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2011年2月20日 (日)

『ヒアアフター』

楽しみにしていたイーストウッド監督、マット・デイモン主演の
『ヒアアフター』をロードショー初日の朝一番の回で見る。
今回はいつになく宣伝が充実していて、公開前日の金曜日には
タイミングよく新聞の映画評でも取り上げられていた。
ハッピーエンドが予感されたからでもないだろうが、いい入りである。
チケット販売開始日に予約したので、劇場のど真ん中の席が取れていたが
両サイドもきっちり埋まっていた。
観客の関心の高さが分かる。

ヒアアフターとは来世の意味である。
旅先で洪水に巻き込まれて臨死体験をする女性ジャーナリスト、マリーと
双子の兄を事故で失った弟マーカス、霊能力を持つジョージ(マット・デイモン)
の3人の話が同時進行の形で進む。
ジョージは霊能力をギフトではなく呪いだと思っている。
死者の世界を忌み嫌っているわけではないのだろうが
死者の世界が見えることで不幸に触れてしまうのが耐えられない。
それを避けようとすると孤独にならざるを得ないのだ。

マリーは生と死の境界を経験して内的な変化を起こす。
しかし周りにそれを理解してくれる人はいない。
恋人だった同僚にしても、だ。
マーカスは、2人でひとりだった双子の兄を忘れられず
なんとかもう一度会いたいと思っている。
この辺のこどもの感覚は大人よりはるかに柔軟で、
彼にとっては生も死も境がない。

3人の孤独は厳密に見ると少しずつ違う感じはする。
マリーのは自分の変化を理解されない孤独だが
マーカスのは自分の半分が死んでしまうことによる喪失感だ。
ジョージのは他者(の不幸)を避けようとすることによる孤独だろう。
これらの孤独が常にノーマルライフ(現実の生活)に縄のように
編みこまれながら語られていくところがイーストウッドの巧みなところである。
そしてジョージは、マリーとマーカスという死に癒される者に
出会うことができて、ようやく孤独から抜け出す。

ジョージを通じてマーカスが兄からのメッセージを聴くクライマックスでの
言葉が印象に残る。
「こっちの世界はいいよ。何にでもなれるんだ」
そう、現実の世界は何かにつけて変化を嫌い人を決めつけてしまう。
もっと自在に生きてもいいいのに、それを許さないのが現実の生活だ。
「ぼくらはいつも一緒」という言葉は生と死は表裏一体ということでもある。
地下鉄の爆破事故は、兄がマーカスを、つまり死者が生きている者を
守ってくれるエピソードとして描かれるが、生きるということは
常に死と隣り合わせだと解釈することもできるだろう。

死者の世界を抱えた者同士が出会い、
平安が訪れる結末はほんのりと暖かい。
スピルバーグがイーストウッドに監督を指名したのは慧眼だった。

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2011年2月12日 (土)

『通り過ぎた風景』

日経の文化欄で目にした記事に惹かれて
東郷青児美術館へ『櫃田伸也展-通り過ぎた風景-』を見に行く。
損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞記念の展覧会とのこと。

櫃田氏のこどもの頃から藝大時代を経て、
画家として制作を開始するようになった作品が年代順に並べられている。
画家がモチーフを探し、見つけたそれをさまざまに使いこなしながら
表現を試みている様子がとてもよく見える展覧会になっている。

『通り過ぎた風景』というタイトルから分かるように
この展覧会のテーマは記憶である。
記憶のありようが風景に託して描かれる。
それは空き地であり、フェンスであり、池であり、コンクリートの壁である。
でも、それらがどんな風に景色として構成されていたのか
今となってはおぼつかない、という事実が
「不確かな風景」というタイトルも得て再現されている。
あのとき、あそこにあった階段は、どこへどんな形でつながっていたのだろう、
あそこにあった樹の形はどうだっただろうか、
会場を回っていくと、そんなことが自分の記憶の中に甦えってくる。
雪山のゲレンデとおぼしき斜面からは、あのときの寒さとともに
遊びにも一生懸命だった自分、何かが欠落している感じだった自分が浮上してくる。
若いときの欠落は、今でも埋まっていないが、
今は埋まっていないことが気にならなくなった。
それが年を取るということかもしれない。
そんなことも思わされる。
塔を描いているうちにキャンバスが足りなくなって継ぎ足したような
「塔」には、思わず微笑んでしまう。
これが画家の精神というものだ。

