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2011年8月30日 (火)

黒子の生き方

クライアントの夏休みがやっと終わったので、まずは外苑前の髪結いへ。
途中で銀座のイトシア4階にあるヒューマントラストシネマ有楽町に寄り
『ゴーストライター』の13時のチケットを購入する。
この、テレビ番組みたいな名前の映画館は初めてである。
ロマン・ポランスキー監督の久々のサスペンスというところに
期待がかかっているのか、朝一番の回もお客は結構多い。
髪を切り終わって、交通会館の北海道どさんこプラザで海鮮松前漬けを買い、
開場10分前に戻ってみると、朝一番に続いて13時の回も満席とのこと。
先にチケットを購入しておいて正解だった。

『ゴーストライター』は政治がらみのサスペンスだが
昔のポランスキー映画に比べると怖さはずっと和らいでいる。
のっけからひと昔前のようなドタバタ調の音楽が流れ、
物語は緊張感あふれる、というより、むしろアタフタと展開する。
もちろん話自体は政治がらみのシリアスな内容なのだけれど
ポランスキーが、こういう音楽を選んだというところに
なんとなく彼の意図が感じられるような気がする。
つまり、世界は視点を引いて見れば、結局は力のある者が勝つ
という単純な構図に還元できてしまうのだけど、じゃあ、
それがどれほどの大きなことかといえば
単なるひとつの小さなエピソードに過ぎず、
見方によっては喜劇的にしか見えなくて、
結局何事もなかったかのように、世の中は淡々と流れていく
とでも言いたげなのである。
最初のゴーストライターが不審死を遂げ、首相も暗殺され、
結局2番目のゴーストライターも消されるわけだが、
なんでたかだか一度ベッドを共にしたくらいで、
最後の最後に首相の妻に彼女の正体を突き止めたことを
突きつけずにいられなかったのか。
まったく人間というのは、最初から分かっている結末へ、
自ら飛び込んで行く不思議な生き物だとでも言いたげである。
そういえば、カーナビで目的地をデスティネーション(destination)
と呼ぶというのは初めて知った。
これがdestiny(運命)から来ていると考えると、なかなか意味深である。

そして今日は『英国王のスピーチ』をギンレイに観に行く。
アカデミー賞(作品賞、主演男優賞、監督賞ほか)をとったとはいえ、
クラシックな話だし、人情ものはちょっとと思いながら躊躇していたのだが
これが見事にはずれてくれて、なかなか見ごたえがあるいい映画だった。
ジョージ6世が言語セラピストとともに吃音を克服していく
という実話が元になっているが、ジェフリー・ラッシュの言語セラピスト、
ローグはオーストラリア人であり、セラピストと言っても医師免許も持たない
在野の実践家であって、権威を有していないという意味で
イギリス社会において大きなハンディを持っている。
一方コリン・ファースのジョージ6世は、王でありながら
吃音というハンディを抱えており、その意味でこの2人は似た者同士なのである。
とはいえ階級差が現代よりさらに歴然としていたこの時代に、
この2人が人間として対等な関係を結び得たというのは、
ほとんど奇跡に近いと言っていいだろう。
この奇跡の物語が、イギリス特有のユーモアをちりばめられながら進行する。
ローグとともに困難を克服したジョージ6世が、「ともに困難を克服しよう」と
国民に向かっておこなうスピーチは、戦争突入のためとはいえ感動的である。

ゴーストライターも言語セラピストも、本来は決して表へ出ることはない黒子である。
しかしジョージ6世はローグに爵位を与えることによって、その存在を明らかにし
表舞台が裏方によって支えられていることを公にした。
一方現代は、情報開示が進み開かれた時代であるように見えて
ゴーストライターは、あくまでもゴースト(黒子)でしかない。
場合によっては、ほんとにゴーストになっちゃったりする。
ゴーストに支えられていることを明らかにできない現代は
昔に比べると懐が浅くなっているということなのか、
あるいは舞台そのものがなくなりつつあるということか。

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2011年8月26日 (金)

