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2010年11月28日 (日)

ゴダールと『もしドラ』

『ゴダール・ソシアリスム』公開に先駆けて、
『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』が上映されるという話を聞き、
初日の『勝手にしやがれ』のチケットを購入する。
上映前に日経に映画評論を書いている中条さんのトークもあるらしい。
『勝手にしやがれ』の初上映は今から50年前で、
だからというわけではないが、ゴダール映画はちゃんと見ていない。
なんとなくフランス映画は敷居が高かったのである。
そのゴダールも80歳、イーストウッドと同い年だそうである。
ブルータスの「映画監督論」によれば、
ゴダールは結構イーストウッドを意識しているらしい。
と聞くと、俄然ゴダールに興味がわいてくる。
イーストウッドの何がゴダールに意識させるのだろう。

ヌーベル・バーグという言葉が、新しい波という意味だとは
知ってはいたものの、実は何を指しているのかは知らなかった。
中条さんの解説で、それが映画の撮り方の革命的な変化のことだったと知る。
それまでの映画は、カメラを固定し、室内で、いわゆるスターが
リハーサルを踏まえて、きちんとしたセリフを喋るというやり方で撮られていた。
それをゴダールは『勝手にしやがれ』で、まったく変えて見せた。
カメラを屋外に持ち出し、街中でリハーサルもほとんどなしに撮影し、
ブツッ、ブツッとまるで脈絡なくぶった切るような編集のし方で作ったのである。
以後、映画はそのように作られるようになった。
今われわれが見ている映画は、ほとんどがゴダールを踏襲しているという。
そういう意味で、ゴダールは後世の映画制作者に非常な影響を与えたそうだが
誰もやらなかったことをやるという意味では、孤独でもあっただろう。

『ゴダール・ソシアリスム』は予告編で見ても、
どういう話なのかまったく分からないが、中条さんの解説によれば
「行き着く先には希望がない」ということを言っているらしい。
もっとも最近はどこを向いても「希望なし」だらけだが。

そういうわけで『勝手にしやがれ』は、映画的には今観ても
まったく違和感なく、若い頃のジャン・ポール・ベルモンドは
いかにもゴダール好みのアウトローという感じだ。
それにしてもフランス語が乾いているのか
フランス人が乾いているのか、よく分からないが
べルモンドとジーン・セバーグのやりとりに情緒的なものは全く感じられない。
自動車泥棒や殺人は、あたかも小道具のように淡々と描かれて問題にされず、
ベルモンドがセバーグを口説くセリフだけが延々と続く。
でも、ベルモンドもセバーグも、自分というものがつかめていない。
そういうもどかしさを抱えたまま結末を迎えるところは、
なんだか50年前に、すでに現代を先取りしていたとしか思えないほどだ。
今になってみれば、男と女がほとんど分かり合えない、というのは
ごく当たり前の事実で、だからなに?という感じだが、
この時代はふつうには、おそらくそんな風には思われていなくて
ゴダールの鋭敏な感性だけが、それを描き得たのだろう、と想像する。

と、こんなことを考えたのも、実はその前にやっと娘から借りた
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
を読み終わったからなのだ。
この通称「もしドラ」はベストセラーになっただけあって、なかなか面白かった。
これだけ売れた原因のひとつは、ドラッカーの威力もさることながら
野球がテーマだったということも大きいだろう。
なんだかんだと言ったって、野球はまだ充分に
日本人のノスタルジーをかき立てるスポーツだし、
野球だからドラッカーが通用した、ということもあるかもしれない。
そして何よりも「高校野球版プロジェクトX」になっているところが
多くの読者をひきつけた所以だろう。
努力、献身、希望、そして人間同士の情緒的なつながりがもたらす成功物語
というのを、くりかえしみんなが読みたがっている現実があるに違いない。
そこには、ベルモンドやセバーグがもがいていたような
分かりあえなさというのは微塵もなく(ひとりを除いてみんな高校生だし)、
「やればできる」という前向きな希望をかき立ててくれる。

50年前にすでに描かれていたもどかしさを、
希望という形で乗り越えようとする文化に対して
ゴダールはどんな回答を与えてくれるのだろう。
そう考えると『ゴダール・ソシアリスム』はちょっと楽しみな映画になってくる。

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2010年11月22日 (月)

『Rose』

やっと千葉・県民芸術祭第36回「現代バレエ合同公演」が終わった。
今年はぐっと演目が絞られて、
各賞表彰とモダンダンス合同作品を除く演目は10作品。
それだけに先生の指導にも熱が入る。
この『Rose』という踊りは、先生がアルハンブラ宮殿を訪れた際に
インスピレーションを得て創られた。
過去にも何回か公演がおこなわれており娘も出たことがあるが
私にとっては初めて舞台で踊る作品である。
長~いドレスの裾を踏まずにうまく踊れるか、とか
スカートを上手に持って形よく見せられるかるか、とか
課題は山積みで練習に突入。

