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2011年8月22日 (月)

病の体験を語るのも患者のうち?

来週のディペックスの定例会議には出られないので
報告事項の打ち合わせのために銀座のオフィスへ。

私が作成したミーティングの報告書をもとに、
さくまさんと問題点をもう少し掘り下げる作業をおこなう。

私のレポートは外部者が感じ取った問題点を外部者の立場で分析したものだが
内情を知らないので、当然のことながら的外れの可能性もある。
でも、外部者だからこそ感じ取れることもあるわけで、
その問題点を内部事情と照らし合わせていくことで、
内部者も気づかなかった問題が浮かび上がってくる
ということに期待し、そしてほぼ期待通りの成果が得られた。

どうしてインタビュー手法にこだわりすぎて
語り手に配慮しているように見えないのか、というのが、
私を含めたほかの評価者が感じ取った最大の問題点だが
議論をしていくにしたがって、どうやら科研費を獲得するために適用した
研究の倫理指針に問題があるらしいということが分かってくる。

ディペックスのデータベース作成研究は、がん患者を相手にすること、
当初の主任研究者が看護学部の講師だったということもあって、
臨床研究の倫理指針に則らざるを得なかった。
この倫理指針はヘルシンキ宣言(http://www.med.or.jp/wma/helsinki08_j.html)
に基づいて作成されているらしく、
患者のリスクに対しては厳しい配慮がなされているが
患者の主体性や責任能力といったことは、あまり問題にされていないようなのだ。
疫学研究の倫理指針だとそんなことはないそうだが、話が進むにしたがって
どうやらこの、患者のリスクと主体性への配慮のアンバランスが、
インタビュアーを相当に委縮させていたらしいと分かってくる。

そもそもインタビューのような、語り手と聞き手の相互作用が醸し出すものに対して、
「治療」という患者の肉体への侵襲に適用されるルールを
援用せざるを得ないとしたら、そこにはある種の運用を考えるべき
ではないかという気もするが、最初のインタビュアーが医療者だったということもあり
倫理指針の適用が厳密で、そういう応用力は働かなかったと見える。

あたかも、外部から何の影響も受けない語りを取り出すことが
可能でもあるかのように、そこに一生懸命エネルギーを注いでいるように見えたのは、
そういうことだったのかと納得できたのは嬉しいが、
患者の保護を考えて、患者の主体性や責任能力への目配りを
忘れるというのはヘルシンキ宣言の読み間違いではないのだろうか。
この辺の日本の医療(医学領域の)事情は、どうもよく分からない。
ディペックスの研究自体が、現行の医療に欠けている
患者の主体性や責任能力を明らかにしつつ、
医療を変えていこうとするものだというのに
それが欠けている倫理指針に唯々諾々と従うなんて、まるで落語だろう。

そもそも、ディペックスのインタビューががん患者の語りを聴くものだとしても
語り手(がん患者)は別に医療における患者というわけではなく、
がんという病いの体験の語り手でしかない。
その体験というのは、たとえば子育ての体験とか、サッカー選手の体験とか、
大工さんの体験というのとなんら違わない。
そして聞き手が仮に医療者であったとしても、そこでは単なる聞き手でしかなく
別に治療をするわけでも、治療についてアドバイスするわけでもない。
それなのに、聞き手が医療者だから自動的に相手を患者と見なして、
そういう関係しか結べないとしたら、それは立派にある種の
メディカりゼーションではないだろうか。
もし、医療とは異なるどんな場に置かれても、医療者は医療者としてしか
振る舞えないのだとしたら、少なくともこういう研究には不向きだろう。

ディスカッションは実り多いものだったが、メディカリゼーションの
広大な負の側面を垣間見た思いもあり、ちょっと複雑。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


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コメント

こんにちは、DIPExでご一緒させて頂いている瀬戸山です。ブログいつも楽しませて頂いています。今回のディペックスに関するメディカライゼーションの話、興味深く拝見しました。

