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2012年5月 2日 (水)

『粗忽長屋』

BC東京と名づけた街歩きグループ内では、
再来週に予定している東京散歩のための
準備情報で賑わっている。
今回は浅草を起点として門前仲町まで歩く予定だが
世話人はすでに事前のルート確認をおこなっており
別のメンバーは打ち上げの店を確保してくれた。

前回の赤坂―麻布ルートは最初の休憩が早すぎて
終盤はヘロヘロになってしまったが、今回はめいめいで
昼食をとることになっており、行程時間も前回より短いから
そんなに歩き疲れるということはないだろう。

目下の私の課題は、当日昼メシをどこで食べるかということ。
当日は三社祭の真っ最中で、どこも大混みだろうと
想像し、ちょっとはずれたところで、いかにも
浅草らしい食べ物にありつきたいと考えているが
お目当ての場所が駅からどのくらいの距離のところなのか
地図を見ても、まるで見当がつかない。
なんだか昼食確保の予行演習が必要な気がしてきた!

情報交換の中で、落語に強いメンバーのひとりが、
落語の『粗忽長屋』を紹介していたので
You Tubeで談志の英語字幕付きを聴いてみる。
才人と言われる談志の英語向け解説は
若干うるさい感じもするが、落語の筋立てはなかなか面白い。
前にも聴いたことがあるような気がするが、
前とは、ちょっと違った感想を持った(ような気もする)。

この落語はふつうに聴くと、生きているのか死んでいるのか
熊公本人が、よく分からないというナンセンスなオチが面白い話
ということになるが、生きているのか、死んでいるのかということは、
ほんとは誰にも判然としない、という話だと解釈すると
俄然哲学的な内容になってくる。
「おまえは、本当に生きていると言えるか」という問いかけは
よく突きつけられることもある問いだが、
これに胸を張って応えられる人は、そんなに多くはないだろう。

「たしかに自分は死んでいるが、だとしたら
その自分を抱いている俺は、いったい誰なんだろう」
というオチも深遠である。
酔っぱらっていなくたって、自分が何者かなんて、
なかなか分からないものに違いない。
アイデンティティというのは実はそんなに確固としたものでもない
ということは、年を取ってくると分かってくるものでもある。

でもひょっとして、熊公はほんとに死んでいて、
その熊公を見ていたのは、熊公の霊だとしたらどうだろうか。
この物語は、八っつぁんという生者と熊公という死者が
対話をしている物語だとしたら。
落語は庶民の現実の生活を映しているものだろうが
だとしたら、具体的な生活だけでなく、そこに漂っている
死生観のようなものも反映されていると考えてもおかしくはないだろう。
そこではきっと、生者と死者は今よりずっと近い関係に
あったのではないかと想像する。

その辺のことは、この落語を紹介してくれた当人に
今度の東京散歩のときに訊いてみようと思う。
突飛すぎて却下、ということになるかもしれないけど(笑)。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

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