日常の風景でも絵になるのだ!と驚いたのは牛島憲之氏の絵に
接した時だったが、櫃田伸也氏の風景はもちろんそれとは違う。
どちらも今という時間の中で、かつて自分の見た風景を再構成しているのに。

出口にあったセザンヌやゴッホがなんだか妙に古めかしく感じられたのは
単に額縁が仰々しかっただけではないのだろう。
さまざまな余計なものがそぎ落とされていく時代に生きている
ということは幸せなことだと思う。

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2011年2月 8日 (火)

専門家の壁が崩れるとき

小児救急電話相談(#8000)の厚労科研班の報告書を
論文に仕立て直す作業をしている。
言いたいことがたくさんありすぎて、
制限字数内に収まるのかどうか見当もつかない。

報告書では#8000の到達すべきレベルを提示した。
論文では、もう少し違うことを言いたいと考えている。
まずは電話相談についての理解が深まるような内容にしたい。
研究班にはだいぶ爆弾を撃ち込んだつもりだが、
まだ相談のやり方という方法論のレベルでしか理解されていない。
電話相談は受け手じゃなくてかけ手が判断する、とかそういう類。
かけ手と受け手の関係性とか、かけ手のニーズとか
医療者のアイデンティティを揺るがしかねないところは
どうしても避けて通ろうとするようなところがある。
まあ、だれでもそういうところはあるからしかたないのだけど。

日曜日はディペックス関連の厚労科研班の
報告シンポジウムがあり、受付業務を担当することになっていたので
バレエはバーレッスンだけで切り上げて会場に向かう。
シンポは「がんと向き合い、よりよく生きるために
-『患者視点情報』の可能性と課題-」という内容。

「国民のがん情報不足感の解消に向けた『患者視点情報』の
データベース構築とその活用・影響に関する研究」の一環だ。
班長の中山先生は、あちこちの研究班を掛け持ちしていて
超忙しそうだが、頭の回転は抜群で話も分かりやすい。
EBMの研究班でも班長をなさっていたときから知っているが、
当時は、う~んこれじゃあ片手落ちじゃ?と思っていたら、
NBMも手掛け始め、とうとう統合化に至ったみたいだ。
道筋としては至極真っ当である。

シンポジウムは中山先生の
EBMというのは臨床の専門的技術と患者の価値観とが
研究成果として統合されたもので、
患者の価値観も含まれているところが重要、とか
EBM is the integration of best research evidence
with clinical expertise and patient values
ガイドラインというのは医療者と患者の決断を支援するもので
assist practitioners and patient decisions
このプラクティショナーは医師だけではなく医療者全般を指し
つまりチーム医療を想定している、
という話から始まる。

患者視点というのが医療者には分かりづらいのは
医療者が患者になるケースが少ないからだが
知識体系が異なる、ということもあるのだろう。
まだ世の中では専門家の知識体系の方が
患者の知識体系より優れていると思われていて
そこのバランスが取れていない。
専門家が患者になったとしても、いわゆる患者視点が持てる
という風にはいかないのが難しいところだが
患者は病気の専門家だという点は押さえておくべきところだ。

医療では専門家と素人の壁はいまだに高いが
世の中はもっと融合が進んでいるのではないか。
中近東で現在生じている事態の報道:
現地16社の報道を、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語から
東京外国語大学教師、OB、学生が翻訳して公開してくれているサイト
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/news_j.html
を知ったときは、ちょっと感動してしまった。
こうやって専門家が技量を生かしてくれることによって
私たちは世界とつながることができる。
ここには専門家は何のために存在するのか、
というヒントがあるんじゃないだろうか。
素人に対して優位であることによって
自分の存在価値を確認するのではなく
世の中に何が必要かを見定めて力を発揮してくれる
そういう専門家を、私たちは歓迎する。