はまる理由

クライアントの夏休みがずれ込んでいることもあって
なかなか外へ出かけられないので、
すっかりテレビっ子ならぬテレビおばさんである。

会社勤めで大忙しの頃は、テレビもゆっくり観る時間がなく、
ビデオに録っても、結局観る時間が確保できないということが多かった。
セカンドライフに突入してからは、オンオフの境目があいまいな生活になり、
時代遅れの番組も含めて、手当たり次第にドラマや映画を観るようになって
おかげで現役時代より、いろいろと感じたり考えたりすることが多くなった。
たぶん年の功もあるのだろうが、時間があるというのはいいものである。

グレイズ・アナトミーはAXNの放映が4シーズンで終わったので
シーズン5をTUTAYAで借りて観る。
1枚に2話入っているので、4枚1000円というサービスにつられて
1度に4枚借りて1週間で観終わるように頑張るのだが、
どうしても間に合わなくて返す羽目になるときは、いささか悔しい。
WOWOWではシーズン6が終わりすでにシーズン7が始まっているが、
シーズン4からいきなりシーズン6へ飛んでしまうと、
クリスティーナとオーウェンの関係がどんな風に始まり、
どんな葛藤が間にあるのかがまったく掴めず、
ピースを紛失したパズルのような気分になるので、
レンタルでそこが埋められるのは嬉しい。
グレイズ・アナトミーは、なんといってもそれぞれの
登場人物のキャラが魅力的である。
クリスティーナの野心むきだしは、傍で見ていても小気味よい。
エピソードの内容という点でも、まあ病院内の出来事に
多少の誇張はあるだろうが、『LOST』に比べたら
許せる範囲に落ち着いているといえるだろう。

最近テレビで放映された映画の中では
ジェームズ・スペイダーとマギー・ギレンホール主演で
サンダンス国際映画祭特別審査員賞を受賞した『セクレタリー』が秀逸だった。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=3567

ジェイク・ギレンホールのお姉さんのマギー・ギレンホールは
前からなかなかいい女優さんだと注目していたが
当時42歳のジェームス・スペイダーという俳優には、
それまで関心を持ったことがなかった。
そもそも出ている映画を観たことがなかったのである。
『セクレタリー』のスペイダーは、内に葛藤を抱えながら
それを必死に隠しながら生きている。
それが見た目と相まって実に色っぽい。
これですっかりはまってしまった。

いろいろ検索してみたら、なんと『ボストン・リーガル』の主演だと分かる。
しかしこれは、ちょっとショックだった。
『ボストン・リーガル』にどうして惹かれなかったかというと
主演の男優(スペイダー)の容姿が喜劇的で気に入らなかったからである。
ネットで見ると、みんな「彼は痩せるつもりはないんだろうか」とか言っている。
ほんとに。
しかし、ちょっと太ったくらいで、まったく別のキャラを構築できるとしたら
ほんとうはすごい俳優と言っていいのかもしれない。

気を取り直して、さらに検索すると
『セックスと嘘とビデオテープ』という映画に出ていることが分かった。
こちらは1989年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、
スペイダーは男優賞を受賞している。
そういえば、この映画は会社勤めをしていた頃に
ちらっとタイトルを耳にしたことがあった。
でも、そのときはなんだか危ない感じがしてスルーしたのである。
さっそくTUTAYAで借りて観る。
そしてスルーしたのはまったく若気の至りだったと分かる。
さらに収穫だったのは、29歳のスペイダーが、実は『ボストン・リーガル』と
そんなにかけ離れているわけでもないと分かったことである。
うーむ。男は30代から50代にかけて激変するということだろうか、

ともかく、TUTAYAになかったので、
『トゥルー・カラーズ』はアマゾンで購入することにし、
あとは『ボストン・リーガル』を観ることにするかどうか、である。

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2011年8月22日 (月)

病の体験を語るのも患者のうち?

