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2011年11月30日 (水)

電話相談における2つの視点

#8000の記録用紙サンプルを作成し、解説をつけ、
ついでに10月に大阪でおこなったスキルアップ研修
についての報告書も書き上げて送信する。

大阪でのスキルアップ研修では、
昨年行った相談録音の聴取による評価結果を
裏づける結果が得られて、なかなか面白かった。
決められたことを行うのは得意だが、
そのときの相手の要求を自分なりに感じ取って応じるというのは
どうも看護職が苦手とすることみたいなのだ。
「感性」と「問題意識」という2つのワークをやってみて、
そのことがはっきり見えた。
これはひょっとすると、今の看護教育の問題なのかもしれない。
まずは自分についての振り返りを、どのようにおこなわせるか
つまりどう感性を発露させるか、が課題だろう。

記録用紙のサンプル作成は、至極簡単にできたのだが
これの必要性を解説するのに、ちょっと呻吟してしまった。
医療者(医師と看護師の多く)は、どうも電話相談を
「丁寧な対応」といったレベルでしか捉えていないような
感じがしてしかたがない。
それが患者ニーズから始まっているということに
まったく思いが至っていない印象があるのだ。
その部分を、どう伝えたらいいだろうかと
いろいろな方向へ考えをめぐらせていた。

たまたま医療崩壊と情報の非対称は関係があるのか
とネットで検索していて出会ったのが
三重大学大学院医学系研究科の木田博隆氏の論考だった。

木田氏は、『共済総合研究第57号』平成19年度助成研究
「今後の地域医療制度のあり方と地域住民との関連に関する分析
―医療供給体制の維持向上のために地域住民・マスコミに
求められる要件に関する考察―」
(http://www.nkri.or.jp/PDF/2010/sogo_57_kida.pdf)の中で、
医療を社会的共有資本と位置づけ、望ましい医療を考える条件のひとつとして
「情報の非対称性と医療における不確実性」に着目し、
3つの次元での情報の非対称性があると述べている。
これが、私の問題意識とどんぴしゃりだったのだ。
彼は情報の非対称について、次のように述べている

「医師と患者の間には医学・医療に対する情報量の圧倒的な差が存在する。
しかし、一方では医師の側には患者、家族からの情報は圧倒的に不足している。
加えて医師は患者に対して経験則(医学は経験科学であり、要素還元主義である)
からの情報提供はできても、現代医学では患者個人の個別性に関しては
十分といえるほどの情報も得ることはできないために多くを語れない。
つまり、3つの次元での情報の非対称が存在する。」

電話相談ではごく当たり前の、「自分の場合」について知りたい
という欲求は、医療の分野の電話相談でも、ごくふつうに入る。
ところが、ここに応えるということがどういうことなのか
どうも医療者にはまったく分かっていないらしいのだ。
個別の要求に対して一般論で応えて平然としているのである。
(このことはすでに20年前に論文で指摘しているのだが)
だから、相手の生活状況への聞き込みも不十分なら
「ちゃんと応えられるようにマニュアルが必要」
などということを平気で言い、作成してしまう。

医療者の多くは、
不要不急な受診は医療者と一般人の情報の非対称にある
と考えているのだろうが、むしろ非対称は、
現代医学における患者個人の個別性にあり、
ご多分に漏れず、ここでも生活者(患者)、
つまり医療の受け手の方が、そのことを敏感に感じ取っていて、
その結果が電話相談に入ってくるということなのである。
問題は自分たちの領域にあるのに、いかにも
「君たちが無知だから」と言わんばかりなのは
なんともおめでたいかぎりだが、
そういう部分に問題意識を持つことの必要性を
いくらか指摘できれば、20年の歳月も無駄ではないのかもしれない。

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2011年11月21日 (月)

『見知らぬ国の踊り』

今年の千葉県民芸術祭「現代バレエ合同公演」が終わった。
リハーサルから本番まで5時間余りの空き時間を
コントロールするのは、なかなか大変だったが
本番で足が攣りませんように、と祈ったおかげか
なんとか無事終了。

今回の舞台は、ひとつの作品に
おとなとこどもの両方が登場するというもので、
タイトルは『見知らぬ国の踊り』
大地に感謝して幸せを謳歌するどこかの国、の踊りである。
ある種の桃源郷を描いたものといってもいいかもしれない。

曲は坂本龍一の『ダンスリー』というアルバムから
2曲を先生が選び、編集。
このアルバムは、先生が手首の骨折で入院していたときに
私がお見舞いに持参したもので、入院中の退屈な時間に
先生の創作意欲をかきたてるのにいいかも、
と自分のお気に入りから選んだのである。
84歳の先生の創作意欲を喚起したと思うと、気分がいい。