先生の厳しい指導をこなそうとして、途中で腿の付け根の筋肉を痛め、
マッサージに通ってリハビリをする羽目に陥る。
一旦痛めた筋肉は、トレーナーの先生が言うように
なかなかすぐには元通りにならず、本当に出演できるか不安だった。
でも、おかげで運動選手の気持ちが少し分かった気がする。

今年は本番の前日に舞台稽古ができることになり、
早めに場当たりができたのは助かったが、出来は散々で
われながら落ち込んでしまった。
「どうだった?」と夫に聞かれて「全然ダメー」と答えたら
観に行く予定の夫の方が心配になったらしく
一生懸命慰めてくれているみたいなのがおかしかった。

前日の夜は、ベッドの中で踊りのシミュレーションをしているうちに眠れなくなり
しかたがないので、夜中に公演のビデオを見直して音と動きを確認して
やっと4時間ほど眠ることができた。

当日は午前中にリハーサル。
位置取りを再度チェックし本番どおりの照明の中でおこなう。
前日の舞台稽古よりはよかったみたいだが、
私自身は集中できていなくて、ところどころでボロが出ているのが分かる。
でも先生はここへきてからは、何にも言わない。
あとは自分で何とかするしかないのだ。
これから18時の本番まで、身体をアイドリングさせながら
集中力を高めていってミスをしないで本番を終わらせなければならない。

他の作品のリハーサルを見ながら少し居眠りをし、前日の睡眠不足を取り戻す。
途中下手に引っ込んでから上手へ移らなければならないが、
舞台の後ろを通れることになって、少しホッとする。

そして本番。
暗い状態で鳴り始める音に少し戸惑うが、明るくなるにしたがって落ち着く。
仲間のドレスの赤い色を、きれいだなあーと思っている自分がいる。
ひとつひとつのポーズを丁寧に踊ることに集中していると
不思議なことに、いつもに比べて時間がゆっくり流れている感じがする。
こんなにゆっくりな音楽だったっけ?という感じだ。
鬼門だったターンの部分もゆったりとそつなく踊ることができて
それなのに、下手に引っ込んだときには、あっという間だったなと感じる。

最後の場面は舞台裏を通って上手に移り、そこから出て行く。
一番最後のスカートの美しさを見せる難しい部分は
練習でも、舞台稽古でも、リハーサルでも、なかなかうまく出来なかったのに
本番では成功し(足が見えてしまったかもしれないが)、
ラストは全員で闇の中に消えて公演は終わった。
先生が言うように、観客を呼吸でひきつけられたかどうかは定かではないが、
自分だけでなく、踊り全体が落ち着いた雰囲気だったのは感じとれた。
何より、途中で足がつったり転んだりというアクシデントで
迷惑をかけることもなく無事に終了してよかった!

観に来ていた仲間の「見ていて涙が出ちゃった」と言うセリフは割り引くとしても
終わったときの夫のホッとした表情は、観る側に何かを残したということだろう。
先生に怒鳴られまくった甲斐があったというものである。

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2010年11月20日 (土)

マッサージの効用

ようやく#8000の相談評価報告書を書き終わる。
大変な作業だったが、いろいろと興味深い事実も分かって面白かった。
最も基本的なところでは、電話相談の個別性についての理解不足が目立つ。
一般論や確率で話をしない(できない)ところが電話相談の難しさでもあるが
そこはほとんど理解されていないので、いきおい症状の話ばかりになる。
個別性とは環境との関係性でもあるから、これが現在の専門家教育から
抜け落ちている部分でもあると考えると分かりやすい。
ろくな研修もなく電話相談に従事している看護師さんには同情するが、
自分たちの日頃のあり方に何の疑問も持たずに、
できるつもりで関わってしまう、というところに、
専門家が持っている危うさのようなものも感じる。
必要なのは電話相談員としての研修というより、
医療の専門家としてのあり方についての見直しなのだろう。

バレエで痛めた筋肉のケアにマッサージに通っていると
結局のところマッサージというのも、
自分の身体と環境との関係を理解する機会なのだと思い至る。
痛いはずの箇所をマッサージしてもらっているうちに
そうじゃないところも痛いことが分かってくる、というのも不思議だ。
まるで「黙ってちゃ分かんないでしょ。言いたいことがあったらちゃんと言いなさい」
と言われて、おとなしかった子が、おずおずと話し出すみたいな感じだ。

どうして天気のいい日に頭痛が出るのか、
どうして雨が近いと腰の調子が微妙にアブナクなるのか
ということを知りたいなあと思って調べていたら
「日本生気象学会」というのがあると分かり、初めて参加してみた。
新宿の文化女子大で開催されるのだという。
この大学がこの通りにあることは知っていたが
(新宿にあるのに住所が渋谷区とは知らなかった)
足を踏み入れるのは初めて。

