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2011年5月31日 (火)

SFというもうひとりの自分

『アジャストメント』を観ようと思ったのは
もちろんマット・デイモンが主演だからだけど、
原案がフィリップ・K・ディックだと知ったからでもある。

もともとSFというジャンルにはたいして興味がなく、彼の作品も
たまたま『ブレード・ランナー』のDVDを観たのがきっかけで
原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」をやっと最近読み始めたのだ。
これだって周囲の熱烈なディックファンに引きずられたからである。
もっとも子どもの頃は「透明人間」や「海底二万哩」などは大好きだった。
でもこれが、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンより
面白かったかというと、何ともいえない。

『アジャストメント』は、予告編を観る限り政治がテーマの映画で、
現実とフィクションが交錯する、どちらかというとダークな映画と
予想していたが、映画館には思いのほかカップルーそれも熟年の
が多かったのが意外だった。これはどういうこと?と考えてながら観ているうちに
期待は見事に裏切られていき、途中から「あらあ、これっておとぎ話だったのね」
と分かって、あとはただひたすら、マット・デイモンのなんとも純朴な、
およそ狡猾さには欠ける顔だちとストーリーを楽しむことになった。

うーむ、ハリウッドのマーケティングがこのような映画を作らせたのだろうか。
マット・デイモンが、こんなシンプルな映画に出るだろうか、
ディックがこんな苦みのない原作を書くだろうかと
あらかじめ買っておいた新刊「アジャストメント」を読んでみることにした。
この新しく出た短編集には「人間とアンドロイドと機械」という
ディックのエッセイも収載されていて、『ブレード・ランナー』を
理解する助けにもなりそうに思えた。

映画は大筋ではおおむね原作をなぞっているが、
設定はまったく異なっていて、原作はすこぶる地味である。
この原作をこういう風にを映画的に面白いものに作り替えたのは評価できる。
しかしなにより収穫だったのは、「アジャストメント(調整)」という言葉は
私が考えていたような、なんとなく現代社会に潜む陰謀といった
うさんくささを表すものではなかったということである。

私たちが現実だと思っていることは、ヴェールを通して見たものであって、
それはイメージに過ぎないというのがディックの言いたいことである。
彼はそれを線形時間と表現していて
それに直交する時間があるのだということをエッセイに書いている。
今ではなかなかお目にかかれなくなったLPレコードに
糸を通してみると、その糸が線形時間、レコードの溝にあたるものが
直交する時間、というわけだ。
いわゆる現実の時間には、そうしたさまざまな直交する時間が
含まれているということは、私たちが何かに夢中になって
我を忘れたとき、まったく違った時間感覚を経験することから分かる。
そのとき私たちは、直交する時間に入り込んでいるのだ。
それが『アジャストメント』に出てくるどこでもドアである。
映画に出てくるエージェントを、いわゆる現実(線形時間)に引き戻そうとする力
と考えると、この映画はただのラブストーリーではなく
ディック(原作)に忠実に、直交する時間の存在を表現しようとした
実に興味深い映画だといえる。

こういう風にSFを、ただ外の世界を荒唐無稽に描いたものではなく
(全部がそうなのか、ディックのがそうなのかは分からないけど)
むしろ人間の内面を描こうとしたものだと捉えると、
私にとってSFは俄然近しいものになってくる。

たとえばマザコンのバレリーナが、そこから脱するプロセスを描いた
『ブラックスワン』での主人公の精神の混乱過程は、
いささか現実離れしていて、映画的にもやりすぎじゃないか
って感じがしたものだが、これもSFだと思えば納得しやすい。
彼女が最後につぶやく「パーフェクト」という言葉は、
現実の自分に押しつぶされそうになっていた、
もうひとりの自分(ユング的に言えば真の自己)、
つまり線形時間に直交する時間を経験できたからこそ言えたのである。
タイムスリップとは、機械の中に入ってどこかへ飛び出していくことではなく
自分の中にいる、もうひとりの自分に出会うということなのだろう。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

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コメント

ディックと言えば「トータルリコール」もリメイクされるみたいですね。
ちょっとブームが来ているんでしょうか。

私がSFに初めて触れたのはコナン・ドイルの「ロストワールド」でした。
私は逆にホームズより強く影響されました。

当時は日本のSFの黎明期で名だたるSF作家が生活の為にSFジュブナイルと言われる作品を大量に書いていました。
「時をかける少女」「謎の転校生」などに夢中になってました。
でも当時SFファンって今で言う「オタク」扱いでしたから特に女子には変な眼で見られていたような気がします。

デックは今では古典SFと言われる50~60年代に活躍した作家ですけど、「サイエンス」の部分より文学作品としての側面が今では評価されてきているんでしょうか。
「ユービック」や「逆回りの時間」などの不条理な世界観は脳をシェイクされるようで面白いです。

投稿: nucky | 2011年6月 3日 (金) 08時40分

nuckyさん

コメントありがとうございます。

ディックは、50~60年代にはどのように
理解され受け取られていたのか、という
ところが興味深いですね。
今の人たちより親近感を持って受け取られて
いたのでしょうか。
それともあまりに突飛ということで評価
されたのでしょうか。
今や現実とフィクションにはあまり違いが
なくなってきた感じがあります。
現実は豊かになってきた、と言って
いいのでしょうか。

投稿: pinoko | 2011年6月 3日 (金) 09時04分

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