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2011年6月29日 (水)

アンフォルメル

午前中しか空き時間がないといったって、
お中元を送るのだけに銀座へ行くのはなんだかもったいない、
と思っていたら、タイミングよく日経の朝刊に記事が出て、
ブリジストン美術館で
-20世紀フランス絵画の挑戦-『アンフォルメルとは何か?』を
やっているのを思い出した。
前から観ようと思っていたのだが、すっかり忘れていたのだ。
そしてこれが久々に充実した展覧会だった。

いつもなら好きな絵だけ集中して見て、
あとはさーっと流してしまうのだけど
この展覧会では、まずどうやって抽象が生まれたかを
マネの『オペラ座の仮装舞踏会』や
モローの『化粧』から解説して見せてくれる。
これがなかなかよかった。
さらに要所要所の絵に解説がついているので、
それを読みながら進んでいくと、自然に
アンフォルメル(不定形芸術)がつかめるようになっている。

グラン・ロベール仏語大辞典によれば、アンフォルメルとは
「再現することを拒否する芸術、あるいは認識でき、
分類できる形態を描写することを拒否する芸術」だそうである。

第二次大戦後、人間の自己表現が問い直されたときに
写実的あるいは造形的な表現に頼らず、自己を画面に
そのまま定着させる表現を試みる抽象絵画が生まれた。
結果としての作品の形状が「不定形」であることから
これがアンフォルメルと呼ばれることになった、ということらしい。

興味深かったのは、アンフォルメル(Informel)は
おそらく英語のinformalと同義と思われることである。
先日読んだインフォーマルケアについての論文では、
インフォーマルケアを非専門家によるケアと説明はしても
「形式ばらない」という風な説明はなかった。
非専門家による、というだけでなく、もっと本質的な部分、
つまり非再現性、とか、形式にとらわれないという部分で
インフォーマルケアを考えた方が、フォーマルケアを
担っている人たちにとってもプラスだし
理解もしやすいんじゃないだろうか、これは今日のヒットだな
などと考えつつ先へ進む。
最近では医療をアートだと言う人もいるが、
アートの本質的なところがどの程度理解されているかは疑問だ。

などと、鑑賞に集中していたら、
「ちょっとすみません」と声をかけられる。
ぎょっとして振り向くと若い女性が立っている。
この間声をかけられたのは、国立近代美術館で
クレー展を観ているときだった。(展示係の若い女性だった)
メモを取りながら歩いていたら、ボールペンは禁じられているので
これを使えと鉛筆を渡されたのだ。
ちょっとムッとしたので、「いえ、もうメモは取りません」と
言おうかと思ったのだが、まだ取るかも、と思い直して受け取った。
なので、一瞬また何か文句が、と身構える。
「香水をつけていらっしゃいますよね」
思わず、え?ひょっとして匂いがきついとか?と引きそうになる。
「はい。(それがなにか?と言えない所が天性の気の弱さだ)」
「あんまりいい匂いだったので、なんていう香水かと思って」

香水は好きでいろいろ持っているが、匂いが気に入っていればいいので
ブランドや品名は、ほとんど気にしたことがない。
今日のはたしかブルガリだが名前はなんだったか・・・。
「たしかブルガリの、こういう四角い薄いブルーの・・です」
自分がつけている匂いは、自分じゃほとんど分からないから
褒められても実感がない。ほとんど「いわれなき」って感じだ。

これですっかり緊張の糸が緩んでしまい、
集中を取り戻すのに時間がかかってしまったが、気を取り直して
ヴォルス、マチウなどに比べるとサム・フランシスはおとなしいなあ
などと思いながらやっと最後まで辿りつく。
最後の部屋にはザオ・ウーキーが結構あって、
そういえば以前ここへ来たのは、ウーキーを観るためだったと思い出す。
ウーキーは観ていると風景が浮かんできて、相変わらず好きである。

なんだかんだで、すっかりおなかが空いてしまったので
「ジョルジェット」で1日30食限定、というサンドイッチをトライ。
中身は8種類、デザートもついてコーヒーのお替りもできるお得なランチだ。
フレスコの模造画が見渡せる中央の席に案内してもらったので
テーブルの上の説明書きを読んでいたら、フレスコ画とは
漆喰が乾かないうちに顔料で絵を描く「新鮮な」という意味の
手法のことだそうで、フレッシュと語源が同じだと書いてあった。

