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2011年4月22日 (金)

『Never Let Me Go』

その日は出だしからちぐはぐだった。

家を出たら駅に行くバスが見えてラッキー!と思ったのもつかの間
財布を忘れたことに気がついて取りに戻る羽目に。
駅に着いたら竜巻警報が出たとかで電車は変則運転。
2つあるホームのどっちから先に出るのか
アナウンスを聞いていてもよく分からず、
結局各駅停車を2本やり過ごして快速に乗ることに。
時間的に迫られたけど、お見舞いは予定通りに済ませる。
ところが病院のある新宿から日比谷まで、
西武新宿線で行くか丸ノ内線で行くか迷ったのがいけなかった。
結局丸ノ内線を選んだのだが、何を間違ったか反対方向に乗車。
2駅過ぎたところで気がつき、反対車線に乗り換えたが
霞が関に着いたときにはすでに上映時間を過ぎている。
それでも日比谷シャンテを目指して、
なんとか予告編が終わる前に滑り込むことができた。

でも、映画はよかった。
原作はカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』で
これは作中に出てくる曲名だが、私を逝かせないで、
という意味も含んでいると思われる。
イギリスの田園風景があまりに美しいので
臓器移植というテーマがよけいに重く感じられる。
これまでにも臓器移植をテーマにした映画はあり
そこに共通しているのは、誰かを生かすために誰かが犠牲になる
ということをどう考えるか、という問いかけである。
もちろん、臓器という「部分」を取り換えることが
生命という「全体」を全うさせることになるのか、という問いもある。
NHKのETV特集で原作者のカズオ・イシグロ氏に
福岡伸一氏がインタビューをしていたのは、
そういう意図もあってのことだっただろう。

この映画では、ドナーとしてクローン人間が設定されているので
問いは直接的で生々しく、誰かを犠牲にした生の延長など
即座にNOだ、という答えが出せそうに見える。
でも、じゃあES細胞から作られた臓器ならいいのだろうか。
自分の細胞を利用するだけだし、だれも傷つけるわけじゃないし
それなら問題ないと言えるのだろうか。
自己血輸血と自分の細胞で作った臓器の移植とどこが違うか、
となるとサンデル先生の授業のように簡単ではない。

行きつくところは、死が受容できるかどうかということなのだろう。
つまり、どこで断念するかということだ。
映画の中でドナーになるこどもたちが生活している寄宿学校の校長が
「一般社会は科学の進歩を理解しようとしない」
というようなセリフを喋る場面が出てくるが、
科学は生については考えることはできても、
死についてとなると、まるで思考停止状態である。
だから原発事故が起きたら、立ち入り禁止区域の
動物を平気で見殺しにしたりするということが起きる。
で、これがいつまでも人間に拡大されない保障はない。

それにしても、映画に出てくるドナーはみんな従順である。
特にトミーのナイーブさは痛々しいほどである。
誰もがなんとか抵抗はするものの、最終的には
絶望しつつ自分たちの運命を受け容れていく。
これがクローンという特殊性のせいなのか、
隔離されて育てられたことによる結果なのか、
それとも何かの暗喩なのか。
生を求める飽くなき欲求も、
生を諦める従順さも、どちらもヒトの中に潜む特性だと思うと、
どっちに転んでもちょっと怖い。

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2011年4月16日 (土)

そうだったのか!

「ハリウッド映画で学べる現代思想」というサブタイトルに惹かれて
『映画の構造分析』内田樹著(文庫本)を購入。
著者がどこかで「ややこしい部分は飛ばしてもいいけど、第三章の
「アメリカン・ミソジニー」だけは読んでね」と書いていた気がするが
どの章もたいそう面白かった。

映画の本質は見る人によって異なる感想を抱かせるところにある。
私たちは国語の授業などで、作者の意図は?なんていう風に考える習慣が
ついているので、映画の場合も、つい監督の言いたかったことは何だったのか、
などと考えがちだが、これは実に一神教的な考え方だ。
著者やバルトが言っているように、
映画というのは「映画についての解釈」を込みで売られている商品である
という考え方は、私のような電話相談の仕事をしている人間には
たいそう分かりやすいが、一般的にはこういう考え方は
まだまだ浸透していないと言ったほうがいいだろう。
ただ、つい最近まで「解釈の多様性」なんて、特に科学の分野でも
ほとんど顧みられることはなかったけれど、
質的研究などに光が当たり始めたところを見ると、
時代もだんだんそうなりつつあるといっていいのかもしれない。

