« 2013年9月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年10月28日 (月)

なりすまし

ふと思い立ちルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』と
アンソニー・ミンゲラの『リプリー』をTSUTAYAで借りてきて観る。
『太陽が・・』(1960年公開)はすでに見たつもりでいたが
アラン・ドロン(リプリー)がモーリス・ロネ(ディッキー)を刺す場面は
全く記憶になく、今回初めて観たような衝撃を受けた。

人間はさまざまな感情が蓄積されて行動化に至るが、
何がきっかけになるかは誰にも分からない。
論理はもともと後づけだから、説明はあとからならいくらでも可能だが
「今だ!」という瞬間的な判断はむしろ野人のもので
だから監督にはアラン・ドロンが必要だったのだろう。
町山さんによればルネ・クレマンはホモだったそうだが
アラン・ドロンの美しさの中に垣間見える野卑を見抜いたのはさすがである。
ただ、この作品は時代のせいもあってリプリーとディッキーの
ホモセクシュアルな関係はかすかに匂う程度だ。
ここに焦点を当てた淀川さんはさすがだった。

一方1999年公開のアンソニー・ミンゲラ監督による『リプリー』は、
同じ時代を描きながらも、もう少しリプリーの内面を丁寧に描いている。
マット・デイモン演じるリプリーは自分の中にある暗黒を意識し、
かつそれを制御できないことを悩んでいる(ように見える)。
アラン・ドロンが自分の内面を意識しているようには見えず
自分の感情に衝動的に忠実に振る舞ったように見えるのに対し
マット・デイモンのリプリーは、場当たり的とはいえある意味賢く、
自分に対する洞察力もあり、ジュード・ロウ演じるディッキーに対する
ホモセクシュアルな感情も充分意識しながら、
それらとうまく折り合いがつけられなかったために結末に至る。

どちらも生きるということは計算できるようでいてできない、
ということをそれぞれ違う視点から見せてくれる傑作である。

そして面白いのは、どちらも偽装される側より
偽装する側の方を魅力的に描いていることだ。

アラン・ドロンは金持ちのディッキーよりはるかに見栄えがよくスマートである。
若い時のモーリス・ロネも悪くはないが、金持ちらしい魅力はあまりなく
なんとなくふやけた感じさえする。
もっともこれは今観るからそう思うだけかもしれない。
ジュード・ロウはマット・デイモンよりはるかに美しく洗練されていて、
いかにも金持ちのぼんぼんらしさを漂わせて魅力的だが、賢さでは負ける。
成り上がりたいという欲求がない分、空虚なのである。
最後の方で彼も結構問題を孕んでいたことが明かされるが
誰でも見かけと内実は違うものだと言いたげである。

そうだとしたらなりすますことの問題はどこにあるのだろうか。
道徳的な問題は別にして。

たとえば阪急阪神ホテルの偽装。
リッツ・カールトン大阪も系列だとは知らなかった。
リッツ・カールトンのオープンは業界ではちょっとした騒ぎだった。
もちろん騒ぎ自体が偽装だった可能性もあるが
顧客満足度第一、という謳い文句はオープン当時、まだ目新しかったのだ。
そのホテルが、このざまである。

飛びっこをレッドキャビアと称したとか、
ネギの産地をごまかしたとか
安い海老を使ったとか。

安いコストでもそれなりに価値を高める技術があれば
それは一種の商才といえるんじゃないか、と商売に疎い人間は考える。
ミシュランだって見抜けなかったそうじゃないか。
そんなもん一般大衆が見抜けるわけがない。
もちろんミシュランの格付けに権威があるといいたいわけではない。
偽装に共同体を作られたら太刀打ちできないと言いたいだけだ。
出す方だって見抜けるわけがない、と確信しているからやったのだ。
で、お客はその時点ではなんておいしい!とか、さすがカールトンとか思い、
ありがたがって高い対価を払ったのだ。
これのどこが問題なんだろう。
契約違反だというなら、
「レッドキャビアって何の卵なの?」とか
「パナメイ海老のような味がするけど、ほんとに芝エビ?」
とか聞いてみればよかったんじゃないだろうか。
騙される側が、騙されたいから騙されたのである。

なりすましは最終的にばれるのが必然かもしれないが
リプリーにはディッキーへの憧れや自分に対する制御できなさという
止むにやまれぬ切実さがあった。
リッツ・カールトン大阪も、なりすまそうとここまでがんばってきたが
ついにバレてしまったということなのかもしれない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月 1日 (火)

『そして父になる』

是枝裕和監督の映画は、
日本映画にありがちな妙に湿っぽいところがない。
これが世界に通用する大きな要素だろう。
もちろんそれは情緒を描いていないということではなく
描き方が湿っぽくないということだ。

『誰も知らない』が衝撃だったのは、
”私たちは何も知らない”ことを突きつけられたからだが
母親(YOUが好演)が”解散!”という感じで
あっけらかんと出ていってしまい、そして
それが残されたこどもたちの生きる力に
なったのかもしれない、とも思わされたからでもある。
湿っぽくても乾いていても身勝手は身勝手なのだが
正面からそれと向き合えれば、乗り越えることは可能、
と言われたような気がしたのである。

カンヌ国際映画祭で審査員賞に輝いた
『そして父になる』
http://soshitechichininaru.gaga.ne.jp/
で身勝手なのは父(良多)である。

もっとも身勝手とはちょっと違うかもしれない。
独りよがりといった方がいいだろう。
良多は会社では、おそらくそうやって業績を上げてきた。
会社は階層組織だから、それが可能なのだが
だから家族にもそれが通用する
と思ってしまうところは、ごく当たり前の男である。
彼の父親も離婚・再婚しており、良多はそれを受け容れられなかった。
それは彼が成長してからのことだったからだ。
だから父の独りよがりを単なる手本にしてしまったのかもしれない。

でも最初からまっさらな環境に投げ込まれれば
こどもは血のつながりとは関係なく
大人の身勝手や独りよがりになんとか適応していくものなのだ。
新しい部署に異動した良多が、人工的に作られた林を歩きながら
よそから飛んでくるのではなく、ここで生まれて脱皮する
ようになるには15年かかるというセミの話を複雑な表情で聴くのは、
血の方が大事という自分の思い込みが
正しいと証明されるまで15年もかかるのか、という想いと
自分の適応を難しくした15年の両方に思いを馳せているからだろう。

一方でさまざまなエピソードによって
慶多の優しさや琉晴の強さは血かもしれないとほのめかされる。
適応の底に流れている素質は決して無視できないが
親にとってそれはギフト(僥倖)なのである。

後半、病院での取り違えが単なるミスではなく
他人の幸福を羨んだ担当看護師の仕業だったと明かされる。
取り違えられた方はいい迷惑だが、病院のシステムではなく
人が他人の幸福を羨んだゆえの行動とすることで
話の焦点がボケずに済んだ。

子どもと動物にはかなわないと言われるが
慶多と琉晴だけでなく琉晴の弟のやまとなどは、
まるでリリー・フランキーの本当の子どもみたいに
伸び伸びとリアルである。
福山君もリリーも独身というのが監督の狙いなのだろうが
是枝監督、恐るべし。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年9月 | トップページ | 2013年12月 »