« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月27日 (火)

心に残る不可解さ

たまたまチャンネルを回したBSスカパーでやっていた
『タクシデルミア~ある剥製師の遺言』
脚本はサンダンス映画祭でサンダンス・NHK賞を受賞。
しかし、 そのあまりの“規格外”の内容により、
NHKが日本でのTV放映権を手離し、出資を見送る異例の事態を生んだ
という山下真司さんの解説に惹かれて、怖いもの見たさで観ることにする。

親子三代の物語になっているが、人間の変化を辿る歴史のようでもある。
祖父(性欲)、父親(食欲)ときて、息子は剥製師(不死の象徴?)である。
祖父の欲望も父親のそれも半端じゃない。
この辺が規格外(R15指定)のゆえんなのだろう。
しかしそれゆえに祖父は頭を打ち抜かれ、父親は見ていても
気持ちが悪くなるような大食いアスリートである。
そのなれの果てである息子は、まるで生気がないが
(でも欲望がないわけじゃない)
それでも大食いしすぎてもはや動けない父親に、
せっせと食料を供給する優しさを持っている。
なんだかいつまでたっても自立できない草食系の
子世代を見ているようでもある。

岸田秀さんは、自我の不安が欲望を生むと言っていたが
最終的に自分の首と右腕を切断して、
剥製として生き残ろうとするのは、
まさに壊れた本能の代わりに発明された自我そのものである。
生き残ろうとしているのは生命ではなく自我なのだ。
この剥製技術は実現可能かどうかはともかくとして、
祖父、父親に劣らない息子の欲望の大きさを表している。
好きか嫌いか、いいか悪いかはともかく
強烈な印象を残す映画であることはたしかだ。

表現の仕方は対照的だが
『ポエトリー ~アグネスの詩~』も強く心に残る映画だ。

祖母と孫の物語であり
認知症が始まった老女の物語であり
少年や高齢者の性や
少女の自殺も絡む。

そんな中で、認知症が始まっていると言われた老女(祖母)は
詩を書きたいと思い講座に通い続ける。

詩とは、どうやって書けばいいのか。
詩の先生はリンゴを例に

見て
さわって
匂いをかいで
かじって
その本質をつかみ言葉にするのだと言う。

認知症が始まっている老女は、
途中で自分が何をしようとしたかも忘れてしまうほどだが
詩作への思いは消えない。
ひたすら何かを探しているような時間が続き
そして最後に老女が書いた詩は
孫によって自殺に追いやられた少女の思いを
つづったものだった。
孫を法の手に委ねるという身を削るような思いを経て
ようやく書けたのだともいえる。

『タクシデルミア』はハンガリー
『ポエトリー』は韓国の映画だが、
人間のどうしようもなさ、不可解さを
まっすぐ見つめているところは共通している。
こういう風に見つめることができるというのは
なにが違うのだろうと思ってしまう。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月23日 (金)

『ヒューゴの不思議な発明』

初めて3D映画を観に行く。
スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』

3D映画にはどうも食指が動かなかったのだが
一度くらいは見ておこうと思い、それにはこれがいいかもと思ったのだ。
でも、やっぱりダメだった。

ひとつには慣れの問題もあるのだろうが、
メガネから覗く映像がどうしても不自然なのだ。
上下の落差に関しては、臨場感があり
雪が上から下へ降る様子とか、予告編で
スパイダーマンが塔の上から飛び降りる場面なんて
とてもエキサイティングでほんとにドキドキする。
でも、前後の奥行きになると、どうもよくない。
自分が感じるのとは違う距離感で無理やり見せられている感じなのだ。

ふつうの2Dの映画では、私たちは自分の脳で修正しながら
それを3次元の物語に解釈し直して観ている。
その3次元の距離感は、おそらく個々がそれぞれに感じている
現実の距離感の延長にあるのだろう。
3D映画の場合、この距離感はどうもあらかじめ
誰もが同じに感じるように決められている感じがする。
だからそれが自分と合わないと、違和感を感じて
集中が削がれたり疲れたりしてしまうんじゃないだろうか。
なので、もっぱら普通の場面はメガネをはずして観た。
画像はぶれて見えるし、字幕なんか読めたもんじゃないが、
それでもメガネを通して観るより快適である。
特に最後にメリエスが舞台に立つところなどは、
メガネを通して観ると必要以上に奥行きがありすぎて
かえって現実感が削がれてしまうので外しっぱなしだった。

