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2012年8月27日 (月)

変異する医師たち

久しぶりに外来小児科学会の年次集会(第22回)に参加。
東日本での開催だったこともあるが、ワークショップのサブリーダーを
依頼されていたので、今回は半ば強制参加である。

初めて参加した頃(10年くらい前)は、タイトルに惹かれて
面白そうな発表と思って聴きに行っても、どこかピントがずれた感じが否めず、
そのうち、こういうずれは仕方ないのかもと思うようになり、
だんだん真剣に向き合わなくなっていった。
私を引き入れてくださった先生は、新しい風を吹き込みたいと
思っておられたのだと思うが、周りはその新しい風を
まだ異物だとしか認識しておらず、ムラ社会に紛れ込んだよそ者
という雰囲気が強かったように思う。
よそ者とムラの住人との距離は、それほど大きかったのである。

今回参加してみて、ムラの住人が次第に異物に近づきつつある
のかもしれない、という感じを持った。

自分がどちらかというと異物に近い発表ばかり選んで聞いていたからかもしれないが

「進化医学から見直すかぜ症候群の診療と子どものケア」
「「ここまで出来る」ワクチンを題材に外来小児科における研究を考える」
「新しい創傷治療」
「志を救われた泣き虫小児科医の話 -地域医療再生のヒントー」

などから伝わってくるのは、医療者(医師)自身が従来の診療のあり方や
周囲との関係を捉えなおし、新たな知見を獲得しようと(しながら)
格闘している姿である。

一般演題などの発表は予防接種関連が多く、それはポリオの不活化ワクチン
の導入といったこのご時世からも、当然だと思うが
「同時接種はまったく問題ありません」という結論を連呼する前に
予防接種のリスクというのは患者側の立場に立った場合、どう考えればよいか、とか
子育て支援というのは何をもって支援というのか、とか
「コメディカル」としての結束の前に、クリニックのスタッフ同士はどう協働するのか
というようなことを議論する場があったらいいのに、と思った。

医療者側から「安全」を連呼しても、万が一のリスクをこうむるのは患者なわけで
補償さえすれば問題ないだろうと考えるのは医療側の独りよがり、というだけでなく
患者に対する配慮が欠けている姿を伝えてしまうことになりかねない。
どうすれば患者に納得してもらえるのか、と苦闘している姿、
患者のことを思いやった具体的な方法(それが最新の医学だったりする!)
を編み出し伝えてこそ、医療といえるのではないだろうか。

学会で、いろいろな患者会のアピールが見られるようになってきたのは、
嬉しいことだし、ずいぶんな進歩だと思うが、
残念ながらそういう光景はまだ背景に留まったままである。
患者と医療者がもっと膝を突き合わせてディスカッションしてもよいのではないか。
患者のことを考えるのを一部の奇特な医療者に任せてしまうのではなく
全体が変身していくためのしかけがあってもいいのではと思いつつ、
進化は一部の医療者(それも医師)の突然変異によってしかを
起きないのかもしれない、と思わされた学会だった。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


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2012年8月12日 (日)

オリンピック~成長の証し

少し前に、映画を観たら記録をつけようと決めた。
年を取ってだんだん忘れっぽくなり、観たはずの映画の題名と内容が
怪しくなってきたので、観たという刻印のためにも
外部記憶に頼ることにしたのである。
でもこれが全然実行できない。
一応入力形式は作成したのだが、文章化という作業が面倒なのである。
我ながらまったく意志薄弱である。
こうやって日々は無為に流れていくのだと思うと少し腹立たしい。

『ダークナイト・ライジング』は、全然自分の趣味じゃない映画だったが
BC東京映画班で話題になったので観に行った。
コミックが原作だから、荒唐無稽なところはあるにしても
それなりに面白くできていて、極太タイヤの二輪車なんか超カッコいい。
まあ最近はCGで何でもできてしまうから、派手なドンパチの迫力とか
上を下への大展開にはそんなに驚かないが、
あらあ、あの子は彼女だったの?という筋書きは意外性があってよかった。
アメリカの銃社会の裏には、深い怨念のようなものがあるのだろうなと思う。

ギンレイで観た『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』は
アカデミー賞にノミネートされたときから観たかったのだが、
例によって見逃したので、ギンレイにかかったのをさいわいお盆休み前に観に行った。
ケネディの時代にも南部ではまだあんな人種差別があったのだ
というところがちょっと驚きだが、それはこちらが実態を知らなかっただけなのだろう。
人が人を差別する、というのは人種に限ったことではなく、どこにでもある。
黒人には白人のトイレを使わせない、といったような差別的な扱いは
たとえば血縁かそうでないか、といったような場合でもよくあるし
いじめの問題などにも通底している。
人は仲間を作りたがり、それは仲間以外を排斥することで成立する。
差別することによって、同族間の絆は強まるから
「絆」を強めることは必ずしもプラスにばかり働くわけではないのだ。
身内意識が強固ということは、それだけ差別意識も強固ということだが
見えない半面については当の本人たちはほとんど自覚していない、
というのが厄介なところでもある。
この辺は『ダークナイト・・・』にも通じることだろう。

こういう観点からオリンピックの報道を見ると
やはり大陸(イギリスも大陸の内として)は人種のるつぼだ、ということがよく分かる。
各地からやってくる選手たちの人種が多様なのは当たり前だが
運営している役員やスタッフも実に多様である。
こんな風に見た目もさまざまな人が、あちこちで公式な仕事をする
というのは日本では考えられないだろう。
ここまで来るのには、きっと多くの異文化コミュニケーションが
乗り越えられてきたに違いないと思うと、
商業主義のオリンピックもちょっと感慨深く見てしまう。

女子サッカーの3位決定戦のレフェリーは、明らかに東洋系だったが
国籍はスウェーデンで、この人が韓国生まれの北欧育ちと聞いて、
そういう人がオリンピックで笛を吹くまでになったというところに、
差別という時代の問題をかぎ分け、リスクを冒して
著書をものにした『ヘルプ・・・』の主人公(スキーター)が重なり、
サッカーの試合にもちょっと別の意味を感じてしまった。

ちなみに、この試合はフランスの猛攻撃をしのいでしのいで
最後のロスタイムに1点をもぎ取ったカナダが銅メダルを獲得した。
こういうところがサッカーの面白いところでもある。

体操の中国のように、勝つためにひたすら技を磨き、
足が伸びているとか、両足が揃っているといった美しさなどは気にも止めずに
勝利にまい進する、というのもひとつの考え方だし、
内村航平君のように、美しさを追求する(その結果の金メダル!)のも立派である。
観る側から言えば、オリンピックの見ごたえは勝敗ではなく、
そこで世界レベルの素晴らしい技を見せてもらえるところにある。
観客は、素晴らしい技という成果の後ろに、そこへ辿り着くまでの
長い道のりと、ひたむきな努力を感じとる。
そういう意味では、オリンピックは成長の証しを観る機会なのである。

今回の男子サッカーは「化けた」と評されたが、
なでしこの大儀見が昨年のワールドカップから見せてくれたような成長を
次回は宇佐美にも見せてもらいたいと考えているのは私だけではないだろう。

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