そうした前提を踏まえた上で、何が前景化(作者が意図的に発信)していて、
何が背後に沈んでいるか(これを著者は鈍い意味と呼んでいる)を
見つけていくのが、映画の楽しさだが、もちろんそれだって
私たちに解釈の可能性を示してくれるだけで、
確定的な答えをくれるわけじゃない。

バルトはこの「鈍い意味」のうちに一種の開放性と生産性を見た、のだそうで
エンドマークへ向かって直線的に収斂してゆく中央集権的、予定調和的、
中枢的な物語の中に混ざり混み、それを挫折させようとする「反ー物語」の力、
脱ー中心的、非中枢的な力を、バルトはあえて「映画的なもの」と名づけた。
すごいね。バルトって。

今まで、観ていてよく意味が分からない映画は、ほとんどお手上げ状態で
そのままスルーしていた感じがするが、そういうときの楽しみ方を
ここで教えてもらった気がする。

何が表現されていて、何が表現されていないか
ってことを考えながら観るのも映画鑑賞上では必須だけど
ここでは西部劇が例に挙げられている。
南北戦争後の開拓時代の西部には5000人の黒人のカウボーイがいたが
西部劇に黒人のカウボーイが出てくるのは1985年頃だそうである。
そういえば1960年制作の『アラモ』にも、黒人の召使はいたが
黒人のカウボーイはいなかった。
2004年のリメイクはどうだろうと興味がわく。
表現されていないことから、その時代に伏流している社会的感受性を
くみ取るというのは、逆システム学的映画の楽しみ方といったらいいだろうか。
ただ、この辺になってくると、だれにでも可能ってわけでもないかもしれない。
他人の無意識は、ほとんどダダ漏れで見えるものだが、
自分の無意識を意識化するのは非常に難しいからだ。

とまあ、こんな感じで実に刺激的な言論が展開されている。
そして待望の第三章「アメリカン・ミソジニー」は
「アメリカの男はアメリカの女が嫌いである」という一文から始まる。
う~ん、やっぱりそうだったか、と思うことしきりである。

アメリカ映画(テレビもそうかもしれないが)に出てくる女の人は、
どうしてみんな非常時になると泣き喚き、オロオロするしか能がない
ようなタイプばっかりなんだろうと、ずっと不思議だった。
一番最初にそう感じたのは『わらの犬』だったかもしれない。
ダスティン・ホフマン演じる夫の妻が、ずばりこのタイプだったのである。
それ以後、同じタイプを見るにつけ、アメリカの女の人のほとんどは、
いざとなるとこんな風にしか振る舞えないのか、ととても不思議だった。
で、こういう(一見)弱い性のために、レディファーストという習慣が定着したのか
とつじつまを合わせていたのだけど、レディーファーストといって女性を大事にし、
しかし一方で、アホな女性ばかりを並べるというところに、ずっと違和感があった。
それがミソジニー(女嫌い)という言葉で一気に視界が開けたのである。
ただ、なぜそれほどアメリカの男性が女嫌いなのかは、よく分からない。
その起源が、男と女の比率からもたらされたというところは同意できるが
「選ばれなかった男たちのトラウマ」を癒すのは「選ばれた男の不幸」
ではなく「選んだ女の不幸」である、というのはアメリカ特有というより
そもそも男という生き物はもともとホモっ気があって、
何かにつけて群れたがる(男たちの共同体の原初の秩序を回復させたがる)
ところがあるからなんじゃないだろうか。
だとすると、なぜ男にはホモっ気があるのか、私にはそちらの方が気になるが
アメリカがカップル社会なのは、案外このホモっ気を抑圧しているからかもしれない
と考えると、話は俄然面白くなってくるのである。

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2011年4月13日 (水)

