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2015年5月19日 (火)

私たちは、どのくらいバカなのか

アメリカンミソジニーという言葉は内田樹さんの
「映画の構造分析」で知った。
アメリカ人は一見女性を大事にしているように
見えるのに、アメリカ映画はどうして女を「バカ」
としか描かないのだろうというのが
長年の疑問だったがこの本で納得した。

もっとも女性の数が圧倒的に少なかったことが根底にあるとはいえ
直感的には、もともと男には群れたがる習性があり
アメリカンミソジニーは、それを説明するために
考え出された後づけの理屈なんじゃないかとは思う。
なんで男は成人しても群れたがるのか、とか
男と女の群れ方はどこが違うのか、とか
今や興味はそっちへ移りつつある。

アメリカ映画の女嫌いについては
「ハリウッド映画の女性観」小林 憲夫著
─アメリカン・ミソジニーは克服されたか─
などという論考もありネットで読むことができる。
そこでは内田氏の論考は追認されているようだ。

日本の古い世代の男が女の力を認めたくないあまり、
自らを砂上の楼閣に祀り上げて相手を直視しないのと
アメリカのように、女性を固定観念の中に閉じ込めて
見ないようにするのとでは一見違うように見えるけど、
相手を見ないという点では共通している。
つまり対象を見るのが苦手なんだな、男って。
対象を見なくて済むから群れたがるってことなのか。

1996年制作の『ファーゴ』のマージは、
難なくコトの本質を見抜くほど賢いが、これは
賢いというより「見えてしまう」という女の特性かもしれない。
ここではマージは淡々と賢い女として描かれ、
バカなのは男の特権とばかりに
徹底的に男は嗤いのめされる。
でも
これは社会の表面にいるのが圧倒的に男だから
そうなるので、むしろ社会の大多数はバカ
という意味だと考えた方がいいのだろう。
(もちろん私自身も含めて)
マージはここでは妊婦でかつ警察署長という
2つの味わい深い特性を持った存在であり
そこはかとない女性性への賛歌も感じられる。
コーエン兄弟は、なかなかの策士だ。

最近では『ゴーン・ガール』の女性の描き方が面白かった。
エイミーは並みの女にはとても考えつかないような緻密さで、
不誠実な夫に復讐を試みる。
離婚しようという自分の内面は相手には気づかれていない、と
思い込んでいるのは、ノーテンキな当の夫(ベン・アフレックが好演)だけだ。
「結婚とはこういうものなのよ」というセリフが出てくるので
この映画は現代の結婚を描いていると見る向きもあるけど、
ここでは結婚は現代人間社会の力関係を表す隠喩だろう。
「自立は女性にとって不幸せ」(小林憲夫)という観念はいまや古臭くなり
女性は次第に男のだましの手口をも自分のものにして
相手をコントロールし始めているのだ。
相手を感じ取る能力が優れている分、裏をかくのもうまい。
こうした強い女の出現の背景に、
人工授精などの科学技術の発達があることは言うまでもない。
結婚と自立は矛盾する概念ではなくなりつつある。
ただ完璧なエイミーという幻想が重荷になったとすれば
女性にとっての重荷は、実は親なのかもしれないとも思わされる。
相手が視野に入りやすい分、それを消す(親からの自立)のは
実は女性にとって一番の難題なのかもしれない。

『真夜中のゆりかご』という北欧の映画でも、
そのことはほのめかされる。
死んだこどもに固執し、我を失うアナの重荷はどうも親らしい。
現実生活でのだましに男たちが奔走するのは
見えていることへの対処でしかない分底が浅いが
目に見えないものをどう克服するか、は
当人には敵の正体がつかめないだけに難しく深刻でもある。

そもそも自分のこどもが突然死したからといって、
ジャンキーのこどもと取り換えてうまくいくはずなどない
ことは普通に考えればわかる。
こどもは車輪の交換とは違うのだ。
こどもを死なせたことがばれるとやばいとばかりに
誘拐を偽装するジャンキーの男の浅知恵も同じだ。
誰でもショッキングなできごとに直面すると我を失う。
でもそれは日常では当たり前で特段珍しいわけではない。
だからコトの実像が見えてきたとき、
自分の間違いが突然理解でき自分を取り戻すことができる。

