2014年2月28日 (金)

医療の民主化

ソチ五輪も終わり、日本は春に向かう三寒四温の日々。
ベランダのチューリップも開花準備万端である。
腰が怪しいこともあり、レッスンを休んで
ららぽーとシネマへ『大統領の執事の涙』を観に行く。
今年のアカデミー賞の発表も楽しみだが、
この映画は賞とは関係なくリストアップしておいたもの。

映画はホワイトハウスの歴代大統領のエピソードを織り交ぜながら
(品のいいロビン・ウイリアムス!品性の悪そうなジョン・キューザック!)
人種差別で虐げられてきた黒人が
長い道のりを経て人権を勝ち取っていくさまを
政治と絡めながらコンパクトに見せてくれる。
バネッサ・レッドグレーブ、ジェーン・フォンダ
という人権派も出演しているのが嬉しい。
2つの顔を持て、相手の心を察して振る舞え
なんて、まるで日本人の処世術みたいだが、
日本人がどこかアフリカ系黒人と通じるところが
あるように感じられるとすれば、日本人もまた
民主的であることをどこかで避けようとしてきた歴史が
あるからからかもしれない。
そういう処世訓を忠実に守って生きてきた父親と
民主主義は自分で勝ち取らなくては手に入らないと
考える息子の対比が物語の骨子になっている。
不器用そうなフォレスト・ウイテカーが、
いつかお盆をひっくり返すんじゃないかとハラハラしながら
さて日本人は、こんな風に権利に敏感に、貪欲に
生きてきただろうかと考えさせられる。

というのは

電話相談は相手(かけ手)の主体性を
最大限尊重するためのものだが
小児救急電話相談で相談員である医療者にとって
もっとも難しいのが、かけ手である一般人の主体性を
尊重するということだからだ。

健康小話というブログでは、これを
「医療の民主化」と表現している。
http://tommy.asablo.jp/blog/2013/11/28/7079612
電話相談はまさに医療の民主化をめざしているわけだが
相談と指導の区別がついていない医療者は、
なかなかそこが認識できない。

ブログによれば「医療の民主化」とは佐久総合病院の院長だった
故若月俊一先生が始めた運動だそうである。
若月院長は60年かけて佐久でこの運動を達成しようとした。
でも最後の記念講演で、2-3割しか達成できなかった
と述べたそうである。

その理由は

「医療の民主化は医療だけではできない。地域が民主化しなくては
医療は民主化できない」からだった。

若月院長を師と仰いでいた現NHK厚生文化事業団事業部
チーフプロデューサー川村雄次氏によれば

「医療の民主化とは、自分たちの問題を自分たち自身でとりあげ、
自分たち自身で解決の道を探れるようになること」である。

それはまさに電話相談がおこなってきたことである。
自分で問題を見出し、それを解決しようと自分から電話をし相談する。
自分の生活の中でどう解決できるかを探るためである。
ところが医療者は医療(機関)において
問題解決をしているのは自分、という自負が強いから、
つい電話でもそれが出てしまう。
問題解決の権利を相手に委譲してしまうと
自分の存在価値がなくなってしまうと思ってしまうのだろうか。
このあたりは黒人の権利を認めることは
自分たちの権利を侵害されることだと考えていた
白人の心理に似ているかもしれない。

ブログでは、「医療の民主化」には本当の意味での
”住民参加”が必要であり、それはシェリー・アーンスタインが
示した8段階の「参加のはしご」の最上段
「住民によるコントロール」つまり「住民主体」に
到達することだと説明されている。

そしてこの”住民参加”のはしごを上るために
医療には新しい定義が必要になる。

つまり

「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。
ただし治らない病気の時はその人がその人らしく最期まで生きられるように
寄り添い支えること」というものだ。
これは医療の目的について再考することでもある。
病気は治せても、その人らしさに寄り添うことまでは
手が回っていないのが今の医療だからだ。
電話相談はかけ手がその人らしく生きられるように
寄り添い支えるためのものでもあるのだ。

しか~し、どうやったら医療者にそこを理解してもらえるだろうか。
でも道のりは長いかもしれないがきっといつか達成できるだろう。
『大統領の執事~』でだってオバマは大統領になったのだし。

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2012年10月 6日 (土)

「オーラル・ヒストリー」

2日続けて「オーラル・ヒストリーのためのインタビュー入門編」
のセミナーに出席。
主催したのはイスラエイド(IsraAID http://israaid.co.il/)という
イスラエルのNGO(国際人道支援フォーラム)で、
この団体はこれまでも世界各国でさまざまな支援活動をおこなってきている。
今回はその一環として、東北大震災の被災者の心のケアプロジェクトとして
昨年の震災後4日目に日本に入り続けてきた活動の延長線上にある
オーラル・ヒストリーのためのインタビュー手法を学ぼうというものである。

講師はアミア・リーブリッヒというイスラエルの心理学の大学教授。
セミナーはヒルトン東京の一室を使って行われた。
ヒルトンは今回の震災についても社会貢献として、
被災者や被災の援助者にさまざまなサポートをおこなっているとのこと。
教授やスタッフの宿泊費や部屋の使用も
すべて寄付(donation)によるとのことだった。

場所がすばらしくよいのと通訳付きで参加費無料、
しかも2日間にわたって17時から21時まで
というところに興味をそそられて参加を決めた。

リーブリッヒ教授は1993年に『キブツ その素顔』
という本を出しており、この本もオーラル・ヒストリ([口述記録)で
で構成されている。
どのように口述を取るかという技術や留意点についてが
講義と演習のの中心になった。

内容自体は私がこれまで学んできた電話相談における
コミュニケーションの方法とほとんど同じで、違和感はまったくない。
むしろよくあるインタビュー技術より電話相談に近いとさえ言える。
人の話を聴く手法や語りをとらえるという目的達成には
方法としての違いはさほどないことが分かって面白かった。

初日の演習でおこなった2人一組のインタビューのテーマは、
「子供時代の意味深い経験について」。
日本語で意味深い(meaningful)と言われると
ちょっと構える感じがあるが、これはむしろ「心に残った」
と訳してもらった方がよかったんじゃないかと思う。
こういうときに難しいのは、パートナーとして組んだ相手が
この種のワークにどの程度の経験や感性を持っているか
ということがやってみるまでは分からないことだ。
当たり障りのない話でお茶を濁すのか、本音を語るのか
ちょっと迷ったが、せっかくなので受け止めてもらえるかどうか
という不安を断ち切って少し突っ込んだ話をする。
こちらとしては、覚悟して話したつもりなのだが
その覚悟の部分は伝わらず、相手は自分の引き出し方がよかったので
深い話をしてもらえた、と受け取ったようだった。

うーむ。

どこの世界にも自己中心的な誤解をする人はいるものだ。
彼もがん患者のインタビューをやっているのだけど、
案外相手を感じることなく表面的なインタビューをやっているのかも。
「インタビューされてどうだったか」と先生に聞かれたので
「信頼するのが大変だったが、演習だと思ってやった」と
ちょっとムッとした感情をこめて答える。
これで少しは彼に通じただろうか。
インタビューされる側は相手が聞きたがっていると思う話を
するものだ、という教授の鋭いコメントに少しこころが癒される。

2日目の演習のテーマは「仕事でよかった日、悪かった日」というもの。
結局こちらでも話す側に回ってしまい、自分としては不本意だったが
この日は聞き手がよく、気分よく話すことができた。
相手は看護学の大学教授で、こういうとき看護技術は
なかなか優れていると思える。

大震災のあと、世界中から援助の手が差し伸べられた
という話は聞いていたが、イスラエルのNGOが震災直後から
被災地でさまざまな活動をしているとは知らなかった。
日本国内の団体はどうなのだろうか。

オーラルヒストリーの実際的な活動は
①話してもらうこと
②それらを聴くこと
③共通のテーマの語り(story)を集める
④集めたそれらを何らかの形で世に出す
 (インターネット、書物、アーカイブなど)
で成り立っている。

電話相談という自分の仕事も次の課題は
③と④だと確認できて勇気をもらうことができたのは何よりだった。

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2012年7月17日 (火)

新しい風は吹いたか

15、16日と小倉の北九州国際会議場で
第一回「小児診療多職種研究会」
~新しい風にのってみませんか?~のスタートアップがあり、
オープニングの日に演題を出すようにを要請されていたので出向いた。
会を立ち上げたのは、倉重弘先生という北九州で開業していらっしゃる
ひとりの小児科開業医で、#8000の研究班でご一緒していたときには
雰囲気からして、そんなにエネルギッシュな感じは受けなかったのに、
あるときから急に研究班に来られなくなったと思ったら、
作業療法協会、臨床心理士会、言語聴覚士会、薬剤師会、
そして小児科医会などの後援を取り付けて、
今回の開会までこぎつけられたのである。

研究会とはいっても、ほとんど学会のような規模の会が、
こんな風に始まるというのも私にとっては目新しかったが、
参加してみると、運営もよく行き届いていて統制されており、
その実行力にも驚いてしまった。

私の演題は
休日・夜間小児電話相談事業『最強の味方を育てるフィードバックシステム』
というもので、

診療と電話相談では担当領域が異なっており、それは
患者(保護者)にとってはアウェイとホームというほどの違いがあり
ホームのニーズはアウェイのニーズと異なること、
医療者が「一般論としての病気の専門家」だとすると
保護者は「自分についての専門家」であり、
医療は両者の協同が必要なこと、
そういう「自分についての専門家」の声を、
どう診療や育児支援に生かしたらいいのか
ということを、相談事例を例に挙げて論じた。

自分にとってはこういう内容は、ごくごく基本的なことで
新しい風でもなんでもないという気もするが、
ひょっとすると、新しいと感じてくれる人もいるかもしれないし、
人によっては新しすぎてついていけない、かもしれない。
でも、話したいことをまとめる過程で、どうやって電話相談を理解してもらうか、
と考えることができたのは成果だった。

#8000の研究班でも、
今年の4月から委員になった
小児救急の社会的サポートを考える委員会でも、
私の仕事は、まだまだ異分子扱いだが、
異分子の孤独というのも慣れてしまえば、まあ快適である。
いかにも厳しい環境で自分が鍛えられている、という感じがする。
こういうのがなければ人間伸びて行かないのだろう、きっと。

今回の会での演題を聞いていると
それぞれの専門領域からの発表は、それぞれの文化を背負っていて
それが私の分野に近い感じがするものもある。

かと思えば

昔は問題にされなかったようなことが
医学(専門知識の増加)や科学(技術)の進歩などで
問題と捉えられて、それが吟味された結果、問題ではなくなる、
というような迂回路を辿った形跡もあり、
歴史が変わるということは必ずしも効率的になるとは限らず
じゃあ、これで賢くなったのかと言われれば、
そうともいえない感じもあり、なんだか妙な感じではある。

演題の内容に虐待関連が多かったのは、
小児科領域で、今もっとも注目されている分野だからかもしれないが
医師の視点は、虐待事例を明らかにすることには長けていても
虐待を防止するということになると、「親の資質の変化」を嘆いてみせる
というところに留まっている感じがして、
因果論から抜け出して、中身のある連携へ至るまでには
まだ相当の時間がかかりそうな気もする。
そもそも連携というのは、主従関係のない横のつながりのはずだから
一番慣れるのが難しいのは医師だろうし、
病院と開業医とでは、また事情がいろいろ違うだろう。
これからどういう風に発展していくのか、楽しみではある。

飛行機の時間が迫っていたので、2日目は昼まで聞いて帰路に着いたが
昼からいきなりの豪雨で、カミナリは鳴るわ、飛行機は遅れるわと
ちょっとやきもきさせられたが、小倉のリーガロイヤルは快適だったので
旅としては、まあよかったことにしておこう。

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2012年1月16日 (月)

不確実性の座標

年が明けてもう半月経ってしまった。

年末には何本か映画を見た。
『フィフティ・フィフティ』はがんで生存率50%と告知された青年の物語。
ハッピーエンドでホッとする。
『永遠の僕たち』は両親の死を受け入れられなかった青年が
死んでしまうガールフレンドを見送れるようになる話。
加瀬亮の自然な英語がとてもよかった。
日本人の俳優がハリウッド映画で英語を喋ると、
妙に演技っぽくなるのが気に入らないが、
加瀬クンは、洋画でも邦画でも同じ味のところがいい。
こういうのをコスモポリタンというのではないだろうか。

今年最初の買い物は、お正月早々購入した鉄瓶だった。

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今まで使っていた古道具屋で買った骨董品まがいは
錆を取ろうとした夫が穴をあけてしまったので
買い替えることにしたのである。
私はステンレスのケトルでもいいかも、と思ったのだが
夫はどうしても鉄瓶がいいと言い張る。
さんざんオークションを検索した挙句、結局新品の
頭が黒い羊みたいなのをデパートで買うことにしたのである。
鉄瓶は骨董品として結構な人気があるらしくて、
オークションは面白かったが、最初はリーズナブルなのに
終了間際にどんどん値がつり上がるので涙を呑んだ。

鉄瓶は買い替えられるが、身体はひたすらメンテナンスだ。
新年初のマッサージに行ったら
「先週来るのかと思ってました」と言われてしまった。
バレエのレッスンは先週から始まっていたのだが
年末を挟んで2週間も間が空くと、久しぶりのレッスンは
結構疲れて、家で寝ている方を選んだりしてしまったのである。
身体にも骨董的価値というのが出るということは、ないのだろうか。

新年早々の#8000の最終報告会では
小児科医のF先生と連名で演題を出し
発表はF先生にお願いすることにした。内容は、
「これからの#8000の電話相談とはどのようなものであるべきか」
というもので、これまでの3年間、私たちがめげずに
口を酸っぱくして主張してきたことが元になっている。

小児救急医療で、現場を疲弊させないためには、
電話診療まがいのものでトリアージをするのではなく、
ちゃんとした電話相談によって家庭の看護力を上げていくことが大事、
ということを、そもそも電話相談とはどのようなものか、
というところから説き起こした。
これは論文にも書いたし、研究班の中でも主張してきたことだが、
相談をしてくる人は基本的に受診をしようとは考えていない。
「受診したほうがいいかどうか教えて」という一般人の社交辞令を、
しばしば医療者は「受診すべきかどうか判断できない」
という風に捉えるが、これは虫が良すぎる解釈というものである。
そういう対象に向かって、電話相談で「受診の要不要」を
判別したので、受診者を減らすことに貢献できた
と言い募るのは喜劇に近い。
このことは、今回#8000の費用対効果について報告をした
M先生にも拙稿を送り、効果の算出については
注意が必要であると注意を促しておいた。
だからというわけでもないだろうが、今年の報告は、
昨年に比べると随分目配りの利いたものになっていたように思う。
さすがにお医者様というのは優秀である。

発表をお願いしたF先生は電話相談の経験がないこともあり
電話相談のノウハウの部分になると、
ときどき電話診療の感覚が混じってしまうが
その部分は私の方で修正をかけることで、
ずいぶん分かりやすい内容になっていた(と思う)。
「こういう風に比較してもらえると分かりやすい」
という感想をあちこちから聞くことができた。
一般人との対話で医療者が陥りやすい誤解や
医療制度の中における電話相談の位置づけなどは、
さすがに当事者であるF先生のまとめはよくできていた。

F先生とは今年の夏の外来小児科学会年次集会で、
#8000についてのワークショップをおこなうことになり
小児保健学会と合わせて、この成果をなんとか
出版につなげられればと思う。

夏には『小児診療多職種研究会』での講演もある。
電話相談は難しそうということなのか、電話対応についてである。
そのためのデータ分析ができそうなデータを集め始める。
質的データの分析は面倒くさいので、なかなか取り掛かる気に
なれないが、手をつけ始めると面白くなってくる。
私の仕事の場合、クライアント(業務委託者)によって
相談者の主訴が異なる傾向があるのは、
電話のシステムに関連していると思うが、
相談者が「受診が必要」と判断しても
「(相談できれば)受診は不要」と判断しても、
最終的な結論には大きな違いがない。
厳密にはかけ手を尊重するので、若干の違いが出るが
電話のかけ手が見ているこどもの状態には
大きな差はないことは結論を見ると分かる。
違うのは状態をどう判断するかという判断の違いだけなのである。
この判断の違いが何によるのか、というのが実は
私にとってもっとも興味深い部分である。
知識の差や情報へのアクセスなども考えられるが
主には「習慣」だろうというのが私の仮説である。
でもこれは医療の不確実性そのものによると考えるべきかもしれない。
実際喘息ひとつとっても、小児科医のMLでは治療法を巡って
侃侃諤諤の議論が続いている。
医療者にしてからがこれなんだから、
被医療者の判断がまちまちなのは当たり前だし、
これがヒトが関わる仕事の特徴といえるのかもしれない。
日々電話を取っていると、こういうことが体感できるのは
電話自体が不確実性の塊みたいなものだからだ。

小児救急医療に限らず、医療を考えるときには、
そこを押さえてかからないと、対策でも何でも
誤まってしまうのではないかという気がする。
そういえば昨日のディペックスの会議でも
がんの告知がひとしきり話題になった。
不確実性を確実性に読み替える癖は
案外医療者自身に強いのでは、という気もする。

私自身は、小児医療に欠けているのは
こどもはどのくらい死なないか(丈夫か)という
アナウンスなんじゃないかと考えている。
つまりマイナスの方向に振れている不確実性の座標を
もう少しプラスの方向に振ってあげればいいのではと思うのだ。
どっちに振れても不確実性自体は変わらないが
不確実性の内容をどうとらえるかで
ずいぶん事態は変わってくるのではないか。
医療は不確実性を確実性に変えることができる、
という誤解だけは解いておいた方がいいように思うのだ。

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2011年12月16日 (金)

医療にとっての聞き耳ずきん

毎週送られてくる新潟のクライアントからのFAXに
1月末からポリオの不活化ワクチン接種を始めると書いてあった。
個人輸入で入手するようである。

数ヶ月前に何回か「ポリオの不活化ワクチンは打ってもらえないか」
という相談が入っていたから、こういう患者の声が
引き金になっていることは間違いないだろう。
電話相談をやっていて、もっとも充実感を感じるのは
こんな風に、かけ手の切実な声に、ちゃんと応える側がいると分かるときだ。

時間外電話相談をどう活用するかは、
クライアントである開業医によってさまざまである。
時間外電話相談はどこか時間外電話診療と勘違いされている節があり
だから、医者でもないのに時間外の電話を受けるということに
多くの医師はいささかの不安を感じつつも、
でも何かノウハウがあるみたいだから
なんとかうまくやってくれるのかもしれないと
恐る恐る始めてみる、といった感じである。

そうやって導入した後はしばらく様子見が続くが、
だんだんどういうものかが理解できてくると、
やっとどう使いこなすかを考えられるようになり
こちらにもさまざまなことを要求をしてくるようになる。
しかし中には地域医療貢献加算が取れれば、
あとはコストダウンが優先というクライアントもおり、
連休などはさっさと留守電にしてしまうということも起きる。
相談自体に価値を認めていない、ということかもしれない。
これはこちらも負担感が少なく、相手の懐具合にもメリットがある、
という意味では一石二鳥だが、仕事のモチベーションは下がる。
他方、全面的に信頼して大型連休をとるというクライアントもいる。
面白いことに、そういうクライアントの患者教育ほど行き届いており、
長期にわたる休診でも、ややこしい苦労はほとんどない

ただ、一般的には時間外かどうかに関わらず、医療者は
電話相談の目的を即時的な問題解決と考える傾向があり、
かけ手の声を聴くのは解決のためのスキルであって
聴くことそのものが問題解決であるという風には理解していないことが多い。
聴くということは、聴きとめた問題を受ける側が引き受ける
ということでもあるのだが、どちらかというと聴きっぱなしが多い感じがする。
日々報告している相談内容が、どのくらい日々の診療や医院の業務に
活かされているのか、こちらとしてはホントはそこが
一番知りたいところだが、そこはなかなかつかめない。
しかたがないので同じような相談が入るか入らないか
といったところで、相談の効果を判定することになる。

始めた当初は、時間外の電話相談がサービスなのか
そうでないのかといった議論もあった。
医師の多くはサービスという言葉を
患者の言いなりになる、患者に奉仕する、というニュアンスで
理解しており、プライドを傷つけられたように感じる人もいたようである。
「医療はそんなもんじゃない」という反発も耳にすることがあった。
部外者からすれば、患者の言いなりになるなんてことは
ありえない話だと思うが、当事者としてはなかなかそうはいかないらしい。

サービスという言葉で私に一番しっくりくるイメージは、ワインソムリエである。
料理に一番合うおいしいワインを勧めてくれる人。(私は下戸だけど)
基本はお客の好みを尊重してくれるが、
よりおいしいワインがあれば、客の懐具合も勘案した上で
そちらをを勧めてくれる人。
要するに、お客にとって一番良いことを考えてくれる人だ。
ワインソムリエは、客の言いなりになることが
必ずしもいいサービスとは言えない、
ということをもっとも心得ている人でもある(たぶん)。
だから時間外電話相談をサービスと表現することに抵抗はない。
しかし医療の分野でこれをを理解してもらうのは、なかなか難儀なのである。

ワインソムリエにとっては、
お客はどこまでも他者(コントロールが効かない相手)だが、
医療者は、なかなか患者を他者とは捉えられない。
コントロールするか、されるか、どっちかになってしまうようである。
特にたくさんの患者をこなして収入を得ようとしている場合には、
患者のご機嫌を損ねないことが目的化してしまう。
「サービス」という言葉に対して抵抗感があるのは
そういうことも関係しているのだろう。

不活化ワクチン接種の希望に応じるということは
患者の言いなりになっているように見えるが、
実は患者を他者と捉えたときに見えてくる問題に対処することである。
それまでのワクチン行政や、患者の置かれた立場を
ほんのちょっとでも考えたことがある医療者なら
誰だってチャンスがあれば、この要望には応じたいと思うはずである。
厚労省に働きかける、とか医師会とは反対の主張を公にする
などというのは、結構な勇気が要るだろうが
個人でワクチンを輸入し、患者と合意の上で新しいことを始めるというのは、
ほんのちょっとの勇気と、いささかの手間を惜しまなければ
そんなに難しくはないんじゃないだろうか。
なによりも心強いのは、後押ししてくれるのが患者だということだろう。

医療の使命は患者の声に応えることだ。
そのためには、聞き耳頭巾をかぶって患者の声を聴くことだろう。
声を聴きとる感受性を最大に磨いておくことである。

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2011年11月30日 (水)

電話相談における2つの視点

#8000の記録用紙サンプルを作成し、解説をつけ、
ついでに10月に大阪でおこなったスキルアップ研修
についての報告書も書き上げて送信する。

大阪でのスキルアップ研修では、
昨年行った相談録音の聴取による評価結果を
裏づける結果が得られて、なかなか面白かった。
決められたことを行うのは得意だが、
そのときの相手の要求を自分なりに感じ取って応じるというのは
どうも看護職が苦手とすることみたいなのだ。
「感性」と「問題意識」という2つのワークをやってみて、
そのことがはっきり見えた。
これはひょっとすると、今の看護教育の問題なのかもしれない。
まずは自分についての振り返りを、どのようにおこなわせるか
つまりどう感性を発露させるか、が課題だろう。

記録用紙のサンプル作成は、至極簡単にできたのだが
これの必要性を解説するのに、ちょっと呻吟してしまった。
医療者(医師と看護師の多く)は、どうも電話相談を
「丁寧な対応」といったレベルでしか捉えていないような
感じがしてしかたがない。
それが患者ニーズから始まっているということに
まったく思いが至っていない印象があるのだ。
その部分を、どう伝えたらいいだろうかと
いろいろな方向へ考えをめぐらせていた。

たまたま医療崩壊と情報の非対称は関係があるのか
とネットで検索していて出会ったのが
三重大学大学院医学系研究科の木田博隆氏の論考だった。

木田氏は、『共済総合研究第57号』平成19年度助成研究
「今後の地域医療制度のあり方と地域住民との関連に関する分析
―医療供給体制の維持向上のために地域住民・マスコミに
求められる要件に関する考察―」
(http://www.nkri.or.jp/PDF/2010/sogo_57_kida.pdf)の中で、
医療を社会的共有資本と位置づけ、望ましい医療を考える条件のひとつとして
「情報の非対称性と医療における不確実性」に着目し、
3つの次元での情報の非対称性があると述べている。
これが、私の問題意識とどんぴしゃりだったのだ。
彼は情報の非対称について、次のように述べている

「医師と患者の間には医学・医療に対する情報量の圧倒的な差が存在する。
しかし、一方では医師の側には患者、家族からの情報は圧倒的に不足している。
加えて医師は患者に対して経験則(医学は経験科学であり、要素還元主義である)
からの情報提供はできても、現代医学では患者個人の個別性に関しては
十分といえるほどの情報も得ることはできないために多くを語れない。
つまり、3つの次元での情報の非対称が存在する。」

電話相談ではごく当たり前の、「自分の場合」について知りたい
という欲求は、医療の分野の電話相談でも、ごくふつうに入る。
ところが、ここに応えるということがどういうことなのか
どうも医療者にはまったく分かっていないらしいのだ。
個別の要求に対して一般論で応えて平然としているのである。
(このことはすでに20年前に論文で指摘しているのだが)
だから、相手の生活状況への聞き込みも不十分なら
「ちゃんと応えられるようにマニュアルが必要」
などということを平気で言い、作成してしまう。

医療者の多くは、
不要不急な受診は医療者と一般人の情報の非対称にある
と考えているのだろうが、むしろ非対称は、
現代医学における患者個人の個別性にあり、
ご多分に漏れず、ここでも生活者(患者)、
つまり医療の受け手の方が、そのことを敏感に感じ取っていて、
その結果が電話相談に入ってくるということなのである。
問題は自分たちの領域にあるのに、いかにも
「君たちが無知だから」と言わんばかりなのは
なんともおめでたいかぎりだが、
そういう部分に問題意識を持つことの必要性を
いくらか指摘できれば、20年の歳月も無駄ではないのかもしれない。

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2011年10月 4日 (火)

責任と権限

大阪の#8000の相談員向けに
スキルアップ研修をしてほしいとの依頼を受ける。
どこの#8000も、医師か看護師が相談員であれば、
電話相談の研修はゼロで構わないと考えているようだが
診療と電話相談では発想が180度異なるから、
本当は普通よりもきっちりと研修をする必要がある。
でも#8000の場合、相談を受ける側には
そういう認識は皆無だから、もう盲蛇に怖じずである。
まあ、そういう仕事の仕方もないわけではないが、
こういうのは民間ではまず無理だろう。
税金と保険料で賄われている業務ならではである。

大阪は、担当の小児科医の先生にさんざん電話相談についての
レクチャーをしたこともあって、とりあえず電話相談について
先生なりに咀嚼した研修はおこなわれているようである。
といっても、先生自身に電話相談の経験がないから
教科書で学んだことや経験者から聞いたことを
そのまま伝える、というレベルで留まってしまっている。
仕事の肝心な部分は暗黙知に存在するから
暗黙知の支えがない形式知は、どうしても薄っぺらである。

昨年度の研究班の研究で、相談の録音CDを聞いて分かったことは
電話に出る看護師さんが、責任と権限をきちんと理解できていないことである。
電話相談では、かけ手が選択し、責任を取るのだと説明すると
受け手である自分たちは、判断を回避していいと理解してしまう。
「受診の要不要以外の相談は、自分たちの範疇じゃないから」
などと平気で言ってしまうのである。
これは最初に、#8000の目的を「受診のトリアージ」
というところに置いたからで、必ずしも彼女たちのせいではないのだが
とはいえ、日頃から教わったことと実際とが違ったときに
自分の判断で物事を進める、という習慣がないために
言われたことしかしない、できない、ということもあるように思う。

一方権限という点では、指示・指導する権利を権限だと思っている節がある。
そのために自分がかぶる可能性のあるリスクを回避しようとして、
どうしても「受診しろ」とか「ああしろ、こうしろ」という話が多くなる。
自分の権限においてリスクを相手と共有するということは苦手である。
この背景には、病気のこどもは知っていても、
健康なこどもについては、よく知らない、ということがあるのではないか。
#8000は病気の相談だから、病気のこどもさえ知っていればできる、
と考えているのだろうが、病気というのは言ってみれば
ルビンのツボみたいなもので、2人の人の顔という背景(健康)があって
初めて見えてくるものだと理解していないと、受診が増えるだけである。

この辺りを研修で触れなければならないなあと思いつつ
大阪から相談の受付票を取り寄せてみて分かったことがある。
データの取り方が病気や症状に偏っていることは、
まあ#8000の成り立ちからしてしかたがないとしても
実際の相談を記録する欄がないのは実に示唆的である。
これは、もちろん実際の相談内容には価値がない、と
思われているからだが、電話相談では「聴く」ことが重要
と言いつつ、聴いた内容を記録する必要を感じていない
というのは、どう考えたらいいだろうか。
電話相談の理解の不充分さもさることながら、
一般人の言うことには関心がないと考えればよいだろうか。
しかし相談内容を記録することは、相談員が自分の相談の質を
把握するだけでなく、実際の医療のあり方を検証するためにも役立つ。
まさか記録に残るとヤバイからってわけではないでしょう。
#8000ではセンター化構想が浮上しているが、
誰もそこで何をしたらいいかわかっていない状態である。
(なんだか建物だけ作リ続けてきた公共事業みたいだ)

私は、一般人の病気や医療に対するさまざまな声を
集積するセンターにしたらよいと思う。
そうした集積こそが、まさにこれからの医療にとって必要だからである。

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2011年6月20日 (月)

アウェーゲーム

今年のディペックスの総会は神楽坂の理科大の大会議室で。
通常総会に続いて、東大死生学応用倫理センターの山崎浩司さんによる
『青森県がん体験談データベース構築プロジェクトの概要と課題』について。
青森のように、地域によって医療機関の充実にばらつきがある地域では
がんで入院すること自体が「死ぬ」ことと同義と捉えられており、
そのことががん検診を受けることや受診の妨げになっている、
という話が興味深い。
がん医療・ケアは、こうした県民の認識や行動を理解しながら
おこなわれる必要がある、というのが彼の結論である。ただ、
社会学系や臨床心理系の人たちが聞き取りをしている割には
データベースのカテゴリには、さほど新規性がない感じだ。
終了後、質的分析に絡めて#8000のデータベースに
有効と思われる要素は何かと問いかけてみる。

その後、各テーブルごとの自己紹介を兼ねた交流会ののち

つるかめ診療所の鶴岡浩樹さんによる『臨床の中の病の語り』について。
鶴岡さんは地域医療がやりたくて栃木で在宅医療専門の診療所を
開設しているというユニークな先生だ。
彼が順天堂の医学生に「病と語り」を理解してもらうために、
どんな話をしているか、というのが講演のテーマである。
EBMで納得してもらえないときに、NBM(ナラティブ・ベイスド・メディスン)を
活用するというのは一般的だが、患者の物語を知ることで
EBM(エビデンスの用い方)も変わってくる、という話を面白く聞く。
特に在宅診療という「在宅劇場」は、
アウェーゲームという部分には大いに共感。
終了後の名刺交換で、在宅診療は、
相手の生活環境の中での問題解決する、という電話相談と
重なる部分が大きいという話をする。

翌日はディペックスのインタビュー評価研究のフィードバック。
作成した評価項目が具体的な事例の中で見えてこない、という
インタビュアーの声に応える形で、
評価者とインタビュアーの間の川に橋を架ける試みをする。
ディペックスのインタビューは、方法論が目的化してしまっており
その人ならではの語りへの心配りが不十分なんじゃないか
という当方の問題提起から、ディペックスのインタビューのあり方
についてへと議論が展開する。
教育の高度化、専門化は、木は見えるが森は見えない人材の
生産に結びついているような感じを受けるが、
ミーティングが終わるころには、当初はデータベースを作成しよう
とする意識が強すぎて、個々の語りを聴こうという意識が希薄だった
かもしれない、という振り返りへ行きつくことができた。
データベースを作成しようと意気込まなくても、
その人のホールライフを聴くことに集中すれば、
結果的にデータベースに必要な内容は集積できるはず、
というのがほかの評価者も含めた私の意見だが、
実際にインタビューをしている人にとっては、
なかなかそう思えない、ということは分かる気はする。

収穫だったのは、第三者による事後のビデオ視聴が
どういう風に役立つかが明らかになったことだ。

たとえば、クリップ(断片)にしてしまうと、
まったく問題ないように見えるビデオでも、
最初から最後まで通して見ると、微妙な違和感を感じることがある。
饒舌に語っているのだが、実は肝心なことを語っていない、
それが何だかは分からないのだが
できるだけ触れまいとしていることがあるような感じを受けるのだ。
全員で見ることで、それがインタビューの同席者(家族)
の存在が原因だったことが分かる。
インタビューの際に同席者に退席を促すのは、なかなか難しいが、
それがインタビュー内容に大いに影響する、ということは、
ビデオを通して見たからこそ分かることで、しかもそれは全体から感じ取る、
としかいいようのない方法によってだけ分かるのだ。
そういう制限のかかった語りがあり、しかしそれも語りなのである。

どうやって話を引き出すか、どのように言葉をかけるかという
一見対話スキルに見えることについても、
DVDを一緒に見ながらだと別の議論になる。
「ここで、どうして奥さんの死について語ってもらわなかったのか」という
問いかけの答えは
「もっと後でと思った」とか
「相手が語りたくないと思っているように感じたから」だったりするのだが
「この人は語りに積極的ではない」と言っているわりには
積極的にタイミングを捉えていない様相が浮かび上がってくる。
それはつまり、語りを妨げているものは
スキルなどといった表面的なものではなく、
実は、「死」や「離婚」についてのインタビュアーの側の心理的抵抗だったり、
話を途中で遮ることができないインタビュアーの対人関係の持ち方、
あるいはアイデンティティの問題だったりする。

「ここは切ってもらって構わないんですが」という語り手の言葉を
「ここは切って」と捉えるか、「あなたの都合で決めて」と捉えるか、
それも実はスキルではなく、相手の言葉を受け取る、
こちら側の心のあり方の問題なのだ。

アウェーで問われているのは、実はホーム(自分)だといえる。

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2011年5月13日 (金)

トピックの要件

ディペックスの報告書を作成し終わった後で、
トピックの抽出ということが議論になった。

「語り」の中からトピックを取り出すためには
ただインタビューを蓄積すればいいわけではなく、
ひとつひとつの事例の中でのインタビュアーの気づきを
早い段階で顕在化させながら、次のインタビューへ生かしていく
必要があることが改めて確認された。

ここでいうトピックとは、
「がん治療に関わる人たちが知りたがっていること、知らせたいこと」
というくらいのことだけれど、
その事例にしか見られない珍しい内容もトピックになり得るし
多くの事例に共通に見られる内容も、そうだと言える。
かといってどの事例にも共通することが
トピックと言えるかというと、そうでもないような気もする。
明らかにみんながすでに知っていることは、トピックにならない。

たとえば電話相談では、今まで聞いたこともないような事例が入ってくると、
まず受け止めて背景を考えるということを習慣的にやってきた。
典型的な例は、30年以上も前にティーンの母親からの
育児相談があったときだった。
そういうとき、相談を受けた相談員はすかさず
みんな(ほかの相談員)に向かってつぶやく。
「ねえねえ、今のお母さん19歳。お父さんは20歳なんだって」
まだ新聞にもそういう動き(出産の低年齢化)は報じられていない
時代だったから、これは衝撃的だった。
う~ん、そこまできたか。
もっとも江戸時代なら、こんなのは別にめずらしくなかっただろう。
これをただの特異なケースと捉えるか、兆しと捉えるかは、
ほんとうはもう少し時間が経ってみないと分からないのだが、
たいていの場合、そういうのは氷山の一角で、
水面下ですでには同様の事態が進行している。
社会は常に変化しており、それを示す指標がトピックなのである。

一方でやたらに入る同じ話、というのもトピックになり得る。
たとえば30年前には「ミルクを飲まない」というのがそれだった。
これは生まれて2ヶ月目くらいの赤ちゃんによく見られる現象で
急にそれまで飲んでいた量を飲まなくなる。
母乳だとなかなか気づかないのだが、ミルクは量が一目瞭然なので
親は何か異変が起きているのではないか、と
心配になって相談をしてくるのだ。
当時は小児科医でも、こういう事実はつかんでいなかったから、
学会発表まですることになった。

今私がしている仕事で言えば、「熱が出たので受診したい」
という相談も、これと同様のケースだろう。
発熱→受診というパターンは、小児科医にとってはめずらしくなく
医師にとっての「なぜ」は、発熱の原因を探すことだから、
これまではそれ以外のことはほとんど注目されずに、
そこで話が終わってしまっていた。

でも、相談という相手仕様のワンクッションを置いてみると、
別の「なぜ」、つまり相談者にとっての問題が見えてくる。
相談者は、一見発熱→受診というワンパターンの行動を
とっているように見えるが、必ずしもそれを唯一の解決法と
考えているいうわけではない、ということである。
「顧客が欲しいのはドリルじゃない。穴なんだ」
と言ったレビット教授にならっていえば、
「相談者が欲しいのは診療じゃない。病気への対処法だ」ということである。
つまりそこでは受診以外にできることという、
相談者にとって解決されるべき問題は、
いまだ未解決のままだということであり、
トピックとは未解決問題でもあるということだ。

トピックをとり出す上で、インタビュー(コミュニケーション)能力が
問われることは間違いないが、それだけではダメで、
ひとつひとつの事例を反省的に分析する作業が不可欠である。
戻っては進み、進んでは戻るということを繰り返しているうちに
見えてくることこそが重要なトピックなのである。
高速道路を一気に行くより、一般道をジグザグに進む方が
多彩な景色を楽しめて、旅の醍醐味を味わえるというのと
似ているかもしれない。

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2011年4月16日 (土)

そうだったのか!

「ハリウッド映画で学べる現代思想」というサブタイトルに惹かれて
『映画の構造分析』内田樹著(文庫本)を購入。
著者がどこかで「ややこしい部分は飛ばしてもいいけど、第三章の
「アメリカン・ミソジニー」だけは読んでね」と書いていた気がするが
どの章もたいそう面白かった。

映画の本質は見る人によって異なる感想を抱かせるところにある。
私たちは国語の授業などで、作者の意図は?なんていう風に考える習慣が
ついているので、映画の場合も、つい監督の言いたかったことは何だったのか、
などと考えがちだが、これは実に一神教的な考え方だ。
著者やバルトが言っているように、
映画というのは「映画についての解釈」を込みで売られている商品である
という考え方は、私のような電話相談の仕事をしている人間には
たいそう分かりやすいが、一般的にはこういう考え方は
まだまだ浸透していないと言ったほうがいいだろう。
ただ、つい最近まで「解釈の多様性」なんて、特に科学の分野でも
ほとんど顧みられることはなかったけれど、
質的研究などに光が当たり始めたところを見ると、
時代もだんだんそうなりつつあるといっていいのかもしれない。

そうした前提を踏まえた上で、何が前景化(作者が意図的に発信)していて、
何が背後に沈んでいるか(これを著者は鈍い意味と呼んでいる)を
見つけていくのが、映画の楽しさだが、もちろんそれだって
私たちに解釈の可能性を示してくれるだけで、
確定的な答えをくれるわけじゃない。

バルトはこの「鈍い意味」のうちに一種の開放性と生産性を見た、のだそうで
エンドマークへ向かって直線的に収斂してゆく中央集権的、予定調和的、
中枢的な物語の中に混ざり混み、それを挫折させようとする「反ー物語」の力、
脱ー中心的、非中枢的な力を、バルトはあえて「映画的なもの」と名づけた。
すごいね。バルトって。

今まで、観ていてよく意味が分からない映画は、ほとんどお手上げ状態で
そのままスルーしていた感じがするが、そういうときの楽しみ方を
ここで教えてもらった気がする。

何が表現されていて、何が表現されていないか
ってことを考えながら観るのも映画鑑賞上では必須だけど
ここでは西部劇が例に挙げられている。
南北戦争後の開拓時代の西部には5000人の黒人のカウボーイがいたが
西部劇に黒人のカウボーイが出てくるのは1985年頃だそうである。
そういえば1960年制作の『アラモ』にも、黒人の召使はいたが
黒人のカウボーイはいなかった。
2004年のリメイクはどうだろうと興味がわく。
表現されていないことから、その時代に伏流している社会的感受性を
くみ取るというのは、逆システム学的映画の楽しみ方といったらいいだろうか。
ただ、この辺になってくると、だれにでも可能ってわけでもないかもしれない。
他人の無意識は、ほとんどダダ漏れで見えるものだが、
自分の無意識を意識化するのは非常に難しいからだ。

とまあ、こんな感じで実に刺激的な言論が展開されている。
そして待望の第三章「アメリカン・ミソジニー」は
「アメリカの男はアメリカの女が嫌いである」という一文から始まる。
う~ん、やっぱりそうだったか、と思うことしきりである。

アメリカ映画(テレビもそうかもしれないが)に出てくる女の人は、
どうしてみんな非常時になると泣き喚き、オロオロするしか能がない
ようなタイプばっかりなんだろうと、ずっと不思議だった。
一番最初にそう感じたのは『わらの犬』だったかもしれない。
ダスティン・ホフマン演じる夫の妻が、ずばりこのタイプだったのである。
それ以後、同じタイプを見るにつけ、アメリカの女の人のほとんどは、
いざとなるとこんな風にしか振る舞えないのか、ととても不思議だった。
で、こういう(一見)弱い性のために、レディファーストという習慣が定着したのか
とつじつまを合わせていたのだけど、レディーファーストといって女性を大事にし、
しかし一方で、アホな女性ばかりを並べるというところに、ずっと違和感があった。
それがミソジニー(女嫌い)という言葉で一気に視界が開けたのである。
ただ、なぜそれほどアメリカの男性が女嫌いなのかは、よく分からない。
その起源が、男と女の比率からもたらされたというところは同意できるが
「選ばれなかった男たちのトラウマ」を癒すのは「選ばれた男の不幸」
ではなく「選んだ女の不幸」である、というのはアメリカ特有というより
そもそも男という生き物はもともとホモっ気があって、
何かにつけて群れたがる(男たちの共同体の原初の秩序を回復させたがる)
ところがあるからなんじゃないだろうか。
だとすると、なぜ男にはホモっ気があるのか、私にはそちらの方が気になるが
アメリカがカップル社会なのは、案外このホモっ気を抑圧しているからかもしれない
と考えると、話は俄然面白くなってくるのである。

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