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2011年9月17日 (土)

残酷な芝居

先週末は藤沢にある遊行寺というお寺へ
遊行寺かぶき「さんせう太夫」を観に行った。
案内が回って来たときには遊行寺にも、
かぶきにもいくらか興味を惹かれたが
寺まで駅から歩いて15分と聞いて
「このくそ暑いときに15分も歩くのは無理」
とだんまりを決め込むことにした。
そこへ「枯れ木が足りないから、駅からタクシーで参加しろ」
という要請が来たので、海を越えて賑わいに貢献することにしたのだ。

数日前までは涼しい日が続いていたが、
当日は再び夏がぶり返したような暑さ。
毎年参加している人に言わせると、これも例年通りで
駅からタクシーは正解である。
境内はいくらか涼しい風が吹いているが
芝居がおこなわれる本堂は扇風機もなく、
畳で足を延ばせる気ままさはあるものの
「3時間の芝居」という前口上に、いささかたじろぐ。

お寺の本堂でおこなわれる「かぶき」という触れ込みから
こちらは相当にアヴァンギャルドな形式を期待したが、
ふつうの劇場芝居と変わらず拍子抜けする。
話はほとんど鴎外の「山椒大夫」そのままに展開し
途中10分の休憩を挟んで、終わったときには
辺りはすっかり暗く、こちらはすっかり疲れていた。

それにしても中世という時代はなんて残酷な時代なんだろう。
もっとも近代だって残酷さが減っているわけではなく、
残酷さを隠すのがうまくなっただけだが、
中世の生々しい残酷さ目の当たりにすると、
なんだか自分の奥底を見せつけられるようで、
やっぱりちょっと目をそむけたくなる。

鴎外が、なぜ「山椒大夫」という題名そのままにリライトしたか
「安寿と厨子王」の物語からはその辺はなかなか理解しがたいが、

「さんせう太夫」が語る世界は、こうした下人の境遇である。

説経の中で語られる世界は、きわめて宗教性の強いものであった。
しかしそれは整然とした教義を説くようなものではなく、
救いや再生といった民衆の願いに直接うったえる、情念的な世界であった。
http://blog.hix05.com/blog/2006/12/post_48.html

というネット上の解説などを読むと、説経節というこれらの物語は
当時の下層の人たちの思いを掬い上げる役割を担っており
鴎外の物語が親子や姉弟の情に焦点を当てて、いささか説教くさいのは、
これもまた当時の時代の要請によるものだったのだろうと想像がつく。
中世の説経節は、下人たちの境遇ややり場のない感情を
代弁するものだったという点では、今でいうやくざ映画と
似たようなものだと考えればよいのかもしれない。

それにしても、寺の本堂を使って終盤に一瞬の
自然光と風を取り込むという演出は、
演出家冥利にはつきるのかもしれないが
それまでの3時間近くを風も通らない蒸し暑い暗い中で
延々と付き合わされる観客の立場はどうなっているのだろう。
中世の残酷さを身を持って味わうということでは
それなりのリアリティがあったというべきかもしれないが。

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