるものだし
(もちろんこどもにもそういうのはいる)
親の心なんてこどもには分からないし(逆もまた真だけど)
放浪の旅に出て野垂れ死ぬっていう方が
「これが家族だ!」という堅苦しい家族像を押しつけられて死ぬより
よほど自由で快適だとは思う。
どうやって生きてもいいのなら、どう死んでもいいはずである。

ちなみに、このBSフジの『プライム・ニュース』は
数あるニュース番組の中では、なかなかいいレベルである。
地上波のフジテレビは、妙に古い保守臭さかおふざけ路線の
どちらかに二極化していて、最近はドラマにも見るべきものがないが、
BSのこれは、キャスターの突っ込みもなかなか的を得ていて
8時から10時という長丁場を飽きさせない。
地上波とBSでは別会社かと思うほどである(そうなのかもしれないが)。

で、死ぬのはどこでどうやって死んでいただいてもいいのだけれど
問題は、それによって不公正な分配が起きないような手立てを考えることだろう。
「即身成仏」を見守るのはいいが、仏さまのお金を横取りしちゃいけないってことだ。
でも、そもそも社保庁というところは、もともと他人の金を横取りすることに
長けていたところだから、そういうところに策を講じろ、
という方が無理なのかもしれないけど。

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