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2010年10月25日 (月)

ブラックボックスを開けてみよう

昨日は東日本外来小児科学研究会があったのだが
急遽ディペックスのミーティングが入り、メンバーの日程を
合わせることが難しいのでこちらを優先することにした。
インタビュアーの人たちと一緒にサンプルDVDを見ながら、
昨年度作成したインタビューの質についての評価項目を、
具体的に理解してもらわなくてはならないのだ。

外来小児科学研究会のテーマは「常識を見直してみよう」で
ここでの主体は医師である。
仄聞するところによれば、医師は、実感と医学的常識が異なると、
医学的常識に従ってしまうらしいが、むしろ実感を大事にしよう
というのが今回のテーマである。とても結構なことである。

http://hoshikawa.or.tv/eagp/info/26th/26th-program.pdf

ここで大事なことは、実感をどれだけ感覚として感じとれるか、だろう。
「診断」というものが、感覚も含めたどのようなプロセスでおこなわれるのか
医師自らが解析して明示してみるといいのではないかという気がする。

実感を感じとれるかという点は、
ディペックスのインタビューの課題でもあるように思われた。
昨日のミーティングで分かったことは、
インタビューガイドに忠実に従おうとすればするほど
患者の生の声が取りにくくなるのではないか、ということだった。
真面目な(というか権威主義的な)インタビュアーほど、
イギリスの先達から教わった、という事実にこだわっているように見える。
彼らが伝えようとしたことは
「インタビューに際して、患者の意向を損なうような介入のしかたをしてはいけない」
ということであり、そのための基本的な心構えとしてガイドがあるはずなのだが、
それを”正しい結果が得られる方法”という風に理解してしまうと、
目の前の患者の個別性は無視してしまう、ということが起きる。
インタビューや診断の難しさは、相手の個別性に合わせて
目的達成のための方法を、どのようにその場で生み出せるか
ということだと思うが、往々にして、方法さえ学べば
結果が得られると考えてしまっているようである。

個別性をどう重視するかという議論は医療者全般に必要みたいだ。

医療者とジャーナリストたちが作っているSNSでも
最近似たような議論があった。
コトの発端は尖閣諸島の領有問題に関して、
ある右翼系団体のデモを報じなかったことについての
ジャーナリスト側からの説明だった。
ある事象を報道するかしないかは、メディアに選択権があってよいと思うが
だとしたら、どのように選択しているのか明らかにして欲しい。
視聴者や読者は、ニュースがどのように作られているのか知りたいはずだし
それがメディアリテラシーを育む基本条件でもあるのではないか。
そんな風な問いかけに対し、ジャーナリストの人たちから、
個別の事象を報道するかは、そのつど個別の価値判断によっている、
という説明はあったものの、ではそれを支える大元の判断基準は何か、
というkとについては、最後まで明言されなかった。
倫理として下記に拠っているという提示はあったが、
これのどこを見れば、一般人でも「ああニュースってそういう風に作るのか」
と分かるのだろう。

http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~matumoto/ethics/houdou-siryou.html

さいわい、ウィキには「報道倫理」として比較的分かりやすい解説が出ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%80%AB%E7%90%86

ここで興味深いのは、「メディア責任システム」という項目で、
それは下記のように解説されている

フランスのクロード・ジャン・ベルトランは、社会的責任理論を発展させた
「メディア責任システム(メディア・アカウンタビリティ制度、MAS)」を提唱している。
メディア責任システム論は、国家の規制にも、ジャーナリストの道徳心にも依存せず、
メディアの倫理を維持する方法として、メディアの倫理的意志決定過程の一部を
外部に開放する、という考え方である。メディア責任システム論には、
公開で議論し、判断を蓄積することで、倫理的基準が示される利点があり、
1990年代後半以降に、日本でメディア倫理の審査を行う第三者機関が
設置された際の基礎理論となっている[10]。


報道するのかしないのか、どんな風に報道するのか、ということを
どうやって決定したのかという部分は、これまでブラックボックスだったのだろうか。
だとしたら、まずブラックボックスを開けることが、
送り手と受け手が対等な関係を結ぶはじめの一歩になるんじゃないだろうか。
メディアリテラシーとは、そこから始まる気がする。
お題目に依存せずに、自分の感覚も含めた個別の判断を検証する
作業が、どこの分野でも必要になってきているってことかもしれない。

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2010年10月18日 (月)

縁は異なもの

バレエのレッスン中に痛めた足の筋肉が、ようやく少しずつ回復してきた。
専属のトレーナー(かかりつけの鍼灸院の先生)によると
「筋肉は修復に時間がかかる」ということで、
私の足も野球選手かサッカー選手並みである。