最初のインタビュアーの職や所属ゆえに、インタビュー実施にあたって臨床研究を想定した倫理指針を適応せざるを得ない…というのは、確かに無理やり感が否めませんね。その指針に従わなくてはいけないばっかりに、「語り」のあるべき姿が歪められるのだとしたら、それは本末転倒だとも思います。

また、「患者の主体性や責任能力」が、今の倫理指針であまり問題にされておらず、そのこと自体が問題なのではないか…ということには、初めて気付かされました。リスク回避ばかり考えるのではなく、「患者の主体性や責任能力」を研究の中でどう尊重するか、自分も考え続けたいと思います。有難うございました。

投稿: 瀬戸山陽子 | 2011年8月27日 (土) 20時16分

瀬戸山さま

コメントありがとうございました。

この問題、会議で議論が深められることを
期待しています。

臨床試験の倫理指針を厳密?に適用した
背景には、医療者の真面目さと同時に、
自分自身のものの見方や考え方を
相対化できていない視野の狭さ、
というのも感じます。
(厳しい言い方でごめんなさい)

相手(患者)の主体性や責任能力を尊重
しながらコミュニケーション(相互作用)
をおこなうためには、従来の関係性から
一度抜け出る必要がありますね。
過剰に反省するあまり、羹に懲りて
膾をふくことになってはいけませんよね^^

投稿: pinoko | 2011年8月28日 (日) 05時34分

「自分自身のものの見方を相対化できていない…」。ここに気づくことはやっと出発点に立つことですね。当事者や他分野の方がかかわっているDIPExだからこそ議論が深まることを期待しながら、会議に行ってきます^^!

投稿: 瀬戸山陽子 | 2011年8月28日 (日) 07時01分

瀬戸山さんに教えていただいてこちらのブログを拝見しました。こちらのブログはDIPExとは関係のない方も読まれると思うので、誤解を招かないように補足させてください。

臨床研究指針に準じて研究計画を作り、同意書を作っていく過程で、これまでになく神経質になり、萎縮していくような感じを持ったのは、【医療者ではない】さくまという個人の感想にすぎません。ジェンダーの社会学という領域で、私がこれまで経験してきたインタビューとは全く違った倫理規範の中に置かれたことで、一種圧倒された感じがありました。

しかし、今回インタビューに関わった中の医療者の方がどのように感じられたか、その倫理指針に「唯々諾々」と従おうと思ったかどうかは、ご本人に確認したわけではないので、わかりませんよね? インタビューの踏み込みが足りないところがあったとして、それは臨床研究の倫理指針の問題とは全く別のところに、原因があったかもしれないので、今回の臨床研究の指針の問題を【医療者の問題】としてしまうことには違和感があります。

瀬戸山さんが書かれているように、DIPEx-Japanには社会学、心理学、看護学、医学、メディア、コミュニケーションなど実に多様な分野で活躍している人がいて、しかもその中には患者当事者もいる、ということで、医療者以外の人間も頻繁に自分の視点の相対化を迫られる場となっています。

生物医療系の倫理指針の影響というのは、ひょっとしたら保健医療領域の部外者である私が、その権威性に圧倒されただけのことかもしれませんが、それを広野さんとのディスカッションの中で見出すことができたのがとても大きな収穫だと思っています。どうもありがとうございました。

今は欧米の文献にあたって、保健医療領域における、インタビュー等の質的研究の倫理指針がどうなっているか調べています。

投稿: さくまりか | 2011年8月30日 (火) 10時55分

さくまさま

補足ありがとうございます。

倫理指針が原因かどうか、というのは
さくまさんとのディスカッションの結果
出てきたことですから、これが結論と
いうわけではない、という点は了解してます。
とりあえず現時点での知見ということで、
これからさらに理解を深めていけると
いいなあと思っています。
新しい情報が入りましたら、
また問題提起してください。
よろしくお願いします。

投稿: pinoko | 2011年8月30日 (火) 15時54分

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