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2014年3月21日 (金)

ベビーシッターという相互援助活動

シングルマザーの息子が、ネットを通じて依頼したベビーシッターのせいで
死亡したした事件は、いろいろなことを考えさせる。

http://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/baby-sitter-net_b_4997919.html?&ncid=tweetlnkushpmg00000067

論調の多くは今のところ、ベビーシッターを必要とする側のニーズに対応できる
多様性が受ける側になかった、ということを問題にしているようだ。

ネットというシステムが身近であればあるほど、その危険性も熟知されている
と考えがちだが、便利とリスクは案外セットでは考えられていないのかもしれない。
見も知らない人をどこまで信頼するか、ということはたしかに問題としてあるが
誰かも指摘していたように、会ったこともない人に財産を預け、
会ったこともない人からモノを買い、会ったこともない人と
メールのやり取りや議論をするというのは
私たちの社会では、もはやデフォルトである。
そこでは規模の大きさとか社会的に認知された資格とかが
信頼の裏付けにされているように見えるが、
人はウソをつく、という誰でも知っているはずの事実は案外忘れられている。
つまりリスクを踏まえた上で、リスクのもたらすマイナスより
プラスの方が大きいからよしとする、というような合理的な判断は
案外一般的じゃないということなのだろう。

たとえば店での買い物とネットでの買い物では、
明らかに判断基準が異なることは、誰でも経験するが
それは自分というものが多面的だからだ。
でも多くの人はまだそのことに慣れていないから、
しばしば判断を間違えて後から考えると信じられないようなものを
買ったりだまされたりする。
ネット社会によって、そうした多面性に向き合えるようになったのは
ネット社会がもたらした恩恵といってもいいのかもしれない。

だから、このシングルマザーが便利さのあまり判断を間違えたとしても
それを責めるのは筋違で、ただただ不運だったというしかない。

東京の杉並区かどこかの区議は、
こどもを預けること自体が問題というようなことをブログに書いていた。
人の価値観はさまざまだから、この区議が何を書くのも自由だが
政治に携わっている割には人の生活実態を知らな過ぎるという意味では
この人は顔を洗って出直したほうがいいだろう。
人は大昔から自分のこどもを他人にゆだねながら生きてきたのであって
そんな人間の営みも知らないまま政治にかかわっているとしたら
彼に政治家の資質はないし、税金を払う方こそいい迷惑である。

ニーズという観点からいえば、シングルマザーの増加の兆しは
電話相談では30年以上前から感知していたし、シングルマザーが増えれば
ベビーシッターニーズがどう多様化するかも予測できたはずである。
社員の非正規化には働くニーズの多様化を理由として挙げるのなら
どの分野でもニーズが多様化していくことは感知されていただろう。
要するに他人事だから見ないふりをしていただけのことなのだ。

私が上の娘を保育園に入れるまでの間(70年末から80年にかけて)も
ベビーシッター探しは大変だった。
まだベビーシッターがビジネスとしては確立されていなかった時代だったから
自分で動いて手立てを探すしかなかった。
よくあることだが身内も役には立たなかった。
世代間で価値観が異なったから無視されたのである。
無認可のベビールームというのは当時もあって、
それは駅の近くで便利そうだったが、
ビルの上の方では保育環境としては疑問だったし
近所の個人のお宅は、預かるリスクの方を重視して
こちらの切実さには応えてもらえなかった。
(何かあった時に近隣ではいられなくなるという懸念が先立ったのだ)
行政の提供してくれる保育ママさんは適性など審査しないから
必ずしも相性がいいわけもなく、最終的に
歩いて行けるがちょっと離れたところの、若い既婚女性に
預けることができたのはラッキーだったとしかいいようがない。
彼女にとっては自分のこどもを持つまでの予行練習、
私にとっては初めてのこどもを預ける予行練習ができた。
費用は完全に持ち出しだったが、それでもしたい仕事だったから
経済的なマイナスには納得していた。

この事件をネットというマッチングシステムの問題と考える人も
いるようだが、そこでは預ける側と預かる側の適切なマッチングとは
どういうものか、という視点は抜け落ちているように思う。
金さえ払えばなんでも商売になるいう風潮は、それなりに
ドライで心地よいけれども、こどもという生き物がかかわる仕事では
金銭的なメリットだけでない何かを考えていく必要もあるのではないだろうか。
なぜなら、こどもは「今」だけを生きているわけではなく、
未来へ続いていく希望のようなものでもあるからだ。
その意味で、この事件では資格とかレベルとは別の
預かる側の問題というのが気になる。
もちろんそれは男性という性とは関係がない。

こどもを金になるモノのように考えていて、それを誰も制御
できなかった(親は向いていないのではと言っていたらしい)
という意味では、障碍を売り物にして音楽家を騙っていた人との
類似性を感じてしまうのだ。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


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