『トゥルー・グリット』

朝、震度4くらいの地震があったのだけど
チケットを買ってしまったので
六本木ヒルズのTOHOシネマへ『トゥルー・グリット』を観に行く。
インターネットでのチケット購入は便利だが、
こういうときに取りやめるっていかないところが難だ。
念のために先日入手した手巻きラジオと携帯の充電用コードも持参する。
地震のせいで地下鉄は変則運転だったが、本編には間に合ってやれやれ。
朝一番のせいか、地震が影響しているのか、
観客はパラパラ程度でさみしいことこの上ないが
選んだ席は目線がスクリーンと同じ高さで快適だった。

もともと西部劇にはあまり興味がないのだけれど、
アカデミー賞で話題になり、マット・デイモンも出ているので
観に行かなきゃと思っていたところへ、先に観た人に絶賛され
背中を押された格好になった。

『ノーカントリー』のコーエン兄弟が監督とはいえ、観終わって
正直なところアカデミー賞にノミネートされるほどの映画か、
という感じがしたのは、レッスン後の筋肉痛と
朝の地震が影響していたのかもしれない。
ジョン・ウエインが主演したオリジナルの
『勇気ある追跡』は未見だが、筋書きは大きくは違っていないらしい。
オリジナルが上映された当時は、こんな若い自立した女の子が
親の仇を討つために酔っ払いを雇うという筋書きに
それなりにインパクトもあっただろうが、
今みたいに肉食系女子が当たり前の時代には、
ストーリー自体にさほど新鮮味があるようには見えない。
だからなんで今、勇気ある追跡なんだ?と思うのだが
想像するに、オリジナルは追跡自体が勇気に満ちている
といいたかったのではないだろうか(観ていないから分からないけど)
一方、本作は「トゥルー・グリット」を「真の勇者」と訳しているように
追跡行動ではなく、追跡する人間に焦点を当てているように見える。
人間という存在はグリット(砂粒)のように小さいが、
そんな小さな存在だからこそ、真に勇気がある者は
賞賛に値する、と言いたいようである。
そしてその最たる者が、14歳の少女、ということは
現代的に見れば案外大きな意味を持っているのかもしれない。

なんていうことを考えながら帰路に着いたら、
終着駅のホームに滑り込む寸前にATSが働き電車が止まった。
窓の外を見ると電線が揺れていて、電車もうねっている。
いやはや無事に帰って来れてよかったと胸をなでおろす。

真の勇者に光を当てるという意味では『グリーン・ゾーン』もそうだった。

桜が満開だった日曜日
夫は近所の花見に、
息子は一人旅の予行演習で印旛沼へキャンプを張りに行き、
私はレッスン後の身体をケアしながらWOWOWで見ていた。
これもマット・デイモン主演という以上の予備知識はなかったのだが
イラクにあるの、ないのと言っていた大量破壊兵器がテーマで
それなりに面白く見てしまった。
大量破壊兵器がなかったことは、今でこそ明らかになっているが
このウソ情報は、実はアメリカ政府高官がリークしたものであり、
それを裏も取らずにメディアが流したのが発端だったらしい。
マット・デイモンは指揮官として、指示に従って現場に乗り込むが、
毎回兵器を見つけることができない。
CIAの協力を得て調査を始め、偽情報のリークだったと分かるのだが
イラクとの接触と、本国アメリカからの抹殺という
両方の危険に迫られながら思いがけない結末を迎える。
CIAというところが、なんとなく胡散臭い感じもするが、
このCIAだって組織は1枚岩ではなく本流と傍流に分断されている。
まあ、政治が絡むとややこしいのはどこも同じである。

デマ情報の大本となった政府高官は、もちろん私益のために流したのであり
政府筋からの情報だからと、メディアが裏も取らずに流すというのは、
どこも似たりよったりで、別に日本のお家芸でもなんでもないと思わされる。
しかしだからといって、メディアや我々がこんな風にいとも簡単に
騙されるというのは、やっぱりかなりやばいんじゃないだろうか。

福島原発の情報だって、今頃レベル7に上がったということは
何らかの情報操作が行われていたということだろう。
危険だ、いや安全だ、という混線状態から浮かび上がってくるのは
東電は、いざというときの対策については何も持たないまま、
原発を建設し続けていた、お粗末な民間企業ということであり、
それを容認していたという意味で、国も同罪である。
それはすべて自民党政権下でおこなわれてきた、という事実を考えれば、
あっちが頼み込んできたって、連立政権なんてお断りと考えるのが
民主党の筋だと思うが、トゥルー・グリットはいないってことなんだろうか。