先生が
「みんな年を取って、激しい踊りがだんだんできなくなってきたから
今回は楽なのにしたわよ」と言うように、
振り付け自体は覚えるのにさほど苦労しなかったが、
ところどころ筋力の衰えを痛感する部分もあり、課題が見える。

出演するこどもは4歳から中学生までと幅広い。
坂本龍一のアルバムらしく、拍子とメロディーが複雑に絡む
結構難しい曲にも関わらず、特訓のおかげか
みんな実に達者である。
おとなはどうしても数で振り付けを理解しようとするが
こどもはメロディーに自分を溶け込ませて
自然に体が動いている。

それでも先生の指導は容赦ない。
腕の伸ばし方、目線といった技術的なことだけでなく
「大地に感謝する踊りなのよ」と4歳の子にも言って聞かせる。
言われた本人は分かっても分からなくても、とにかく
「はい!」といいお返事である。

一緒に出ているだけで、雰囲気が和やかになってしまう
ところは、こどもの力に負うところが大きく
その意味では、大地だけでなくこどもにも感謝である。
しかし、年を取って難しいことがこなせなくなっても、
そうやって観客を楽しませる舞台を作り上げてしまうところは
振り付け師であり演出家でもある先生の腕によるところが大きい。
こういう分野には後継者というのはいないのかもしれない。

踊り終わって楽屋に戻ったら、小さい子たちがやってきて
「楽しかったあ !」
ほんとに楽しかったのである。
先生の「よくできました」も嬉しいけれど、
一緒に踊ったこどもからこう言われるのは、それ以上かもしれない。

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2011年11月15日 (火)

自堕落な人生

FC東京の応援団は、別名「自堕落倶楽部」。
第二の人生に突入したからには、できるだけ自堕落に人生を謳歌しよう
という気持ちを込めて命名された。
もっとも「自堕落」とわざわざ言わないといけないところに
なかなか自堕落になれない世代の真面目な悲哀が表れているともいえるが。

昨日はシネフィル・イマジカで『ジョー・ブラックをよろしく』を観る。
断片的には観たことはあるものの、ちゃんと最初から観るのは初めてである。
ブラピの映画は何本か観ているが、若いころの映画はほとんど観たことがなく
なので熱狂的なファンというわけでもない。
でも、最近の成熟したブラピはなかなか好ましいので
この感じがどこから来ているのかを知りたくて、
チャンスがあると遡って観ているのだ。
「若くてハンサム」から「円熟した」へとうまく年を経ている俳優の双璧は
ショーン・コネリーとブラピかもしれない。

この映画では、ほんとに美しいブラピ(ジョー)が観られる。
それが「死神」というところがこの映画のミソだろう。
誰もが恋をしてしまうほど美しいのが、死神の死神たるゆえんかもしれない。
うぶで軌道を外れた妙なおかしさと、何をするか分からない怖さとが
混在した複雑な役柄はブラピならでは、か。
選んだのがアンソニー・ホプキンス(ビル)だったのは、
死神がかれの娘に恋をしたからなのか、
それとも、偶然選んだ対象の娘(スーザン)に恋をしたので
かれの目の前に現れることにしたのか、そこははっきりしないが、
ともかく死神はその日が来るまで、ビルにぴったりと同行する。
それで事態がどんどん変わっていく。
会社同士の合併の話はなくなり、誕生日パーティの趣向にもビルは上の空である。
人間は、死が視野に入ってくると思考のしかたが変わる。
ジョブスがスタンフォード大学での講演で言っていたのもそういうことである。

ジョーはスーザンに恋をして離れがたくなり、
結局ビルを連れて去ったあと、スーザンのところに戻ってくる。
クレア・フォーラニ(スーザン)は、
死神(ブラピ)が恋するだけのことはある美しさである。
これを、死んだはずの青年がよみがえったとする解釈もあるらしいが
それだと話はあまりに非現実的のような気もする。
むしろ死神だからこそ戻ってきた、と考えるのが自然じゃないだろうか。
人は誰でも死神に恋をされており、
その恋は、死という形で必ず成就するということなのではないか。
ファンタスティックな美しい映画だが、なかなか内容の濃い映画でもある。
つくづく、ちゃんと通して観ることは大事だと思う。

通して観ると言えば
『インセプション』も先日やっと通して観て良さが分かった。
ちらちらと断片だけしか観ていなかったときには
荒唐無稽さだけがクローズアップされ、
そういうのをCGを見せられてもなあ、という思いが強かったが、
無意識を共有する話だと分かると、CGなしでは
この映画が成り立たなかったということがよく分かる。
無意識は常に脈絡がなく荒唐無稽だから
これを徹底的に描こうと思ったら、CGじゃなければ不可能だろう。
それを階層化して説明しようとするところは
いかにも西洋的だが、そうじゃないと
世界的には分かりにくいかもしれない。
日本人なら、無意識の一番底へ降りてしまったとしても
それはそれで充分生きるに値する、と考えるはずである。

