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2011年10月30日 (日)

縁と贈与を取り戻す大転換

#8000の研究班に相談記録をつけることの意味を
レポートにまとめて送る。
このレポートは今年度の報告書に載る予定である。

相談記録とは相談者の声を記録するものであり
それは相談者ニーズをプロセスとして記録するものである。
現行の記録は、症状分類と結果分類にチェックを入れるように
なっているだけで、相談内容そのものは、
どこにも記録されるようになっていない。
レポートでは、電話相談とは個別の事例に意味がある
ことを丁寧に解説し、ついでに記録をつけることが
電話相談の質に関係していること、
電話相談業務そのものにも役立つこと、ひいては
相談員のモチベーションにも関わることを解説しておく。

さっそく、記録用紙の具体的なサンプルと記録の仕方が
知りたいというフィードバックがある。
こういう反応があることは嬉しいことでもあり、
ただちに記録用紙のサンプルと記録の実例を作成する。
でも、すぐには送らないで、しばらく寝かせることにする。
寝かせるのは、これにどのような解説をつけるべきかを
考えるためだが、サンプルがあれば理解できる、
と思ってしまう思考の単純さに
ちょっと反発を感じているからでもある。

そもそも電話相談の目的を「受診抑制」という風に
医療提供側のニーズの解決、と設定したところからして、
まったく電話相談が理解できていないのだけれど、
実施する側にはそういう自覚はないだろう。

「相談する」という言葉の意味を考えてみれば
相談とは、相談する側にニーズがあり、
それを解決するために相談者がおこなうもの
であることは、容易にわかるはずだ。
こんな基本的なことを理解してもらうために、
研究班なんてところで国費を使ってもいいのだろうか。
なんかムダ金を使っている感じがするけど。
でも、人間は間違える動物だと思えばいいのか。

中沢新一さんの『日本の大転換』は、これに似た
原子力利用についての、さまざまな間違いというか
勘違いを、原子力利用と一神教の関係から指摘している。

これまでの私たちの生活は、太陽エネルギーを
化学エネルギーに変換することで恩恵を受けていた。
太陽と多様な縁を結ぶことで成り立っていたのである。
太陽エネルギーは太陽からの贈与と考えられてきた。
多神教の成り立ちは、そのことと重なっている。

原子力エネルギーは、太陽の中で生じている
核融合を取り出して利用する点で、
これまでの太陽エネルギー利用とは原理的に異なる
と中沢さんは言う。
これは、私たちの生態圏の外部にあるものを、
生態圏内部に取り込もうとしたものであり、
本来生態圏内での処理能力を越えていたのだが、
そういう自覚は、特に日本人には、乏しかった。
というのは、日本人の意識の底には、なんだかんだ言っても
多神教による文化が色濃く残っているのに
古臭いという意識が働くせいか、どこかでそれを打ち消し、
そのような観点から考えてみるということなしに
新しい物事や考えに飛びついてしまったからである。

生態圏という縁や交差(贈与)で成り立っているところへ
それらと異質なものを取り込んだという点で、
それは一神教の成り立ちと重なる、と中沢さんは指摘する。
一神教が掲げる絶対的な超越神は、モーゼが聞いたように
「これまでのどのような神とも異なる、世界そのものを創造した」
ものだったからである。
生態圏そのものを創造した神、を考え出してしまうあたりは
抽象思考の面目躍如ではあるのだが。

科学や経済における資本主義が、
一神教を背景に出現してきたことを考えると、
原子力と一神教という、このアナロジーは分かりやすく、
こういう観点から原子力について考えてみる必要は
大いにあると納得がいく。
その意味で、体裁は薄い本だが中身は濃い。

資本主義や商品交換が縁や交差を切り離して
成り立っていると言われてもピンとこない感じがするのは
自分が日本文化(多神教)にどっぷりつかっていて
ホントはないのに、あると感じとってしまうからかもしれないが、
金融資本主義とか、専門分化する科学技術分野などを見れば
このような抽象思考は、あらゆるところに根を張り巡らせていると分かる。
受診を抑制するのに、相談者の相談プロセスに関心を持たない医療、
臓器移植を生み出した医療も根っこは共通だろう。

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2011年10月25日 (火)

私たちを動かす集団力学

シャンカール・ヴェンダムという人の『隠れた脳』という本を読む。
著者は科学ジャーナリストというだけあって、
文章が読みやすく、久々にあっという間に読み終えてしまった。
サブコピーに「好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学」
とあるように、隠れた脳とは、無意識のことである。
ただし、ここで扱われているのは個人の無意識ではなく、集合的無意識。
それがどのように働いているかが、
さまざまな実際の事例とともに、現象学的に明らかにされていく。