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2011年4月 4日 (月)

ぬるま湯から飛び出したいカエル

今回の地震は、世界がつながっていることを強く感じさせてくれた。
仮に震源が日本近海であっても、地震そのものは
日本だけで完結しているわけではなく、
まして津波ともなれば、地球の反対側にも大きな影響を与える。

地震と津波の被害が報道されてから入ってきた各国からの
援助や励ましの声は、日本という国がふだんニュースで言われているほど
存在感がないわけでも、世界からバカにされているわけでも
ない(らしい)ことを教えてくれた。
メディアは何かにつけて、経済も政治も二流とか三流と言い続けてきたが
よその国の人たちは、案外そんな風には見ていないのかもしれない。
同時に起こったことの大きさについても、他国によって知らされたという感じがする。
テレビで繰り返し映される津波の映像に呆然としている自分がおり
世界からの働きかけによって我に返っている、というところかもしれない。

さらに原発事故によって、いやでも世界はつながっていることを痛感させられた。
地続きでなくても放射性物質は空中を飛散し、他国にも影響を及ぼす。
アメリカやフランス、ドイツが間髪を置かず援助の手を差し伸べてきたのは
放射能の危険性を最小限にとどめようとする合理性に裏打ちされているからだ。

地震の直後に円が急騰したのが不思議だったが
これは後になって円を買い戻すことを見越した
円買いの影響だったと知って、金融界の嗅覚の鋭さに驚いたものだ。
地震によって受けた経済的な打撃を回復するためには
元気な地域が活発な経済活動をしなければならない、
というのも、ほんとかどうかはともかく、いかにも世界のつながりを感じさせる。
福岡とか大阪などはふだんと全く変わらない元気さらしいが
関東近辺は、いや少なくとも自分は、石原さんなどに言われなくたって、
なかなか出歩く気分にはなれないものだ。
ひとつには、一旦出たら帰ってこれないかも、
という不安が、まだ若干残っているからかもしれない。
もうひとつは、東北の復旧の遅さや
東電の原発に対する対処のしかたを見ていると、
現地で頑張っている人たちの努力はともかくとして、日本全体が、
何かぬるま湯のなかで茹でかかったカエルみたいに見えてしまうからだ。

石原さんの「自粛」要請に腹が立つのは、
それがカエルの発想から一歩も出ていないからだと思う。
彼が考えなければならないのは、どうやったらみんなが元気になれるか
ってことなのに、それを示せないのは彼も半分茹ってしまっているからだろう。

でも未曽有の災害のおかげで、いろいろな機関が、
いろいろと考え始めており、原発に絡んだエネルギー問題の提言も出始めている。
ふだんはなかなかお目にかかれない情報が手軽に入手できるのは
非常時の効用といってもいいかもしれない。

「無計画停電」から「戦略的エネルギーシフト」へ
http://www.isep.or.jp/images/press/ISEP_Strategy110323.pdf
は計画停電を実感した者として面白く読んだ。

「持続可能な社会をどう構想するか」鼎談pdfも面白い。
https://sites.google.com/site/structuralconstructivism/home/download
無料でダウンロードできるサイトの説明には

このたびの東日本大震災からの復興を原理的に考察し、
実質化するために、北大路書房の全面協力のもと、
学際誌『構造構成主義研究』4号特集
「持続可能な社会をどう構想するか」の無料ダウンロードができるようになりました。
昨年公刊された4号の特集では、池田清彦、竹田青嗣、西條剛央が
エネルギー問題、環境問題、経済問題、労働問題について徹底討議し、
東日本大震災後の日本の方向性を考えるうえでヒントになる考え方が提案されています。
今後のよりよい社会のあり方を考えるうえで参考になるようであれば幸いです。
なお、元のファイルはgooglesiteの仕様上大きすぎたため、アップロードに際して分割しております。
お手数をおかけしますがご了承ください。

とある。
太陽光発電じゃなくて太陽熱発電にした方がいい、とか
エネルギー問題と人口問題を同時に解決していく必要があり
そのために、どうやって世界各国が共通の価値認識を醸成していくか、
など興味深い議論が展開されている。
放射性物質は空を越えて飛んでいくが、
地球そのものは閉鎖系社会になりつつあるみたいだ。

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