ここでは目の前の事実から目を逸らせて、それをやり過ごすことだけに
腐心する男の愚かさと、目を逸らせていても自分にだけは
忠実な女の愚かさが対比的に描かれている。
人間はなぜ自分が愚かなのか、
どう愚かなのか自分ではわからない。
それは男も女も同じだ。
警官だったアンドレアスは子に続いて妻も亡くし、
偽装によって自分のキャリアをも失うが、
その結末を引き受けることで
前に進んで行く力を手に入れる。

最近の北欧発のドラマからは
私たちとはなんなのだろう、私たちはどこへ向かっているのだろう、
という問いかけを受け取ることが多い。
私たちが、どのくらいバカなのかを自覚させられている。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


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2015年5月10日 (日)

#8000に欠けていること

小児救急電話相談(#8000)は2002年、
私が小児科開業医の時間外電話相談事業を立ち上げたのと、
ほぼ同時期にスタートし、瞬く間に47都道府県に導入された。
電話での「相談」ならいつも受けているから難しいことはない、
という誤解だけでなく、日本人特有の横並び意識も促進要因になった。

そこに欠けていたのは、医療者がおこなっている「相談」と
電話でおこなわれている「相談」は
ひょっとして違うかもしれない、という発想だった。

医療者(医師や看護師)が考える「相談」の多くは「質疑応答」を指し
内容は病気やけが、事故など医師の守備範囲に限定されている。
彼らにとっては通常の診療現場に持ち込まれる懸案事項に
答えを出すことが「相談を受ける」ことにほかならない。
だから専門知識さえあれば外来をこなしながらの片手間でも
電話相談は十分可能と考えたのが最初の誤算。

で、実際にやってみたら診療現場よりはるかに広範囲な内容が
入ってきてしまい、お手上げ状態になった。
さらに予想したほど重大な(医師でなければダメな)案件は入らない。
これが2番目の誤算。

多くの自治体が相談員を医師から看護師にスイッチしたのは
医師でなければダメというわけじゃない、という理由に加えて
医師には生活支援ができないことも分かったからだ。
もちろん、できる医師もいないわけではないが、
医師にできるのは何の病気か、治療法は何かという診断で、
(もちろんこれが極めて高度で重要なことであることは言うまでもない)
病気でもなく、じゃあ個々の生活に合わせてどう対処するのがいいか
というアドバイスとなると、おおむね不得手なのだ。
小児科医だからって実際に子育て経験があるわけじゃないし。

医療者は通常医療現場で「相談」を受けているから
相談案件は医療に関係あることにほぼ限定されている。
病院に、「どこへ行ったら金が借りられるか」なんて問い合わせは入らない。
かかった医療に払うお金をどう算段するか、という相談ならあるだろうが
そういう相談は医師ではなくソーシャルワーカーが受けることになっている。
つまり相談する側のニーズは医療関係にほぼ限定されている。

だから相手のニーズは何か、を探り、考える習慣がない。
これが3番目の誤算。
多くの#8000相談員が「子育て相談が多い」とがっかりするのは
相手のニーズに応えるのが相談員ではなく
相談員のニーズ(意気込み)を満足させてくれるのが
「相談」だと思っているからだ。

私も所属している「小児救急の社会的サポートを考える委員会」では
毎年#8000相談員の研修を行っているし、それとは別に
私自身が個別に大阪、北海道、福岡の#8000で研修をおこなって見えてきたのは
「#8000の目的は何か」と「なぜ#8000の相談員研修が必要か」が
実は医療者自身に正確に理解されていないという実態だった。

その原因は上記に述べたとおりだが、もうひとつ付け加えるなら
医療制度に囲われている集団(医療者)は、
制度の側からの要求に、何の疑問も持たずに
従ってしまう習性があるからだろう。

だから今回委員会で研修テキストを増刷するというので
上記の項目を付け加えてもらうよう要望し
原案を作成して委員会に提出したのでここにも掲載しておく。

私が「#8000の目的」を考えると以下のようになる。
厚労省のHPの内容を、もう少し厳密に分かりやすく、
現実に即した内容に書き換えると、こうなるはずである。

「#8000の目的は、相談者である保護者の求めに対し、
相談員である医療者が、電話における言語理解の限界を踏まえた上で、
聴き方や応答の技術を駆使して相談者の生活に合った結論を
見出していくことにあります」

「なぜ#8000の研修が必要なのか」もあるのだけど長くなるので省略。
機会があったらどこかに載せられるといいな。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

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