明らかになるのは、主に他者とのつながりに関係する無意識である。
たとえば客の注文を繰り返すウエイトレスの方が、
そうでない者よりチップが多いのは、
その方がいいサービスを受けたと客が無意識に感じるからである。
客が送る無意識のシグナルに、ウエイトレスが無意識のシグナルで
応えており、それに客は安心するのである。
もちろん、ここで言われているのは、
おうむ返しをマニュアル化すればいいということではない。

ドリンクコーナーの棚に貼る写真を花ではなく、人の目に変えると
タダ飲みが減る、というのも面白い実験である。
私たちがすべてを意識的に決断できているのであれば、
写真が花でも人の目でも行動は変わらないはずだが、
人の目が張られていると行動が変わってしまうのはなぜか。

しばしば政治家が失言、暴言を吐くのも無意識の働きによる。
当の本人が意識的に判断しているのなら、
損得を考えれば言わない方が得に決まっていることを言うはずはない。

自分の意見を言うように指示されると、頭の中では意識的な脳と
隠れた脳が対峙して議論を始めるが、勝つのは常に意識的な脳である。
意識的な脳がパイロットだとすれば、
隠れた脳はオートパイロット(自動操縦)機能であり、
パイロットは常にオートパイロットより優先する。
でも、パイロットが注意を払っていないと、
オートパイロットが機能してしまうのだ。
とっさの時に本音が現れる。
暴言を吐いた政治家を「緊張感に欠ける」と評するのは当たりである。
その人の行動と意図が相反する状況では
無意識のバイアス(偏り)がはたらいている、と見るとよい。

やっかいなのは、人種や性別に対する偏見のような無意識は、
こどもの頃から周囲の状況を取り込む形で意識されずに
取り込まれ積み重ねられているから、誰もがそれを当たり前に思っており、
なかなか偏見はと気づかれない。
もちろん新聞やテレビなどのマスコミなども、
自分たちの無意識には気づかない。
さらには老人になると、脳をコントロールする力が減退するために
より偏見をあらわにしがちになる。
高齢者が暴言を吐くことが多いのは、
積み重ねとコントロール不足の両方が関係しているのだ。

人が所属する集団に引っ張られる無意識のバイアスについては
9.11での逃避行動から説明されている。
9.11では、各個人が自分の判断に拠ったのではなく、
とっさにどの集団に自分を所属させたか、で生死が分かれたのである。
さまざまな証拠が、逃げるにしても留まるにしても、その決断は
”集団の決断(マス・ディシジョン)”だったことを示しているという。
集団の決断は何かにつけて私たちに信号を送っている。
そこでは個人の細かな事情
(誰が何をして、誰が何を感じ、誰が何を考えているのか)は、ノイズなのだ   
と著者は書いている。

そうだとすれば、大津波の時に岩手で言われている
「津波てんでんこ(それぞれが自分で逃げろ)」は、
かなり難しい行動基準なのかもしれない。

なぜ集団の決断に従おうとするか。
それが進化的に有利だったからである。
人は追い詰められると大勢の幸福より私欲に走ると、私たちは考える。
このステレオタイプもまた、私たちは合理的な生物で、
自己保存を最優先するという前提から生まれたものだ。
ところが現実には、人間は自分を傷つけ、全体の生存可能性を
減らしてでも、お互いを助け合うことがある。
その生得的な傾向は、今でも脈々と受け継がれて
随所で行動に影響を与えていると考えた方がいい、
というのが著者の言いたいことだろう。

しかし今の時代、集団でいる安心感を優先すると
個人が危険にさらされるケースが以前より増えた。
それは現代の危険があまりにも複雑で、
いったい何が起こっているのか、誰にもわからない場合が多いからだ。
だから、集団は誰も気づかないうちに
個人の自主性を奪ってしまうことがある。
自主性は不安を引き起こすが、災害に巻き込まれた状況では
不安こそが正しい反応なのだ、と著者は言う。
これは災害を想定しなくても、理解しやすい話ではないだろうか。

集団に所属することの安心感は、テロリスト集団やカルト宗教集団
に所属する人の行動という、反対の角度からも説明されている。
これらの人たちの行動は、たいていの場合信仰や政治的な大義のためと
説明されることが多いが、もっと子細に見れば、
所属する小さな集団の心理に影響を受けた結果だろう
というのが著者の見解である。