話の内容は世界初の職業映画監督といわれた
ジョルジョ・メリエスの話で、メリエスが映画を
手品と同じようなものと捉えてさまざまに創意工夫するのだが、
時代の流れの中で挫折して映画の世界から遠ざかってしまう。
それを、ヒューゴがメリエスの作った機械人形を修理し
引き戻すという話である。
「不思議な発明」という邦題(原題)は何かを意味して
いるのだろうが、脚本のせいか結局分からず
機械人形を手に入れた父親役のジュード・ロウは
すぐ死んでしまいちょこっとしか出てこない。
もっともだから父親はヒューゴにとって大きな存在なのだが
メリエスの話と父と息子の話の二兎を追いかけて
中途半端に終わった感じはする。

それにそもそもこれは駅の中のふつうの生活の話だし、
ほんとに3Dの必要があったかどうかも疑問だ。
プロデューサーにジョニー・デップの名前があったところを見ると
スコセッシもジョニデも、3Dのおとぎ話を
作ってみたかったってことなのか。

3次元の現実生活を2次元に落とし込んだ「映画」を
もう一度3Dという3次元に復元することの意味は、
どうもよく分からないが、これがSFチックな物語に
向いているだろうということは分かる。
つまり3Dが与える臨場感というのは、リアルな感覚というより
むしろ非現実感覚といったほうがよくて、
そういう新しい感覚を今、経験しているということかもしれない。
メリエスが映画を作っていたときも、きっとこんな風に思われていた
に違いない、とスコセッシは言いたかったのだろうか。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 9日 (金)

父を引き継ぐ

雨の中を川村美術館の企画展
『抽象と形態』:何処までも顕れないもの
を観に行く。

われながら、何もこの雨の中を行かなくたって、とも思うが
どこかの男子校の生徒たちも団体で来館しており
雨でも来る人はいるのである。
もっとも彼らは、たまたま今日が雨だっただけだけど。
しかし、わざわざ雨の中を行って、実は大正解だったのである。
佐倉のあのあたりは杉の木が多く、美術館の周辺の杉も
花粉を含んだ花の盛りで枝が重たそうである。
これが晴れの日だったら、ひどい目にあっただろうと思うと
単なる偶然とはいえ、自分の読みの良さにガッツポーズだ。

展示もこれまたなかなかの充実ぶりだった。
解説は極力少なく、絵そのものを見せて
感じてもらうという試みのようで
現代作家の作品の間のところどころにぽつんぽつんと
モネの「睡蓮」やサム・フランシス、ヴォルスなどが展示され
理解を助けるようになっている。

モネが描いた水面は睡蓮があることで水面と分かるが
野沢二郎のそれは、どうも水たまりらしいと思えるだけである。
抽象のいいところは一切の説明がなく、鑑賞する側が
どう感じとるかで、どのようにでも解釈できるところだろう。

五木田智央は
「絵とはなにか?描けば描くほどわからなくなる。
永遠に辿り着けないかもしれない場所へ向かい歩く。
笑いながら歩く」と書いているが、
今回展示されている白と黒の絵は
怪しさに満ちていて非常に印象的である。
これはグリザイユという手法だそうで、
もともとは着色前の下絵制作のための技法だそうだが
こんな黒があるんだ!と思うような
漆黒の闇の中に並んだ歯を見るのは楽しい。
エイリアンとの二人連れか?と思わせる絵には
「誘拐」というタイトルがつけられており、
これまたどこまでも怪しく事件性満載である。
そういえば出発点として展示されていた
ピカソの「シルヴェット」も、どこか怪しげではあった。

フランシス真悟の作品の傍には、私が好きなサム・フランシスの
「無題」がかかっており、同じ名前って、どういう偶然?と
思いつつベンチに置いてある図録を読んでみたら、
サム・フランシスの息子だということが分かった。
サム・フランシスは日本人と結婚していたのか!とちょっと驚く。
ネットによれば、2度目の結婚は日本人としており
http://allabout.co.jp/Ad/202187/1/product/202187_3.htm
出光興産の出光氏が生涯のスポンサーだったそうである。
まるで自然の木々のような彼の絵は、彼が植物学を
専攻したこととも関係あるのかもしれないが、
彼が感じとっていた自然の本質を
こちらも感じとっていたのだと思うと、なんだか妙に嬉しい。
息子の仕事は父親を髣髴とさせるが
父親は息子の仕事を見ることができたのだろうか。