実にアンフォルメルな1日であった。

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2011年6月20日 (月)

アウェーゲーム

今年のディペックスの総会は神楽坂の理科大の大会議室で。
通常総会に続いて、東大死生学応用倫理センターの山崎浩司さんによる
『青森県がん体験談データベース構築プロジェクトの概要と課題』について。
青森のように、地域によって医療機関の充実にばらつきがある地域では
がんで入院すること自体が「死ぬ」ことと同義と捉えられており、
そのことががん検診を受けることや受診の妨げになっている、
という話が興味深い。
がん医療・ケアは、こうした県民の認識や行動を理解しながら
おこなわれる必要がある、というのが彼の結論である。ただ、
社会学系や臨床心理系の人たちが聞き取りをしている割には
データベースのカテゴリには、さほど新規性がない感じだ。
終了後、質的分析に絡めて#8000のデータベースに
有効と思われる要素は何かと問いかけてみる。

その後、各テーブルごとの自己紹介を兼ねた交流会ののち

つるかめ診療所の鶴岡浩樹さんによる『臨床の中の病の語り』について。
鶴岡さんは地域医療がやりたくて栃木で在宅医療専門の診療所を
開設しているというユニークな先生だ。
彼が順天堂の医学生に「病と語り」を理解してもらうために、
どんな話をしているか、というのが講演のテーマである。
EBMで納得してもらえないときに、NBM(ナラティブ・ベイスド・メディスン)を
活用するというのは一般的だが、患者の物語を知ることで
EBM(エビデンスの用い方)も変わってくる、という話を面白く聞く。
特に在宅診療という「在宅劇場」は、
アウェーゲームという部分には大いに共感。
終了後の名刺交換で、在宅診療は、
相手の生活環境の中での問題解決する、という電話相談と
重なる部分が大きいという話をする。

翌日はディペックスのインタビュー評価研究のフィードバック。
作成した評価項目が具体的な事例の中で見えてこない、という
インタビュアーの声に応える形で、
評価者とインタビュアーの間の川に橋を架ける試みをする。
ディペックスのインタビューは、方法論が目的化してしまっており
その人ならではの語りへの心配りが不十分なんじゃないか
という当方の問題提起から、ディペックスのインタビューのあり方
についてへと議論が展開する。
教育の高度化、専門化は、木は見えるが森は見えない人材の
生産に結びついているような感じを受けるが、
ミーティングが終わるころには、当初はデータベースを作成しよう
とする意識が強すぎて、個々の語りを聴こうという意識が希薄だった
かもしれない、という振り返りへ行きつくことができた。
データベースを作成しようと意気込まなくても、
その人のホールライフを聴くことに集中すれば、
結果的にデータベースに必要な内容は集積できるはず、
というのがほかの評価者も含めた私の意見だが、
実際にインタビューをしている人にとっては、
なかなかそう思えない、ということは分かる気はする。

収穫だったのは、第三者による事後のビデオ視聴が
どういう風に役立つかが明らかになったことだ。

たとえば、クリップ(断片)にしてしまうと、
まったく問題ないように見えるビデオでも、
最初から最後まで通して見ると、微妙な違和感を感じることがある。
饒舌に語っているのだが、実は肝心なことを語っていない、
それが何だかは分からないのだが
できるだけ触れまいとしていることがあるような感じを受けるのだ。
全員で見ることで、それがインタビューの同席者(家族)
の存在が原因だったことが分かる。
インタビューの際に同席者に退席を促すのは、なかなか難しいが、
それがインタビュー内容に大いに影響する、ということは、
ビデオを通して見たからこそ分かることで、しかもそれは全体から感じ取る、
としかいいようのない方法によってだけ分かるのだ。
そういう制限のかかった語りがあり、しかしそれも語りなのである。

