« ゲンスブールと掌劇場 | トップページ | 「自分という専門家」を活用する医療へ »

2012年7月 3日 (火)

家族会食

お正月には集まれなかったので、久しぶりの家族会食。
終わってしまったバースデイとこれからやってくるバースデイ祝いを兼ねる。
我が家では6月から7月に誕生日が集中しているのである。
今回は目下絶好調の娘の奢り。
娘の財布が心配だが、ご馳走になるのは初めてでもあり、ちょっと感慨深い。
場所は隅田川沿いにある『シエロイリオ』というカフェレストランで
雨に煙ったスカイツリーも見える。
http://www.cieloyrio.com/

芝居がやりたくて、しかしそれなら自立が必須と
親に厳命されている娘が試行錯誤の末、やっとたどり着いた仕事は
大手の建設会社から独立したアイデアマンの社長が立ち上げた
リノベーションの会社の営業職である。
小さな会社だが、口八丁の娘は営業成績もトップとかで生き生きしている。
演劇学校で学んだ、相手を感じながらコミュンケーションをおこなう
という演技の基本が、営業という仕事に生きていると思うと
まったく何が幸いするか分からないものである。

我が家は姉弟の年齢差が9歳あり、ほぼ一時代違う。
これだけ違うと価値観もハングリーさも相当異なり、
早く親から離れたがって、さっさと独立した娘に比べると
弟の方は要領がいいというか、親離れが悪いというか
まだまだ当分独立しそうにない。
しかし、どういう生き方がいいかということは一概には言えないだろう。
そのときの環境に合わせて生き方を選ぶのがいきものである。
確かなのは、親が余計な口出しさえしなければ
こどもは勝手に前へ進んで行くということだけである。

サングリアと賑やかなおしゃべりで家族を感じた翌日に
『少年は残酷な弓を射る』を観る。
重いテーマを巧みな映像感覚で表現した印象に残る映画である。
この映像処理の仕方が母親(エヴァ)の心の中を表している。

テーマは親子(母と息子)の関係の難しさだが、
観終わってみると、心の不可解さというものが伝わってくる。
こどもが生まれて初めて結ぶ最初の人間関係は、
母親とだから、こどもに何か影が落ちるとすれば、
それは母親と無関係ではありえないということは分かる。
たしかに、エヴァにとってケヴィン(息子)の妊娠は、
キャリアとの板挟みで疎ましいものではあったかもしれないし
そういう気持ちが息子に伝わらないはずはなく、
それが結末の悲劇をもたらしたと考えれば分かりやすいだろうが
それだけではこういう結末にはならないだろう、とも思える。

この映画のリアリティは、観客として観ている分には、
母に対する息子の気持ちは痛いほど伝わってくるのに
当の母親は最後になるまでそれに気づかないらしい、ということだ。
母親は息子以外のなにもかもを失ってみて、初めてそこに気づく(ようだ)が
それは父親も同じで、父親だって息子の心の中は最後まで分からないままだ。
(この父親のようなひとりよがりの理解というのも、また多い)
親として見れば、こどもの心の中は常に未知の領域だし
こどもとして見れば、こんな風に自分は理解されていなかった
ことを思い出させてくれる。
親はこどもを理解していないとは、なかなか自覚できないが、
こどもは、自分が理解されていないことを常に知っている。
そうやって観る側はどちらの側にも感情移入しつつ、
自分の心が閉じているか開いているかは、
実は自分でも分からないのだということに気づいていく。
ティルダ・スウィントンはそのあたりの閉ざされた心を表現するのがうまい。
エヴァは自分でも自分の心の中が見えていなかっただろう
ということがひしひしと伝わってくるのだ。

その彼女が旅行作家だったというところは皮肉と言えば皮肉である。
あのトマティーナ(トマト祭り)は自分の心を開放するものだったはずなのに。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

|

« ゲンスブールと掌劇場 | トップページ | 「自分という専門家」を活用する医療へ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/159267/55105983

この記事へのトラックバック一覧です: 家族会食:

« ゲンスブールと掌劇場 | トップページ | 「自分という専門家」を活用する医療へ »