来週のディペックスの定例会議には出られないので
報告事項の打ち合わせのために銀座のオフィスへ。

私が作成したミーティングの報告書をもとに、
さくまさんと問題点をもう少し掘り下げる作業をおこなう。

私のレポートは外部者が感じ取った問題点を外部者の立場で分析したものだが
内情を知らないので、当然のことながら的外れの可能性もある。
でも、外部者だからこそ感じ取れることもあるわけで、
その問題点を内部事情と照らし合わせていくことで、
内部者も気づかなかった問題が浮かび上がってくる
ということに期待し、そしてほぼ期待通りの成果が得られた。

どうしてインタビュー手法にこだわりすぎて
語り手に配慮しているように見えないのか、というのが、
私を含めたほかの評価者が感じ取った最大の問題点だが
議論をしていくにしたがって、どうやら科研費を獲得するために適用した
研究の倫理指針に問題があるらしいということが分かってくる。

ディペックスのデータベース作成研究は、がん患者を相手にすること、
当初の主任研究者が看護学部の講師だったということもあって、
臨床研究の倫理指針に則らざるを得なかった。
この倫理指針はヘルシンキ宣言(http://www.med.or.jp/wma/helsinki08_j.html)
に基づいて作成されているらしく、
患者のリスクに対しては厳しい配慮がなされているが
患者の主体性や責任能力といったことは、あまり問題にされていないようなのだ。
疫学研究の倫理指針だとそんなことはないそうだが、話が進むにしたがって
どうやらこの、患者のリスクと主体性への配慮のアンバランスが、
インタビュアーを相当に委縮させていたらしいと分かってくる。

そもそもインタビューのような、語り手と聞き手の相互作用が醸し出すものに対して、
「治療」という患者の肉体への侵襲に適用されるルールを
援用せざるを得ないとしたら、そこにはある種の運用を考えるべき
ではないかという気もするが、最初のインタビュアーが医療者だったということもあり
倫理指針の適用が厳密で、そういう応用力は働かなかったと見える。

あたかも、外部から何の影響も受けない語りを取り出すことが
可能でもあるかのように、そこに一生懸命エネルギーを注いでいるように見えたのは、
そういうことだったのかと納得できたのは嬉しいが、
患者の保護を考えて、患者の主体性や責任能力への目配りを
忘れるというのはヘルシンキ宣言の読み間違いではないのだろうか。
この辺の日本の医療(医学領域の)事情は、どうもよく分からない。
ディペックスの研究自体が、現行の医療に欠けている
患者の主体性や責任能力を明らかにしつつ、
医療を変えていこうとするものだというのに
それが欠けている倫理指針に唯々諾々と従うなんて、まるで落語だろう。

そもそも、ディペックスのインタビューががん患者の語りを聴くものだとしても
語り手(がん患者)は別に医療における患者というわけではなく、
がんという病いの体験の語り手でしかない。
その体験というのは、たとえば子育ての体験とか、サッカー選手の体験とか、
大工さんの体験というのとなんら違わない。
そして聞き手が仮に医療者であったとしても、そこでは単なる聞き手でしかなく
別に治療をするわけでも、治療についてアドバイスするわけでもない。
それなのに、聞き手が医療者だから自動的に相手を患者と見なして、
そういう関係しか結べないとしたら、それは立派にある種の
メディカりゼーションではないだろうか。
もし、医療とは異なるどんな場に置かれても、医療者は医療者としてしか
振る舞えないのだとしたら、少なくともこういう研究には不向きだろう。

ディスカッションは実り多いものだったが、メディカリゼーションの
広大な負の側面を垣間見た思いもあり、ちょっと複雑。

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2011年8月21日 (日)

最後の決め手は?

夫の実家から古い桐箪笥をもらうことになった。
義母のものだから、買ってから80年くらいは経っているはずである。
これがどの程度の状態なのか、素人には判断しにくいが、
まずは、ネットで再生・修理をしてくれるところを探してみることにした。
なんとなくフィットしそうなところを選び相見積を取ることにする。
出会いのチャンスを提供してくれる、という意味で、
もはやネットは生活に欠かせないツールである。