どうやって話を引き出すか、どのように言葉をかけるかという
一見対話スキルに見えることについても、
DVDを一緒に見ながらだと別の議論になる。
「ここで、どうして奥さんの死について語ってもらわなかったのか」という
問いかけの答えは
「もっと後でと思った」とか
「相手が語りたくないと思っているように感じたから」だったりするのだが
「この人は語りに積極的ではない」と言っているわりには
積極的にタイミングを捉えていない様相が浮かび上がってくる。
それはつまり、語りを妨げているものは
スキルなどといった表面的なものではなく、
実は、「死」や「離婚」についてのインタビュアーの側の心理的抵抗だったり、
話を途中で遮ることができないインタビュアーの対人関係の持ち方、
あるいはアイデンティティの問題だったりする。

「ここは切ってもらって構わないんですが」という語り手の言葉を
「ここは切って」と捉えるか、「あなたの都合で決めて」と捉えるか、
それも実はスキルではなく、相手の言葉を受け取る、
こちら側の心のあり方の問題なのだ。

アウェーで問われているのは、実はホーム(自分)だといえる。

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2011年6月14日 (火)

オープン・アーカイブ

SNSの日記に、#8000の報告書が届いた、と書いたら
そういうのはネットで公開すればいいのにね、という書き込みがあった。
そうだよね。こっちは手弁当でやっている活動なのだから、
その成果はだれにでも見られるようにしてほしいものだ。

小児科医のMLで、
電子書籍の普及で本屋さんはどうなるのか、
という記事が話題になっていた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/feature/post_2001

街の本屋さんが生き残り策として絶版本の印刷を請け負う
という話には、ちょっとした感動を覚える。
誰もやらないことをやってこそ価値があるというものだろう。
しかし、そのためには絶版本がデータとして電子化されている
必要があるわけで、問題はこっちの方かもしれない。
古本屋さんたちは、どの程度電子化に積極的なのだろう。
モノとしての形をなしているからこそ、
希少価値が生まれるということもあるわけだし、
データだけあれば済むってことになってくると、
価値意識もずいぶん変化を求められそうだ。

一方こんなのもある。
「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」
http://wired.jp/wv/2011/06/06/

・読了へのプレッシャーがない

というのはたしかに説得力がある。
形になった本だと、読了未満というのは一目瞭然で
そこが、かなりのプレッシャーではある。
中断している本が、あたりに散乱している様子は、
なんだか自分の根気のなさを証明しているみたいで
自己嫌悪に陥ることこの上ない。
もっとも、最近では「本なんて最後まで読もうと思わなくていい」
という風にプレッシャーを軽減してくれる意見もあり
「そうだ。自分にとって意味があると思えるところだけ読めばいいんだ」
という風にも思えるようになってきたから
これは電子書籍の勝ちポイントでもあるかもしれない。
ただ、

・余白への書き込みができない

というのは、案外大きいかもしれない。
付箋を貼れない、というのも大きいだろう。
どこに貼ったか一目瞭然、というのが本のいいところでもある。

本が並んだ本棚を眺めて楽しむ、ということができないのも
電子書籍のウイークポイントかもしれない。
自分の出来上がり具合を証明する手がかりというのは、
自分で確認できてこそ意味があるってことだろうか。
そうやって強化していないと確信が持てないとしたら
「自分」ってなんて儚いものだろう。

でも、公共図書館の本を電子書籍で借りられるようになったら
これはいいかも!という気もする。
もちろん端末は自前だが。
そうなると、予約本の順番を待たなくて済むようになるのだろうか。
今は電子書籍もお金を出して購入するようになっているが
簡単にコピーできるデジタルデータに高いお金を払わせる
というのは、なんとなく違うんじゃないかという感じはしている。
どんなに重い本でも、どんなに多数の本でも持ち歩けるし、
老眼でも暗いところでも気にせずに読める、というのが
電子書籍のメリットとされているけど、案外本当のメリットは
レンタル性というか頒布性とか公開性ってところにあるんじゃないだろうか。

目下のところ電子書籍については
どうやってお金を払わせるか、ってところでせめぎあいになって「いる
みたいだが、誰でもどこからでもアクセスできるという特性を考えれば
たぶん従来の取引概念とは全く違うものが生まれてこないと
変なんじゃないかという感じはする。
そういう意味では電子化はパンドラの箱なのかもしれない。