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2011年2月 3日 (木)

気晴らしチャンネル

我が家は難視聴地域とのことで、今までCATVに加入して地上アナログを見ていた。
BSアナログは自前でアンテナを設置して見ていた時期もあるが
CATVのオプションにWOWOWがついていたので、
BS放送はもっぱらCATVのセットアップボックス(SUB)を通して見ていた。
地デジ化が進み、地上波デジタルとBSデジタルが見られるようになったのを機に
BS、CS対応のテレビに買い替えることにした。
高画質を大画面で見たくなったということもある。
そうしたらSUBが不要になってしまった。
SUBを通した画像とテレビで直にみる画像を比べると
直にみる方が明らかに画像がきれいなのである。

で、CATVを解約(SUBを使用しない)し、WOWOWも解約して新規再加入し
ついでにスカパーの無料体験へとこぎつけた。
サッカーファンの友人から、再三スカパーに入るように言われても
なかなか入る決断ができなかった事態が、ようやくここへきて一転したのである。
SUBを使っていたときは2本のリモコンを操作しなければならなかったが
リモコンが1本で済むのも快適である。
今のところ、テレビから直にみるWOWOWと
スカパー無料体験番組の高画質は実に気持ちがいい。
息子に言わせると「SUBで電波をチューニングし、さらにテレビのチューナーで
チューニングするから当然電波が減衰して画像が悪くなる」のだそうだが
ハードと抱き合わせでソフトを売って利益を得ていたCATVは
難しい局面に直面しているだろう。

スカパーの番組をザッピングしていると、久々に
「番組を見る」というのが主体的な行為だと実感する。
スポーツ、音楽、映画、ニュースなどとさまざまにジャンル分けされた中に、
さらにいくつかチャンネルがあり、見たいチャンネルにたどり着くのは
バーゲンで宝の山の中からお気に入りを見つけ出すのに
似てなくもなくて、労力としては結構大変な感じもする。
すでにお気に入りの番組には簡単にたどり着けるが、
それ以外の番組については試しに見てみるしかなく、
それは地上波デジタルでも一緒だ。

何が違うのだろうと考えてみる。

ジャンル分けや選択チャンネルの多さは本質的とは思えないが
番組内容の劣化というのはもちろんあるだろう。
地上波には見たい番組が少なくなってきたので選ぶ機会が減っている。

CMの影響というのもあるかもしれない。
地上波のCMの多さというのはもはや限界だ。
無神経に割り込むCM、好奇心を掻き立てるために使われるCMに
こちらはうんざりしているのだけど、なかなか変わらない。
CMが多いほどつまらなさも満載、というところに
二重に裏切られた感じを抱いている視聴者は多いだろう。
でもタダだから我慢してきたのだ。
視聴率が高い(たくさんの人が見る)番組には
スポンサーがつきやすいと言われるが、
スポンサーが考えている視聴者の好みと、
実際の視聴者の好みは、とおの昔にかい離しているのに
テレビ局は、そこを無視してここまで来たのだ、きっと。

ところがタダの強力なライバルとして片方にインターネットが出現し
一方で古くはNHK、その後はスカパーやWOWOWのような
有料チャンネルがCMなしの番組を流すようになってきた。
視聴者が見たいものと見たくないものを選別できるようになってきたのだ。
これが大きいのではないかという気がする。

私のようなテレビ大好き人間は、これからお気に入りをBS、CSで見て
地上波は気晴らしに見る、ということになるのだろう。
まあタダなんだから気晴らし程度が妥当で、
その中で優れた番組に出会えたら儲けものである。
かくして地上波テレビ局の衰退は進む。

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