来月に芸術祭を控えた今回のバレエの演目は、
私以外の人たちは前に舞台で踊った経験がある。
私だけが初めてということになり、プレッシャーが大きい。
振り付けを覚えようと、以前の舞台のビデオを見て練習するが
左右を転換しなくてはならず、これはなかなか難しいと分かる。
群舞なので、他の人と振りや音を合わせなくてはならない。
ビデオカメラに撮った映像を見せてくれた仲間がいて
そうだ、i-phoneのビデオアプリを活用すればいいのだと気づいた。
さっそくテレビ画面でビデオを再生し、i-phoneを画面の前に掲げて録画する。
甚だアナログなやり方だが、音と映像さえ撮れれば、これで充分である。
なかなか優れものの携帯である。

i-phoneに買い換えたのは、以前のnokiaが古くなって
電池の持ちも悪くなってきたからだが、一番の動機は
録音機能がついた携帯電話が欲しかったからだ。
私以外の我が家のメンバーは、みんな早い時期にi-podを買ったのだが
その時点では、あんまり買おうという気にならなかった。
ウオークマンの時ほど音楽を聞かなくなったということもあるが、
映像を携帯する、ということにさほど食指が動かなかったこともある。
でも最大の理由は、それらの機能は通信通話機能も含めて、
いずれ統合される(そうなって欲しい)と考えていたからでもある。
そうして予想通りの展開になった。
理想的には電話とパソコン機能が一体化してくれれば、
それがベストだが、それには画面がちょっと小さすぎるのが難だ。

と思っていたらi-padが出た。
当初は5000冊も本を持って歩く必要なんか!と考えていたが、
自分で字を大きくできる、とかマルチメディア化(音や映像と活字を一体化)
した本が読めると考えると、これもなかなか先行きが楽しみである。
すでに通信機能はついているから、
あとはPCのオフィス用アプリケーションが使えるようになれば、
これは文句なしに買いである。持ちやすそうだし。

そのi-padで面白いと思ったのは
ソーシャル・リーディングという可能性だ。
同じ本を読んでいる人同士で、通信機能を使い
同じ文章などを選んで本の感想を言い合うことができるらしい。
遠隔読書会である。

なるほどねー。

インターネットで見知らぬ人同士が結びつくようになったおかげで
ますます会ったこともない人同士が交流する機会が多くなる。
地縁や血縁とは異なる縁が、どんどん増えて行くのだろう。
これが人をどんな風に変えていくのか、これも楽しみである。

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2010年10月 4日 (月)

FC東京を生観戦

新響つながりの連中と、国立競技場で初めてサッカーを観戦する。
国立競技場もサッカーの生観戦も初めて。
手入れの行き届いた芝生の緑が美しい。
上のほうから俯瞰して見ているせいか、テレビで見るより狭い感じがする。

FC東京と湘南ベルマーレの試合は、どちらもJ2降格寸前とあって
特にアウェイのベルマーレは応援に力が入っている。
FC東京は大人しいめだが、数では圧倒しているから
観客席はユニホームの青と赤が混在して、すみれ色に見える。
試合は、どうにももたもたしていたが、
ベルマーレ側のゴール近くに陣取っていたおかげで
FC東京の前半2点得点シーンを堪能することができた。
1点目に大黒の足が貢献したかどうかは定かではなかったが、
2点目の平山のアシストによる石川のシュートは美しかった。
ただ欲を言えば、練習どおり、教科書どおりのことをやって
成功しましたって感じで、それ以上のプレーがなかなか
見られなかったのは少し残念ではある。

誰かが書いていたが、前監督の城福氏は理論家だったそうで
でも勝てないままここまで来てしまい、とうとう監督交代、となったそうである。
城福氏の成果が出るのがこれから、ということかもしれないが、
どうも、ここにも日本のサッカーの特徴みたいなものが
現れているんじゃないかという気がする。
サッカーに限らず、医療やビジネスなどさまざまな場面で、
マニュアル教育の弊害ということを耳にすることが多い。
マニュアルを教科書と言い換えてもいいと思うが、
教科書で学んだことを、その通りなぞる傾向というのが
学ぶ側に強すぎるんじゃないだろうか。
あるいは、そういう風に教える側が仕向けているのかもしれない。
教える側の美学が強すぎるのかもしれないが、
それが学ぶ側の自発性や創造力を阻んでいる可能性もありそうである。

試合後の祝勝会でも、似たような話題が出た。
そこでは、横断歩道で信号が変わるまで、じっと待っているようじゃ、
これからの時代は生きていけない、というところで意見の一致を見たのだけれど
これは外国人が驚く事実でもある。実際
「夜中の2時に、全然車が通っていないのに信号が変わるまで
じっと待っている若い男性がいて、日本人って真面目だなあと驚いた」
という旅行者の話を耳にすると、
われわれが知っている以上に、若い世代は真面目(融通が利かない)で
決められた規則は、状況がどうであれ守らなくてはならない
という風に刷り込まれており、状況に応じて自分で考える、
なんて想像もしていないのかもしれないと考えてしまう。
そしてどうもそれが、サッカーで象徴的に
起きているのではないかという感じがするのだ。

ところでFC東京の試合が楽しみだったのは、
今や社長となった村林さんと久しぶりに会えるかもということもあった。
かつて東京ガスがスポンサーの仕事をしていた頃
面白い企画をいろいろ考えては2人で実現させていったものだ。
その後、2人ともガス本体から離れて随分年月が経った。
今回は間に入った友人や彼女のお嬢さん(FC東京勤務)が
いろいろと尽力してくださって、いざとなったら携帯で連絡をとる
ということになっていたのだけど、それは予感したとおり、
携帯の力を借りることなく、あっけなく実現してしまった。
携帯が「すれ違い」という物語を失わせた、
というのも祝勝会で話題になったことだが、
もちろん「すれ違い」がなくなったとすれば、
それは携帯ではなく意志の力による。
「すれ違い」物語を私たちがを愛しむのは、
私たちに、意志の力が及ばないものへの郷愁があるからなんだろう。

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