小さな集団の力学。

ここでは第二次大戦の日本軍の特攻隊も例に上がっているが
あさま山荘における連合赤軍、オウム真理教など、
すぐに連想できる例は多いだろう。

自分より大きいものの一部になりたい、自分が特別な存在だと思いたい
その存続と安定が、自分の命より大切な集団の一部になりたい
という衝動が、人を突き動かしているのである。
誰もがロックスターになりたいのだ、という表現は言い得て妙である。

人はだれでも(日本人だけじゃないのね!とちょっと安心)、
集団に引っ張られる傾向があり、
自主的に決断しているつもりでも案外怪しいものである。
何かを決断するときには、ひと呼吸おいて
そうじゃない決断をなぜしなかったのか、と考えてみるのもいいかもしれない。

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2011年10月18日 (火)

不確実な害より確実な害を選ぶ厚労大臣の不思議

ポリオの不活化ワクチン導入で、ちょっとした騒ぎになっている。

そもそもはポリオの生ワクチンで感染者が出たことから
一部の小児科医が個人輸入で不活化ワクチンの接種を
始めたのがきっかけである。
50年前は生ワクチンによってポリオの流行を阻止できたが
その後生ワクチンによるポリオの発症も起きた。
小児科医の多くは毎回「ポリオになりませんように」と
祈るような気持ちで生ワクチンを接種してきたそうである。
にもかかわらず、国はなかなか不活化ワクチンの導入をおこなわなかった。
で、神奈川県が不活化ワクチンの導入に踏み切ったのだ。

以下はNHKニュースのコピーである
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111018/t10013345871000.html
神奈川県 ポリオワクチン輸入へ
10月18日 17時4分

手足がまひするなどの後遺症が出る、ポリオを予防するワクチンについて、
神奈川県は、海外で使われている、安全性の高いとされるワクチンを
独自に輸入し、国に先立って希望者に接種することを決めました。
ポリオのワクチンは、7歳までに2回接種することが法律で定められていますが、
現在、国内では毒性を弱めたウイルスを含む「生(なま)ワクチン」が
使われているため、ごくまれにポリオに感染することがあり、
保護者の間で接種を控える動きが広がっています。
このため厚生労働省は、来年度の末には、毒性を完全になくし、
より安全性が高いとされる「不活化ワクチン」に切り替える計画です。
しかし、神奈川県は、「国の対応は遅すぎる」として、
「不活化ワクチン」を国外から独自に輸入し、国に先立って希望者に
接種することを決めました。18日開かれた市町村への説明会の中で、
県の担当者は、「不活化ワクチン」は県立病院の医師が
個人輸入する形をとり、できるだけ早く、県の保健福祉事務所で
週1回程度、予約した希望者に接種することを伝えました。
その一方で、まだ国内で承認されていないため、
副作用が出ても公的な補償は受けられないことや、
1回当たり5000円から6000円程度を保護者に
負担してもらうことなどを説明しました。
独自に不活化ワクチンの導入を決めたことについて、
黒岩知事は「国がやらないので、緊急避難的に県が不活化ワクチン
という選択肢を設けた」と述べました。
これについて、小宮山厚生労働大臣は、18日の閣議後の記者会見で、
「不活化ワクチンの導入は、生ワクチンの予防接種を控える動きを助長し、
ポリオの免疫を持たない人が増加するおそれがある」と指摘したうえで、
「県が主導して、日本ではまだ承認されていない不活化ワクチンの
接種を進めると、健康被害が生じた際に公的な補償が行われず、
望ましくない」と、神奈川県の対応を批判しました。
厚生労働省は来年度の末には不活化ワクチンを導入する計画で、
それまでは生ワクチンを接種するよう、自治体を通じて呼びかけています。

コピーここまで

不可解なのは厚労大臣のコメントである。
海外で多く使われている不活化ワクチンの健康被害は
今の所報告されていない。
一方で生ワクチンによるポリオの発症は100万人に1.4人である。
この確率は一見非常に小さいように見えるが、
当たった人にとっては100%である。
そのことが分かっているのに、補償がおこなわれないから
不活化を勧めないというのは論理が転倒している。
速やかに不活化の補償を法制化すればいいだけのことである。
それができないなら、
「すみません、お金がないので被害が出ても補償ができません。
でも、健康被害が出ないワクチンを打つことは制限しません。
免疫をつけることを優先したいので、どちらのワクチンを
選択してもいいですから、ワクチンはとにかく打ってください」
と言えばいいのである。

