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2015年3月24日 (火)

『アメリカン・スナイパー』のサイコパス・インサイド

「サイコパス・インサイド」は2つの点で
衝撃的、かつ興奮を掻き立てられる面白さ満載の本だ。

ひとつは「サイコパス」とは何かが理解できるという意味で。

もうひとつは、そのことが量的、統計的な分析からではなく
個別の、いわば質的な深層分析によって明らかになる点で。

著者のジェームズ・ファロンは成功した神経科学者で
幸せな家族にも恵まれている。
その彼が、「サイコパス」という反社会的なヒトの脳を分析していく中で
彼自身の脳画像が「サイコパス」そのものであることを知っていく。
その過程はまるで推理小説のようにミステリアスである。

「サイコパス」は精神医学的には診断名として確立しているわけではなく、
「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DMS)の中の
反社会性パーソナリティ障害、すなわち

「15歳以降に起こる他人の諸権利の無視ないし侵害の広範なパターンで
以下の7つの基準

①社会的規範への不適合
②無責任さ
③人をだます
④他人の幸福への無関心
⑤無鉄砲・無頓着
⑥計画がたてられない
⑦易怒性、攻撃性

のうち3基準(以上)を満たしている」

の一種とされ、医師や研究者はそれぞれ異なった定義を持っていて
いまだ決着がついていないのが問題なのだと著者は言う。

私たちは「サイコパス」という呼び名に、何か自分たちにはない異質で
極悪なものを感じて自分には関係ないと敬遠しがちだが、
彼らの脳が脳画像的にはいくらか特徴的だったとしても、
それらの持ち主が反社会的になるかどうかは、
彼らがどんな環境を生きてきたかによる、という、
ある意味当たり前の事実が、著者の分析、自己省察を通じて明らかにされていく。
「サイコパス」的要素は、人類が生き延びるために役立ってさえきたのだ!

イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』は
好戦、厭戦両方の評価を受けて大評判でとか。
たしかにどちらにも取られそうな作りではある。
私は自分が厭戦的だと自覚しているから、この映画もその観点から解釈したが
それにしては主人公のクリスの壊れ方はいかにも中途半端だと感じた。
確かに戦場から戻った彼は何か制御できない力と闘ってはいるのだが
戦闘自体をある意味プラスに評価しているようでもあり、
戦闘が原因で彼が壊れた(ほとんどの若者がそうだったにも関わらず)
と結論づけるには、やや無理があるように思われた。
イーストウッド監督にしては矛先が鈍くない?というのが
鑑賞後の率直な感想だったが、84歳の彼が失敗した、とは思えなかった。
彼が伝えたかったことを、こちらはまだちゃんと受け取れていないのだと思った。

巷の映画評はどうだろうかと、あるブログを覗いてみたら、
主人公のクリスが自著(原作)の中で

「イラク人は野蛮であり、標的になった者は悪であり、
罪悪感や自責の念を感じず、反乱分子を殺すのは面白くて射殺を楽しんだ。
唯一残念に思うのは、もっと殺せなかったことだ」(要約)
というようなことを書いていると分かった。

イーストウッド監督は戦争という人殺し行動によって、
ヒトが壊れること(実際クリスはそうした人物に殺される)と同時に
ちゃんとは壊れないヒトもいること、
そしてそういうヒトも我々の一員であることを
描きたかったのではないか、と考えたときに、
あの中途半端な居心地の悪さは一挙に氷解した。
クリスは壊れたのではなく、自分を支えてきたものとの葛藤
に決着をつけようとして、果たせなかったということだろう。

クリスは父親の教えを忠実に守って優秀な狙撃手になった。
しかし教えを守るには、それなりの素質も必要だ。
アメリカという国はきっとこれまで、サイコパス的要素を
プラスに評価してきたのだろう。
だからこそクリスのような人物も出現したのだ。

イーストウッド監督は、そのことを淡々と描いたのだ。

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2015年3月12日 (木)