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2011年6月 8日 (水)

「The door in the wall」

FC東京はJ2に降格したが、応援団はJ1から継続している。
今回は場所が駒沢競技場ということもあり、近くで開業している
仲間のドクターが二次会をセッティングしてくれて、
いつものイレブンで観戦ということになった。

爽やかな風が吹く応援日和だったが、試合は先制したにもかかわらず
後半愛媛FCに追いつかれ、結局引き分けで終了した。
選手が若返ったせいか、以前より積極性は増したように見えるが
愛媛FCのようながむしゃらさが感じられない。
これを都会っ子のせいにするのは当たらないだろう。
だって選手の出身が東京とは限らないわけだし。

試合後、うなだれてサポーターにあいさつ回りしている選手に
「それでいいと思ってんのか」という怒号が浴びせられるのは
見ていてあまり気持ちのいいものではない。
孫のような世代の選手たちが、のびのびと試合ができるようになるためには、
どういう鼓舞の仕方がいいのか、同年代からの叱咤激励というのも
ありだろうとは思うが、なんかいい方法はないものか。

二次会は「TSUNAMI」というハワイ料理のお店。
駒沢という場所柄か、なかなかおしゃれである。
30年前の新婚旅行で食べたような魚料理があるかと思ったが
今回はなく、でもデザートのフルーツを盛ったパイナップルは
酔っ払いついでにみんなで破壊しつくして、しゃぶってしまった。
ただ11人ともなると、必然的に話ができる人は限られてくるし
話がどうしても懐古的になるのも、年代的にしかたがないのかもしれない。
サッカーの話から足のしびれの話、写楽から映画へと、
話題はひとところに留まらず、あちこちに飛び、行方が分からない。

ひとりが、高校の英語の授業で読んだH・G・ウエルズの
「The door in the wall」が印象的だったという話になったので
どんな話なのかと聞くと、壁にドアがあって、
それを開けるとどうのこうの、という内容だという。
へえー、『アジャストメント』という映画もそういう映画だったよ、
と口をはさむが、ほとんど気にも留められず話題はうつる。
この日は風邪の引き始めだったこともあって、
やっと家に帰りついたあとは、頭痛に悩まされながら眠りについた。
翌日は声も枯れて、これはもうほんものの風邪である。

気力がわかないので、ぐうたらついでにふと思い立って
「The door in the wall」の邦題を調べてみた。
すでにいろいろな訳が出ており、題名も「塀についたドア」
(なんとも野暮ったい題名だが)とか「くぐり戸」とかいろいろである。
ウエルズの「タイム・マシン」という短編集に収載されていると
分かったので、図書館で借りて読んでみることにした。
ところがこれが『アジャストメント』にビンゴ!だったのである。
筋立ては、ディックの「調整班」よりむしろこっちの方が近い。
ドアの向こう側の描写も、本の中に人の動きが見える
というアイデアも、ちゃんとこの本の中に出てくる。
映画『アジャストメント』は、ウエルズとディックを
ミックスしたものだったのである。
「アジャストメント」の原作で解説者が
「あまりに原作と違うので、映画を観た人は呆然とするだろう」
と書いているのは、ウエルズまで手が回らなかったということか。

ウエルズのドアが意味するところは、
後年ディックもエッセイで書いているように
現実の線形時間に直交する時間である。
ただウエルズの作品では、最終的に主人公はドアの中に入って死んだと
暗示されており、直交する時間を経験することは手放しで評価されていない。
これが書かれたのは1906年で、ディックの「調整班」は1954年、
ディックのエッセイ「人間とアンドロイドと機械」は
1976年の作であることを考えると、
ウエルズの時代には、現実の時間から一瞬でも降りること、
つまり、現実とは別の自分の存在を認めるというのは
思いもよらないことだったのだろう。
にもかかわらずウエルズは、そのことの意味をすでに指摘しており
そして2011年の現代、『アジャストメント』の主人公は
直交する時間に助けられてハッピーエンドを手に入れる。

作家の創造性とはかくも偉大なものなのである。

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