この2本は、どちらもCSとBSで観た。
最近はこんな調子だから、もう地上波を見ることはほとんどない。
WOWOWは3チャンネルになり、
そのうちのひとつは映画ばかりやっているし
CSではしょっちゅう昔の映画やテレビドラマをやってくれる。

昔見逃した『グレイズ・アナトミー』だって、DVDをレンタルしなくても
ちゃんとシーズン1から観ることができるのだ!
おかげで、メレディスとデレクがどんな紆余曲折を辿ったか、
クリスティーナがどんな経験をしたのか、ちゃんと過去を知ることができる。
クリスティーナがメレディスのこどもの後見人になることの重さは、
こういう経過を知らないとなかなか分からないだろう。
もちろん、カレフやイジー、ジョージやベイリーのエピソードも、だ。

人生の価値は、過去の積み重ねが分からないと理解できないが
そのためには自堕落が必須条件なのかもしれず、
だから年を取ることが必要なのかもしれない。

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2011年11月12日 (土)

『家族の庭』

ふと思い立ってテアトル銀座へ『家族の庭』を観に行くことにする。
ついでに伊東屋に頼んでおいたカレンダーも取りに行くことに。
チケットはネット予約ができるようなので
PCでやってみたが、どうやっても座席が取れない。
うーむ、ブラウザのせいなのか?
しかたがないので「携帯からの予約」で取る。
PCだと座席指定ができるが、携帯予約ではブロックしか選べない。
テアトル銀座はそんなに大きな映画館ではなかったなあと思いつつ
あんまり前の方も、と思いながら後ろのブロックを選ぶ。
どの程度後ろかがちょっと不安だったが
実際には2階席くらいの高さで、画面がちょうど目の高さだった。
PCで席がとれなかったのはなぜ?と受付で聞いてみたら
ネット予約は25席だけ確保してあり、白くなっているのが空席なのだと。
ほかの映画館では、ふつうは埋まっている席が白くなっているが
映画館によって違うみたいだ。

映画は1年を四季に分けて描いている。
夫婦ともに仕事を持ち、安定した生活を築いているトムとジェリー。
この名前に何か意味があるのだろうか、とちょっと考える。
家庭菜園に精を出し仲睦まじく、幸せそうである。
そこに絡んでくる人間たちは、それぞれ悩みを抱えている。
離婚後、孤独から抜け出せないメアリーは
なんとか気を紛らわそうとやたらに喋りまくり、
車を買ったりもするが、どうも詰めが甘い。
人間、気持ちが安定していないときは失敗が多い
というのはよくあることだが、こういうところから
抜け出すのはなかなか難しいだろうなあと思わされる。
ケンも孤独を抱え、ひたすら食べること、飲むことに
専念しているような中年男だ。
メアリーに言い寄ったりするが、あっけなくはねつけられる。
孤独からは抜け出したいが、相手は誰でもいいというわけではないのだ。
メアリーはトムとジェリーの息子に色目を使ったりして
彼がガールフレンドを連れてくると露骨に嫉妬心を見せる。
この辺は実にありそうなことだと納得してしまうが、
およそ実現可能性がなさそうなことを夢見てしまうところは、
中年期の混乱をよく表しているといったらいいか。

「冬」にはトムの兄の連れ合いの死があり、
後に残された夫の孤独が描かれる。
こういう夫で妻は幸せだったのだろうか、という感じがしなくもない。
妻の死に打ちのめされているとはいえ、
明るくてまめなトムとは対照的な兄である。
映画は人生なかなかうまくいかないものだという苦さに満ちている。
しかし一番の苦さは、メアリーを通して、
人は自分の問題は自分で解決するしかない、
ということがビンビンと伝わってくるところだろう。
メアリーは、自分はひょっとしたらトムとジェリーの疑似家族だと
感じていたのかもしれないが、それはジェリーにはっきり拒絶される。
このあたりは心理カウンセラーであるジェリーならではだろうが
そういうものだよね、と思うか、家族ってもうちょっと拡大解釈が
できるものなんじゃ?と思うかは人によって違うかもしれない。
トムとジェリーには、もちろんメアリーを疎外している意識はないだろうが
幸せな生活とは、どこかで壁を作らないと保てないものだ
と言っているようでもある。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
この辺は私にもまだ結論が出せていない。
甘いのかもしれない。

映画館を出て、雨の中を歩いて伊東屋へ。
取り置いてもらったはずのカレンダーが用意できていない
というあたりに手際の悪さを感じるが、
「プレゼント用ですか」と確認してくれて、
それ用に念入りに包装をしてもらい、不手際は帳消しである。
隣のカフェの対応もほっくり暖かく、
映画の苦さが溶けていくのが感じられる。

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