15階の教室の一室を使ったこじんまりとした学会だったが
発表者は若手が多いらしく、それに対して年長者から質問や指摘が飛ぶ。
本来学会というのはこういうものなのだろう。
内容は日常に関わることが多い。
たとえば
「乳児における1日の水分出納」
「末梢性発汗機構の反応性の性差と季節変動」
「適用方法の異なる2種類の蒸気温熱シートによる月経痛の症状緩和効果の差異」
「人工炭酸泉全身浴がからだの柔軟性を促進させる可能性」
などなど。

どれも環境と生体との関係を探る研究で、領域を限定していないから
「アスファルトと熱中症の関係」などというのもあれば、
「寒冷ストレスによるラットの血中ノルアドレナリン量の変化」
なんていうのもあって、虫の目と鳥の目と両方が必要みたいだ。
関係性を測る手法は確立されていないだろうから(と思う)
さまざまな手法を、いろいろ組み合わせて試行している感じだが
それでもかなりのところまで明らかになってきている。
日常に立脚しているという点で、なかなか親しみやすい研究もある。
「やっぱり炭酸泉はいいのか」とか
「温熱シートは痛みに効くのね」とか
ふだんの生活に即役立つのも嬉しい。

いつだったか外来小児科学会の調査検討委員会で
予防接種後の発熱割合を調べるのに
接種後の発熱の訴え件数から統計的に割り出す
というアイデアが披露されたことがあって、思わず
「予防接種と感染症の発熱は区別できるのか」
と質問してしまったことがあった。
副反応としての発熱割合がいかに少ないかということより、
何による発熱か、が分かる方が日常的には
ずっと役立つような気がするが、日常から離れれば離れるほど学問的、
というような偏見がまだあるのかもしれない。
医療者の意識もこの辺から変えていかなくてはならないのだろう。

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2010年11月 2日 (火)

『SP』-フィクションを支えるもの

『SPー野望編ー』を初日に見た人に刺激されて、月曜の朝いちで観にいく。
中高年の女性が結構いるのが意外。
堤目当て?岡田目当て、アクション目当て?
それとも映画デー目当て?

テレビドラマの『SP』に出合ったのは、まったくの偶然で、
たまたまチャンネルをひねったらやっていたのだけど
ちょこっと見ただけですっかりハマってしまった。
話の筋もアクションシーンも緻密にできていて
深夜11時という明らかな若者時間なのに、欠かさず見てしまった。
政治が絡むと中高年の関心もひきつけられる、ということかもしれない。
いえ、別に若者は政治に関心がない、と言いたいわけではありません。

テレビに比べると映画の『SP-野望編-』は、やや大味である。
アクションシーンはさすがに迫力があり見せるが、
迫力を狙いすぎてウソっぽさが強調されてしまう
というところは計算外だったのかもしれない。
トラックの運ちゃんがオペラに酔いながら運転するのはいいが
荷台で起きていることに気づかない、というのは
つかみとしてだけ許してあげられるレベルだ。

テレビドラマの最後は、堤くん扮する尾形が
なにやらカギを握っているらしい、と思わせるところで終わったが
それが何かは映画の中で、少しずつ明らかにされていく。
そうやって尾形と岡田くん扮する井上との間に距離が広がっていく。
というより尾形は井上にとって危険な存在になっていくのだ。
これは同じチームとしては実にやばい。
ただ、何となく尾形は最後は自分の身を挺しても
井上を守ろうとするんじゃないか、という気はする。

野望編のあとには革命編が続くこともあってか
今回の野望編では、もっぱら井上の直感(超能力)とアクションに
重きが置かれていて、話の筋はいささか荒っぽくリアリティに欠ける。
特に政治家の描き方がステレオタイプだ。
いくら出世欲が強いと言ったって、いくら政治家がアホだと言ったって
夜中の3時に官房長官が、自分で車を運転して官邸に向かう
なんてことがあるだろうか。
いくら夜中の3時だからって言ったって、
官邸周辺に車が一台も通っていないっていうのも???だ。
応援を頼むのが遅い、とか、銃を持っているのに、
危険が迫ってもなかなか発砲しない、とか
肩を射抜かれてもマルタイを連れて官邸に向かってひた走るなんて
と、突っ込みどころ満載なのだけど
革命編に向かう前座なのだと考えれば、これも許せる範囲か。
でも、こういうところできちんとリアリティを描いておかないと
井上の超能力が、単なるうそっこになってしまう。
超能力物語大好きな私としては、そこが残念なのだ。
フィクションというのはリアリティに支えられてこそ
ほんとらしく見えるのだから。

ちょっと懸念したのは、制作が、あのフジサンケイグループってことだ。
「なんで、そこで拳銃を抜かないの?」という欲求不満を掻きたてて、
銃社会を容認させようという国粋主義的魂胆がないことを
オバサン世代としては切に祈りたいが、そう思わせたってことは
案外リアリティのある作り方だったってことなのかもしれない。

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