ここでは
健康被害の報告がないのと健康被害が生じているものとでは
(世界の大勢はすでに不活化ワクチンを導入し、被害が出ていない)
健康被害が生じるものを選択する、という論理が採用されている。
何を言っているんだろうか。
自分たちの役割がまるで分かっていないとしか言いようがない。
「放射能つけちゃうぞ」大臣より、よほど質が悪い。

小児科医の中には、
確率が小さい、ポリオの流行を阻止する効率が高い
という理由で生ワクの接種を推進している人も結構いる。
中国でポリオが流行している以上、効率よく免疫をつけるには
生ワクじゃないとダメ、というもっともらしい理由にまじって
法律で補償されなければ自分の身も危うい、という本音も聞こえてくる。
流行が阻止できれば、ひとりやふたりの健康被害は
やむを得ないということらしい。
病気だけ見て人間を見ないと、こういう発想になるのだろう。
個々の人間を大事にできない時代遅れのお医者さんは
速やかに表舞台から退席していただくしかない。

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2011年10月 4日 (火)

責任と権限

大阪の#8000の相談員向けに
スキルアップ研修をしてほしいとの依頼を受ける。
どこの#8000も、医師か看護師が相談員であれば、
電話相談の研修はゼロで構わないと考えているようだが
診療と電話相談では発想が180度異なるから、
本当は普通よりもきっちりと研修をする必要がある。
でも#8000の場合、相談を受ける側には
そういう認識は皆無だから、もう盲蛇に怖じずである。
まあ、そういう仕事の仕方もないわけではないが、
こういうのは民間ではまず無理だろう。
税金と保険料で賄われている業務ならではである。

大阪は、担当の小児科医の先生にさんざん電話相談についての
レクチャーをしたこともあって、とりあえず電話相談について
先生なりに咀嚼した研修はおこなわれているようである。
といっても、先生自身に電話相談の経験がないから
教科書で学んだことや経験者から聞いたことを
そのまま伝える、というレベルで留まってしまっている。
仕事の肝心な部分は暗黙知に存在するから
暗黙知の支えがない形式知は、どうしても薄っぺらである。

昨年度の研究班の研究で、相談の録音CDを聞いて分かったことは
電話に出る看護師さんが、責任と権限をきちんと理解できていないことである。
電話相談では、かけ手が選択し、責任を取るのだと説明すると
受け手である自分たちは、判断を回避していいと理解してしまう。
「受診の要不要以外の相談は、自分たちの範疇じゃないから」
などと平気で言ってしまうのである。
これは最初に、#8000の目的を「受診のトリアージ」
というところに置いたからで、必ずしも彼女たちのせいではないのだが
とはいえ、日頃から教わったことと実際とが違ったときに
自分の判断で物事を進める、という習慣がないために
言われたことしかしない、できない、ということもあるように思う。

一方権限という点では、指示・指導する権利を権限だと思っている節がある。
そのために自分がかぶる可能性のあるリスクを回避しようとして、
どうしても「受診しろ」とか「ああしろ、こうしろ」という話が多くなる。
自分の権限においてリスクを相手と共有するということは苦手である。
この背景には、病気のこどもは知っていても、
健康なこどもについては、よく知らない、ということがあるのではないか。
#8000は病気の相談だから、病気のこどもさえ知っていればできる、
と考えているのだろうが、病気というのは言ってみれば
ルビンのツボみたいなもので、2人の人の顔という背景(健康)があって
初めて見えてくるものだと理解していないと、受診が増えるだけである。

この辺りを研修で触れなければならないなあと思いつつ
大阪から相談の受付票を取り寄せてみて分かったことがある。
データの取り方が病気や症状に偏っていることは、
まあ#8000の成り立ちからしてしかたがないとしても
実際の相談を記録する欄がないのは実に示唆的である。
これは、もちろん実際の相談内容には価値がない、と
思われているからだが、電話相談では「聴く」ことが重要
と言いつつ、聴いた内容を記録する必要を感じていない
というのは、どう考えたらいいだろうか。
電話相談の理解の不充分さもさることながら、
一般人の言うことには関心がないと考えればよいだろうか。
しかし相談内容を記録することは、相談員が自分の相談の質を
把握するだけでなく、実際の医療のあり方を検証するためにも役立つ。
まさか記録に残るとヤバイからってわけではないでしょう。
#8000ではセンター化構想が浮上しているが、
誰もそこで何をしたらいいかわかっていない状態である。
(なんだか建物だけ作リ続けてきた公共事業みたいだ)

私は、一般人の病気や医療に対するさまざまな声を
集積するセンターにしたらよいと思う。
そうした集積こそが、まさにこれからの医療にとって必要だからである。

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