ネットでの決め手は、まずはホームページの印象だ。
情報という観点から、こちらが知りたいこと、たとえば
修理の工程とか出来上がりの状態、引き渡しの方法、そして費用などが、
コンパクトにまとめられているというのは最低条件である。
もちろん、ホームページから受けるセンスというのも大きい。
これはまあ、相性のようなものだが、案外大きな決め手でもある。
どんな人がやってくれるのか、というのも一応参考にする。
信頼できそうかどうかを顔で見る、という意味では顔は大きな情報源でもある。
結局、年配の職人さんの顔写真が出ているところと
この仕事が好きで独立したという、まだ若い(といっても40代だろうが)人
の、これも写真が載っているところ、そして、
顔写真はないが、ネットで見積もりをしてもらえるところの3軒を選んだ。

今や見積もりもネットでできるのだなあと思いつつ、
そこへ写真を添付して送る。ネットだと1割引きになるらしい。
実際に見る手間が省けるということなのだろう。

ネットでの見積もりが設定されていないところへは電話をかける。
まずは年配の職人のところ。
他県にある夫の実家まで、どのように見積もりをしにいってくれるのか
その場合の費用はどうなるのかを聞く。
電話に出たのは70代~80代の男性で、職人さんかもしれない。
他県へ見積もりをしに出向くというところに
費用がかかっているような印象があり、結構高い。
ネットでも見積もりをしてくれるならメールアドレスを教えて
というと、すぐにアドレスが出てこない。
FAXで送られてきたアドレスへ写真を添付して送るのと並行して、
引っ越し便でこちらに箪笥を送ってもらう手筈を整えたところへ、
写真を見ての電話がかかってくる。
「いい箪笥なので修理するととてもよくなる」というのは
セールストークだろうが、わざわざ他県へ行かなくても済むように
手配したという話を伝えてもあまり金額が変わらない。
もう1軒と比較すると10万の差がある。

もう1軒の若い職人がやっているM桐工芸というところも
ネットの見積もりシステムがないので電話をかける。
小規模なところみたいで、すぐにはつながらず折り返し電話が来る。
写真ではなく実際に見て見積もるというので、来てもらう日を設定する。

そして箪笥が届いたその日に、M桐工芸の責任者がやってきた。
実際に見てくれて、程度はそんなに悪くないこと、
小引き出しの無くなっている鍵穴の金属は引き戸のものを流用して、
引き戸の鍵穴はなくすことなどを提案してくれる。
昔の箪笥にはやたらと鍵が多いというのは発見だった。
引き出し全部に鍵がついているのである。
きっと玄関の鍵が甘い分、家具で食い止めようという発想なのだろう。
箪笥貯金というのは、ただ貯めておくというわけではなく
一応銀行に期待するような防犯意識もあったのかもしれない。
いろいろな話をしているうちに、K君という息子の仲良しのお父さんが
彼が以前勤めていた会社の同僚だったと判明する。
K君の家へは、今でもよく遊びに来るとのこと。
なんとなく土地勘がありそうな話しぶりだったのは、
そのせいだったのだと分かる。世間は狭い。

見積金額は、最初のネット見積もり社とほぼ同額だったが、
実際に見てもらって、いろいろ提案してもらい、
さらには近所の仲良しと近い関係ということもあって
結局、そのM桐工芸というところに依頼することに決める。
年配職人の会社からは、何回か留守番電話が入っており、
最終的に5万の差まで縮まっていたが、
こちらのニーズが理解されていない感じがネックになった。

ネット時代は、商売人にとっては広く網を仕掛けて
多くの顧客を得るという点で、消費者にとっては、
出会いの機会をより広く得られるという点がメリットだが
フットワークと提案力が決め手になるという点では
商売の本質は、あまり変わっていないともいえそうだ。
ただ出会いの機会が増えた分、小さな事業者にもチャンスが巡ってくる
可能性が高くなったということは言えるだろう。
ネットという双方向システムは、規模だけでなく、
センスや顧客との相性がダイレクトに確認できるという利点がある。
そこをうまく生かせるかどうかが分かれ目なのだろうが、
双方向に慣れていなかったり、双方向の生かし方が違ったりすると
思うような成果につながらない、ということかもしれない。

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2011年8月11日 (木)