そういえば、もうすぐ読み終わる「終身刑の死角」の著者
河合幹雄氏は河合準雄氏のご子息だそうである。
文章のうまさも、人間の掘り下げ方もお父さん譲りである。
息子がこんな風に自分の仕事を引き継いでくれるとしたら
父親にとっては本望なんじゃないだろうかと思ったりする。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 1日 (木)

虫の目、鳥の目

東京新聞を購読してみたいと思い、ためし読みを申し込む。

震災以降、いろいろなところでしばしば報道内容が
話題になっていたので興味を持っていたのだが、
現在購読中の新聞を替える決心がなかなかつかなかった。

購読紙のひとつだったM新聞との付き合いは長い。
あんまり長くていつごろから読み始めたか覚えていないくらいだが
外務省の機密漏えい事件がきっかけだったのは確かだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こういう新聞社は応援しようと思ったのである。

他紙に比べると視点が少し違う感じがあり
自分の感覚になじみやすかったことに加えて
マイナーというのも動機になった。
以来30年余り、A新聞、Y新聞の強力な勧誘をはねつけ、
会社を辞めてからはN経新聞をプラスしたものの
軸になるM新聞は変わることはなかった。

変えるきっかけに3.11の震災が影響していることは間違いない。
あまりに自分が何も知らなかったことにショックを受けたのだ。
知らなかったのは、もちろん自分の不勉強もあるのだが
情報源の選択が間違っていたのかも、という気持ちもあった。
しょせん、スポンサー(広告)頼みのメディアは、
スポンサーのご機嫌を損なわないような記事しか書けないという中で
東京新聞からスポンサーが広告を引き上げているという話も気になった。

やっぱり自分に必要な情報は、自腹を切って手に入れるしかない
という気持ちが強くなっていたということかもしれない。
(某国営放送の視聴料には、そういう気持ちはないけど)

で、1週間のためし読みである。

ひとことで言うと、地を這うような目線を持った新聞だと思った。
地を這うような目線というと、どうも読み手が好きそうな
生活雑感的記事と誤解される感じがあるが、
そうではなくて、世の中の複雑な事象を、
からくりから説き起こして、できるだけ分かりやすく書く
という姿勢である。
東京新聞は現在の軸を震災に置いており、
すべてをそこから展開させている姿勢には共感が持てた。
生活実感のような小さな物語と、
政治経済のような大きな物語とが、
分離してしまっている新聞が多いのである。

東京新聞ということで、近隣の県は扱いが小さいのでは
というのもちょっと心配だったが、紙面づくりでは
むしろ近県も同じ大きさで扱っている感じがした。
東京生まれの私は、ずっと東京の方を向いて生きてきたが、
今は東京より居住地の方になじんでしまっているのは不思議だ。
初日の日曜日の社説は、ですます体で、これには心底びっくりしてしまった。
ですます体の社説は生まれて初めてだったのである。
である体の文章は、端的で歯切れがいい反面、
どうしても大所高所からという感じがする(自分で書いていてなんだけど)。
もっともこれは翌日はふつうの文体になっており、
社の方針というより、書き手によるものであることが分かった。

M新聞とN経新聞のどちらを止めるかというのも悩んだ。
我が家は株をやっているわけではないし、若干の
経済の解説記事を除けば、N経新聞は夕刊だけあれば充分
というのが私の本音でもある。
(夕刊だけの配達があるかどうか問い合わせてみたが、なかった)
我が家の男どもも1紙で充分という意見なのだ。
でも東京新聞と対極にあるようなN経新聞を
今しばらく購読するのは、意味があるかもしれないとも思えた。
川下型と川上型から世の中を見てみようということである。
シャットアウトではなく、フェードアウトを意識しているのかもしれない。

長くお世話になった新聞販売所に2月一杯で
M新聞購読中止の連絡を入れた。
あんなに勧誘という外圧に抵抗しながら、
ここまで来たのにと思うと、妙に情緒的になった。
販売所がどういう風に新聞販売でお金を稼いでいるのかは知らないが、
同じ販売所が東京新聞も扱ってくれれば気持ちも安らぐのである。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »