2016年3月29日 (火)

退屈な患者の話から学ぶことがあるとしたら

備忘録としてブログを書こうにも
時間の流れが早すぎるのかなかなかできないでいる。
ツイッターではつぶやいているのだから
手が動かないわけじゃない。
頭が働いていない(考える力が落ちている)、
としたらつらいものがあるけど・・・。

日曜日の午前中はディペックスの教育ミーティングだった。
バレエのレッスンを休んで出席する。

ディペックスでは患者のインタビュー映像を
医師や看護師などの医療関係者の教育に
役立たせたいと考えて
新たなプロジェクトを発足させている。
そのミーティングだ。

医療にとって患者の全体像を捉えることの重要性は
以前から言われてきた。
ディペックスでアップしているインタビュー映像は、
その目的で使われることも期待されているが
トピック別の映像だけでは、全体像の把握は
難しいのではという議論から
もう少し違ったものを作成しようということになった。
今は20分くらいの少し長いサンプル映像を編集作成し
各所で使ってもらって感想をフィードバックしてもらっている。

ほとんどの患者のインタビューは全体で2時間以上、
A4文字起こし原稿にして40枚以上はあるから
そこからどこを切り取り、編集するかを考えるのは大仕事である。

ミーティングは
学生には20分見続けるのは長すぎる、とか
できあいのドキュメンタリー映像と比べた時に
リアリティに欠ける感じがする、などという
現場サイドの意見から議論が始まった。
要するに授業に使うのに使い勝手が悪い、ということだ。

どんな仕事も時間が経つにしたがって目的やその本筋が忘れられ
枝葉ばかりが問題にされるようになるのはよく経験するところだ。
なぜ患者の全体像を捉えることが必要なのか
という当初の問題意識が薄まりつつあるのか、
それとも実はそこの合意自体が不十分だったのか。


ただ同様のことは、#8000の電話相談員研修でも見られる。

医師や看護師などの医療者は、電話相談を、
自分たちが患者を操作するための感じのよい会話法
という程度にしか考えていないところがあり、

何のために電話相談が生まれ、必要とされてきたか
とか
患者(一般人)は電話相談をどのように使いたいと思っているか

という視点は無視されがちで、うまく対応できないとしたら
技術や医学知識が不十分だから、と考えたがる。
(たしかにどちらもお粗末なレベルではあるのだが)


医療者は医学知識の獲得にはことのほか熱心だが、
患者(生活者)が何を望んでいるか、
について考える習慣がないまま、これまでやってきた。
医療の主役が患者ではなく医療者という意識が強かったからだろう。
だから「治療がすべて」とばかりに
自分の仕事だけに注意が向いてしまう。
ひょっとしたら患者は自分とは違うことを考えているかも、とは想像もしない。

そこが医療における問題は何か、という問いへの答えが
見出しにくい原因かもしれない。

昨日検討した事例は、あちこちの医療機関を受診したために
実際の診断がつくまで数年という時間がかかり
診断がついたときには末期の癌だった、という内容で
出てくる医療機関(医師)は患者の症状を
自分の専門に合致するかどうかという
視点からしか見ないという、ひどい医療のお手本のようなレベルだった。
私などはそのあまりのひどさに腹が立ち、
これは患者が賢くなるしか手はないと考えて、
そういう方向で映像を作成したらどうかと口走ったほどだ。

専門分化の弊害からやっと総合診療医が出現するまでになったが
ともすれば医療者は医学的な知識さえ身につければ完全になれると考える。
だから完全を目指すための勉強には熱心だ。
でもそこで目指されている「完全」とは何か、
ということははたしてどのくらい真剣に考えられているだろう。

別府先生が指摘するまでもなく、
医療者に必要なのは自分が「不完全」という自覚なのだが、
現実世界で完全を目指してきた人が
「不完全」な自分を受け入れるのは難しい。

患者を知れば知るほど、医療者は自分の不完全さに
直視せざるを得ないから、そうした側面から目を背けるために
知識の習得に専念してしまう、ということもあるだろう。

一方の患者は、病気になればいやでも、
自分の不完全さに直面せざるを得ない。
病識がない場合はともかく、たいていの場合は具合が悪くても
それがなぜなのか、自分の身体がどうなっているから
調子が悪いのか原因は特定できない。
そもそもある症状があったら、何科に行けばいいのかさえ
分からないのが我が国の医療制度なのだ。
だからなんとか納得いく答えが得られるまで
ドクターショッピングを重ねることになる。

でも、医学知識がないハンディをいやというほど感じながら、
知識だけでは自分という固有の問題は解決できないと
経験的に理解しているという意味では、
患者は医療者より一歩先んじているといえる。

人間はひとりひとりみんな違うし、
病気(患者)になればその様相は
健康な時とはさらに異なる多様性が増す。
医療者の仕事は本来多様で複雑なものだが
それを単純化してきたツケが今の医療の問題なのかもしれない。

そこのところをどうやって医療者と共有したらいいだろうか。


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2015年11月10日 (火)

『メディアとしての医療』

10月24日に東京工科大学でディペックス・ジャパンによる
第3回患者の語りの教育的活用ワークショップが開かれ、
問題提起をさせてもらう機会があった。

このワークショップは、ディペックス(http://www.dipex-j.org/)の
語りのデータベースを、どう医療に役立ててもらうか、
医療者と患者(一般人を含む)とで考えようというもので、
今回は医療者と患者のコミュニケーションがテーマになったため、
患者経験もある私にお鉢が回ってきたのだ。

一昨年、確かに人生初の大手術と長期入院という経験はあるけれど
長年電話相談というコミュニケーションの根幹を経験してきた者としては、
個人的な経験より、もう少し俯瞰的な話をしておくべきだと考えて、
『メディアとしての医療』と題して20分ほど話をした。

ここでいうメディアとは、一般的に理解されているような
テレビとか新聞・雑誌といった情報媒体のことではなく、
文字通りミディアム、つまり「中間体」のことである。

概要のパワーポイントはグーグルドライブにアップしたので
そちらで見ていただくことにして(うまくアップできているか不安)

https://drive.google.com/file/d/0BwH-kjjIMgqgNWUySEg0QlR6M1U/view?usp=sharing

以下にパワポに沿った概要を。

ミニメディアとしての電話相談

電話相談がマスメディアに対してミニメディアと言われるのは
マスメディアが多数を相手にした片方向の発信媒体であるのに対して、
電話を介した個人対個人の双方向コミュニケーションという
規模の小ささによるものだけれど、メディア(中間体)というからには
何かと何かを結びつけるものでもあるはずである。
それは何だろう、と考えてみると
相談事業を経済的に援助しているクライアント企業と仮定することができる。

生活者の声をどうクライアント企業に届けて企業活動に役立てるか
というところで電話相談はメディアとしての役割を果たしてきた。
ここで重要なのは電話のかけ手と受け手が対等であるように、
クライアント企業との企業同士の関係も対等であり、
経済的に援助をしてもらっているから、自分たちの意に反したこともやる、
という関係ではないということである。
生活者は自分の問題を発信し、電話相談はそれを受け止め、
企業はそういう生活者の声を聴いて、自分たちの活動方向を定める。
そうやって社会は形成されていく。
誰もが社会を形成する一員なのだ。

一方マスメディアもスポンサー企業に経済的に支えられている
という意味では同じ構造を持っているが、ともすれば経済的な優位性に
屈服しがちな例は、昨今よく見かけるところである。
不思議なのは、電話相談が利用者からお金を取らない(取れなかった)分
クライアント企業に対する経済的な依存度はより高く、だからこそ
対等な関係性を保つことが必至だったのに対し、
マスメディアの場合は購読者や視聴者からも料金を徴収しているにもかかわらず、
ともすればスポンサー企業(国も含む)に屈服して、
ともすれば彼らの意向に沿おうとする。
それは結局のところ、経済というより権力と一体化しやすい傾向が
彼らにあるからではないのか。

電話相談の相談傾向を社会の変化と対比させながら
俯瞰的に眺め、分析すると、情報化の進展に伴って
かけ手も変化していることが分かる。共通するのは
どの時代もどのテーマの相談も「自分にとって」という
個別性の追求がかけ手のテーマだったということ。

96年に発表した論文で興味深かったことは、医療者とマスメディアの
コミュニケーションの特徴が驚くほど似ていたことだった。
多数を相手にした片方向のマスメディアのコミュニケーションパターンが
ともすれば一方的になりがちなのは理解できなくもないが、
一対一の医療現場におけるコミュニケーションパターンが
同じ傾向を示すのはどういうことだろう。

医療にとっては実は個別性の追求が最大の難関で、
だから電話相談がその受け皿になってきたのだけれど、
そのせいで当初、電話相談は医療者から目の敵にされた。
それは、そうした個別性の追求が、自分たちの正当性
(科学的、普遍的な答こそが正当と考える傾向)を
否定しているように感じられたからだろう。
本当は科学的、普遍的な答えに対して懐疑を抱くことこそが
患者の声に耳を傾けるということであり
彼らの責務でもあったはずだが、そこには気づこうとしなかった。
それが今も変わらないことは#8000の研修をしていても分かる。

つまりマスメディア同様、医療者も権力と一体化しやすい傾向があるのだ。
医療者はそうやって自分の存在意義を確認してきたのかもしれないが
まずはそういう自分たちの傾向を自覚し、メディア(中間体)として
権力とは別物として独立し、自立することから始める必要があるのではないか。

概要ここまで。


先日のBPOの見解はこのことの別の角度からの指摘だろうし
http://www.bpo.gr.jp/wordpress/wp-content/themes/codex/pdf/kensyo/determination/2015/23/dec/0.pdf
是枝さんのブログもそれを補足していると思ったので
http://www.kore-eda.com/message/20151107.html
ここに載せてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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2015年5月10日 (日)

#8000に欠けていること

小児救急電話相談(#8000)は2002年、
私が小児科開業医の時間外電話相談事業を立ち上げたのと、
ほぼ同時期にスタートし、瞬く間に47都道府県に導入された。
電話での「相談」ならいつも受けているから難しいことはない、
という誤解だけでなく、日本人特有の横並び意識も促進要因になった。

そこに欠けていたのは、医療者がおこなっている「相談」と
電話でおこなわれている「相談」は
ひょっとして違うかもしれない、という発想だった。

医療者(医師や看護師)が考える「相談」の多くは「質疑応答」を指し
内容は病気やけが、事故など医師の守備範囲に限定されている。
彼らにとっては通常の診療現場に持ち込まれる懸案事項に
答えを出すことが「相談を受ける」ことにほかならない。
だから専門知識さえあれば外来をこなしながらの片手間でも
電話相談は十分可能と考えたのが最初の誤算。

で、実際にやってみたら診療現場よりはるかに広範囲な内容が
入ってきてしまい、お手上げ状態になった。
さらに予想したほど重大な(医師でなければダメな)案件は入らない。
これが2番目の誤算。

多くの自治体が相談員を医師から看護師にスイッチしたのは
医師でなければダメというわけじゃない、という理由に加えて
医師には生活支援ができないことも分かったからだ。
もちろん、できる医師もいないわけではないが、
医師にできるのは何の病気か、治療法は何かという診断で、
(もちろんこれが極めて高度で重要なことであることは言うまでもない)
病気でもなく、じゃあ個々の生活に合わせてどう対処するのがいいか
というアドバイスとなると、おおむね不得手なのだ。
小児科医だからって実際に子育て経験があるわけじゃないし。

医療者は通常医療現場で「相談」を受けているから
相談案件は医療に関係あることにほぼ限定されている。
病院に、「どこへ行ったら金が借りられるか」なんて問い合わせは入らない。
かかった医療に払うお金をどう算段するか、という相談ならあるだろうが
そういう相談は医師ではなくソーシャルワーカーが受けることになっている。
つまり相談する側のニーズは医療関係にほぼ限定されている。

だから相手のニーズは何か、を探り、考える習慣がない。
これが3番目の誤算。
多くの#8000相談員が「子育て相談が多い」とがっかりするのは
相手のニーズに応えるのが相談員ではなく
相談員のニーズ(意気込み)を満足させてくれるのが
「相談」だと思っているからだ。

私も所属している「小児救急の社会的サポートを考える委員会」では
毎年#8000相談員の研修を行っているし、それとは別に
私自身が個別に大阪、北海道、福岡の#8000で研修をおこなって見えてきたのは
「#8000の目的は何か」と「なぜ#8000の相談員研修が必要か」が
実は医療者自身に正確に理解されていないという実態だった。

その原因は上記に述べたとおりだが、もうひとつ付け加えるなら
医療制度に囲われている集団(医療者)は、
制度の側からの要求に、何の疑問も持たずに
従ってしまう習性があるからだろう。

だから今回委員会で研修テキストを増刷するというので
上記の項目を付け加えてもらうよう要望し
原案を作成して委員会に提出したのでここにも掲載しておく。

私が「#8000の目的」を考えると以下のようになる。
厚労省のHPの内容を、もう少し厳密に分かりやすく、
現実に即した内容に書き換えると、こうなるはずである。

「#8000の目的は、相談者である保護者の求めに対し、
相談員である医療者が、電話における言語理解の限界を踏まえた上で、
聴き方や応答の技術を駆使して相談者の生活に合った結論を
見出していくことにあります」

「なぜ#8000の研修が必要なのか」もあるのだけど長くなるので省略。
機会があったらどこかに載せられるといいな。

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2015年3月12日 (木)

標準医療の問題とは

前回書いたのがいつだったか、もう忘れてしまったくらい
長い間ブログとご無沙汰してしまった。
ツイッターでどんどん流れてくる話題を追いかけていると
流れをせき止めて考える機会を失いがちだ。

これはまずい、と思っていたら、
先日、何十年ぶりかでランチをした以前の同僚に
「更新しないのは具合が悪いのかと思った」と言われてしまった。

反省。

新富町の小さな和食の店で手の込んだランチをいただきながら
私だけでなく、彼女も病で手術をしたこと、
私より若い別の元同僚がやはり病で今年1月に亡くなったと知る。
彼女はホスピスまで見舞っていてくれていたのだとか。

亡くなった元同僚のように自分の死期を意識して
準備を怠らずに死に臨んだ人もいれば、
BC東京のリーダーだったO君のように、
仲間内で一番長生きするだろうと思われていたのに
交通事故で、あっけなく死んでしまった人もいる。
私たちの年代になれば、明日があるのかどうかは
まったく予測不能だとはいえ、
どう備えればいいんだよーと、いささかショックである。

だからというわけではないけれど、
小児科医のMLに「標準医療」の問題が投げかけられたので
備忘録代わりに、それについて書いておこう。
投稿した先生には個人メールを送ったが、
もう少し考えを整理しておく必要を感じる。

「標準医療」の問題は2つある。

ひとつはエビデンスの質だ。

たとえば火傷や傷の湿潤治療のように
それまでの「標準医療」とはまったく正反対の内容にもかかわらず、
次第に理論と実際が明らかになり、
今や標準になろうとしている医療がある。

レビー小体認知症へのアリセプト投与なども
「標準医療」とされていたが、かえって悪化を招くことが分かってきた。
「標準」といってもそれはその時点での「科学的エビデンスの有無」ではなく
「それまでの習慣」によって定められている場合が多いということなのだろう。
時間や時代に応じて研究が進み、新しい知見が得られて「標準」の内容が
見直されるのは喜ばしいことだが、
「標準」と名付ける基準については
もう少しシビアであってもいいような気もする。

もうひとつは
「標準」の適用可能範囲の問題だ。

患者ではなく症状だけを問題にすれば
「標準医療」とはどの症状にも適用できるものなのかもしれない。
でも、生活の中で生きている人(患者)を対象にすると、
医療内容はむしろ「標準」から逸脱することも多くなるのではないか。

たとえば、がん患者にどんな治療を行うかは
患者の意向を無視してはできない。
がんの種類だけでなく、患者の治療法に対する選択権も関わってくるからだ。
医療者がどんなに相手を無知だと思っても、
治療を拒否する患者に治療はできない。
医療者の究極の使命は、病気の治療ではなく
患者の人生のサポートだからだ。
そこでできることは、患者の意向を最大限尊重しながら
医師の裁量権を駆使して「標準」を個別化、カスタマイズすることだろう。

「標準」という言葉によって、患者の個別の事情が無視されるケースは、
私が携わってきた小児科の時間外電話相談だけでなく
ディペックス・ジャパンなどでの患者の語りでも数多く見られる。
患者の生活や死生観などの価値観を視野に入れると、
「標準医療」はひょっとしたら「標準」から大幅に外れるのが必然で
そうした逸脱を可能にする蛮勇(笑)が、
医師の裁量権というものなんじゃないかという気もするが、
患者とリスクを共有するのを避けたがる医療者の
性向が蛮勇の発揮を阻んでいるのかもしれない。

患者の個別性を医療者に理解してもらい、
医療を少しでも患者に即したものに変えていこうというのが
ディペックス・ジャパンでおこなっている
患者の語りの医療者教育への活用プロジェクトだ。
6月のシンポジウムでは何らかの成果が出せるだろう。
詳細が固まってきたら、またブログにも書くことにします。

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2014年2月28日 (金)

医療の民主化

ソチ五輪も終わり、日本は春に向かう三寒四温の日々。
ベランダのチューリップも開花準備万端である。
腰が怪しいこともあり、レッスンを休んで
ららぽーとシネマへ『大統領の執事の涙』を観に行く。
今年のアカデミー賞の発表も楽しみだが、
この映画は賞とは関係なくリストアップしておいたもの。

映画はホワイトハウスの歴代大統領のエピソードを織り交ぜながら
(品のいいロビン・ウイリアムス!品性の悪そうなジョン・キューザック!)
人種差別で虐げられてきた黒人が
長い道のりを経て人権を勝ち取っていくさまを
政治と絡めながらコンパクトに見せてくれる。
バネッサ・レッドグレーブ、ジェーン・フォンダ
という人権派も出演しているのが嬉しい。
2つの顔を持て、相手の心を察して振る舞え
なんて、まるで日本人の処世術みたいだが、
日本人がどこかアフリカ系黒人と通じるところが
あるように感じられるとすれば、日本人もまた
民主的であることをどこかで避けようとしてきた歴史が
あるからからかもしれない。
そういう処世訓を忠実に守って生きてきた父親と
民主主義は自分で勝ち取らなくては手に入らないと
考える息子の対比が物語の骨子になっている。
不器用そうなフォレスト・ウイテカーが、
いつかお盆をひっくり返すんじゃないかとハラハラしながら
さて日本人は、こんな風に権利に敏感に、貪欲に
生きてきただろうかと考えさせられる。

というのは

電話相談は相手(かけ手)の主体性を
最大限尊重するためのものだが
小児救急電話相談で相談員である医療者にとって
もっとも難しいのが、かけ手である一般人の主体性を
尊重するということだからだ。

健康小話というブログでは、これを
「医療の民主化」と表現している。
http://tommy.asablo.jp/blog/2013/11/28/7079612
電話相談はまさに医療の民主化をめざしているわけだが
相談と指導の区別がついていない医療者は、
なかなかそこが認識できない。

ブログによれば「医療の民主化」とは佐久総合病院の院長だった
故若月俊一先生が始めた運動だそうである。
若月院長は60年かけて佐久でこの運動を達成しようとした。
でも最後の記念講演で、2-3割しか達成できなかった
と述べたそうである。

その理由は

「医療の民主化は医療だけではできない。地域が民主化しなくては
医療は民主化できない」からだった。

若月院長を師と仰いでいた現NHK厚生文化事業団事業部
チーフプロデューサー川村雄次氏によれば

「医療の民主化とは、自分たちの問題を自分たち自身でとりあげ、
自分たち自身で解決の道を探れるようになること」である。

それはまさに電話相談がおこなってきたことである。
自分で問題を見出し、それを解決しようと自分から電話をし相談する。
自分の生活の中でどう解決できるかを探るためである。
ところが医療者は医療(機関)において
問題解決をしているのは自分、という自負が強いから、
つい電話でもそれが出てしまう。
問題解決の権利を相手に委譲してしまうと
自分の存在価値がなくなってしまうと思ってしまうのだろうか。
このあたりは黒人の権利を認めることは
自分たちの権利を侵害されることだと考えていた
白人の心理に似ているかもしれない。

ブログでは、「医療の民主化」には本当の意味での
”住民参加”が必要であり、それはシェリー・アーンスタインが
示した8段階の「参加のはしご」の最上段
「住民によるコントロール」つまり「住民主体」に
到達することだと説明されている。

そしてこの”住民参加”のはしごを上るために
医療には新しい定義が必要になる。

つまり

「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。
ただし治らない病気の時はその人がその人らしく最期まで生きられるように
寄り添い支えること」というものだ。
これは医療の目的について再考することでもある。
病気は治せても、その人らしさに寄り添うことまでは
手が回っていないのが今の医療だからだ。
電話相談はかけ手がその人らしく生きられるように
寄り添い支えるためのものでもあるのだ。

しか~し、どうやったら医療者にそこを理解してもらえるだろうか。
でも道のりは長いかもしれないがきっといつか達成できるだろう。
『大統領の執事~』でだってオバマは大統領になったのだし。

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2014年1月12日 (日)

模擬患者という偽装

今年初めてのディペックス定例会議。

利益相反、当事者性など侃侃諤諤の議論の中で
現在語りのデータベース作成作業に入っている
「がん検診」の報告会もテーマに。
タイトルをどうしようか。
私はインタビュアーの鷹田さんが自分の報告のタイトルにつけた
『何のための検診か』を大タイトルとし、副題に
ー大腸がん検診の語りから見えてくるものーとつけたらいいのでは
という意見だが、「何のための」という表現はがん検診に反対しているように
誤解される可能性があると反論が。

確かに巷を賑わしているがん検診の話題は
そっち方向もあるのかもしれないが
一般人の多くは案外何のために検診(健診もだけど)を受けるのか
ちゃんと考えていないものである。
たいていは越えるべき一種のハードルと捉えており、安心のために受ける。
だからそこで異状がなければ無事ハードルをクリヤーできたとホッとし、
異状があったときに慌てふためくというのが実状である。
まあ決まりだから、というのが実感だろう。

つまり検診の問題とは、何のために実施するのかを受ける側も実施する側も
意識しないまま習慣化してしまっているところにあるので、
それこそが芦田宏直先生が『努力する人間になってはいけない』で
指摘しているところの機能主義なのだけれど、
そのことはおそらく今回の語りの中にも出てきているはずなのだ。
だから運営委員の中村さんも指摘していたように、
「検診」というテーマは私たちの死生観を確認し、
捉えなおすところへつながっていく可能性があるのだ。
それをタイトルで表現できれば訴求力も増すということなのだけど
ただし、受け手はこのこと、つまり自分はどう生きるのか、とか
どう死ぬのかなんてことはふだんは意識していないから
これが不発で終わる可能性は大いにある。

そんなことを熱く議論していたら休憩時間に理科大薬学部教授の後藤さんから
OSCE(http://ja.wikipedia.org/wiki/OSCE)の会議に
参加できないかという打診が来た。
あいにくその日は小児救急のサポート委員会があり
だからチャリティボーリングも不参加なのだけど
面白そうな会議なので、次回はぜひお誘いくださるようお願いする。
薬剤師さんも模擬患者を使ったりして対応訓練をしているのだとか。
じゃないとネット販売に負けて職場を失いかねないということらしい。

うーむ、模擬患者かあ。

患者(相談者)を装って各相談機関に電話をかけた評価結果を
「小児保健研究」に投稿したのは1995年だった。
その後模擬患者を使ったコミュニケーション訓練プログラムが
医療者の対応訓練に導入され、
今では薬剤師もそれを使って研修をしているらしい。
実は#8000の研修にも模擬患者を使ったプログラムが導入されているが
これで電話相談ができるようになると考えているとしたら大きな誤解である。
このことは委員会でもいずれ指摘しようと思っているが、
臨床対話訓練というのは相手の切実さをどのくらい確実に捉えるかという訓練である。
だからどんな疑似プログラムも実際の臨床現場に勝るものはない。
切実さは100%は言語化できないし1回性の固有のものだからである。
だから電話相談であれば声のニュアンスや
やりとりの中でかもし出される雰囲気を感じとれるか、
対面なら、表情や態度と言語表現を総合してどう捉えられるか、という話になる。
ここで問われているのは相手を感じとる自分の感性なのだ。

模擬患者の最大の問題は、患者の側にこの切実さが希薄なことである。
もちろん過去の自分のリアルな経験をネタに切実さを再演することはできる。
しかし、ほとんどの場合は架空の想定を、もっともらしく辻褄が合うように構成しなおし
それをシナリオにして患者を演じているはずである。
それでも演じるのがプロの役者であれば、シナリオが架空でも
それなりの演技で相手の感性を喚起することは可能かもしれない。
しかし同業者である医療者が、一度も体験したこともない
患者という立場を装って演じる模擬患者というのは、ほとんど遊びに近い。

機能主義者がどこか物事をなめているように見えるのは
こういうことなんだろうと思う。

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2013年12月 3日 (火)

確信

今年の正月、突然のアクシデントでご迷惑をおかけした
クライアントへ、お詫びとしてシュトーレンを送ることにする。
これは毎年お歳暮として送っていたもので、
契約を終了した今は、もう送る必要はないのだが、
ずっと喜んでいただいていたので、最後のご挨拶として
お詫びの気持ちを込めて送ることにしたのである。

個別に送るより単価が驚くほど安いので
例年はまとまった数量が入っているパックをまとめ買いし、
自分で小分けにして宅急便で送っていたのだが、
今年は送り先が減ったので数量の少ないパックに変えたところ、
包装が省略された状態で来てしまい、ちょっと慌てた。
今まで少ないパックは買ったことがなかったので分からなかったのだ。
パックの数量によって個別包装されたりされなかったりする理由は不明なので、
単にメーカー側のコスト削減とタイミングが合っただけなのかもしれない。
なので、以前使った透明な包装紙が残っていたのを思い出し
今回はそれで包んで送ることにした。
透明な包装紙だと可愛らしい箱がそのまま見えるのもいい。

包装作業をしながらいろいろ思い出すことがあった。
初めてシュトーレンを送ったときは、すでに個別包装された物を
そのまま宅急便で送るのもなぜかちょっと気が引けて、
もう1枚何かで包んだほうがいいかもと透明な包装紙を購入したのだが
つるつる滑るこの紙で包むのはなかなか大変な作業で、
その頃からめまいや疲れもひどく、ちっともうまく包めない
ことにも腹が立ち、最後はやけくそになって
もう、どう思われてもいいや、と諦め
下手な包み方のまま発送してしまったこともあった。

メーカーがサービスで添付してくれる封筒に入ったカードを
どうやって同梱するかとか、カードに一筆書くかどうか
といった些細なことでも毎年試行錯誤していた。
カードは大きくて、しっかり包装された中には後から挿入できず、
だからといってカードを箱の上側に貼り付けると、
宅急便の宛先を裏に貼らねばならず
箱をひっくり返さなくてはならないのも違和感があった。

今から考えると、上手く包めなかったのも、いいアイデアが出なかったのも
疲れのせいか、あるいは腫瘍のせいで一時的に
認知がおかしかったのかもしれないと思うが、
最終的に箱の上面に一筆書いたカードを入れた封筒を貼り
透明な包装紙で包んで送るという形に
落ち着くまでの道のりといったら!

今年は箱にカードをじか付けし、透明な包装紙で包んでコンビニに持って行った。
親しい店員は「このまま送っていいの?!」と違和感たっぷりだったが
宛先を下側に貼る必要もなく、天地を逆さにしないように、
というシールも貼ってもらって無事発送できた。

そんな経過を思い出しながら確信を得たのは
人は決して他者の内心を理解できない、ということである。

こんな些細なことはほとんど誰にも話さないから
人がどのような苦労の末に、日常生活で何かを決め、結論を得ているかなんて
普通は誰にも分からないだろう。
まして自分にだって、あのときどうしてあんなにいろいろ考えても
すぐにいい結論に辿り着けず試行錯誤を繰り返したのか
なんて分からないのである(単にバカだっただけかもしれないが)

小児救急電話相談員の研修をやっていて、違和感があるのはここである。
彼らは他者の内心は努力すれば理解できるという前提に立っているから
言語を使えば理解可能だと考える。
早い話が、何でも言語化できると考えているのだ。
もちろん問題は「症状」だけを問題にしているからだが、
ここに模擬患者によるロールプレイの限界もある。
でも、これは研修する側にもまだちゃんと理解できていない。
そもそも対面のコミュニケーションだって
言語以外の情報収集に頼っているのに
そのことは意識化されていないから、電話ではこの問題はさらに見えなくなる。
これは論文には書いたけれど、どのくらい医療者に理解されただろうか。

来年の#8000北海道の研修で、どこから入ればいいか分かった。

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2013年5月17日 (金)

コントロール

橋下大阪市長の「従軍慰安婦は必要だった」発言。
注目を浴びるためだけにしてはリスクが大きすぎる内容だと思うが
それを超える効果を狙ったと考えるのもあまりに買い被りすぎだと思うので、
とりあえず、思わず本音が漏れてしまったと考えることにする。

今回の事件で、建前を述べ続けることの重要性
(述べ続けるうちにそれが本音になるから)
を指摘したつぶやきもあり、それもなかなか勉強になったが、
本音にこそその人自身が顕れているという事実は変わらない。

この発言は女性蔑視とか人権軽視という観点で語られているが、
男性が性的エネルギー(まあ、これも時代や文化の賜物ではあるが)
にいかに翻弄されているかを述べたものとして見ると
また違ったことが見えてくるようにも思う。
こんな風に性的エネルギーの処理に翻弄されるのだから
戦争はしちゃいけない、という風に橋下さんが結論づけていたら
(というか、ひょっとしてそう言いたい?と思った瞬間もあるが)
ちょっとは擁護してやったかも、と考えないでもない。

そもそも自分の性的エネルギーを他人に頼らずに
自分で処理できない(しようとしない)というところがなんとも情けない。
自分のことは自分でできるようになる、というのは子育ての基本だが
私たちは、どこかで男の育て方を間違ったということだろう。

対照的だったのはアンジェリーナ・ジョリーの決断だ。
http://zukolog.livedoor.biz/archives/28064427.html

自分が親として妻として、そして女優、映画監督
国連難民高等弁務官事務所の親善大使としての役割を全う
するためにはどうするのがベストかを考えて決断したことがうかがえる。
予防医学というのはこういうものか、とちょっと絶句したのは
予防医学について私が無知だからなのかもしれない。
確率についての考え方、遺伝子の発現の仕方など
もっと勉強しなければいけないことはたくさんあるが、
乳がん患者の語りをデータベース化している
ディペックスなどで議論してほしい内容でもある。

橋下さんの話がいかにもけったいな共同幻想に
囚われているらしいことを髣髴とさせて失望を禁じ得ないのに対して、
アンジーの決断は、生きて行くということは
自分をさまざまな関係の中でどう位置づけていくかだ
ということを具体的に見せたという意味で衝撃的である。
幼稚な男と成熟した女というありきたりな図式では見たくないけど。

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2013年5月 1日 (水)

思い込みの起源

リハビリを兼ねて歩いて駅前のTSUTAYAへ。
『声をかくす人』と『人生の特等席』を借りる予定だったが
『最強のふたり』を見つけたので、『特等席』は次回にする。
『声をかくす人』は原題が「THE CONSPIRATOR(共謀者)」で
邦題ではなんとなくこの映画の問題意識が隠れてしまう感じがするが
日本的な奥ゆかしさの表れといったらいいのだろうか。
『リンカーン』も未見だが、リンカーンについて
ちゃんと勉強する必要があるのかも、とも思う。
どっちにしても歴史はもう一度勉強しなおさないといけない。

昨年末投稿した論文の査読が返ってきたので修正し返送終了。
昨年の暮れは絶不調だったから、この論文が査読の網に
引っ掛かってくれてほんとにありがたかった。
これまで何回か査読をしてもらった経験があるが、
いつも「ピントがずれている」感じがして、
こんなんでよく学会誌ってやっていけるものだと思っていた。
でも、今度ばかりは「ごもっとも」という内容で
書き直す過程でいろいろな気づきが得られたのも嬉しかった。

論文の内容は#8000の厚労科研研究班でおこなったもので、
100件以上も相談テープを聞くという大変な作業の結果である。
それを、「査読のある学会誌に投稿してください」との
厚労省の担当者のアドバイスにしたがってまとめなおしたのだが、
ちょうど頭がうまく働かない時期と重なってしまいつらかった。
だから書き直しは、脳の具合を測りながらの貴重な時間になった。

#8000は電話相談としては大いに問題があるのだが、
なぜそういう問題が生じたのかと考えていくと、
いろいろ面白いことが見えてくる。
それについては印刷されてから明らかにするとして
私がずっと不思議だったのは、

なぜトリアージが目的なのに電話相談なのか、
なぜ電話でトリアージができると考えたのか

ということだった。

医療の現場で仕事をしていなくたって、
実際の医療現場でやっているようなことが電話でできるとは
到底思えないものだが、
当の医療現場にいる人たちは、どうしてできると思ったのか
ここがずっと不思議でしかたがなかった。
たぶんそういうことが必要に違いないと思い込んでしまい、
だからたとえ不完全でもやらなければならない、
やらないよりはやる方がいい、と考えたのだろう。
(好意的に考えると、だが)
医療では、問題解決の手法がパターン化されているからかもしれない。
問題は、この思い込みがどうして生じたのかということで、
実はここが思考実験をしていてもっともエキサイティングなところだった。
で、そうやって考えを巡らせていって、ある結論に辿り着いたのだけど
これはそんなに突飛な内容でもなく、ごく当たり前の結論で、
その意味では、ちょっと脱力してしまった。
考えてみると、なんだか20年前にも別の業界で
同じことを言っていた気もする。

みみずのたわごとでも、ないよりましと考えることにしよう。

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2013年3月 6日 (水)

分身

今年は正月早々1ヶ月半も入院するという忘れられない年になってしまった。
それも聴神経腫瘍の摘出という脳外科の手術つきである。
腫瘍は良性で、その点では手術さえ成功すれば問題は解決する。

今までお産以外には入院などしたことがなく、
ましてや脳外科の手術など初めてである。
初体験に対する不安がないといったらウソである。
しかし担当医の自信に満ちた確かな診断と
専門的ではあっても分かりやすい説明に信頼が持てたので
手術に踏み切ることができた。
あとは予測不能性にどう対処するかだが
私の場合、これは術後にやってきた。

吐き気である。
これは麻酔に対する反応と脳内環境の激変の両方によるものだが、
当たり前のことだが吐き気があると著しく食欲が減退する。
腫瘍が顔面神経を巻き込んでいたので
それが取り除かれたとはいえ、味覚にも違和感がある。
おかげで点滴につながれることになるが、
これが命綱とはいえ患者のQOLは最悪である。
夜中でも2時間おきにトイレに起きる羽目になり、まとまった睡眠が取れないし
何よりスタンドを引きずって歩くのは不自由なだけでなく
「病人」のダメ押しをされているようで気がめいる。
でもこれで歩行がゆっくりになり、
おかげでめまいの防止にも役立っているのかもしれない
と、考えると栄養補給以外にも役立ったと考えることもできるだろうか。
いずれにしても、何事も時間が解決するものだと分かったことは
病気という経験の最大の利点である。
病人の不安の根底には見通しのなさがあるが
これを解消するのは担当医が示す見通しである。
よく考えれば、それが自分に当てはまるかどうかは実は不確かなのだが
こういうときは一般論でいいのだから不思議だ。

病棟の看護師たちはみんなよく訓練されており
患者のQOLを第一に考えているのがよく分かった。
ここでは看護師は患者の分身である。
患者が望んでいて、でもひとりではできないことを
実現させてくれるのが看護師である。
これがどれほど手間のかかる面倒なことか。
でも看護師の手間を省こうとすると、
ベッドにもセンサーがつけられ、かえって迷惑をかけてしまう。
ふだん病気をしたことのない患者にとって難しいのは
慣れないルールに従って病人らしく振る舞うことなのだ。

入院経験のほとんどない患者として驚いたのは、
男性看護師も多かったことである。
さすがにトイレの中までの付き添いや入浴の担当はなかったが、
それ以外の業務はまったく同じである(当たり前だけど)
しかしどういうわけかICUでは見かけなかった。
検査などで移動用のベッドに移るときなどには
男手の方が安心だが、そういうところにはいない。
何か理由があるのだろうか。

分身と言えば家族もそうである。
夫にとっては私が元気になることが最大の関心事で、
それは自分と私とを同一視しているからだろう。
だから時として私のつらさは二の次になってしまうが、
A型らしい[根拠はありません)律儀さで献身的に世話をしてくれた。
もっとも、これがもっと以前から発揮されていたら、
私は病気にならなかったかも、と思わないでもないが(笑)
何でもやればできるものである。

娘は分身を自称し、ICUでの術後の面会では
意識朦朧の私にサッカーのラトビア戦で
日本が勝利したことを教えてくれた。
iPadでテレビを見る方法を教えてくれたのも娘である。

息子は入院時に同行していたこともあり
結構いろいろ大変だった様子をフェイスブックに書き込んでくれて、
これが私の姉妹や親戚へのアナウンスに役立った。
今回の私の入院で料理の腕も上げたはずである。

家族それぞれが私を表現していると考えるとなかなか楽しい。
自分が違う場所や時代に生きていたらこうなるのか
という可能性を見せてくれるのが家族で、
それを実感させてくれるのが病気という緊急事態なのだ。

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