感情の起源

感情にまつわるできごとで、最近印象に残ったことが2つある。

ひとつはある組織における私のレポートに対するメンバーのひとりの反応。
納得できない、というより十分理解したい(たぶん)、という意図を
よく言えば雄弁、悪く言うと一方的な雰囲気でまくしたてられたおかげで
こちらはハトが豆鉄砲でも食らったような感じになってしまい、
どこが食い違っているのか分からないままミーティングが終了してしまった。
私にしてみたら、なんでこんな基本的なことがワカンナイのかわかんないわけで。
さいわい、そのときの議事録を元に再度レポートを依頼され
おかげでそれまで相手を慮ってオブラートに包んで書いていた問題点を、
極めて鮮明にシビアに指摘する羽目になってしまった。
それは、その組織の根幹に関わることだから、まともに受け止めたら
なかなか大変なことだろうと思うが、まあ、この先も続くことだけにしかたがない。

もうひとつは、海江田経済産業大臣が泣いたという、あれである。
大の男が(女でも同じだけど)公共の場で、自分を憐れんで泣く
というのがよく分からない。
こっちは放射性物質がいつ、どこに降ってくるのかも
はっきりしない状況に置かれているというのに
大臣が泣いてる場合じゃないだろ、と言いたいが、
人目も憚らずに泣くほど大変なことが、きっと彼に起きているのだろう。

これについて内田樹さんが興味深いことを書いている。
http://blog.tatsuru.com/2011/08/10_0940.php

感情の抑制が利かなくなっていることと、
感情を抑制する必要がないと考えることは同根であり
幼児化と関係があるというのである。
そして、こう書いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だから、他人の内面をダイレクトに操作しようと願う人間
-つまり、「政治的な人間」-は、演技的な怒りや
演技的な悲しみや演劇的な苦悩に熟達するようになる。
政治家が「過剰に感情的になっている」ように見えるのは、
当たり前なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

感情表現によって相手を自分の思うとおりに動かそうとする
というのは分かる気がする。
私たちは、ふつう対面では過度に感情的にならないように気をつける。
相手を感情的にさせて、お互いの間にマイナスの事態が生じると困るからである。
昨今は、そういうところに配慮がない人が多くなっている感じがして、
それは相手に対して無頓着(鈍感)な人が増えてきたからだと思っていたが、
そうではなくて、相手を思うとおりに動かしたい人が増えてきたということなのか。

なるほどそう考えると、
感情を捉えるということが相手の意図を捉えることに直結している
というのが、よく理解できる。

しかし、内田さんの言うように、感情が内部に根拠を持つものではなく
外形的(模倣によって作られていく)だとすれば、
幼児化の起源は、前の世代、その前の世代と遡っていかなくてはならず
前の世代はどう成熟していたと考えればよいのだろう。
いったいどこで成熟という抑制装置がはずれてしまったのか、
それとも、幼児的とか成熟というものの現れる側面が変わってきたのか。
感情の起源に興味がわいてくる。

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2011年8月 1日 (月)

コールドケース

何日か前に見た夢だが、印象的だったのでやっぱり書いておこう。

場所は私がこどもの頃に生活をしたことのある祖父母の家の界隈。
どういう理由か、そこを訪れているのだが、風景は激変しており、
閑静な住宅街は、清潔でおしゃれなダウンタウンのような街並みに変貌している。
おしゃれなといっても、人混みでにぎわうような感じではなく
店と言っても何を売っているのか、よく分からない。
入ってみると何人かが集まって、何かの打ち合わせをしていたりする。
ところどころ3階建て程度の背の高いビルもあったりして
街の裏側のような雰囲気の所もあるが、
そこにも明るい陽射しが射していて、
ぶらぶら歩きが楽しい安全な街であることが分かる。
通りの向かい側は川になっており、向こう岸には街路樹なんかも見える。
祖父母の家の近くには川はないから、明らかにこれは捏造である。