標準医療の問題とは

前回書いたのがいつだったか、もう忘れてしまったくらい
長い間ブログとご無沙汰してしまった。
ツイッターでどんどん流れてくる話題を追いかけていると
流れをせき止めて考える機会を失いがちだ。

これはまずい、と思っていたら、
先日、何十年ぶりかでランチをした以前の同僚に
「更新しないのは具合が悪いのかと思った」と言われてしまった。

反省。

新富町の小さな和食の店で手の込んだランチをいただきながら
私だけでなく、彼女も病で手術をしたこと、
私より若い別の元同僚がやはり病で今年1月に亡くなったと知る。
彼女はホスピスまで見舞っていてくれていたのだとか。

亡くなった元同僚のように自分の死期を意識して
準備を怠らずに死に臨んだ人もいれば、
BC東京のリーダーだったO君のように、
仲間内で一番長生きするだろうと思われていたのに
交通事故で、あっけなく死んでしまった人もいる。
私たちの年代になれば、明日があるのかどうかは
まったく予測不能だとはいえ、
どう備えればいいんだよーと、いささかショックである。

だからというわけではないけれど、
小児科医のMLに「標準医療」の問題が投げかけられたので
備忘録代わりに、それについて書いておこう。
投稿した先生には個人メールを送ったが、
もう少し考えを整理しておく必要を感じる。

「標準医療」の問題は2つある。

ひとつはエビデンスの質だ。

たとえば火傷や傷の湿潤治療のように
それまでの「標準医療」とはまったく正反対の内容にもかかわらず、
次第に理論と実際が明らかになり、
今や標準になろうとしている医療がある。

レビー小体認知症へのアリセプト投与なども
「標準医療」とされていたが、かえって悪化を招くことが分かってきた。
「標準」といってもそれはその時点での「科学的エビデンスの有無」ではなく
「それまでの習慣」によって定められている場合が多いということなのだろう。
時間や時代に応じて研究が進み、新しい知見が得られて「標準」の内容が
見直されるのは喜ばしいことだが、
「標準」と名付ける基準については
もう少しシビアであってもいいような気もする。

もうひとつは
「標準」の適用可能範囲の問題だ。

患者ではなく症状だけを問題にすれば
「標準医療」とはどの症状にも適用できるものなのかもしれない。
でも、生活の中で生きている人(患者)を対象にすると、
医療内容はむしろ「標準」から逸脱することも多くなるのではないか。

たとえば、がん患者にどんな治療を行うかは
患者の意向を無視してはできない。
がんの種類だけでなく、患者の治療法に対する選択権も関わってくるからだ。
医療者がどんなに相手を無知だと思っても、
治療を拒否する患者に治療はできない。
医療者の究極の使命は、病気の治療ではなく
患者の人生のサポートだからだ。
そこでできることは、患者の意向を最大限尊重しながら
医師の裁量権を駆使して「標準」を個別化、カスタマイズすることだろう。

「標準」という言葉によって、患者の個別の事情が無視されるケースは、
私が携わってきた小児科の時間外電話相談だけでなく
ディペックス・ジャパンなどでの患者の語りでも数多く見られる。
患者の生活や死生観などの価値観を視野に入れると、
「標準医療」はひょっとしたら「標準」から大幅に外れるのが必然で
そうした逸脱を可能にする蛮勇(笑)が、
医師の裁量権というものなんじゃないかという気もするが、
患者とリスクを共有するのを避けたがる医療者の
性向が蛮勇の発揮を阻んでいるのかもしれない。

患者の個別性を医療者に理解してもらい、
医療を少しでも患者に即したものに変えていこうというのが
ディペックス・ジャパンでおこなっている
患者の語りの医療者教育への活用プロジェクトだ。
6月のシンポジウムでは何らかの成果が出せるだろう。
詳細が固まってきたら、またブログにも書くことにします。

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