そして驚くのは、こういう風景を見ながら
「この風景はたしかに、この前も見た。だから夢じゃない、夢じゃないんだ」
と夢の中の自分が、自分に言い聞かせているのである。
あんまりそれが真に迫っていたので、
目が覚めてから、ほんとに街は変わっていなかったか
一生懸命思い出そうとしてしまった。
そうして、やっとそんなはずはない(最近は訪れていないが、
もしそんな風に激変していたら、報道されないはずはないし)と思い直したのだ。

これが怖い夢だったら、何が自分の中に未解決で残っているのか
深層がどういうメッセージを送ろうとしたのか、結構一生懸命考えるところだが
解釈が難しい割には深刻じゃないので、しばらくほおっておくことにする。
それにしても、夢の中で「これは夢じゃない」と思おうとする自分には笑える。
夢と現実の境があいまいな自分に対する警告かもしれない(笑)。

そんな中で、金)、土)と連続して放映された
『NHK 未解決事件』は久々に面白かった。

最近は地上波のドラマはほとんど見ない。
どれもこれも似たり寄ったりで、出演者の顔ぶれだけで
気をひこうとする意図に、うんざりしているからだ。
もちろん筋書きがつまらないというのもある。
事柄のバリエーションに頼るだけではドラマになんないでしょ、
とツッコミを入れたくなるような、深みのないドラマばっかりなのだ。
で、もっぱらCS、BSを楽しんでいるが、集中して見てみると、
こちらも似たようなものだということが分かる。
韓流ドラマは数が多すぎるので、ほとんど見ないから欧米のドラマが主だが
アメリカのドラマは、どうしてあんなに犯罪ものや超常現象ものが多いんだろうか。
配給する側が、そういうのばかりを選んでいるのだろうか。
まるで犯罪や超常現象に飢えているみたいに見える。
日常生活が平和な証拠と思えばいいのだろうか。

さて、『NHK 未解決事件』である。
第一話はグリコ・森永事件を扱っている。
ドキュメンタリー×ドラマ とうたっているように
純粋なドラマではなく、ドラマ仕立てのドキュメンタリーである。
当時私には、グリコの社長が拉致されて、
発見されたときは裸だった、というところが衝撃だった。
ドラマによって、入浴中に拉致されたと分かる。
こういう報道は、その当時にはたしかなかった。
かなまじりの脅迫文は、今読んでも(いや今の方が、かも)
胸にざわざわとした感じをもたらす。
いたぶられているような、こちらの無力さを痛感させられる一方で
妙にうまい文章に納得、感嘆させられてしまう自分がいる。
こどもでも読めるような、しかしルールを逸脱した漢字まじりのひらがな、
という文章が与える妙な印象は、日本語独特のものだろう。
この事件が、どのように未解決のまま時効に至ったかを
描いていく過程で、これらの脅迫文にメディア同士が煽られ
世間も踊らされていく様子が描かれる。
ここでは主に活字メディアが描かれているのはNHKだからだろう。
大阪府警と滋賀県警など、警察内部の問題も描かれる。
劇場型犯罪と言われているが、もっと本質的なところで、
あれは何の始まりだったと捉えればよいのだろうか、と思う。
でも、事態の真っただ中にいたときには見えなかったことが
振り返ることによって見えてくるのはたしかだ。

アメリカの犯罪ドラマ『コールドケース』も未解決事件を扱っているが
ここでは過去の迷宮入り事件は必ず解決される。
(全部は見ていないから分からないけど、そのはず)
現在と過去が交差する時間構造の中で、それぞれの時点に
生じた2つのドラマの関係が描かれていき、解決に至る。
昨今のドラマは、ひとつのストーリーに必ず複数のドラマを盛り込むことで
視聴者の関心をひきつけるという手法をとっているが
時制の違いがないと、ただめまぐるしいだけに終わるきらいがある。
過去と現在を交差させるやり方は、そこに厚みと深度をもたらすという意味で、
衰退気味のテレビドラマが見出した新しい手法と言えるだろう。
NHKがそこに目を付けたのは慧眼である。
残念なのは、『コールドケース』とは違って事件は解決しないことである。
だとしたら、事件と同様、私たちの未解決についても見せてほしいものである。
過去の未解決が、今の私たちを作っているといっていいのだから。

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